法人口座開設と「吾妻の雪うさぎ」

本日、無事に法人銀行口座を開設することができました。

一般に、法人口座開設には2〜3週間かかると言われておりますが、今回は、申請してから1週間で開設できました。

これは、古民家のオーナーがこの銀行支店のお得意さんで、全面的にバックアップしてくれたためだと思います。また、この銀行支店で対応してくれた次長が高校の後輩、といった地方ならではの人的関係もものを言っているのかもしれません。

この銀行支店は、私のオフィスから歩いて2分、この近さは得難いものです。私の中学・高校の友人たちは、すでにこの銀行の理事や支店長になっている者が多数いますが、今回は彼らの助けは求めませんでした。

とにかく、今回の法人口座開設にあたっては、この銀行の支店の皆さんに本当によくしていただいて、深く感謝しています。

オフィスを出て、西のほうを見ると、吾妻連峰がいつもと同じようにそびえ立っています。吾妻連峰は私の中に焼き付けられた風景で、東京で暮らし始めた若い頃、近くに山が見えないことをとても寂しく思ったものでした。

吾妻連峰のなかに、小さな富士山型の吾妻小富士という山があります。磐梯吾妻スカイラインでドライブすると、浄土平というところがあり、そこから吾妻小富士へ徒歩で簡単に登ることができます。

この季節だと、吾妻小富士の山すその残雪の姿がうさぎに似ていることから、地元ではこれを「吾妻の雪うさぎ」と呼んで親しまれています。

この雪うさぎがはっきり見えてくるようになると、それが農作物の種まきを始めるサインとなります。

私の活動も、この吾妻の雪うさぎの頃に始まるのだなあ、とちょっと感慨を覚えました。

先ほど、東京の自宅へ戻りました。明日は東京で用事があるためです。

連休中は東京でゆっくりするつもりだったのですが、4月30日〜5月2日に福島へ戻ることになりました。さっそく、インドネシアから、群馬から、福島へ行くという友人からの連絡があったためです。

読者の皆さんも、ぜひ、福島へどんどんいらしてください。本物の福島をご案内します。

法人番号、12桁か13桁か

地元銀行での法人口座開設の目処が立ち、明日には口座開設ができそうです。

この法人口座開設のプロセスで、いくつか気になることがありました。そのうちの一つは、法人番号についてです。ちょっと細かい話になりますが、ご容赦ください。
4月20日に福島地方法務局で法人登記手続を完了した際、履歴事項全部証明書に記載された会社法人等番号は12桁でした。この後、すぐに税務署、県税事務所、市役所へ設立届を提出しに行ったのですが、「法人番号は13桁ではないのか」と言われました。実際、届出用紙を見ると、番号のマスは13個あり、一つ余ってしまいます。
また、インターネット上で某銀行の法人口座開設に必要な書類のところにも、法人番号通知書というものがあり、そこでの法人番号は13桁と記されていました。
福島地方法務局で出された番号は12桁なのに、法人番号は13桁、というのは一体どういうことなのか、戸惑いを覚えます。
そこで、福島地方法務局へ電話をし、法人番号は12桁なのか13桁なのか、問い合わせました。

回答は以下のようなものでした。

福島地方法務局から出される番号(会社法人等番号)は12桁。この番号は国税庁へ送られ、国税庁で先頭に数字が一つ書き加えられて13桁の法人番号になる、ということでした。
法人番号は国税庁のホームページで会社名を入れれば確認できる、と言われたので、何度も確認したのですが、「該当なし」と表示されてしまいます。
そしてようやく、今日4月26日の午後3時にアクセスすると、松井グローカル合同会社が登録され、先頭に9が付いて後ろは福島地方法務局から出されたのと同じ、という13桁の法人番号が確認できました。
国税庁の13桁の法人番号は、法人版のマイナンバーのようなものです。これで晴れて、正式に法人として国税庁に登録され、法人税をしっかり納めることになります。
今回の教訓としては、地方法務局から会社法人等番号が国税庁へ送られて法人番号となるまでに約1週間のタイムラグがあるので、この間に手続きを進めてもあまり意味はなかった、と思われます。国税庁の13桁の法人番号が出てから、税務署、県税事務所、市役所、銀行と動いたほうがよかったようです。
税務署等への届出は設立後1ヶ月以内とされ、銀行の法人口座開設には2週間程度かかる、とされるのは、上記を含んだ日程だと理解しました。
なお、銀行の法人口座開設にあたって、国税庁の13桁の法人番号が必要となるのは、定期預金や海外送金を申し込むときであり、普通口座の開設のみならば、とくに必要はないようでした(ただし履歴事項全部証明書には地方法務局から出された会社法人等番号は記載されています)。
地方法務局から出された番号がそのまま国税庁の法人番号になるわけではなく、しかも12桁から13桁になるのに1週間程度時間がかかる、ということを今回知りました。税務署などへの法人設立届の提出や銀行法人口座開設は、国税庁の法人番号が出てから動いたほうが良いかもしれません。

福島の本社オフィス環境が整いました

昨日、義妹に手伝ってもらって、福島のオフィスで使う備品を買い出しし、今日、ようやくオフィス環境が整いました。

松井グローカル合同会社の本社の所在地は、福島市泉字清水内3番地です。ここには、明治6年に建てられた大きな古民家があります。しみずの里、という名前です。

(2015年1月4日撮影)

(2016年6月22日撮影)
この古民家の隣に古民家のオーナーの家がありますが、そのオーナーの家の傍に独立した小さなプレハブの小屋(下の写真の右側の建物)があり、そこを、松井グローカル合同会社の本社オフィスとして使わせてもらうことになりました。

プレハブ小屋にある既存の机や棚などを使わせていただけるほか、今日は、昨日買い出した椅子やら電気スタンドやらを搬入しました。部屋の中は、下のような感じになりました。
何となく、ちょっとオフィスっぽくなったような気がします。でも、周りにある木々や草花の緑に囲まれ、窓を開けると、風が三方から出入りして、今の季節ということもあって、気持ちがよいです。散り始めた桜の花びらが風に乗って部屋の中へ入ってくるのは、なかなか趣きがあります。夏は暑く、冬は寒いかもしれませんが。
当初、古民家に隣接した屋敷蔵をオフィスとして使わせてもらう計画だったのですが、まだそこが使える状態になっていないのと、母屋から独立していたほうが気楽ではないかというオーナーの配慮もあって、とりあえずこのような形で整えることになりました。
来客がある場合には、母屋の古民家でゆっくりと応対してもよいし、作業する場合には、このオフィスで一緒に作業してもよいかなと思います。
この古民家をどのように活用していくか、オーナーや関係者と一緒に考え、活用していくことも、ここに本社所在地を定めた大事な理由です。個人的に色々なアイディアを考えています。読者の皆さんも、機会があれば是非、この古民家と私のオフィスを訪ねてください。福島駅から飯坂電車に乗り、泉駅から徒歩5分です。
とはいえ、私の活動は、この福島を主拠点としつつ、東京、インドネシア、日本・世界のローカルを動き回ることになると思います。ですから、このオフィスにずーっと留まることにはならず、基本的に、モバイルで動いていくことになるでしょう。

福島銘菓「さぼうる」の復活?

福島駅西口のコンコースには、地元のお菓子を売るコーナーがあります。そこに「松月堂」という名前のお菓子屋が出ていたので、思わず立ち止まりました。

松月堂ということで探したのは「さぼうる」。この「さぼうる」は、東京のナボナに似たお菓子で、ふんわりしたカステラ生地の間に様々な果物のジャム餡が挟んであるお菓子です。そうしたら、ありました!

なぜ「さぼうる」を探したかというと、実はこれは、私が子どもの頃には有名な福島銘菓だったからです。そして、しばらくずっと姿を消していたお菓子だったからです。

私が子どもの頃、福島市にはいろいろなお菓子屋がありました。当然、いろいろな地元のお菓子がありました。そんなお菓子屋の一つが「松月堂高木」です。

松月堂高木の本店は昔、福島市本町、ちょうど今の中国料理「石林」の入っているビルの隣あたり、日本蕎麦の老舗の喜多屋の並びにありました。和菓子と洋菓子を売っていて、商店街には、松月堂高木のCMソング(「ケーキの松月堂たーかーぎー」というサビの部分は今も覚えています)が流れていました。

その松月堂高木の看板となるお菓子が「さぼうる」だったのです。その時から、餡には果樹王国・福島の自慢の果物のジャム餡を使っていて、子どもの頃はよく食べたものでした。

時が経ち、福島市の中心街が寂しくなっていき、いつの間にか、本町の松月堂高木の店は消えてしまいました。有名な日本蕎麦屋だった喜多屋も5年ぐらい前になくなりました。櫛の歯がボロボロと欠けていくように、福島市中心街の老舗が姿を消していきました。

その「さぼうる」を今回見つけたのです。製造販売しているのは、「松月堂高木」ではなく「松月堂」。福島市の西部に本社があり、菓子だけでなく、食肉やレストランなど、食に関する幅広い展開をしている企業です。おそらく、何らかの形で「松月堂高木」と「松月堂」はつながっているのでしょうが、その詳細はまだ分かりません。

実家に帰って、さぼうるを食べてみました。懐かしい味がしましたが、ずいぶん前に食べたせいか、ちょっと味が変わったようにも感じました。中のジャム餡はもっと多かったような気がします。

福島特産の果物を生かしたお菓子として、さぼうるはもっと有名になっていいお菓子だと思います。

よろしくね、仙台

今日は、私の勝手に師匠Nさんと友人Sさんにお会いするため、福島から仙台へ日帰りで行ってきました。そして、面会の前に、せっかくなので、少し仙台の街中を歩きました。

福島から仙台までは、おおよそ30分おきに高速バスが走っていて、片道1100円、JRの普通運賃と同額ですが、往復だと割引が入って1900円となります。所要時間は1時間余で、JRの普通電車よりもやや短いです。便数の多さと安さで、高速バスのほうがずっと便利に見えます。

往復のチケット(回数券)は上記のような2枚綴りで、福島駅東口の高速バス乗り場で販売しています。

仙台まで福島から往復1900円ならば、福島から仙台へ気軽に買い物に行けますよね。福島市内の商店街が廃れていく原因の一つのように思えます。

実は山形に行った時、宮城県出身の大学生は山形市内に下宿せず、毎日、高速バスで通うのだと聞きました。地理的に遠い福島県出身の大学生は山形市内に下宿するのですが。

今日の仙台は、街中のあちこちでイベントが行われていました。

一番町アーケードでは、みやぎ総文2017と南東北総体2017という、高校生の全国イベント開催100日前のイベントが行われていました。仙台二華高校(宮城二女高の後継、今は男女共学・中高一貫らしい)の合唱は、とっても楽しそうでした。

アーケードでは、高校生が道行く人に「創造の短冊」への記入を勧めていました。七夕のときに短冊を飾るのだそうです。

定禅寺通りの中央分離帯通路では、東北コーヒーフェスティバルと題して、様々なコーヒースタンドが自慢のコーヒーを通行客に振舞っていました。

勾当台公園では、東北ワインフェスというのをやっていました。

錦町公園では、アースデイの催し物が行われていました。

仙台市内の桜(ソメイヨシノ)はもう終わっていて、花の小さい八重桜が少し咲いていました。

街を歩いていても、あまり人とは会わなかったのですが、一番町などのアーケードと定禅寺通り中央分離帯通路は結構すごい人出で、そのコントラストを強く感じました。とくに、アーケードではたくさんの若者たちが歩いていたのには驚きました。

晴れてはいるものの、風の冷たい一日でしたが、楽しく歩き回ることができました。明らかに、ちょっと垢抜けた雰囲気があり、趣向を凝らしたカフェなどがいろいろ見られました。きっと、福島市から遊びに来ると、仙台の街を新鮮に感じるだろうなと思いました。

東北における仙台の役割、仙台と山形や福島の関係、仙台に集まる若者たちのエネルギーをどう活用するか、など、勝手に色々なことを考えていきそうな気配です。

でも、個人的には、もうちょっと仙台にも馴染みたいと思いました。近々、きっとまた来ることでしょう。よろしくね、仙台。

少しずつ進めている活動環境整備

福島市に松井グローカル合同会社を設立して、少しずつ、身の回りの環境整備を進めています。

昨日(4/22)に地元銀行の支店に法人口座開設を申請したのですが、最近は、法人口座を使った詐欺などの犯罪が横行しているため、すんなりとは認めてもらえません。必要な書類は整っているのですが、銀行曰く、まずは本社住所で事業が行われているという実態を確認する必要があるということで、申請の可否は持ち越しとなりました。

というわけで、来週、担当者が本社住所を尋ねてくるので、来週早々にも、オフィススペースを整えることになりました。

オフィススペースは、当初、今回お世話になる古民家の中の大家の会社の事務所の一角、というか机を借りて始める予定だったのですが、大家からの提案で、大家の住宅(古民家とは別棟)の隣にあるプレハブ小屋を使わせてもらえることになり、文字通り、1軒のオフィスを構える形になりそうです。法人口座開設にこれはプラス!

来週はオフィススペースの整備に充てるとして、この土日は、寝泊まりする実家の居住スペースの整備に努めました。勤務先が休みだった弟に車を出してもらい、ハンガーラックや机や椅子や、プリンターなどを購入することができました。

実家では、以前、客間として使っていた部屋を私の部屋として使っていいことになり、上の写真のように、シンプルにレイアウトしてみました。

基本的に、福島の実家は寝泊まりする場所なので、いろいろ物を置く必要はないのですが、急に処理しなければならない作業(例えば、書類をスキャンしてPDFにして送る、など)が最低限できる状態にはしておきたいと思い、多機能プリンターなどを揃えました。

母にハンガーがあるかどうか聞いたら、私が子どもの頃に使っていたカラフルなハンガーがまだ捨てられずにたくさん残っているというので、使わせてもらうことにしました。こういうのは、今ではあまり見かけないような気がします。

こうして、弟の協力のおかげで、実家で滞在する部屋の様子が整いました。

福島へ来るのに先立って、どこでもインターネットが使える環境を作るため、改めてインターネット・ルーターを用意しました。ちょうど、古いWiMAXがあったので、新しいWiMAX 2+に機種変更して、これを使うことにしました。

新しいルーターのW04は、WiMAX 2+に加えて、電波の悪いところではau LTEも使える(但し、最大7GBで1ヶ月に約1000円追加で支払う)ので、電池の持ちさえ注意すれば、けっこう快適に使えそうです。

福島市に会社を設立しても、ずっと福島から出ないわけではなく、日本中、あるいはインドネシアをはじめとする世界中のローカルを相手に、モバイルで活動していくつもりです。とりあえず、日本中、いつでもどこでもインターネットにアクセスできる環境で仕事をしていければと思います。

私の原点、福島市天神町を再訪

昨日、法人登記に関係する諸手続を終えた後、私が産まれてから幼稚園を卒業するまで過ごした場所、福島市天神町を再訪しました。

舗装されていない小さな路地の両側に小さな家が3軒ずつ並んでいた場所です。荷物の配達でオート三輪が入ってくる路地でした。

今回訪ねると、その路地の面影は残っているものの、両側は駐車場になっていました。

最初に家族で住んでいた家は、上の写真の「路地」の右側、黒い車が停まっているあたりに建っていました。その手前には大きな銭湯がありました。

上の写真の「路地」の左側、正面の建物の左あたりに、次に家族で住んでいた家がありました。路地を挟んで一度引越しをしたのです。

当時の家には、家族5人に加えて、父の知り合いのお婆さんとその娘さんが同居していました。娘さんはもうずいぶんな年齢の独身でした。このお二人に遊んでいただいたり、ずいぶんとお世話になったものです。

上の写真の一番左手前、路地を出るところ、銭湯の向かいには、清水屋というお店がありました。

4歳か5歳の誕生日のとき、お祝いになんでも好きなものを清水屋で買いなさいと母に言われて買ったのは、棒付きのあずきアイスでした。これをずっと食べたかったのです。でも、私の誕生日は1月、寒い中でアイスを食べたせいか、すぐにお腹を壊しました。優しいおばさんが店番をしていました。その清水屋は、今はもうありません。

路地を出た正面に時計屋さんがあり、その時計の針を見ながら、夕方まで遊びました。

母がいつも買い物に行っていた地元スーパーの信夫屋も、今はありません。お酒をたくさん売っている店でした。

でも、清水屋の隣のふとん屋とその隣の魚屋は、今もまだ残っていました。銭湯の斜め前にあった床屋は、私が生まれて初めて行った床屋ですが、それもまだ残っていました。

清水屋の隣のふとん屋に立ち寄り、その4代目社長と子供の頃の話をしました。彼は私よりも7歳年下の高校の後輩でした。私が小学校に上がる際に二本松へ移った後に彼は産まれたので、直接の面識はなかったのですが、この界隈の共通話題で盛り上がりました。

そんな話をしていたら、ふとん屋の社長から「本当にここがあなたの地元なんですね」と話しかけられました。そう、ここが自分の「地元」、原点・・・。

この場所を離れてもう半世紀にもなるというのに、あの頃のことがどんどん思い出され、オート三輪や、あずきアイスや、時計屋さんや、床屋さんや、バキュームカーや、スーパーカブで出勤していく父や、家の庭にスイカや柿の種を蒔いたことや、ボロボロの服を着て毎日リヤカーを曳いていたクズ拾いの怖そうな老婆や、私をよくいじめた銭湯の息子のYちゃんや隣家のHちゃんのことや、諸々のことが次々に頭から溢れてきます。なるほど、ここは自分にとっての「地元」なのだと思い起こしました。

もしタイムマシンがあったなら、半世紀前の、私たちの遊び場だった舗装されていない路地や、人が行き交っていた賑やかな通りを、もう一度見てみたい、あの頃のより良い未来を信じて疑わなかった人々のいた空間をもう一度体験してみたい、と素直に思いました。

私という存在がこの世で始まった場所である福島市天神町が、自分にとって大切な「地元」であることを改めて実感できたのは、とても幸せなことでした。

ママチャリでまわる福島市での法人登記関連手続

今日は午前中、1時間遅れの東北新幹線で東京の自宅から福島に着き、4月11日に行なった松井グローカル合同会社の法人登記申請の続きを進めました。

とりあえず、福島駅構内の蕎麦屋でソースカツ丼セットの早めの昼食。

その後、いったん、実家に寄って、コーヒーを飲んで一服した後、実家のママチャリで出発です。

まず向かったのは、福島地方法務局。昨日の法務局からの電話で指摘された部分を修正した書類を持参し、4月11日にすでに提出した申請書類の一部と差し替えました。

15分ぐらい待った後、申請書類にOKが出て、事前に申請していた(法人の)印鑑カードを受け取りました。

そのまま、別室へ移り、登記事項証明書(履歴事項全部証明書)と印鑑証明書を多めに発行してもらいました。申請の前に、必要額の印紙を買って、申請書に貼り付けて提出します。10分もかからずに、登記事項証明書(履歴事項全部証明書)と印鑑証明書が発行されました。

これで、晴れて正式に、松井グローカル合同会社の法人登記が完了しました。設立日は、法人登記登録を申請した2017年4月11日となりました。

福島地方法務局で発行された証明書類を持って、関係機関への届出に移ります。

ママチャリに乗って、福島税務署へ出向きました。福島税務署では、法人設立届出書、青色申告の申請承認書、給与支払事務所等の開設届出書などの書類を提出しました。なお、この4月から、税務署への届出には法務局で発行された登記事項証明書(履歴事項全部証明書)の提出は必要なくなったとのことです。ただ、今回は念のためということで、コピーを取られました。

福島税務署の次は、東北福島年金事務所へ行きました。法人化すると、国民年金から厚生年金へ、国民健康保険から健康保険へ切り替わるのですが、そのための手続をするのです。ものの本には「設立後5日以内に」と書かれていたので、焦って行ったのですが・・・。

「役員報酬の支払は6月から」というと、報酬支払がない間は厚生年金料や健康保険料を徴収することはできないので、6月になってから改めて手続に来て欲しい、という回答でした。

役員報酬の額は設立後3カ月以内に決定して税務署へ報告する必要があるので、現段階ではまだ決めていなかったのです。今回の税務署への届出書に支払開始日を記入する必要があったので、6月30日と記載したのです。

年金事務所からは、法人設立した際の必要書類や説明書類の一式が入った「新規適用届」という1セットをいただいたので、じっくり読みながら、6月までに検討することにし、今回は手続をしませんでした。

年金事務所の後は、すぐそばにある福島市役所へ。市民税課で法人設立届を提出しました。

その後は、福島市役所から福島県庁へ、ママチャリで20分ぐらいかけて行きました。福島県庁内の県税事務所を目指したのですが、ここでは、県北地方振興局のなかの県税部へ出向いて、法人設立届を提出しました。

なお、これらの法人設立届出の捺印は、法人代表社員の印(丸印)となります。

というわけで、今日の午後だけで、法人登記後に行なう関係機関への届出は、つつがなく終えることができました。

インドネシアで経験したこの種の手続に費やす時間と労力に比べると、今回の手続がいかに楽で効率的か、行政側からの説明が懇切丁寧に的を得たものか、ということを実感します。

そして、福島市の旧市街は、ママチャリで簡単にまわることができるぐらい、コンパクトなのだなと改めて思いました。風はやや冷たいものの、穏やかな春の日和で、ママチャリで動くのがとても気持ちのいい1日でした。

グローカルとは何か:私なりの解釈

昨日は、福島市で法人登記申請をした後、実家で少し休み、登記が完了する4月20日までは何も手続を進められないので、とりあえず、東京の自宅へ戻ることにしました。

ふと思って、久々に、福島から東京まで東北本線の普通電車を乗り継いで行くことにしました。福島から黒磯、黒磯から宇都宮、宇都宮から赤羽、赤羽から自宅の最寄り駅まで、5時間かかりました。昔ならば6〜7時間かかったので、ずいぶん短縮されました。

たいして疲れを感じることはなかったのですが、池袋の法明寺で桜を眺め、帰宅すると、かなりの疲労感を感じてしまい、少し睡眠をとりました。年齢のせいとは思いたくないのですが、福島と東京との間の移動については、時と場合による良い方法を追求していきたいと思います。

法明寺の桜

ところで、松井グローカルという名前に使う「グローカル」という言葉について、世間で言われているのとは、ちょっと異なる解釈かもしれませんが、私なりの解釈があります。それについて、今回は少し述べてみたいと思います。

インターネット上でグローカルという用語は、たとえば、「グローバル(Global:地球規模の、世界規模の)とローカル(Local:地方の、地域的な)を掛け合わせた造語で、「地球規模の視野で考え、地域視点で行動する(Think globally, act locally)」という考え方」というのがあります。

日本語ウィキペディアでは、さらに以下の3つのような意味合いで使われる用語、とされています。

1)地球規模/多地域での展開を目指しながらも、地域の法律や文化に応じる形で提供される製品やサービス。
2)インターネットなどの電子コミュニケーション技術を活用し、地球規模/多地域の基準の下で提供される地域限定のサービス。
3)地域の文化や需要に応じるために、世界的な企業が設立する現地法人、など。

上記の一般的なグローカルの意味を見て感じることは、「まずはグローバルがあり、それをローカルへ展開する」「グローバルを目指しつつもまずはローカルから始める」という方向性です。日本語ウィキペディアには、「「グローカリゼーション」という言葉は、1980年代の日本企業が営業戦略として使用し始めた」ともあります。

日本で「グローカル」という名前を用いた企業や法人はいくつかありますが、その多くは、日本での事業を世界へ広げる、あるいは世界的視野で行う、というニュアンスがうかがえます。
私の考える「グローカル」はこれらとは異なります。
私の考える「グローカル」は、ローカルから始まります。地域、地域の人々や暮らしから始まります。
地域を大事にするという意味では、地域主義や、グローバリゼーションの反対語としてのローカリゼーションとも共通するところがありますが、それらとも異なります。
私の考える「グローカル」は、ローカルとローカルがつながることから始まります。そのつながりが、蜘蛛の巣状のインターネット網のように、無秩序にどんどんつながっていくような、ローカル間のネットワークが国境を越えて作られ、結果的に、ローカル間のネットワークがグローバル化する、というイメージです。
なぜ、ローカルとローカルとをつなげるのでしょうか。
日本やインドネシアやアジア各国やアフリカなど、様々な場所の地域を訪ねて感じたことがあります。それは、世界中のローカルが根底で同じ問題に直面している、ということです。
インドネシアでは、グロバリゼーションは、西洋化や欧米化の文脈で捉えられてしまうことが少なくありません。しかし、EUやアメリカの農民たちもグローバリゼーションを嫌っていることを話すと、「信じられない」という顔をします。他方、彼らは、ファーストフードの流行や携帯電話を手放せないことなどは、誰かよそ者に強制されて強いられているわけではなく、自分から好きでそうしている、ということは、自分もまた、グローバリゼーションをつくる一員になっている、ということに気づきます。
私たちは、そうした意味で、グローバリゼーションから逃れることはできなくなっています。グローバリゼーションに反対して自らを閉じてしまうのではなくて、グローバリゼーションによって、自分自身の育った地域が伝えてきた様々な教えや自分のくらしを自分たちが否定したり、忘れたりしそうになっている、ということに目を向ける必要があると思うのです。
15年ほど前に地元学に出会って学んだことは、果たして自分は自分の暮らしやその暮らしを成り立たせる地域について、どれだけ知っているのだろうか、ということでした。まずは、自分の足元を実は意外に知らない、ということに気づくことの大切さでした。
多くの地域では、自分たちの足元にあるものよりも外から来るもののほうが優れている、と思いがちです。日本もまた、欧米化することがより良くなることだと、もしかしたら今もずっと信じ続けているかもしれません。
そして、祖先から伝えられてきた、自然とうまく共生し、自然を上手に活用する様々な知恵を忘れていきました。自然から天候を読むのではなく、スマホの天気予報のほうを信じるようになりました。
私は、そうした変化を拒んだり、否定するものではありません。しかし、自分自身やその暮らしの元になっている地域を否定したり、忘れたりしてはならないのだと思います。
記憶に残すということは、過去を懐かしむためではありません。それが何十年も、何百年も、もしかすると何千年も伝えられているとするならば、そこに何かの意味があるはずです。その意味を現代の地域の文脈で学び直すことが、地域をもう一度見直すことにつながるはずだと思うのです。
そうしたもののなかから、その地域はいかなる地域であるか、という地域のアイデンティティが醸し出されてくるのです。しかし、そのアイデンティティがどこにあるかを感じられなくなっている、というのが、全世界のローカルが直面している根底問題ではないか、と思うに至りました。
まずは、自分たちだけではなく、世界中のローカルがアイデンティティ危機に直面していることに各々のローカルが気づき、自らが何であるのかを知りたいと思って行動を始め、それで改めてつかんだ何かをアイデンティティに加えていく、それを行っているローカルどうしがそれぞれのアイデンティティを認め、尊敬し合い、場合によっては、一緒に何か新しい価値を生み出していこうと動き始める。それに地域おこし、地域づくり、地域振興、地域復興などの名前を付けたければ付ければよいのではないか。
私がローカルのために何かを創るのではありません。そこの方々が自ら主体的に何かを創るお手伝いをする。私は、そんなプロフェッショナルな触媒を目指したいのです。
松井グローカルの活動対象は、全世界のローカルです。まずは、法人登記した生まれ故郷の福島市から始めます。
日本全国どこでも、世界中どこでも、必要とされるローカルで、そのローカルが自ら主体的に自らを知り、活動を自ら始め、必要に応じて他のローカルとつなぎながら、新しいモノやコトを創り始める、そのプロセスに触媒として関わっていきたいと思います。
ローカルの力を信じ、自分たちの暮らしを見つめながら、新しい価値を自ら創り出すお手伝いをする、そんな仲間が日本中に世界中に増えてくれば、国家単位で物事を見てきた風景とは違う、新しい風景が生まれてくるのではないか、おそらく地域づくりというものの中身が変わってくるのではないか、という気がしています。
私が「松井グローカル」という名前を使うのは、こうした世界が生まれ、支配者のいない、ローカル間のネットワークがグローバル化していくことを夢見ているためなのです。

違う言葉で、インターローカル、インターローカリゼーション、という言葉もあり、これも私が目指すことを表しているかもしれません。

妄想に取り付かれたような文章を長々と書いてしまいました。皆さんからの忌憚のないご意見やご批判をいただければ幸いです。

松井グローカル合同会社を設立

本日(2017年4月11日)、福島地方法務局に法人登記申請をいたしました。したがって、本日が松井グローカル合同会社の設立日となりました。

これまで、「松井グローカル」の名前で活動してきましたが、ステータスとしては個人事業主であり、「松井グローカル」は屋号でした。今後は「松井グローカル合同会社」という法人として活動してまいります。基本的には、これまで同様、私1人だけの会社(従業員なし)の形となります。

福島地方法務局によると、登記完了は4月20日午前ということで、実質的な活動はそれ以降となりますが、これから少しずつ、本格的な活動へ向けての準備を進めていきます。

定款の中で定めた事業の目的は以下のとおりです。

1.国内外での地域づくりに係る調査、アドバイス、コンサルティング
2.国内外でのビジネス支援に係る調査、アドバイス、コンサルティング
3.国内外での国際協力に係る調査、アドバイス、コンサルティング
4.国内外での地域づくり、ビジネス支援、国際協力に係る交流・連携支援
5.インドネシア等の政治・経済・社会等に関する調査・分析・情報提供
6.セミナー、ワークショップ、研修、会議等の実施運営、講演・ファシリテーション
7.前各号に付帯関連する一切の事業

「ローカルとローカルをつないで新しいモノやコトを創り出す触媒となる」という自分のミッションを掲げた以上、活動の軸足をローカルに置く必要があると考え、故郷の福島市で登記申請を行いました。これは、前々から考えてきたことでもあります。

今後は、福島市を主拠点とし、東京、マカッサル、ジャカルタなどを副拠点としつつ、これまで通り、日本や、インドネシアをはじめとする世界の必要とされている場所で必要とされる活動を行い続けていきたいと思います。

そして、福島を含めた個々のローカルが自らの力を高め、国境や宗教や種族を越えて互いに尊重し合い、学び合い、活動し合う関係を築けたら、もっと温かく、もっと楽しく、もっと面白い未来が開けてくるのではないかと思います。

まずは福島から始めます。松井グローカル合同会社を通して、そんな仲間を世界中に作り、一緒に未来を作っていく旅を始めます。

(上記は、松井グローカルのホームページに記載したものと同じ内容です。ご了承ください)

相馬・原釜で記念植樹

今日は、弟に誘われて、相馬市の原釜尾浜海岸で行われた記念植樹の会へ行って来ました。

この原釜は、小学生の頃、家族で海水浴に来たことのある海岸です。先の東日本大震災では、津波の被害を受け、ここでも多くの人々が犠牲となりました。

海岸から少し入ったところには、高さ約5メートルの堤防が築かれ、その堤防の上の公園で記念植樹が行われました。

開会式での相馬市長の挨拶などの後、各班に分かれて、苗木を植え始めました。海岸側にはクロマツの苗木を、内陸側には市民が選んだ広葉樹の苗木を植えました。私の班はクロマツの植樹、小さいシャベルで苗木を10本ぐらい植えました。

植樹を終了後、いったん集まった後、自分の名前を書いた杭を立てて欲しいと言われましたが、もはやどこに植えたのかわからない状況でした。やむなく、自分が植えたと思しき1本の横に杭を立てました。

慣れない作業で、シャベルを持った右腕が痛くなってしまいましたが、天候にも恵まれ、楽しいひとときとなりました。

でも、この植えた苗のどれぐらいが本当に育つのでしょうか。この堤防の土は山から削ってきた山砂で、栄養分がほとんどないそうです。今後、関係機関が手入れをしていく際に栄養分の補給もするのでしょうが、何とかうまく育って欲しいと思いました。

4月からのために

今回、福島へ帰ったのは、4月からの準備の最終確認のためでした。

4月からのために、まず、実家にいる母や弟たちと話をし、色々と了解してもらいました。さらに、関係する方々にも会って、了解をもらいました。

あとは、もう少し、準備を進めるだけ。

始めます。4月から。ここで。楽しく、面白く、そして本質的に。

今週の後半は福島

3月16日から18日までは、福島市の実家に来ています。

もう少し早く東京の自宅を出る予定だったのですが、ちょっと色々もたもたして、福島に着いたのはもう夕方でした。

実家の周りは、数ヶ月前からアパート2棟の建設工事中。この土地を持つ地主さんが、実家の敷地を除く土地にアパートを建てています。それ以前は、何軒かの貸家があったのですが、それを全部壊して、アパートを建てているのです。

実家の近辺には、こうして新しく建てたアパートやこれから新しく建てるアパートが幾つも見られます。

ピークの時期はもう過ぎたようですが、福島市では、原発のある相双地区から避難してこられた方々の住宅やアパートの建設が数年前から盛んに行われてきました。除染関係者などの需要もあるかもしれません。実際、福島市でアパートなどの賃貸物件を探すのがけっこう大変だという話が数年前から聞こえていました。

この土地の地主さんは亡き父の幼なじみで、その由で、ずっと前から、借地に建てられた我が実家に対して、とてもよくしてくださっています。本当ならば、我が家の借地もアパート建設のために取り上げられていたに違いありません。

すでに、地主さんの息子さんと、実家の近くに住む私の弟との間で、土地に関する話もきちんと了解しており、母もしばらくは安心して実家で暮らすことができそうです。

今回の里帰りは、実家にいる母と色々と相談することが目的です。今後、福島にいる時間がこれまでよりも長くなるため、この実家にお世話になることも多くなりそうだからです。さっそく、色々と助言や要望を聞くことができました。

震災6年目をマカッサルで迎えた意味

東日本大震災から6年の今日を、インドネシア・マカッサルで迎えました。

日本時間の14時46分は中インドネシア時間の13時46分、マカッサルの大好きなシーフードレストランNelayanで昼食を摂っていました。

時間を気にしながら、Ikan Kudu-Kudu(ハコフグ)の白身の唐揚げをつまんだ手を拭きながら、静かに黙祷しました。「え、ごちそうさまなのー?」とびっくりした2人の友人も、すぐに気がつき、続きました。

6年前、東京で迎えた強烈な地震。そのすぐ後の原発事故の可能性を感じ、日本は終わる、この世が終わる、と本気で思ったあの日。今でこそ、その反応は過敏だったと言わざるを得ず、苦笑してしまうのですが、福島の実家の母や弟たちも含め、家族みんなを連れて、日本を脱出しなければ、と思ったものでした。

その脱出先として想定したのが、今滞在しているマカッサルです。ここにはたくさんの友人・知人がいる、我々家族のために長年働いてくれた家族同様の使用人がいる、住む場所も容易に確保できる。自分の故郷のような場所だから、いや故郷以上の場所だから、と思うからでした。

いざとなった時に、この地球上で自分を受け入れてくれる、自国以外の場所があるという幸運を確信していた自分がそこにいました。

結局、日本を脱出することはなかったのですが、震災6年目の今日、マカッサルとの結びつきを改めて強く感じる出来事がありました。

今回の用務の中で、物件探しがあったのですが、今日訪ねた物件のオーナーが、1996年に私がマカッサルでJICA専門家として業務を開始した際の最初のアシスタントMさんだったということが判明しました。紹介して案内してくれたのは彼女の姪だったのです。

姪は早速、叔母さんである私の元初代アシスタントへ電話をかけ、再会を祝しました。電話口の彼女の声が昔と全く変わっていなかったのにはびっくりしました。Mさんは、1年ちょっと勤めて、諸般の事情により退職してしまったのでした。それ以来、消息は不明で、今回、20年ぶりにコンタクトしたのでした。

また、別のオーナーは、よく存じている大学の先生の教え子でした。彼との共通の知り合いの名前もボンボン飛び出します。

何といったらいいのでしょうか。こんなことが起こってしまうマカッサルは、自分にとってよその町ではない、怖いくらいに自分にマカッサルが絡みついてくるかのようです。それは、生まれ故郷の福島市とはまた違った意味で、自分の人生にとって不可欠な場所なのだという感慨を強くしました。

今回一緒に動いた友人2人は、違う物件オーナーに会うたびに、また私のコネクション再確認が始まってしまうのではないか、時間がなくなる、と戦々恐々の様子で、申し訳ないことをしてしまいましたが、やめられないのです。

福島とマカッサル。東京とジャカルタ。自分にとっての福島=東京の関係とマカッサル=ジャカルタの関係との類似性を感じます。この関係性こそが、これからの自分のローカルとローカルとをつなぐ立ち位置の基本となる気がしています。

そう、日本では福島へ、インドネシアではマカッサルへ。自分の今後の活動の第1の拠り所としていきます。4月、福島市で始めます。

「結詞」が急に頭の中に浮かんで

なぜか、急に頭の中に、井上陽水の「結詞」という曲が浮かんできて、リフレインしています。

アルバム「招待状のないショー」の最後の曲ですが、このアルバムには、同じ歌詞の「枕詞」という曲も収録されています。でも、頭の中で鳴っているメロディーは、「結詞」のほうです。

たしか、この曲を聴いてジーンときたのは中学時代だったような気がします。

すると、続いて、吉田拓郎やかぐや姫やユーミンの曲が次々に頭の中に現れて、一気に、福島市で過ごした中学時代、高校時代のことを思い出し始めてしまいました。
高校時代、友人と一緒に、福島駅から電車に乗って、郡山市の開成山公園へ行き、かぐや姫の再結成コンサートを見に行きました。ライブの臨場感に圧倒されたものの、その後、ライブに行くことはなかったです。あのとき、一緒に行った友人は、今では、福島県庁の管理職職員として活躍しています。
大学に入ってからは、いわゆる当時ニューミュージックと言われた、フォークをほとんど聴かなくなったのですが、なぜか最近、時々、無性に聴きたくなり、聴くと、その曲とともに福島市で暮らしていた二十歳前の自分のことを思い出すのです。
これって、もう、年寄りになってしまったということなのでしょうか。
そういえば、インドネシアのポピュラーソング歌手では、もう25年以上もRuth SahanayaやKLa Projectを聴いているのですが、その曲の一つ一つが当時のインドネシアでの生活の一コマと結びついて、ジーンと思い出されてきます。

通貨危機の頃のKLa Projectの曲は、今にして思えばびっくりするほど暗くシニカルで、当時の社会の絶望感をにじませていたのだなと思います。しかし、その後の彼らの曲が次第に明るさを取り戻していくなかに、インドネシア社会の空気が反映されているように感じていました。

かつて子ども時代を過ごした福島の家は、今ではもう跡形もなく残っていません。でも、井上陽水を聴いていた頃の自分とは、たとえば「結詞」とともに、自分の中で会えているような気がします。

あれから自分の何が変わらず、何が変わったのか。変わってはならないものは変わらずにあるか。変わらなければならなかったのに変われなかったものは何か。

福島と向き合うときに、それは「結詞」を聴いていた頃の福島で暮らした自分とも向き合うことでもあるのだ、ということを改めて思っています。

「福島は大丈夫」「福島は危ない」の福島とはどこか

あの日から間もなく6年。福島という地名は、原発事故で思いもかけず世界中に知られるようになりました。そして今でも、「福島は大丈夫」「福島は危ない」という、両論が飽きもせずに言論界を賑わせています。

学生時代に地理学を少しかじった自分から見ると、「福島は大丈夫だ」の福島、「福島は危ない」の福島、それがどこかという話があやふやなまま話がふわふわと宙に浮いているような気がして、白か黒かの議論を相手にする気が失せてしまいます。

そこで述べられている福島とは、福島県のことでしょうか。福島市のことでしょうか。福島第一原発のことでしょうか。

広島や長崎がカタカナで表記されるように、福島もカタカナで表記されるのですが、広島や長崎が点であるのに対し、福島は点ではなく面である、という違いが明確にあります。福島は広がりを持った空間なのです。

もし、広島や長崎のように福島を点として捉えるならば、それは福島市のことを指すはずです。たしかに、原発事故の直後、南東から風に乗った放射性物質が福島市のある福島盆地にも流れてきて、その濃度が一時尋常ではない値にまで上昇しました。その後、時間が経つにつれて、放射性物質濃度は下がり、今、市民は普通の生活を営んでいます。

福島県は、日本の都道府県で北海道、岩手県に次いで3番目に面積の広い県です。よく知られるように、海岸沿いの浜通り、中央部の中通り、山沿いの会津地方の3つに大きく分かれます。そして、その3者の間の有機的なつながりは薄く、互いに別世界と認識していました。

中央部を走る奥羽山脈に遮られたためか、会津地方は放射性物質の影響を大きく受けませんでした。それでも、「福島」ということで、風評被害に苦しみ、観光客も大きく減少しました。

放射性物質という広がりを持ったものが流れた影響で、空間としての「福島」が汚染されたかのような印象ができてしまったのでしょう。しかし、その空間には「福島」と隣接するその他の場所を物理的に区別するものはありません。

福島という地名が様々に使われるようになった根本は、福島第一原発という命名にあったのかもしれません。なぜかここだけは、大熊原発とか双葉原発とか、原発の名前にその立地場所の地名を使わず、面を示す「福島」という名前を冠したのでした。

たしかに、原発の立地する双方地区は福島県の一部ではありますが、福島市とは60キロ以上離れており、福島市民が特別な感情を持つ場所ではありません。福島第一原発という命名が、福島という地名が様々に解釈される根本原因であるようにも思えます。

震災と原発事故が契機となって、今まで他人行儀だった浜通り、中通り、会津地方の間につながりが生まれてきた気配もあります。同じ福島県民としての意識が以前よりも強まったのだとすれば、それは、外部者によって「福島」の名の下にひとくくりにされ、風評被害や誹謗中傷さえ受けたという共通体験に基づくものなのかもしれません。

福島が大丈夫だという人は、浜通りや相双地方のミクロな地域の話を福島県全体の話で希釈して、大丈夫だと言っているのかもしれません。また、福島は危ないという人も、同じように、浜通りや相双地方のミクロな地域の話を福島県全体の話へ演繹して、福島県全体が危ないかのように煽っているのかもしれません。

外部者が自分の議論に都合のいいように、「福島」という地名が使われているのではないでしょうか。そこには、福島県内の様々な現場のミクロな地域の存在が無視されて、あたかも福島という共通空間があるかのように取り扱われている、という気がします。

福島が大丈夫か危ないか、といったあやふやでふわふわした話に、何か重要な意味があるのでしょうか。そのどちらかを議論することで、現場のミクロな地域で何がプラスになるのでしょうか。

そんな言葉遊びに付き合う必要はありません。それより大事なことは、大丈夫か危ないかを知りたければ、福島県のミクロな地域で、放射性物質がその地域のどこでどれだけの濃度があり、それが人間が生活していくうえで危険なのかどうか、といったことを具体的に知ることです。

人がそこに住み続けるかどうか、避難するかどうかは、それぞれの人々がそれぞれの判断と責任で決断していることであり、外部者がとやかく言うことではない。個人ではどう思ったとしても、そこの地元の個人が判断し決定したことを尊重するしかない、と思うのです。

それは、原発事故による避難がなくても、過疎に悩む村の人々が村の長い歴史に幕を閉じる決断をする、というような場面でも同じだと思います。

福島県を見ながらも、安易に「福島」という言葉を使わない。福島県の様々なミクロな地域の営みを、人々の活動を、しっかりと受け止め、そこにある人々の言葉をして語らしめる。すると、「福島」が何かとてつもなく特別で大変なものではない、普通の当たり前のローカルな場所であることに改めて気づくのではないでしょうか。

福島県、福島市という地名は使います。しかし、「福島は●●だ」という議論を目の前にしたとき、その福島とはどこのことなのか、を明確にするよう求めたいと思います。議論を進めたいのならば、それが相馬市のことなら相馬市に、相馬市小高のことなら小高に地名を変えて、具体的に話を進めたいものです。

福島のあんぽ柿をいただく

月曜日の会でご一緒した、元飯舘村、今は避難先の福島市の椏久里コーヒー店のマスターから、お土産であんぽ柿をもらいましたので、早速いただきました。

あんぽ柿というのは、福島では干し柿のことを指します。渋柿を硫黄で燻蒸して、屋根の軒先に吊るして、吾妻山系から吹きつける北西の冷たい風にさらして乾燥させます。普通の干し柿だと、乾燥させると黒く固くなって糖分の粉を吹きますが、あんぽ柿はそうならず、半生のような感じで、甘くて柔らかいのです。なお、硫黄は揮発するので、毒性はありません。

主産地は、宮城県境に近い福島県伊達市梁川町五十沢(いさざわ)地区で、11〜2月が収穫・出荷の最盛期となります。

もともと、この地域は幕末の頃から養蚕が盛んでしたが、大正期になると生糸産業が衰退へ向かいました。その頃、五十沢の有力者たちが養蚕に代わる農産物を探し求め、その結果、あんぽ柿をはじめとする果樹産品への転換が進んでいったとのことです。

あんぽ柿の袋には、検査済みマークが貼られています。福島県あんぽ柿産地振興協会が放射性物質の検査を行い、食品衛生法に定める一般食品の基準値(キロ当たり100ベクレル以下)を満たすものだけを出荷しています。

あんぽ柿の放射性物質検査情報は毎週更新され、以下のサイトで見ることができます。

 あんぽ柿検査情報

東京電力福島第一原発事故から2年9カ月後の2013年12月になって、あんぽ柿の出荷は再開されました。しかし、あんぽ柿は、柿を乾燥させるため、乾燥に伴って柿の中の放射性物質濃度が高まる恐れがあるため、出荷にあたっては、これまで細心の注意が払われてきました。

実際、福島県は、2016年12月15日付で、「あんぽ柿・干し柿等の「カキ」を原料とする乾燥果実の加工自粛と一部出荷再開について」という通達を出しました。現状で基準値を超えるものはほとんど出ていないものの、さらなる万全を期すために、監視を続けていく姿勢を示しています。

 あんぽ柿・干し柿等の「カキ」を原料とする乾燥果実の加工自粛と一部出荷再開について

あんぽ柿の出荷が再開されたとはいえ、基準値を上回るものは市中に全く出回っていないとはいえ、まだまだ監視の目を緩めるわけにはいかないのです。

福島県は、「基準値を超える可能性があると判断した市町村は加工自粛するように」と呼びかけていますが、今のところ、そのような市町村はないようです。これも万が一に備えての呼びかけであって、もうすでに危ないから自粛を呼びかけているのではありません。

あんぽ柿の検査プロセスは、以下のサイトに図解されています。すべてのあんぽ柿が全量非破壊検査を受け、食品衛生法に定める一般食品の基準値(キロ当たり100ベクレル以下)よりもずっと厳しいスクリーニングレベル、すなわちキロ当たり50ベクレルを超えたものがトレーに混じっていれば、そのトレーの柿はすべて廃棄する、としています。

 平成28年度あんぽ柿の検査イメージ

福島県から出荷されるあんぽ柿は、全量、サンプルではなくて全量、放射性物質検査を受けています。その数は、2016年11月〜2017年1月で314万7768個です。そのうち、キロ当たり50ベクレルのスクリーニングレベルを超えたものはわずか1955個(すべて廃棄)で、キロ当たり25〜50ベクレルが4万6320個、測定下限値のキロ当たり25ベクレル未満が309万9493個でした。

特筆できるのは、上記について、その検査結果がすべてデータとして残されている、ということです。どこから出荷されたあんぽ柿のいつの放射性物質検査結果がどうだったのか、というデータがすべて残されているのです。

福島県では、米の全量全袋検査が今も継続されていますが、たとえば、平成26年産米では、2014年12月31日までに1077万点以上を検査し、基準値超えは0点でした。これも、すべてデータが残されています。

日本の他の都道府県・市町村で、福島県よりも厳しい放射性物質検査を行っているところはあるでしょうか。それらが福島県のものよりも安全だと客観的に示せるデータを持っているでしょうか。

外国へ日本から農産品を輸出する際、放射性物質に関する客観的なデータを求められることがありますが、それに日本で対応できるのは、実は福島県だけなのではないでしょうか。

言われのない中傷や風評がなくならず、避難した子どもがいじめに遭うなど、福島をディスる動きはまだなかなか消えませんが、そんな中で、農産物の放射性物質検査を根気強く行い、データを残すという、地道な努力を続けてきた福島は、市場の評価とは裏腹に、いつの間にか、客観的な安全安心のトップランナーになりつつあるのです。

こうした安全安心への地道な取り組みを見ているのは、日本国内だけではありません。世界のバイヤーが見ています。安全安心を求める世界の農業関係者が見ています。

福島の農産物を食べないのはけしからんとは思いません。食べてくださいと懇願するつもりもありません。食べるか食べないかは個々人の自由な判断によるからです。

でも、何の客観的根拠もなく、福島を心配するようなふりをして、福島のものを食べる人をディスるのはやめてほしいのです。心の中で福島をディスるのは個人の自由ですが、それを口に出す必要はないはずです。

今は検査結果が良くても、来年も再来年も大丈夫だとは言えない。その思いは、未来に対して謙虚だからこそ、なのです。それゆえに、万が一に備えた条件付きの「加工自粛」を呼びかけたり、膨大な検査データを残し続けているのです。

もしかすると、この福島の安全安心への地道な取り組みが、世界の安全安心へのモデルとみなされていくかもしれません。

あんぽ柿を作っている農家さんの姿を想像しながら、そんなことを思いました。そして、がぶっとかじった柿は、甘くてとても美味しいのでした。

ふくしま「ふるさと写真の日」展オープニング

2月6日の夜、都内で開かれた、ふくしま「ふるさと写真の日」展オープニングパーティーに参加してきました。

私の懇意にしている福島市のコーヒー店・椏久里のマスターがこのイベントの実行委員となっていて、お会いしたいと思ったのが直接の理由です。

東日本大震災後6年が経過しようとしている中、長い避難生活によって祖父母世代、親世代、子孫世代で大きく認識が変わりつつある「ふるさと」。そうした「ふるさと」という記憶の深い場所での大切なものたちとのつながりを「写真」を通して掘り起こし、その思いを根付かせ、育み、伝えていくプロジェクトの一環として、ふくしま「ふるさと写真の日」展が開催された、ということです。

このプロジェクトは、「親子の日」を提唱して親子の写真を34年間撮り続けてきた写真家のブルース・オズボーン氏に依頼し、相馬市、南相馬市、飯舘村、葛尾村、川内村において写真を撮影してもらい、その作品をそれぞれの人々の物語とともに展示しています。

このイベントは、東京(2/6〜2/12、Glocal Cafeにて)、郡山(2/14〜2/19、福島コトひらくにて)、福島(2/21〜2/26、コラッセふくしまにて)で順次開催されます。詳細は以下のサイトをご覧ください。

 ふくしま「ふるさと写真の日」展

実は、行ってみたら、椏久里のマスター以外に知っている方が一人もいない会でした。知り合いがいないので、マスターにくっついて、後ろの方でおとなしくしていましたが、だんだんに声を掛け合い始めると、高校の後輩や小学校の後輩などが次々に現れ、不思議な縁を感じました。

実は、今日、このイベントへ行ったのにはもう一つの目的がありました。会場の名前がGlocal Cafeという名前だったからです。どんなところだろう、という好奇心でした。Glocal Cafeのサイトは以下のとおりです。

 Glocal Cafe

なかなか素敵な空間でした。単なるカフェではなく、いわば公民館的な役割を果たせることを目的としていて、今回のようなイベントはまさにその目的に合致している、ということでした。

このGlocal Cafeを運営している会社の方々とも名刺交換をしましたが、私が「松井グローカル」の名前で活動していることを知ると、興味津々の様子。グローカルの定義は全く同じではありませんでしたが、目指している方向は同じでした。

語学書籍を出版している三修社も運営に関わっているとのことで、インドネシアやアジアのことにも精通している様子でした。同じグローカルを目指す者どうし、いろいろと協力してやっていけたらいいですね、という話になりました。

時々は、このGlocal Cafeに顔を出そうかと思いますし、ここで勉強会のようなイベントの開催も考えてみたいと思います。

何年もの時を経て旧友とつながり始めた気配

この一週間ぐらいの間に、もう何十年も会っていない、半ば忘れていたような、旧友たちと再びつながり始めた気配を感じます。

先週、ひょんなことから、中学、高校と一緒だった友人とフェイスブックでつながりました。すると、彼から、中学時代の彼の級友たちが東京に住んでいて、彼らが集まって飲んだときの写真が送られてきました。

この友人とはクラスが違っていたので、記憶は確かではないのですが、写真を見て、何人かの名前を思い出し、会っているかどうかを尋ねたら、ほとんど合っていました。

高校を卒業して福島市を離れ、それから埼玉県に少し住んだ後、ずっと東京で暮らしてきました。

一般に、友人づくりにはいろいろなタイプがあり、少数の親友と長く親しい関係を続ける場合もありますが、私の場合は、その時その時で新しく友人ができ、昔の友人との関係はどんどん消えていくという形だったような気がします。

つい最近まで、福島市にいた時の小中高時代の友だちとは、ほとんどコンタクトがなかったのです。新しい友人がどんどんできていくので、ほとんど気にも止めず、放置したまま長い月日が経ったのでした。

数年前、Linkedinでダメ元でつながりリクエストを出したら、高校時代の友人らとつながり、その勢いで再会して、福島市で餃子を一緒に食べ、今ではいつでもコンタクトを取れる仲に戻りました。彼らは、福島県庁の幹部職員や地方銀行の重役になっており、いつでも協力すると言ってくれました。

先週、写真を送ってくれた彼。写真を見ながら、自分のクラスではないのに、何人かのことを急に思い出し、とても懐かしくなりました。私の中学時代のクラスメイトは、今、どうしているだろうか、と懐かしい気持ちが止められなくなりました。

その後、前の勤務先で一緒だった方とも10数年ぶりにコンタクトが取れ、来週、ランチをご一緒することになりました。また、20年以上前にとてもお世話になったマスコミ関係の方とも今朝フェイスブックでつながり、元気でいらっしゃる様子を嬉しく思いました。

写真を送ってくれた彼は、写真に写っていた面々に声をかけて、東京で飲み会を計画したいと言ってくれました。でも、会うとなるとちょっと恥ずかしい気持ちになってしまいます。

常に新しい友を得て、それがインドネシアなど海外にもどんどん友ができて、この歳になって、昔の友とつながり始めた、というのも、不思議な気がします。

フェイスブックという、何年経っても繋がっていることができ、常に連絡を取らなくても何をしているかがわかり、いつでも、10年以上会っていなくても、あたかも昨日会ったかのように冗談を言い合える、そんな道具のおかげで、私の友人ネットワークは軽々と国境や時間を超えていくのでした。

こうして、この世を去るまで、友人を作り続けていくのでしょう。そして、真摯に想い続ける限り、フェイスブックなどの助けを借りて、バーチャルに過ぎないにしても、これらの友人とつながり続けていくことでしょう。

皆んな、今どこでどうしているのだろうか。自分勝手な思い込みかもしれませんが、きっと、そんな風に皆んなも思っているような気がします。

何かのきっかけで、このブログを見てくれた友人がいたら、ぜひ、私まで連絡をください。そして、連絡が取れたら、近いうちにお会いしましょう。

30代のご夫婦の遺志をどう継いでいけるか

昨日のNHKスペシャルでは、村の再生のために頑張っていた30代のご夫婦が自ら命を絶つという選択をしたという話が、まだ心に刺さったままの状態です。

彼らのところへは、当初、震災ボランティアがたくさんやってきて、一緒に汗を流し、米づくりを始めたという話でした。しかし、時が経つにつれて、ボランティアは少なくなり、ほとんど来ないような状態になったということでした。

その話を見ながら、よそ者が寄り添うというのはどういうことなのか、どこまで寄り添えばよいのか、私自身も関わることの多い外国援助の現場のことと重ね合わせて考えていました。

30代のご夫婦にとって、ボランティアの方々が来てくださるのは、本当に嬉しかったのだと思います。と同時に、いつまでもボランティアの方々が来続けるわけではないこともわかっていたと思います。むしろ、いつまでもボランティアに来てもらっている間はまだ本当の復興ではない、と思っていたかもしれません。

でも、徐々にボランティアの来訪数が減るにつれて、自分たちの支持者が減っていくような、寂しさも感じていたことでしょう。でも、きっと、それでも頑張らなければ、と頑張ったのだと思います。

ボランティアで来ていた方の中には、昨日の放送をご覧になった方もいたことでしょう。そして、ずっと30代のご夫婦のところへ行き続けなかったご自分を責めていらっしゃる方もいるかもしれません。自分がもしそのボランティアだったら、きっとそうするだろうなと思います。

ボランティアなんだから気にする必要はない、という考え方もあるでしょう。でも、そうやって本当に割り切れる人はいないと思います。

かわいそうだから行ってあげるボランティアから、好きで面白いから行くボランティアへの転換が進まなかった、ということでしょうか。

でも、亡くなられた30代のご夫婦にとって、一番辛かったのは、自分たちの同世代の仲間で、一緒に村へ戻って、ともに農業で再生を果たそうとする仲間が、ほとんどいなかった、増えなかったということではないかという気がします。

かつて村で農業を生業としていた人々が村へ戻らない、戻れない中で、よそ者のボランティアに定住して一緒に農業をするように促すこと、お願いすることは現実的ではなかった、のでしょう。

日本中、一部を除いて、ほとんどの山村で人口が減少し、若者の多くが都会へ行ってしまっています。一部では、都会の若者が山村へ移住し、新しい生き方を始めているケースもあります。

それに加えて、原発事故による風評の消えないところへ、わざわざ行く、移住するというのは、とても勇気のあることです。そんな動きが少しでも現れれば、30代のご夫婦の遺志も生かされるのではないか。希望はほんの少しでも、そんな動きが起こるきっかけを作ることに自分も微力ながら関わっていきたい。そんな風に思います。

そんななか、この30代のご夫婦が生きてきた川内村に、昨年11月、タイ最大の珈琲店チェーンである「カフェ・アマゾン」の日本1号店が開店したというニュースを聞きました。このことが、これから川内村の風評イメージを反転させ、どんな変化を創り出していくのか、興味を惹かれます。

全村避難となった飯舘村には、椏久里(あぐり)というスペシャリティ・コーヒーの名店がありましたが、震災後に閉店を余儀なくされ、福島市で開店、再出発しました。

福島でのコーヒーをめぐる動きが、新しい福島を創り出すストーリーの一つになれば、と祈っています。

よそ者の自分が軽々しく言うべきではないとは思いますが、コーヒーがきっかけとなって、小さな希望が生まれ、それが少しずつ膨らんでいくことを願いつつ、それを膨らませる一人に自分もなれれば、と思います。

1 3 4 5 6