イスラム教徒にとっての喜びの日

今日6月25日は、言うまでもなく6月最後の日曜日ですが、全世界のイスラム教徒にとっては、1か月間の断食月を終えた喜びの日、イード(Eid)です。インドネシア語では、イドゥル・フィトゥリ(Idul Fitri)と呼ばれます。

世界中のモスクでは、夜明け過ぎから、ムスリムの方々がたくさん集まり、断食月を終えた自分をたたえ、アッラーへ感謝の祈りを捧げたことでしょう。日本でも、そんな光景を見ることができた場所もあったことと思います。

イードを迎えるにあたっては、新しい服などの物を揃えます。また、過去1年間におかした過ちへの赦しを求めます。こうして、新しい真っさらな人間となって、再び次の断食月までを過ごしていく、という日が今回は今日だったわけです。

何となく似ていませんか。私たちの新年に。新年を迎えるにあたって、除夜の鐘を聴きながら1年間に溜まった108の煩悩を振り払い、また新しい服に着替え、初詣に行って新しい年への願いをかける、清らかな自分になるのが、一般的な私たちの新年の迎え方です。

断食明けを祝い、インドネシアの各地ではたくさんの花火が打ち上げられました。最近では、新年の年明けの時にも、花火が打ち上げられます。しかし、スハルト時代の終わり頃の1990年代末までは、花火が打ち上げられることもなく、静かな断食明けのイードでした。新年もそうです。花火だらけになったのはごく最近のことなのです。

その意味では、かつてのインドネシアのイードは、日本の正月を思い出させるような雰囲気がありました。

今から26年前、ジャカルタに2年間滞在していた際、本場の断食明けを見たいと思い、西スマトラ州パダンで、知り合いの大学の先生の家族訪問(日本のお年始のようなものでしょうか)に付いて行ったことがあります。

敬虔なムスリムである先生はまず、自分の家の近くのモスクで、説教をし、近所の方々と一緒に礼拝を行いました。先生の家でお食事をいただいた後、車で出発、パダンパンジャンにある家族の家に立ち寄りました。そこでも「食べろ、食べろ」の接待を受け、さらに車で、ブキティンギのご家族の家へ行きました。もちろん、そこでも「食べろ、食べろ」の接待を受けました。

最初、さすがに本場のパダン料理なので、とても美味しくたくさんいただいていたのですが、段々にお腹がいっぱいになって、食べられなくなりました。正確に言うと、お腹がいっぱいになったという以上の理由がありました。

それは、一族を訪問して回るので、出てくる食事の味付けが全て同じだった、ということです。よく考えれば、当たり前のことなのですが、当時の私には、3軒目で初めて体でわかったことなのでした。

話は変わりますが、ジャカルタでは、カトリック大聖堂と大モスクが道路を挟んで隣にそびえ立っています。日曜日といえば、キリスト教の礼拝・ミサが行われる日でもあります。

イードの朝の祈りと教会の朝の礼拝が時間的にぶつかります。そこで、教会側は、今日の朝の礼拝の時間を30分遅らせて、イードの祈りの時間とバッティングしないように配慮したということです。ムスリムの方々からは、こうした教会側の配慮に対する感謝の言葉がSNS上に溢れていました。
ジャカルタだけでなく、マランなどの地方都市でも、従来からそのように配慮してきた、ということです。州知事選挙などを通じて、宗教的寛容への懸念が出ていると多くの人々が感じているからこそ、そんな教会の配慮を素晴らしいと思ったのかもしれません。
でも、これまで当たり前だったことを素晴らしく感じる、という世の中の空気の変化をどうしても感じざるをえないとも思いました。もう一度、昔のような「当たり前」という感覚へ戻っていって欲しいと思いました。

改修前のアチェ州バンダアチェ市のバイトゥラフマン大モスク(2010年10月)。
個人的には、インドネシアで一番美しいモスクだと思います。
スマトラ沖大地震の際、人々の心の拠り所となった重要なモスクでもあります。

摺上川ダムを訪問

昨日(6月22日)、福島市を流れる摺上川(すりかみがわ)の上流にある摺上川ダムを見てきました。このダムは、中・下流の飯坂温泉や福島市での洪水対策として、2005年に完成したロックフィル・ダムです。

摺上川ダムの建設構想は1960年代に遡り、1973年に国が予備調査を行いました。1992年に工事が開始され、2005年9月に完成しました。

摺上川は水質の良い川として名高く、この川を源水とする福島市の水は、モンドセレクションで2017年も3年連続で金賞を受賞しました。とくに、2017年は最高金賞を受賞したとのことです。

でも、私の子どもの頃、1970年代には、摺上川ダム建設に関する強い反対運動があったように記憶しています。連日、ダム建設反対運動が新聞を賑わせていて、ダムが本当に建設されるのかどうか、不確かな状況だったように覚えています。
その印象が強く残っていたので、摺上川ダムが完成したのは知っていたものの、本当にどうなっているのか、見に行こうという気にはなれませんでした。
実際、茂庭地区の奥の名号集落や梨平集落がほぼ全てダムに沈んでいました。私の子どもの頃、名号行きや梨平行きの福島交通のバスをよく見かけたものでした。茂庭へ行く道路は狭く、茂庭というと山奥というイメージがありました。
現在の国道399号線は、片側1〜2車線で道幅は十分広く、快適なドライブでダム湖まで行くことができました。
この辺は、猿や熊がよく出てくるようです。
風が強く、また同行者の時間があまりなかったので、今回はさっと見ただけでしたが、次回は、ダム湖のすぐ近くにある茂庭生活歴史館をぜひ訪問したいと思います。

高速バスでの移動に慣れたけれど

昨日今日と、1泊2日、東京から福島へ高速バスで往復しました。

昨日の東京→福島は、初めてウィラー・エクスプレスを使ってみました。例のピンクのバスです。

バスタ新宿を午前10時半に出発。福島と山形を経由し、天童温泉が終着でした。運転手さんは、キビキビした素敵な女性でした。
首都高速が渋滞で15分程度遅れましたが、「遅れは挽回しませんのでご容赦ください」とのアナウンス。安全運転を堅持するという姿勢に好感が持てました。

500円プラスで隣の席もキープできるので、そうしました。これで福島駅西口まで3200円。今回はしかも、楽天ポイントで全額支払ったので、タダで乗りました。

席はちょっと幅が狭いですが、座り心地はなかなかよく、快適でした。
途中休憩は、佐野サービスエリアと安達太良サービスエリアの2箇所で、佐野では30分、安達太良では15分の休憩でした。
佐野サービスエリアに着いたのは12時で、30分あるので、昼食をとりました。佐野と言えば、やはり佐野ラーメン、です。
うーん、まずくはありませんが、普通のラーメンでした。
安達太良サービスエリアでは、見つけました、酪王カフェオレ・ソフトクリーム。
食べているうちに気がつきました。酪王カフェオレ・ソフトクリームは、下り線でしか食べられない、のだそうです。
こうして、雨の降りしきる福島駅西口(駅からちょっと離れた東邦銀行の脇)に定刻より15分遅れで到着しました。
今日の福島から東京への帰りは、JRバス東北の「あぶくま号」。夕方5時過ぎに福島駅東口を出発し、夜10時過ぎに池袋駅東口に着きます。6月に入って、乗るのは3回目です。
こちらは、那須高原サービスエリアと羽生サービスエリアで15分ずつ休憩。食事をとるという感じではないし、時間が遅いので、店も閉まっていて、見るべきものはほとんどない、と学習しました。
6月はけっこう頻繁に東京と福島を往復したので、交通費を抑えるために高速バスを使ってみたのですが、意外に快適で、退屈もしませんでした。だいぶ慣れた気がします。時間的に余裕があるときには、高速バスを使う機会が増えそうです。
でも、今回は、昨晩、知人と深酒をしてしまい、今日は、けっこうつらい一日になってしまい、バスの中では、ひたすら寝ていました。くたびれました。

<予告>7月10〜14日、ジャカルタ出張

6月は断食月ということもあり、インドネシアへの出張はなく、日本で過ごしています。自宅のある東京と事務所のある福島とを頻繁に往復していて、今週も、明日明後日は福島です。これで、6月は3往復目です。

そして、ちょっと早いのですが、断食明け後の7月10〜14日、久々にインドネシアへ出張します。今回は、近畿経済産業局および公益財団法人地球環境センターの仕事で、全日程をジャカルタで過ごします。14日夜便で東京へ戻ります(東京着は15日朝)

この仕事を含め、今年度、上記2機関による「平成29年度地域中核企業創出・支援事業(環境・エネルギー分野における地域中核企業の海外販路開拓のための支援ネットワーク高度化及び中国・ASEAN市場獲得を目指した環境・エネルギー関連機器・サービスの現地実証の推進及び販路拡大支援事業)」での、インドネシアに関するコーディネーター役を務めることになります。

今回の出張中、7月12日(水)18時からの「ネットワーキングカフェinジャカルタ」で、私も講演させていただく予定です。このネットワーキングカフェでは、環境・省エネ技術関連企業との交流のため、現地日系企業・関係機関、現地進出予定企業等へ出席を呼びかけています。場所は、Atlet Century Park Hotel、私の講演は無料ですが、19時からの企業交流会は会費制(50万ルピア程度)となります。

最近は、ジャカルタ以外の地方への出張のほうが多い傾向がありますので、私にとっても久々のジャカルタでの仕事です。ジャカルタ在住の皆さんとお会いできるのを楽しみにしております。

なお、今後、8月、9月、10月、12月にもインドネシアへ出張が入る予定です。福島、東京、インドネシアと動き回ることになりそうです。

雨の中、花菖蒲を眺めにいく

6月18日、日曜日の東京は、一日中、雨が降ったり止んだりのあいにくの天気でした。でも、この日は私たち2人にとって特別の日。

そう、もう20何回も過ぎた結婚記念日。一緒に、紫陽花や花菖蒲を見に行こうということになって、雨の中、出かけました。

スマホ・アプリの気象レーダーで雨雲の動きを確かめながら動いたはずなのに、途中で何度も激しい雨に出くわしたのは、日頃の行いのせいかもしれません。

行先は明治神宮。北参道の入口に紫陽花があり、明治神宮の中には菖蒲園があるので、両方見られる、ということで行ったのですが。

北参道の入口の紫陽花はたしかにありました。でも、数株程度、ほんの少し。「明治神宮で紫陽花って聞いたことないなあ」という妻の言い分がまあ正しかったようです。

一人500円を払って、菖蒲園へ行きました。いやー、色とりどりの様々な花菖蒲が咲き誇っていて、なかなか見事でした。

雨滴に濡れた花菖蒲は、美しさがより際立つように感じました。

菖蒲田はゆるやかにカーブを描いていて、周りの鬱蒼とした緑あふれる木々とともに、ここが本当に東京のど真ん中とは到底思えないような風景を作っていました。

ちょうど、真ん中に橋が渡されていて、そこが写真撮影のスポットとなっています。
あいにくの雨のおかげで、菖蒲田を訪れる人の数も少なく、じっくりと味わうことができて、とてもよかったと、ここはやはり、物事をポジティブに捉えてしまいます。

南池へ行くと、夕方近いというのに、白い蓮の花が見事に咲いていました。

明治神宮の参道の木立は、雨で靄のように烟っており、訪問者の少なさも相まって、一段と厳かな雰囲気を感じました。

明治神宮での散策を終えて、二人ともとても空腹になったので、帰宅前に、原宿の南国酒家(英語表記だと South China Restaurant なのですね)で少し腹ごしらえ。

久々の五目焼きそばに大満足でした。

「復興」勉強会に出席して

6月16日、福島市で、NPO法人ふくしま30年プロジェクト主催の勉強会「復興」に出席しました。講師は、首都大学東京准教授の山下祐介氏と、NPO法人とみおか子ども未来ネットワークの市村高志氏でした。

勉強会では、復興という言葉とは裏腹に、現場では本質的な解決が一向になされていない現状があることを踏まえ、今後起こるであろう問題を指摘していました。

まず、なぜ避難者は故郷へ戻れないのか。その最大の要因は、トラウマです。もう一度あのような事態が起こるのではないか。もう二度とあんな避難をしたくない。最近、東電が福島第二原発の再稼働の可能性を匂わせていることも触れられ、不安が出されました。

帰還しようとしている人々は現状復旧を求めているのですが、その前提となる様々な検証が十分に行われていないことも指摘されました。

そして、すべてにおいて、責任の所在があいまいにされている現状が指摘されました。

たとえば、避難指示解除を決定したのは誰なのか、その根拠となった法規は何か、実は明確でないという指摘。また、賠償というのは、通常は、責任主体による償いであるはずなのに、責任主体は責任をとっているのか、という問題。責任をとらない主体が賠償をするということの論理矛盾。

次に、避難指示解除によって居住を促すということについて。実は、避難指示解除の前から、作業員はそこに住むことを促されて住んでいたのだから、避難指示解除がなければ住めないというのはおかしかったのではないか。解除前でも、戻りたいと言っていたお年寄りなどを戻してあげればよかったのではないか(彼らの中には戻れずに仮設で亡くなった方々も少なくない)。

故郷への帰還か避難先への移住かという問題。現実的には、そのどちらでも政府補助は出るのに、故郷自治体の住民票を避難先で持ち続けられないという状況(今は時限立法で認められている)が出てくると、帰還か移住かの選択を迫られるようになる。本来ならば、長期退避を続けながら状況に応じて順次帰還、という大前提で、様々な選択肢があってよいはず。

復興に続く地方創生で、福島イノベ構想などの新たな事業が出され、福島県には引き続き多額のプロジェクト資金が投下されていきます。その資金へ群がる福島県外の業者や政治家がすでに動いている様子があり、「福島へ行けばまだ事業がある」という話もあるとか。結局、それらの事業資金が福島県にもたらされることで、これまでと同様の国からの事業予算に依存する状況が続いていくことになるのでは、という懸念も出されました。

実際、統計上、避難指示解除対象自治体への転入者が増えても、それが全て元住民とは限らず、事業実施や原発再稼働などを見越した外部者であるかもしれないといううがった見方もありえて、そうなると、もともとの住民たちの自治とは違う形へ変容してしまうのではないか、という懸念さえ聞こえました。

そして、避難者自身が避難者であることを意識しないようになり、風化すると、そもそもの本質的な部分、すなわち彼らを避難者とせしめた責任の所在、がますます曖昧になり、原発事故の検証や賠償責任が忘れられてしまう。復興という掛け声が強くなればなるほど、そういう傾向が強まってくるのではないか、という話でした。

当事者である避難者が今後の生活をどうしていくかについての選択肢が十分にあり、それを自分たちで選んでいけること。長期にわたる複雑なプロセスを単純化せずに、丁寧に進めていくこと。そのために、彼ら自身が自由に話し合いのできる場を持てる必要があること。これらが重要だ、という結論でした。

これらの含意は、何も、原発事故による避難者だけに限るものではなく、現在のどの地域でも大事なこと、すなわち、分権と自治を地域の人々に取り戻すことが重要である、ということでした。しかし現実には、新規事業に伴う利権やそれに群がる有力者らの動きによって、従順と服従を暗に求められているかのような状況が現れているように思えます。

今回の勉強会を通じて、やはり、自分たちの暮らしから始めるほかはないと改めて思いました。そして、まっとうな官僚や専門家の存在を信じ、彼らと関係性を作りながら、現状に対抗できるような構造を作る方向を模索し、復興を遠くのものではなく、自分の暮らしに近いところへ取り戻すことを目指すことが、とくに福島県では重要だと感じました。

では何から始めるのか。このような時代だからこそ、地域の人々が互いに尊重しあいながら、自由かつ真摯に意見を述べ合える、議論やディベートではなく対話のできる場づくりを始めたいと思っています。

こんなひどい雑文でも、政府批判かどうかを監視されるような世の中になってしまうのでしょうか。スハルト時代のインドネシアを思い出します。

ゆるく書く、と言っておきながら、ちょっとかたく書いてしまいました・・・

もう少しゆるい感じでブログを書いていきます

昨日6月15日は、福島市を訪ねてきた友人との楽しい夜の語らいの末、酔いも相当に回り、実家へ帰宅してそのまま夢の国へ向かってしまいました。気が付いたのが夜中の3時、部屋の電気はまだ煌々と点いておりました。

1月に毎日更新を宣言して以来、執筆の失念は2度目となりました。書きたいことは色々あるのですが、毎日更新により、日によっては内容が手薄になってしまう傾向を認めざるを得ません。書くための良いネタのない日もあります。

加えて、6月からは、Glocal from Fukushima という表題で、英語とインドネシアを交互に書く、福島を発信するブログも始めました。さらに、有料会員制のインドネシア情報ウェブマガジン+会員フォーラムも準備しています。

というわけで、この「ぐろーかる日記」は、毎日更新を目標としつつも、時々は穴の開くような、もう少しゆるい感じで書いていきたいと思います。

ときには、更新のない日や短い記事のこともあるかと思いますが、若干なりとも、読者の皆様の温かい寛容を(勝手に)お願いしたい次第です。

仕事用パソコンはやはりウィンドウズなのか

以前のブログで、手元のMacBook Airでは法人銀行口座のインターネットバンキングにアクセスできない、ということを書きました。ブートキャンプを使って、MacBook Air1台でMacとWindowsを切り替えて使うことも考えましたが、今一つ非力なのです。

そこで、29,800円という破格に安いASUSのWindowsノートパソコンを買ったのですが、これが実用に耐えるほどには処理が早くなく、イライラしてしまいそうで、購入を失敗したと後悔してしまいました。たまたま、妻のパソコンが動かなくなってしまい、これ幸いとASUSを譲ったのでした。
というわけで、この際、仕事用のノートパソコンはWindowsに戻そう、と決めました。軽めでCPUの処理能力が高く、イライラするようなことがないもの、予算は10万円前後、ということで、今回購入したのが、Thinkpad X260です。

最新のもっと軽いThinkpad X1 Carbonにしようかとも思ったのですが、X260は後継のX270が発売されて型落ちとなり、価格が大きく下落していました。
CPUはCore i7、ハードディスクはSSDの192GB、有線LAN端子、SDスロット、3つのUSB端子があり、しかも、インターネット直販の米沢生産モデル、余計なソフトもほとんど付いていない、という形で、価格が消費税込みで10万円を少し超えるぐらいでした。
実際、使ってみると、なかなか快適です。反応速度も十分早く、キーボードも定評通り、やはりThinkpadは打ちやすいです。ただし、ちょっと厚めで重いです。
そして、ソフトとしては、Microsoft Office 365 Soloを入れてみました。オンライン上からインストールするのですが、PublisherやAccessを含む、Officeのほぼすべてのソフトウェアが使えるほか、クラウド上のOne Driveが1TB、無料でSkypeもついてきます。ただし、課金は毎月または毎年の支払いで、私は年払いにしました。1ヵ月あたり1,000円程度で、ソフトウェアは常に最新の状態に更新される、ということです。
電子メールソフトが今一つなのと、6,000件以上のアドレス帳をどのように活用するかが課題ですが、Googleを介することで、何とか使えそうです。
というわけで、2008年にWindowsからMacへせっかく変えたにもかかわらず、仕事用ということで、またWindowsを使い始めてしまいました。
今日は、夕方7時前に東京を発ち、高速バスの移動で、午後11時半過ぎに福島の実家に着きました。ある程度時間に余裕があるときには、高速バスでの移動も多用していくことになりそうです。

開発援助の経験から日本は何を学んだというのか

インドネシアで様々な開発援助の現場を見てきました。援助する側から見た現場だけでなく、援助される側がそれをどのように受けとめているかも見てきました。

日本からインドネシアへの援助だけでなく、インドネシアの中央政府から地方政府、地方政府から地域住民への補助金や援助プロジェクトも見てきました。私自身、JICA専門家のときには、中央政府側と地方政府側の両方の立場で用務を行ったので、その本音の部分も含めていろいろと観察することができました。

中央政府には表向き絶対に逆らわない地方政府。しかし、中央政府の役人達が帰ると、途端に地方政府の役人から批判や不満が噴出します。中央政府の役人を交えたセレモニーでの猫を被ったような従順さと、あまりに対照的で、思わず笑ってしまいそうになります。

村でも同様です。役人が来るので、村人には百姓仕事を脇に置いてもらい、とにかくまずは人を集めます。役人のお話を恭しく拝聴し、食事も供して、役人には気持ちよく過ごしてもらいます。そして、役人が帰った後は、村の現実から遊離した役人の話の内容を咀嚼できずに、困惑したりするのです。

よそ者が相手に対して何か働きかける際、何も反発がない場合には、相手が完全に同意しているのか、相手が適当によそ者に合わせてくれているのか、見極める必要があります。でも、成果を気にするよそ者は、それをもって、うまくいっている、自分のやり方に同意してくれている、と自分に都合の良い解釈をしがちです。

日本の開発援助は、受益者自身が自分たちで自分たちのために主体的に物事を進めるようにするために支援する、という建前をとってきました。たとえば、研修や教育訓練を施すにしても、それらを実施できるトレーナーの人材育成も合わせて行い、日本がいなくなっても、自分たちで人材育成ができるような仕組みを埋め込んでいく、というような援助を、少なくとも建前上は目指してきたと思います。

そのノウハウや実践例は数多くあり、蓄積され、対象となる人々の自立を助けることが日本の開発援助の特色として語られることも少なくありませんでした。

そんな素敵な海外での実践経験を培い、その援助手法を世界に誇ってきた日本ですが、東日本大震災の後に東北で行ってきた復興支援にそうした経験はどれほど生かされたのでしょうか。あるいは、日本国内では、対象となる人々の自立を助けることをする必要がない何らかの理由があるのでしょうか。

そんなことを自問する毎日を送っています。

日本だけが素晴らしい、なんて到底思えない現実と、これから格闘していくのだ、という覚悟が求められていると感じます。このことについては、これからもおいおい書いていきます。

英語とインドネシア語でも発信中

6月1日から、Glocal from Fukushima という題の個人ブログを書いています。使用言語は英語とインドネシア語で、1日ごとに2つの言葉で交互に書いています。

福島市に個人会社を設立した後、外国語での福島に関する発信がまだまだ少なく、もっと等身大の福島を外国の方々にも知ってもらいたいと強く感じました。そして、自分ができるのは、福島についての記事を英語とインドネシア語で発信することだと思い当たり、拙いながらも、始めてみたところです。

一つの記事を英語とインドネシア語で書いても良かったのですが、書いている私が新鮮な気持ちになりにくいので、あえて、違う話題を交互に書き連ねています。また、福島の何について書くか、ネタを探す契機にもなり、いい意味で福島のことをもっと知らなければ、という気持ちにもなります。

今はまだ、一般的な内容が多いのですが、今後は、自分が福島であった人々のことや、遭遇した事件や、いろいろなエピソードを織り交ぜていきます。

Glocal from Fukushimaも、この「ぐろーかる日記」と同様、目標は毎日更新です。こちらもまた、ご愛読のほど、よろしくお願いいたします。

 Glocal from Fukushima

「食と農」の博物館を楽しんだ日曜日

今日は、姪の用事に付き合って、東京農業大学を訪問しました。ちょうど、芽吹祭という学園祭が行われていました。姪と別れてから、すぐ近くにある「食と農」の博物館を訪れました。

建物の周りでは、世田谷区の野菜直売イベントが行われており、朝採り野菜が人気を集めていました。

「食と農」の博物館では、大きな雄鶏の像に迎えられました。雄鶏の後ろには、キリンとゴリラが見えます。隈研吾氏の設計だそうです。

ちょうど今は、「微細藻類の輝かしき未来」という企画展が行われていました。イスラエルの死海で発見されたドナリエラ・バーダウィル、コッコミクサなど、門外漢の私には初めて聞く名前の微細藻類についての研究の現況がパネルで説明されていました。

βカロチンなど医薬品や機能性食品などに点火される微細藻類や、表土流失を抑える効果を持つ微細藻類、農業分野で肥料などに活用される微細藻類などが紹介されていました。
微細藻類の企画展の脇には、東京農業大学の設立者である榎本武揚や、初代学長で足尾鉱毒事件で(田中正造が関わる以前から)農民側に立って汚染状況を科学的に立証してきた横井時敬に関する説明展示がありました。
2階では、酒に関する展示があり、酒造りのほか、酒を嗜むための酒器、酒を楽しむ人々を描いた絵画、などがありました。他には、古くから使われてきた農具のほか、酉年にちなんでなのか、様々な鶏の剥製が展示されていました。

建物のすぐ外には、温室があり、熱帯の動植物がそこにおりました。

メガネザル
ゾウガメ
イグアナ
温室内の動植物は、よく世話をされていると見え、どれも元気にしていました。また、東京農業大学のキャンパス内の植物もよく手入れされている様子がうかがえました。
もしも、娘が小さい頃に、こんな博物館が近くにあったら、きっと毎週のように、メガネザルさんやカメさんに会いに通ってしまうことでしょう。
姪の用事に便乗して、楽しんでしまいました。

N. S. ハルシャ展を観れてよかった

今日は、昼と夜にミーティングの予定が入っていたので、その合間を利用して、森美術館で開催されている「N. S. ハルシャ展:チャーミングな旅」を観に行きました。

N. S. ハルシャは、インド南部カルナータカ州のマイスールに生まれ、今もこの地方の古都を拠点に活動するアーチストで、伝統文化や自然環境を踏まえつつ、開発に伴う農民の苦悩などに象徴される不条理、イメージの繰り返し、など独特の世界を表現していました。

有名人を含む2000人の人物が一面に描かれた「ここに演説をしに来て」と題された大作。今回の展覧会の目玉作品ですが、「ウォーリーを探せ」的にいろんなユニークなキャラクターを探す面白さに加えて、全体が醸し出すなんとも言えぬ雰囲気に飲まれていきます。

鏡張りの部屋には、床一面にハルシャの描いた人々の姿があり、そこへ寝転がって、天井を見ると、天井の鏡を通して、ハルシャの描いた人々と自分が一体になる、という不思議な空間がありました。スマホを掲げる私が写っています。

さらに行くと、そこには193台の足踏みミシン。これらのミシンの下には世界各国の国旗が置かれ、ミシンの間が糸で結ばれています。グローバリゼーションを表現したものですが、ミシンの下に敷かれた国旗の存在の薄さが印象的です。

「ふたたび生まれ、ふたたび死ぬ」と題された大作。勢いのある太い線の中には、宇宙を構成する星々が描かれ、観る者へ向けて、なんとも言えぬ光を放ってきます。

最後に掲示されていたのは、「道を示してくれる人たちはいた、いまもいる、この先もいるだろう」という作品。様々な所作の猿たちがすべて、上を指差しています。猿たちは、神の化身であるハヌマンなのでしょうか。

土曜日の午後だったせいか、森美術館の入口は大変な人出で、長い行列ができていました。前売券を買ったものの、窓口で入場券に引き換える必要があり、相当な混雑が予想されました。観るのをやめて引き返そうかとも思いました。

でも、11日までしかやっていないので、頑張って観ることにしました。そして、その決定で本当によかったと思います。ハルシャ展自体は、さほど混んではいませんでした。

ハルシャの作品のスケール感、そして、地方の生活に軸足を置き、地に足のついた社会に対する痛烈な批判と世界への警鐘。地域の子供たちなどとのワークショップを頻繁に行っている姿勢にも感銘しました。

森美術館は近年、アジアの埋もれたアーチストの発掘・紹介に力を入れているとは聞いていましたが、今回のハルシャ展は十分に満足いく内容でした。彼の活動拠点であるマイスールをいつか訪れ、彼自身といろんなことを話し合ってみたくなりました。

FAX番号を用意しました

網戸を入れて事務所を整え、法人銀行口座を開き、法人インターネットバンキングの準備をし、法人用クレジットカードを用意して、ようやく仕事をきちんとできる体制が整ってきました。

でも、FAXを用意していませんでした。今どき、FAXを使ってビジネスを行うケースは少なくなったとはいえ、何かとFAXが必要になる場合がまだあるかもしれません。かといって、今さら、固定電話を敷設して、FAX機を置くというのも、非効率です。

なぜなら、ハードのコストがかかるうえに、FAXが届いても、FAX機のある場所にいないと送られてきた書類を受け取ることができないからです。私のように、東京、福島、インドネシアといった形で、あちこちを動き回るのでは、固定されたFAX機はあまり意味がないようにさえ感じます。

では、どうするか。やはり、名刺などにFAX番号が書いてあるほうが心象がいいような気もするし。

そこで、今回、使ってみることにしたのが、インターネットFAXです。

これは、FAX機がなくとも、送られてきたFAX原稿がPDF化されて、指定のメールアドレスへ送られてきて受信されます。また、こちらからFAXを送信する際にも、原稿をPDF化して、指定のFAX番号へ送ることができます。

もちろん、インターネットFAXのソフトウェアやアプリを介して、送受信が行われます。

このインターネットFAXのメリットは3つあります。

第1に、世界中どこにいても、インターネットに接続でき、メールが使える状態ならば、FAX送受信ができることです。モバイルに動く自分にはとても都合のいい状態です。

第2に、インターネットを介するので、固定的なFAX機を設置したり、固定電話回線を引く必要がありません。FAX番号は、インターネットFAX会社の提供する番号を使えばいいのです。

第3に、インターネットを介するので、電話代のような通信費がかかることはなく、基本的に、インターネットFAX会社への支払いのみが必要となります。例えば、送受信を1カ月に各々150ページ以下であれば、1カ月1500円、1年ならば割引がついて15,000円で済みます。

これにより、インターネットをやられていない方でも、私とFAXでやり取りができるようになります。送受信の原稿は全てPDFで保管できます。インドネシアにいても、問題なくFAX送受信可能です。

このサービス、昨日から始めました。私宛のFAX番号は以下のとおりです。

 024-505-4294
 (海外からの場合は、+81-245-505-4294

FAXで何かを送られる場合は、上記の番号まで、よろしくお願いいたします。

オフィスに網戸を入れてから東京へ

今日は、オフィスの3つの窓に網戸を入れてもらいました。

私のオフィスは、木々に囲まれ、草が茂っている、緑豊かな環境にありますが、このところ、蚊がたくさん飛ぶようになり、窓を開けておくと、蚊がどんどんオフィスの中に入ってきて、私の血を吸ってくれます。これではなかなか机での仕事に集中できないので、オーナーの許可を得て、網戸を入れてもらったのでした。

たまたま、弟が福島で長年、建築資材商社に勤めており、弟の高校時代の友人のサッシ関連メーカーの福島営業所長に頼んでくれました。6月1日に、まず弟が来て窓の寸法を測り、その後、弟の友人が来て再度寸法を測り直しました。

そして今日、弟の友人があらかじめ作った3つの網戸を持参し、3つの窓にきっちりとはめてくれました。

あっという間に作業は終わり、請求書を後ほど送ってくれることになったのですが、親友の兄ということで、大幅にまけてもらうことになりました。そんな額でいいのか、とも思うのですが、弟と話をつけてある様子です。商売上、弟と弟の友人は頻繁に取引しているようで、今回のような破格の値段でもいいようなのです。

なんだか、思いっきり、地元であるがゆえのメリットを感じてしまいます。近いうちに、弟と弟の友人と一度はお酒を飲むこと人るような気がします。そんな風にして、地元でのお付き合いが深まっていくのでしょう。

網戸の入ったオフィスは、風が通っても蚊は飛んで来ず、とても快適で、居心地の良い空間になりました。

網戸を入れてオフィス環境が整い、年金保険などの手続もほぼ終えて、活動のための準備はほぼ終了という感じです。

夕方、高速バスでいったん東京へ戻りました。でも来週も後半は福島の予定です。

2017年6月7日、福島

本日は、三春ハーブ&花ガーデンにオープンしたFUKUSHIMARTを訪問し、そこに加わった若い農業生産者に出会いました。彼らは、訪問してくれた顧客に対して直接自分の商品を説明しています。詳細は、私の英語ブログ及び日本語ブログをご参照ください。 http://glocal-from-fukushima.blogspot.jp/2017/06/english-challenge-of-fukushimart.html(英語)
https://glocal-diary.blogspot.jp/2017/06/fukushimart.html(日本語)

FUKUSHIMARTを訪問、若手農業生産者と会う

今日は、友人のM氏の紹介で、彼がプロデュースに協力したFUKUSHIMARTを訪問してきました。

FUKUSHIMARTは、三春ハーブ花ガーデン(郡山駅からタクシーで約15分)の一角にあり、6月1日にオープンしたばかりの施設です。12人の農業生産者が自ら加工品を生産し、それをこの場所に陳列して、販売しています。12人でローテーションを組んで、生産者自らが売り場に立ち、来客者と直接コミュニケーションし、自分の作った商品の魅力を伝えています。

他には見かけない、ちょっと工夫した商品としては、瓶の中に果物やバラなどがあらかじめ入っていて、それに炭酸水やアルコール飲料を加えて冷やすと、美味しいサングリアや果実酒になる、といった商品(自家製サングリアの素、自家製果実酒の素)がありました。

また、福島県ではもう珍しくなってしまった、昔ながらの製法で作った醤油やそれをベースにした油醤油(にんにく味、唐辛子味、カツオ味)などもありました。

これらの他にも、君のためのマヨネーズ、僕のためのマヨネーズ、娘のためのたまご、妻のためのたまご、東和の桑のほうじ茶、蜜入り紅玉りんごジュース、あだたら山のミルクジャム・ジンジャーシロップ、奥川源流米、食べるバラ・コンフィチュール、カレーのお米、玄米コーヒー、食べる紅茶、もろみふりかけ、ヨーグルトシュガー、西洋野菜(カーボロネロ、黒大根。黄金カブなど)、創作麺(つるつる菜っ葉麺、ゴンボ麺、アカモクうどん)などが陳列されています。
FUKUSHIMARTに来れば、これらを作った農業生産者から直接、商品に関する説明を受けることができます。説明はとても丁寧なので、10分も15分も彼らと話し込んだりしてしまいます。
この場所は、モノを売る場所であると同時に、来客者とのつながりを作る場でもあるのです。12人の農業生産者は一つのチームとして組織されており、各人が自分の売上だけを考えているわけではありません。若い自分たちが先頭に立って、震災後の福島において、積極的に6次化に取り組み、農業の新しい方向性を作っていこうと前へ動き始めたように見えました。
彼らの商品の一部は、東京及びその周辺で開かれるマルシェに出品されるほか、福島県のアンテナショップである日本橋ふくしま館MIDETTEでも販売されています。
今日は、地元テレビ局の生放送が入るということで、残念ながら、彼らとゆっくり話をすることはできませんでしたが、また次回訪問したときには、改めてゆっくり話を聞けたらと思います。
とりあえず、創作麺は福島市で製造し、食べさせてくれるところがあるので、近いうちに、創作麺を食べに出向くことを生産者のS氏と約束しました。
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