よろしくね、仙台

今日は、私の勝手に師匠Nさんと友人Sさんにお会いするため、福島から仙台へ日帰りで行ってきました。そして、面会の前に、せっかくなので、少し仙台の街中を歩きました。

福島から仙台までは、おおよそ30分おきに高速バスが走っていて、片道1100円、JRの普通運賃と同額ですが、往復だと割引が入って1900円となります。所要時間は1時間余で、JRの普通電車よりもやや短いです。便数の多さと安さで、高速バスのほうがずっと便利に見えます。

往復のチケット(回数券)は上記のような2枚綴りで、福島駅東口の高速バス乗り場で販売しています。

仙台まで福島から往復1900円ならば、福島から仙台へ気軽に買い物に行けますよね。福島市内の商店街が廃れていく原因の一つのように思えます。

実は山形に行った時、宮城県出身の大学生は山形市内に下宿せず、毎日、高速バスで通うのだと聞きました。地理的に遠い福島県出身の大学生は山形市内に下宿するのですが。

今日の仙台は、街中のあちこちでイベントが行われていました。

一番町アーケードでは、みやぎ総文2017と南東北総体2017という、高校生の全国イベント開催100日前のイベントが行われていました。仙台二華高校(宮城二女高の後継、今は男女共学・中高一貫らしい)の合唱は、とっても楽しそうでした。

アーケードでは、高校生が道行く人に「創造の短冊」への記入を勧めていました。七夕のときに短冊を飾るのだそうです。

定禅寺通りの中央分離帯通路では、東北コーヒーフェスティバルと題して、様々なコーヒースタンドが自慢のコーヒーを通行客に振舞っていました。

勾当台公園では、東北ワインフェスというのをやっていました。

錦町公園では、アースデイの催し物が行われていました。

仙台市内の桜(ソメイヨシノ)はもう終わっていて、花の小さい八重桜が少し咲いていました。

街を歩いていても、あまり人とは会わなかったのですが、一番町などのアーケードと定禅寺通り中央分離帯通路は結構すごい人出で、そのコントラストを強く感じました。とくに、アーケードではたくさんの若者たちが歩いていたのには驚きました。

晴れてはいるものの、風の冷たい一日でしたが、楽しく歩き回ることができました。明らかに、ちょっと垢抜けた雰囲気があり、趣向を凝らしたカフェなどがいろいろ見られました。きっと、福島市から遊びに来ると、仙台の街を新鮮に感じるだろうなと思いました。

東北における仙台の役割、仙台と山形や福島の関係、仙台に集まる若者たちのエネルギーをどう活用するか、など、勝手に色々なことを考えていきそうな気配です。

でも、個人的には、もうちょっと仙台にも馴染みたいと思いました。近々、きっとまた来ることでしょう。よろしくね、仙台。

少しずつ進めている活動環境整備

福島市に松井グローカル合同会社を設立して、少しずつ、身の回りの環境整備を進めています。

昨日(4/22)に地元銀行の支店に法人口座開設を申請したのですが、最近は、法人口座を使った詐欺などの犯罪が横行しているため、すんなりとは認めてもらえません。必要な書類は整っているのですが、銀行曰く、まずは本社住所で事業が行われているという実態を確認する必要があるということで、申請の可否は持ち越しとなりました。

というわけで、来週、担当者が本社住所を尋ねてくるので、来週早々にも、オフィススペースを整えることになりました。

オフィススペースは、当初、今回お世話になる古民家の中の大家の会社の事務所の一角、というか机を借りて始める予定だったのですが、大家からの提案で、大家の住宅(古民家とは別棟)の隣にあるプレハブ小屋を使わせてもらえることになり、文字通り、1軒のオフィスを構える形になりそうです。法人口座開設にこれはプラス!

来週はオフィススペースの整備に充てるとして、この土日は、寝泊まりする実家の居住スペースの整備に努めました。勤務先が休みだった弟に車を出してもらい、ハンガーラックや机や椅子や、プリンターなどを購入することができました。

実家では、以前、客間として使っていた部屋を私の部屋として使っていいことになり、上の写真のように、シンプルにレイアウトしてみました。

基本的に、福島の実家は寝泊まりする場所なので、いろいろ物を置く必要はないのですが、急に処理しなければならない作業(例えば、書類をスキャンしてPDFにして送る、など)が最低限できる状態にはしておきたいと思い、多機能プリンターなどを揃えました。

母にハンガーがあるかどうか聞いたら、私が子どもの頃に使っていたカラフルなハンガーがまだ捨てられずにたくさん残っているというので、使わせてもらうことにしました。こういうのは、今ではあまり見かけないような気がします。

こうして、弟の協力のおかげで、実家で滞在する部屋の様子が整いました。

福島へ来るのに先立って、どこでもインターネットが使える環境を作るため、改めてインターネット・ルーターを用意しました。ちょうど、古いWiMAXがあったので、新しいWiMAX 2+に機種変更して、これを使うことにしました。

新しいルーターのW04は、WiMAX 2+に加えて、電波の悪いところではau LTEも使える(但し、最大7GBで1ヶ月に約1000円追加で支払う)ので、電池の持ちさえ注意すれば、けっこう快適に使えそうです。

福島市に会社を設立しても、ずっと福島から出ないわけではなく、日本中、あるいはインドネシアをはじめとする世界中のローカルを相手に、モバイルで活動していくつもりです。とりあえず、日本中、いつでもどこでもインターネットにアクセスできる環境で仕事をしていければと思います。

私の原点、福島市天神町を再訪

昨日、法人登記に関係する諸手続を終えた後、私が産まれてから幼稚園を卒業するまで過ごした場所、福島市天神町を再訪しました。

舗装されていない小さな路地の両側に小さな家が3軒ずつ並んでいた場所です。荷物の配達でオート三輪が入ってくる路地でした。

今回訪ねると、その路地の面影は残っているものの、両側は駐車場になっていました。

最初に家族で住んでいた家は、上の写真の「路地」の右側、黒い車が停まっているあたりに建っていました。その手前には大きな銭湯がありました。

上の写真の「路地」の左側、正面の建物の左あたりに、次に家族で住んでいた家がありました。路地を挟んで一度引越しをしたのです。

当時の家には、家族5人に加えて、父の知り合いのお婆さんとその娘さんが同居していました。娘さんはもうずいぶんな年齢の独身でした。このお二人に遊んでいただいたり、ずいぶんとお世話になったものです。

上の写真の一番左手前、路地を出るところ、銭湯の向かいには、清水屋というお店がありました。

4歳か5歳の誕生日のとき、お祝いになんでも好きなものを清水屋で買いなさいと母に言われて買ったのは、棒付きのあずきアイスでした。これをずっと食べたかったのです。でも、私の誕生日は1月、寒い中でアイスを食べたせいか、すぐにお腹を壊しました。優しいおばさんが店番をしていました。その清水屋は、今はもうありません。

路地を出た正面に時計屋さんがあり、その時計の針を見ながら、夕方まで遊びました。

母がいつも買い物に行っていた地元スーパーの信夫屋も、今はありません。お酒をたくさん売っている店でした。

でも、清水屋の隣のふとん屋とその隣の魚屋は、今もまだ残っていました。銭湯の斜め前にあった床屋は、私が生まれて初めて行った床屋ですが、それもまだ残っていました。

清水屋の隣のふとん屋に立ち寄り、その4代目社長と子供の頃の話をしました。彼は私よりも7歳年下の高校の後輩でした。私が小学校に上がる際に二本松へ移った後に彼は産まれたので、直接の面識はなかったのですが、この界隈の共通話題で盛り上がりました。

そんな話をしていたら、ふとん屋の社長から「本当にここがあなたの地元なんですね」と話しかけられました。そう、ここが自分の「地元」、原点・・・。

この場所を離れてもう半世紀にもなるというのに、あの頃のことがどんどん思い出され、オート三輪や、あずきアイスや、時計屋さんや、床屋さんや、バキュームカーや、スーパーカブで出勤していく父や、家の庭にスイカや柿の種を蒔いたことや、ボロボロの服を着て毎日リヤカーを曳いていたクズ拾いの怖そうな老婆や、私をよくいじめた銭湯の息子のYちゃんや隣家のHちゃんのことや、諸々のことが次々に頭から溢れてきます。なるほど、ここは自分にとっての「地元」なのだと思い起こしました。

もしタイムマシンがあったなら、半世紀前の、私たちの遊び場だった舗装されていない路地や、人が行き交っていた賑やかな通りを、もう一度見てみたい、あの頃のより良い未来を信じて疑わなかった人々のいた空間をもう一度体験してみたい、と素直に思いました。

私という存在がこの世で始まった場所である福島市天神町が、自分にとって大切な「地元」であることを改めて実感できたのは、とても幸せなことでした。

ママチャリでまわる福島市での法人登記関連手続

今日は午前中、1時間遅れの東北新幹線で東京の自宅から福島に着き、4月11日に行なった松井グローカル合同会社の法人登記申請の続きを進めました。

とりあえず、福島駅構内の蕎麦屋でソースカツ丼セットの早めの昼食。

その後、いったん、実家に寄って、コーヒーを飲んで一服した後、実家のママチャリで出発です。

まず向かったのは、福島地方法務局。昨日の法務局からの電話で指摘された部分を修正した書類を持参し、4月11日にすでに提出した申請書類の一部と差し替えました。

15分ぐらい待った後、申請書類にOKが出て、事前に申請していた(法人の)印鑑カードを受け取りました。

そのまま、別室へ移り、登記事項証明書(履歴事項全部証明書)と印鑑証明書を多めに発行してもらいました。申請の前に、必要額の印紙を買って、申請書に貼り付けて提出します。10分もかからずに、登記事項証明書(履歴事項全部証明書)と印鑑証明書が発行されました。

これで、晴れて正式に、松井グローカル合同会社の法人登記が完了しました。設立日は、法人登記登録を申請した2017年4月11日となりました。

福島地方法務局で発行された証明書類を持って、関係機関への届出に移ります。

ママチャリに乗って、福島税務署へ出向きました。福島税務署では、法人設立届出書、青色申告の申請承認書、給与支払事務所等の開設届出書などの書類を提出しました。なお、この4月から、税務署への届出には法務局で発行された登記事項証明書(履歴事項全部証明書)の提出は必要なくなったとのことです。ただ、今回は念のためということで、コピーを取られました。

福島税務署の次は、東北福島年金事務所へ行きました。法人化すると、国民年金から厚生年金へ、国民健康保険から健康保険へ切り替わるのですが、そのための手続をするのです。ものの本には「設立後5日以内に」と書かれていたので、焦って行ったのですが・・・。

「役員報酬の支払は6月から」というと、報酬支払がない間は厚生年金料や健康保険料を徴収することはできないので、6月になってから改めて手続に来て欲しい、という回答でした。

役員報酬の額は設立後3カ月以内に決定して税務署へ報告する必要があるので、現段階ではまだ決めていなかったのです。今回の税務署への届出書に支払開始日を記入する必要があったので、6月30日と記載したのです。

年金事務所からは、法人設立した際の必要書類や説明書類の一式が入った「新規適用届」という1セットをいただいたので、じっくり読みながら、6月までに検討することにし、今回は手続をしませんでした。

年金事務所の後は、すぐそばにある福島市役所へ。市民税課で法人設立届を提出しました。

その後は、福島市役所から福島県庁へ、ママチャリで20分ぐらいかけて行きました。福島県庁内の県税事務所を目指したのですが、ここでは、県北地方振興局のなかの県税部へ出向いて、法人設立届を提出しました。

なお、これらの法人設立届出の捺印は、法人代表社員の印(丸印)となります。

というわけで、今日の午後だけで、法人登記後に行なう関係機関への届出は、つつがなく終えることができました。

インドネシアで経験したこの種の手続に費やす時間と労力に比べると、今回の手続がいかに楽で効率的か、行政側からの説明が懇切丁寧に的を得たものか、ということを実感します。

そして、福島市の旧市街は、ママチャリで簡単にまわることができるぐらい、コンパクトなのだなと改めて思いました。風はやや冷たいものの、穏やかな春の日和で、ママチャリで動くのがとても気持ちのいい1日でした。

ジャカルタ州知事選挙結果について

本日4月19日、インドネシアの首都ジャカルタの州知事選挙の投票が行われ、民間調査機関によるクイックカウントの結果、新人のアニス=サンディ組が現職のアホック=ジャロット組を破って当選することが確実となりました。

これについて、今日も連続ツイートをしてしましたので、ここでまとめて掲示します。今後のインドネシア政治を注意深く、冷静に見ていく必要を強く感じました。

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ジャカルタ州知事選挙はアニス=サンディ組の勝利となりそう。これまでの状況からすれば順当な結果。でも僅差ではなかった。改革よりも社会の平穏を重視する投票行動があった可能性がある。宗教の政治利用や恐怖心を煽るトランプ的・ルペン的手法が強まり、多様性の中の統一がこれまで以上に試される。

アニス=サンディ自身は教条的なイスラム主義者では全くない。多様性を重視し、融和を前面に掲げて政治・ビジネスを行ってきた。しかし今回、彼らは自分たちとは相容れない勢力を取り込んで勝利した。これら勢力を利用して次の大統領選挙を目指す動きから一線を画すことは相当に難しいだろう。

アニス=サンディの守護者であるグリンドラ党のプラボウォ党首の元へ、元ゴルカル党首で実業家のアブリザル・バクリが来ていた。少しずつ、反ジョコウィ勢力が固まり始めた様子もうかがえる。

ジョコウィに教育文化大臣を解任されたアニス。その理由は明確でないが、教育界の著名人で、辺境地への青年教師派遣事業など、開明的だった彼が納得したとは思えない。ジョコウィ命だったアニスの変質。政治には無関心だったのに突然グリンドラ党へ入党したサンディ。彼らには挽回したい何かがあった。

ジャカルタの中流以上の市民の成熟に対して、中流以下の市民は格差や差別の意識を抱いていたかもしれない。今回のジャカルタ州知事選挙を通じて、それらがイスラムという言葉に絡めとられた様子がある。イスラムが政治利用され、格差意識が高まり、社会が暗黒へ向かった90年代を学び直すことも大事。

アニス=サンディを俺たちが勝たせたと信じる一部のイスラム勢力は、今後さらに増長する。同じ手法で選挙に勝とうとする動きが他地域でも現れる。騒ぎを怖れる人々や実業家はそうした動きにあえて抗わない。民族主義は反欧米の意味で必ずしもイスラムと敵対しない。宗教の政治利用を抑える楔は外れた。

過去のインドネシア政治における政治家の人間関係における裏切り、妬み、恨みといったものを組み合わせると、今の動きもなるほどなと思えるものが少なくない。全然アカデミックではないけれども。

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私自身は、今回のジャカルタ州知事選挙を、2019年大統領選挙でのジョコウィの対抗馬をうかがう展開の第一歩になるのではないか、という目で見ていました。そして実際、反ジョコウィへの展開をうかがわせるような動きが見られ始めました。

このブログは、日々の出来事や思ったことをゆるーく書いていくために作ったので、下のような、素敵な八重桜の写真を載せて、ほんわかといきたかったのです。でも、昨日の連続ツイッター掲載がけっこうな数の方から読まれたので、続きを載せた次第です。

今、このブログとは別に、インドネシアの政治や経済について、深く突っ込んで議論や情報交換のできる会員制のグループまたはフォーラムを構想中です。内容がセンシティブになる可能性が高いので、有料会員制にしたいと考えています。これについて、ご意見・ご提案などあれば、是非お寄せください。

それは、先日お話しした、インドネシア情報メディア(日本語)と日本情報メディア(インドネシア語)とは別にしたいと思います。こちらは、もっと広くいろいろな方に知ってもらえるような形を想定しています。

Ide Pembuatan Media Info Baru Indonesia-Jepang

Selama ini, bisa dikatakan bahwa orang Jepang mendapat informasi tentang Indonesia dari orang Jepang. Sama juga, orang Indonesia mendapat informasi tentang Jepang dari orang Indonesia.

Akibatnya, sebagian besar informasi tentang Indonesia yang diberikan kepada masyarakat Jepang umumnya tentang Jakarta dan Bali. Ada juga orang Jepang yang berpikir Bali tidak di Indonesia. Misalnya, ada buku panduan wisata satu Indonesia, satu Bali. Sedangkan, sebagian besar masyarakat Jepang belum tahu apa-apa tentang Sumatera, Kalimantan, Sulawesi dan daerah-daerah lain.

Belum tahu juga tentang sejarah Indonesia yang mempengaruhi keadaan politik saat ini. Imej tentang agama terutama Islam juga masih minim. Sebagian masyarakat Jepang belum membiasakan pergaulan dengan kaum muslim. Sering takut sama agama Islam karena ada imej kekerasaan dan terorisme.

Mungkin ini karena masyarakat Jepang mendapat informasi tentang Indonesia lewat kacamata orang Jepang, termasuk saya. Saya sendiri sudah hampir 30 tahun bergaul dengan Indonesia, namun belum mengerti betul tentang berbagai hal mengenai Indonesia. Justru, makin bergaul Indonesia, makin sulit memahaminya. Tentu saja, karena saya orang asing di Indonesia, tidak mungkin memahami Indonesia.

Sebaliknya, bagaimana masyarakat Indonesia tentang pemahaman Jepang? Saya sering dengar bahwa orang Jepang berdisiplin, kotanya bersih, dan orangnya ramah. Mungkin ini sudah semacam stereo-tipe. Namun, apakah informasi tentang Jepang di Indoensia sudah cukup? Seperti saya tentang Indonesia, mungkin ada yang sudah lama bergaul dengan masyarakat Jepang, tapi apakah dia bisa menyatakan sudah paham betul tentang Jepang?

Mungkin ada dua kotak. Satu kotak diisi oleh orang Jepang saja. Kotak lain diisi oleh orang Indonesia saja. Antara dua kotak tersebut belum banyak berkomunikasi.

Maka, masyarakat Jepang belum yakin tentang kebenaran informasi tentang Indonesia yang diberikan oleh orang Jepang. Sebaliknya, masyarakat Indonesia belum tentu bisa percaya kebenaran informasi tentang Jepang yang diberikan lewat orang Indonesia.

Solusinya? Campur dua kotak tersebut, dan membuat dua kotak yang baru.

Satu kotak tentang informasi Indonesia yang diberikan oleh orang Jepang dan orang Indonesia, mungkin dengan Bahasa Jepang. Sedangkan, satu kotak lainnya tentang informasi Jepang yang diberikan oleh orang Indonesia dan orang Jepang, mungkin dengan Bahasa Indonesia. Dengan demikian, kebenaran informasinya bisa dicek bersama orang Indonesia dan orang Jepang. Maka, apa boleh buat, keduanya harus berkomunikasi.

Saya ingin membuat dua jenis Media Info tersebut. Yaitu, Media Info tentang Indonesia dengan Bahasa Jepang, dan Media Info tentang Jepang dengan Bahasa Indonesia. Dua-duanya perlu ada keterlibatan antara orang Indonesia dan orang Jepang.

Kita perlu sadar bahwa saya sendiri belum tahu banyak tentang Jepang (dan Indonesia). Teman-teman orang Indonesia juga belu tentu mengerti tentang Indonesia (dan Jepang).

Dengan kesadaran ini, kita perlu berupaya ingin saling memahami untuk hubungan yang kuat dan dalam. Ini akan menjadi fondasi yang kuat antara masyarakat Indonesia dan masyarakat Jepang, yang akan diteruskan kepada generasi penurusnya.

Pasti ada teman-teman Indonesia yang ingin bertanya berbagai hal tentang Jepang kepada masyarakat Jepang, atau yang ingin menyampaikan sesuatu tentang kehidupan daerah di Indoensia kepada masyarakat Jepang.

Teman-teman Jepang juga demikian. Mereka ingin masyarakat Indonesia lebih memahami berbagai hal tentang Jepang.

Jika ada yang ingin ikut serta “proyek” dua Media Info ini, mohon beritahukan kepada saya dengan email (ke matsui@matsui-glocal ) atau dengan inbox FB. Semoga ada teman-teman yang berminat untuk membuat fondasi ini.

<緊急>明日のジャカルタ州知事選挙投票日について

明日4月19日は、ジャカルタ首都特別州知事選挙の決選投票日です。ジャカルタは休日となりますが、注意すべき動きがあります。

以下、先ほど、ツイッター( @daengkm )で発信した内容をまとめて提示します。

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Tamasya Al Maidahというイスラム系グループが、ジャカルタ州知事選挙決選投票日の明日、ジャカルタ外からも含め約10万人を動員し、各投票所を監視するという。目的は非イスラム候補を落選させることと公言。その白装束の存在で、投票する有権者にプレッシャーをかける狙い。

また、ある著名なイスラム高僧は、「断食月を迎えるにあたって」という題でモスクでの説教を依頼され、快諾したが、その後、その説教で「非イスラムのジャカルタ州知事候補を選ばないように」と信者へ話して欲しいと懇願され、説教を断る、という事件もあった。

今回のジャカルタ州知事選挙では、こうしたなりふり構わない宗教の政治利用への批判と警戒も根強い。しかし、無記名投票とはいえ、周りの様子を気にしながら投票する多くの有権者に、Tamasya Al Maidahによるプレッシャーを跳ね返せといっても、実際には難しいのではないか。

警察はTamasya Al Maidahの投票所監視を認めていないとしているが、Tamasya Al Maidah側は口頭で許可をもらったと強弁しており、実際には、警察が黙認するのに近い状態になりそうな気配がある。非イスラム候補側も何らかの対抗手段をとるのは間違いない。

インドネシアの選挙では、投票所ごとに開票する。それを住民も監視できる。その開票結果次第で、Tamasya Al Maidahや対抗勢力がいちいち「不正がある」と騒ぎ出しはしないか、という危惧がある。最低でもそういう怖れが有権者の投票行動に影響を及ぼす可能性がある。

今回のジャカルタ州知事選挙の勝敗は僅差になるとみられるので、敗者側の意義申立が強く、長期にわたる可能性がある。国レベルの政治にも影響を与えよう。

明日のジャカルタ州知事選挙決選投票後、クイックアカウントの後、たとえ結果が微妙でも、Tamasya Al Maidahは「3番が勝った」といって、断食月明けのタクビランのように、おそらく夜中までジャカルタの町中を歩き回るだろう。

明日19日、ジャカルタの在留邦人の方々は、とくに用事がなければ、投票所には絶対に近づかないことが重要と思われる。また、町を走り回る集団に出会ってしまったら、静かに通り過ぎるのを待つしかないだろう。この選挙は国レベルの政治に直結していくので、明日以降も十分に気をつけられたい。

日本人のインドネシア情報、インドネシア人の日本情報

今日、インドネシア人の友人と会って、いろいろ話をしながら、改めて思ったことがあります。それは、日本人に広まっているインドネシア情報、インドネシア人に広まっている日本情報。それらの情報は誰から伝わっているのか、ということです。

日本人に広まっているインドネシア情報の多くは日本語によるもので、その情報の送り手は日本人であることが多いのではないか。また、インドネシア人に広まっている日本情報の送り手はインドネシア人であることが多いのではないか。そんなことを思いました。

別の言い方をすると、インドネシア人から日本人へ伝えられるインドネシア情報や、日本人からインドネシア人へ伝えられる日本情報は、実は少ないのではないか、と思うのです。

私も仕事柄、これまでに何度も日本人に対してインドネシアに関する情報提供を行ってきました。でもそれは、私の知っているインドネシア情報であって、外国人である私がインドネシアの人々よりもインドネシアのことを深く知っているなどということは、絶対にありえません。それに若干の引け目を感じながら、インドネシアに関する情報提供を行ってきたというのが正直なところです。

逆に、インドネシア人の持つ日本情報に接しながら、「ちょっと違うのではないだろうか」とか「解釈が間違っている」とか「大事なのはそこじゃないんだよな」とか思ったりすることもしばしばです。

きっと、同じことを、私を含む日本人の発するインドネシア情報に対して、インドネシアの人々が感じているに違いありません。

言葉の壁があるにせよ、インドネシア人から日本人へインドネシア情報が伝わる、日本人からインドネシア人へ日本情報が伝わる、という状況を作っていかないと、本当の意味でのインドネシア理解、日本理解にはつながらないように感じます。

同時に、日本人の発するインドネシア情報をインドネシア人に評価してもらう、インドネシア人の発する日本情報を日本人に評価してもらう、ということも必要になるはずです。

そんなことを思いながら、日本人とインドネシア人とが一緒になって、インドネシア人の発信するインドネシア情報が日本語に翻訳されて日本人に伝わり、日本人の発信する日本情報がインドネシア語に翻訳されてインドネシア人に伝わる、そんなメディア媒体を作ってみたいと考えるようになりました。

日本人だけでなくインドネシア人も一緒になって発信するインドネシア情報媒体(日本語)、及び、インドネシア人だけでなく日本人も一緒になって発信する日本情報媒体(インドネシア語)、これら2媒体を何らかの形で初めてみたいと考えています。

まだ構想段階ですが、この趣旨に賛同し、仲間になってもいいと思われる方は、是非、ご連絡ください。

インドネシア語の堪能な日本人、日本語の堪能なインドネシア人、あるいはそれらのバイリンガルの方、日本人とインドネシア人とのダブルの方、こういった方はもちろん大歓迎です。

でもそれ以上に、たとえ言葉ができなくとも、インドネシアの人々に私の知っている日本を伝えたい日本の方とか、日本の人々に自分の知っているインドネシアをもっと知ってもらいたいインドネシアの方とか、あるいは、インドネシアの人々が日本のことを本当はどう思っているのか知りたい日本の方とか、日本の人々がインドネシアのことを本当はどう思っているのか理解したいインドネシアの方とか、そういう方々も大歓迎です。

趣旨に賛同される仲間を大募集します。よろしくお願いします。

なお、近日中に、このブログと同様の呼びかけを、インドネシア語でインドネシアの友人たちにも呼びかける予定です。

週末にインド映画・パキスタン映画

この週末は、妻と一緒に、土曜日にインド映画の「バーフバリ:伝説誕生」、日曜日にパキスタン映画の「娘よ」を観ました。

インド映画「バーフバリ:伝説誕生」は、先週、新宿ピカデリーで上映されていたのですが、1週間しか上映せず、15日からは、MOVIX昭島で1週間、レイトショーで上映されています。そこでやむなく、4月15日の20時半からのレイトショーで観るべく、都心から昭島まで出かけました。23時に上映終了後、急いで電車で帰りましたが、幸運なことに、終電まで遅くはなりませんでした。

映画自体は、(ちょっと稚拙ではありますが)VFXやCGを駆使して、スケールの大きさを表現しようとした、大型娯楽映画でした。あらすじも掴みやすく、勧善懲悪をきちんと描いていて、分かりやすかったです。ネタバレになるので内容は省略しますが、インド映画に必須の踊りや歌の要素はかなり少なかったです。R15+指定となっていますが、その数少ないお色気シーンよりも、戦闘の残虐なシーンがその理由となっているように感じました。

映画の最後で、続編があることが仄めかされ、エンドロールの途中でしばらく音楽がなくなって無音状態隣、このまま終わるのかと思ったら、いきなり、続編「バーフバリ:完結」の日本語字幕付き予告編が上映される、というおまけ付きでした。この続編は、2017年4月28日からインドで公開されるそうで、日本でも公開されることを期待します。

インド映画といっても、「バーフバリ:伝説誕生」はテルグ語の映画でした。テルグ語は、インドのアーンドラ・プラデーシュ州やテランガーナ州の公用語であり、約8000万人が話す言葉です。テルグ語で造られた映画は言語別インド映画の中で最多らしく、娯楽性の強いものが多いようです。

その意味で、今回の「バーフバリ:伝説誕生」は、ラージクマール・ヒラニ監督の「きっとうまくいく」「PK」の社会風刺や、サタジッド・レイ監督の深い洞察などとは全く違う、純粋に娯楽映画として楽しめるものでした。

次に、今日4月16日、岩波ホールでパキスタン映画「娘よ」を観ました。部族間対立を収めるために部族長と婚姻させられそうになる10歳の少女を、その母親が連れ出し、命がけで逃げに逃げる、というシンプルな内容です。複雑な伏線などもなく、これもわかりやすい映画でした。

母親と娘が逃げていく中で色々なことが起こるのですが、その間に様々な人が殺されたり亡くなったり、結局、結婚が破談となって部族間対立は収まるどころかもっと激しくなり、といった絶望を感じさせる面もあります。娘のあどけなさと無垢さが、彼女が大人になる頃の未来への希望を示しているように感じました。

この映画を通じて、アフィア・ナサニエル監督が女性として訴えたかったことがひしひしと感じられました。この話は実話が元になっているとのことですが、映画の中でも、女性の解放といった話が実際には相当な壁に直面せざるをえない現実をまざまざと見せつけていました。

福島市で申請した法人登記手続が4月20日に終わると、福島市での活動拠点づくりなど、予定が色々と入ってくるので、映画にせよ何にせよ、先延ばしせず、時間のあるときに済ませておく、という態度で過ごすことが肝心と思っています。

スハルトを知らない若者たち

昨日、シンガポール・チャンギ空港で、華人系インドネシア人の若者が西ヌサトゥンガラ州知事を汚い言葉で罵った話を書きましたが、それを読んでくれた友人から「あのジャカルタ暴動を知らないのだな」というコメントをもらいました。

あのジャカルタ暴動というのは、1998年5月半ば、ジャカルタの街中で広範囲に起こった暴動のことで、その標的は華人系でした。読者の皆さんのなかには、きっとまだあの時の様子を鮮明に記憶されている方も少なくないと思います。

話は変わりますが、先日4月4日、インドネシア・東ジャワ州マランのムハマディヤ大学で学生と議論した際、彼らがスハルト大統領の時代を知らないという現実を目の当たりにしました。それはそうですよね。彼らはまだ20歳前後、ジャカルタ暴動やその後のスハルト政権崩壊といったインドネシアの激動の時代には、まだ乳幼児だったのですから。

30年以上もインドネシアを追いかけてきた自分にとっても、当たり前ではあっても、まさに新鮮な驚きでした。あの時代を知らないインドネシアの若者たちにも、日本の方々に話すときと同じように、インドネシアの歴史を話さなければならないということを改めて理解しました。

私自身は、1998年5月のジャカルタ暴動の前に、1997年9月、当時、JICA専門家として、家族とともに滞在していたマカッサルで、反華人暴動に直面しました。

いつもは穏やかな人々が、あの暴動のときには人が変わったように、華人系住民を罵り、投石や放火を繰り返したのでした。邦人も華人系に間違えられやすいので、マカッサルでは、数人の邦人の家も投石の被害にあいました。今思い出すとありえないような、ものすごい量や内容のデマや噂が飛び交い、それに右往左往される日々でした。

マカッサルの反華人暴動は、貧富格差の拡大に怒った非華人系(一般にプリブミと呼ばれることもある)の人々が、富を握っているとみなされる華人系を襲ったという、社会的格差が背景にあるという解釈が一般的になっています。

しかし、渦中にいた私には、それが後付けに過ぎず、真相は別なところにあると言うことができます。その内容については、今回は詳しく述べませんが、一つ言えることは、時間が経つにつれて、様々な要素が後付けされ、真実はどんどん覆い隠され、その真相を述べることがはばかれる雰囲気が出てくる、ということです。

もっと言うと、最初は嘘だとわかっていても、その嘘が嘘に塗り重ねられていくと、嘘が本当になってしまう、歴史的にそのような解釈になってしまう、ということが言えるのかもしれません。

スハルトを知らない若者たちは、その時間を経た歴史を他人事として学び、その「事実」をもってインドネシアを知ろうとするのです。一度、国家や政府によって認定された「事実」は、覆すことが難しくなってしまいます。別の言い方をすれば、歴史とは勝者の歴史であって、敗者の歴史では決してない、ということです。

これは何もインドネシアの若者に限ったことではありません。嘘が嘘を重ねて本当になっていく、同じような現象は、世界中どこでも、そして日本でも起こっているということを改めて認識したいです。

イースター前に報じられた2つの事件(追記あり)

今日はイースター前のグッドフライデー。インドネシアは祝日です。今日から三連休となっているようです。

イスラム教人口が9割近くを占めるインドネシアですが、イスラム教は国教ではありません。イスラム教のほか、カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー教、仏教、儒教が宗教として認められています。日本で一つに括られるキリスト教は二つに分かれています。

そして、建国五原則(パンチャシラ)の第一原則として、唯一神を信じることが求められています。ヒンドゥー教、仏教はそうなのか?、儒教は宗教なのか?といった疑問は、とりあえず、ここでは脇に置きましょう。

ちなみに、アニミズムのようなものは宗教ではなく「信仰」というカテゴリーに入るので、アニミズムを信じている人も前述の宗教のどれかに分類されているのが現状です。

というわけで、イスラム教人口が世界一多いインドネシアでも、他宗教のお祝いも行われ、それらは国の祝日となっています。イースターもその一つです。他宗教への寛容がインドネシアの基本中の基本となっているのです。

ところが、今日、他宗教への寛容という観点からすると、残念な出来事が少なくとも2件報じられていました。

一つ目は、シンガポール・チャンギ空港での4月9日の出来事です。

インドネシアの西ヌサトゥンガラ州知事が航空会社のカウンターでチェックインをするために並んでいました。州知事は、ちょっと飛行機の時間を確認しようと思って列から外れ、確認した後、再び列に戻りました。

すると、州知事の後ろにいた若者が「順番を守れ」といって抗議しただけでなく、州知事に対して汚い言葉で罵ったのです。「プリブミだからな、土人だからな、このドブネズミ野郎!」と(原語では、Dasar pribumi, dasar Indo, Tiko (tikus kotor) ! と言ったとされます。インドネシア語日刊紙 Republika の記事を参照)。

恥ずかしい話ですが、今回の件で、Tiko ! という罵り言葉を初めて知りました。

この西ヌサトゥンガラ州知事は36歳で、インドネシア国内の州知事としては最年少なのですが、ロンボク島を本拠地とするイスラム社会団体のナフドゥラトゥール・ワタンの若き指導者です。

州知事に対して罵った若者は、インドネシア国籍の華人青年でした。このため、華人がムスリムを侮辱したという話になって、ナフドゥラトゥール・ワタンの関係者の怒りが治りません。もっとも、州知事はこの若者に列を譲っただけでなく、若者の無礼を許したということで、一気に評判が上がりました。

二つ目は、今日の昼、ジャカルタのモスクでの金曜礼拝での出来事でした。

イスラム教徒は、どのモスクで礼拝を行なってもかまいません。休職中のジャカルタ首都特別州副知事で、今回の選挙で、再選を目指して州知事候補のアホック現知事(休職中)と組んで立候補しているジャロット氏が、いつものように、金曜礼拝をするため、選挙活動場所の近くのモスクに入りました。

そのモスクでの金曜礼拝の説教で、説教師は、「次の州知事選挙ではムスリムの候補が選ばれるべき」と述べて、アホック=ジャロット組の対抗馬であるアニス・サンディ組への投票を促す発言を繰り返しました。金曜礼拝は政治の世界とは別だと思っていたジャロット氏は大変驚いたということです。

しかし、彼はそこで感情をあらわにすることなく、普段通りに礼拝を終えました。礼拝が始まる前から、ジャロット氏が来ていることは他のイスラム教徒たちも知っており、礼拝前には一緒に写真を撮ったりしていたのですが、礼拝終了後、一部のイスラム教徒がジャロット氏がいることに不快感を示し、モスクからすぐ出て行くように強制したということです。

(追記)モスク側からは、「モスク側には何の連絡もなく、ジャロット氏が支持者やメディアと一緒にやってきて、礼拝の後に選挙運動を行おうとしたから、お引き取り願った」という説明が出されているようです。実際にそのような意図がジャロット氏側にあったかどうかは不明ですが、モスク側から見るとそのように見えたようです。

ジャカルタでは、キリスト教徒のアホック氏を支持するイスラム教徒の礼拝や葬儀をモスクが拒む事例が散見されます。金曜礼拝の説教が露骨に特定候補への投票を促す内容になるなど、イスラム教を政治的に利用する動きがますます強く見られるようになりました。

ジャカルタ首都特別州選挙監視委員会は、この件について、選挙運動違反になるかどうか調査を行うことにしています。アホック氏が「コーランの一節を使って非ムスリムの候補への投票ができないというならそれは仕方がない」と発言したことを、一部のイスラム指導者たちが「コーランへの侮辱」として強く批判しています。同時に、彼らは、コーランの一節を使って、「非ムスリムの候補への投票をするな」と唱え続けています。

異なる他者への寛容という精神は、インドネシア全体でかなり根付いていると思いますが、ちょっとしたことで、政治と絡めて、特定勢力の利益のために利用され、分断を人為的に作ろうとする動きを促している兆候があります。

嘘や偽情報を意図的に流して、人々を煽る手法がインドネシアでもよく見られるようになりましたが、これは今や、世界中どこでも見られるものです。それが広まる前に、嘘であり偽情報であることがまだわかる段階で早めにそれを摘んでおく必要があります。

イースターに起きたインドネシアの2つの事件は、大きな話ではありませんが、大きな騒ぎとなる前に、真実のかけらがまだはっきりと残っている間に、処置をしておく必要があることを改めて認識させてくれました。

心にもっと余白が必要なのだ

今日の朝日新聞の朝刊に載っていた「折々のことば」にハッとしました。

 僕たちが他者とつながり、世界への問いを共有するためには、僕たちの心にもっと
 余白が必要なのだ。 (小野正嗣)

同じ空間のなかに存在していながら、お互いにその存在を知ることもなく、だから気にとめることもない2つの集団。イタリアの島にたどり着いた難民とその島に元々住んでいる島民とが接することがない、のです。

鷲田清一氏は、小野氏のことばについて、「一つの大きな傘の下に集うのではなく糊代(のりしろ)で横に繋(つな)がることの意味を思う」と記しています。

これを読んで、昨日のブログで書いた、グローカルについての私なりの解釈に通ずるところがある、とピーンときたのでした。私のグローカルとは、まさに、糊代で横につなげようとすることだからです。

インターネットで容易に世界の様々な事柄を頭で知ったような気になっていても、人間の眼で見ている実際の視野は、逆に狭くなってきているのかもしれません。

一般的な人間社会の幸福と個人や家族や親しい友人の幸福とが一致できないような気分が支配的なのでしょうか。将来への不安が一般的な人間社会の今後への不安となり、他の人がどうなろうとも、せめて自分の身の回りの幸福だけでも確保したい、という気分が強まっているような気がします。

心の余白が少なくなっているのです。それは、他者への想像力が衰えていること、と言い換えることができるかもしれません。

自分が他者の存在を認め、自分も相手からすると他者なのだと認識することは、当たり前のことです。世の中には様々な人がいる、のも当たり前のことです。でも、インターネットを通じて、そうした「他者」と出会って理解したような錯覚を起こしてはいないか、と思います。

自分が世の中で認められたい、という気持ちが、他者との競争をことさらに意識し、自分を認めてくれない他者や世の中に対して反感を抱く、そんな気持ちに由来する暴力や暴言や過激な行動が現れてきます。

心の余白がなくなる代償として得たものは一体何だったのでしょうか。地位、名声、あるいはカネなのでしょうか。

忙しく働いて頑張っていると「えらいね」と言われて嬉しい、といったことがまだあるのでしょうか。「えらい」と言ってもらいたいから頑張って忙しく振舞っているということはないでしょうか。そうしたことにエネルギーを費やすのがなぜか美徳とされる一方で、他者を想像する心の余白は無くなってしまうのではないでしょうか。

ちょっと頭がくらくらっとしてきました。この辺で今日は筆を止めます。

グローカルとは何か:私なりの解釈

昨日は、福島市で法人登記申請をした後、実家で少し休み、登記が完了する4月20日までは何も手続を進められないので、とりあえず、東京の自宅へ戻ることにしました。

ふと思って、久々に、福島から東京まで東北本線の普通電車を乗り継いで行くことにしました。福島から黒磯、黒磯から宇都宮、宇都宮から赤羽、赤羽から自宅の最寄り駅まで、5時間かかりました。昔ならば6〜7時間かかったので、ずいぶん短縮されました。

たいして疲れを感じることはなかったのですが、池袋の法明寺で桜を眺め、帰宅すると、かなりの疲労感を感じてしまい、少し睡眠をとりました。年齢のせいとは思いたくないのですが、福島と東京との間の移動については、時と場合による良い方法を追求していきたいと思います。

法明寺の桜

ところで、松井グローカルという名前に使う「グローカル」という言葉について、世間で言われているのとは、ちょっと異なる解釈かもしれませんが、私なりの解釈があります。それについて、今回は少し述べてみたいと思います。

インターネット上でグローカルという用語は、たとえば、「グローバル(Global:地球規模の、世界規模の)とローカル(Local:地方の、地域的な)を掛け合わせた造語で、「地球規模の視野で考え、地域視点で行動する(Think globally, act locally)」という考え方」というのがあります。

日本語ウィキペディアでは、さらに以下の3つのような意味合いで使われる用語、とされています。

1)地球規模/多地域での展開を目指しながらも、地域の法律や文化に応じる形で提供される製品やサービス。
2)インターネットなどの電子コミュニケーション技術を活用し、地球規模/多地域の基準の下で提供される地域限定のサービス。
3)地域の文化や需要に応じるために、世界的な企業が設立する現地法人、など。

上記の一般的なグローカルの意味を見て感じることは、「まずはグローバルがあり、それをローカルへ展開する」「グローバルを目指しつつもまずはローカルから始める」という方向性です。日本語ウィキペディアには、「「グローカリゼーション」という言葉は、1980年代の日本企業が営業戦略として使用し始めた」ともあります。

日本で「グローカル」という名前を用いた企業や法人はいくつかありますが、その多くは、日本での事業を世界へ広げる、あるいは世界的視野で行う、というニュアンスがうかがえます。
私の考える「グローカル」はこれらとは異なります。
私の考える「グローカル」は、ローカルから始まります。地域、地域の人々や暮らしから始まります。
地域を大事にするという意味では、地域主義や、グローバリゼーションの反対語としてのローカリゼーションとも共通するところがありますが、それらとも異なります。
私の考える「グローカル」は、ローカルとローカルがつながることから始まります。そのつながりが、蜘蛛の巣状のインターネット網のように、無秩序にどんどんつながっていくような、ローカル間のネットワークが国境を越えて作られ、結果的に、ローカル間のネットワークがグローバル化する、というイメージです。
なぜ、ローカルとローカルとをつなげるのでしょうか。
日本やインドネシアやアジア各国やアフリカなど、様々な場所の地域を訪ねて感じたことがあります。それは、世界中のローカルが根底で同じ問題に直面している、ということです。
インドネシアでは、グロバリゼーションは、西洋化や欧米化の文脈で捉えられてしまうことが少なくありません。しかし、EUやアメリカの農民たちもグローバリゼーションを嫌っていることを話すと、「信じられない」という顔をします。他方、彼らは、ファーストフードの流行や携帯電話を手放せないことなどは、誰かよそ者に強制されて強いられているわけではなく、自分から好きでそうしている、ということは、自分もまた、グローバリゼーションをつくる一員になっている、ということに気づきます。
私たちは、そうした意味で、グローバリゼーションから逃れることはできなくなっています。グローバリゼーションに反対して自らを閉じてしまうのではなくて、グローバリゼーションによって、自分自身の育った地域が伝えてきた様々な教えや自分のくらしを自分たちが否定したり、忘れたりしそうになっている、ということに目を向ける必要があると思うのです。
15年ほど前に地元学に出会って学んだことは、果たして自分は自分の暮らしやその暮らしを成り立たせる地域について、どれだけ知っているのだろうか、ということでした。まずは、自分の足元を実は意外に知らない、ということに気づくことの大切さでした。
多くの地域では、自分たちの足元にあるものよりも外から来るもののほうが優れている、と思いがちです。日本もまた、欧米化することがより良くなることだと、もしかしたら今もずっと信じ続けているかもしれません。
そして、祖先から伝えられてきた、自然とうまく共生し、自然を上手に活用する様々な知恵を忘れていきました。自然から天候を読むのではなく、スマホの天気予報のほうを信じるようになりました。
私は、そうした変化を拒んだり、否定するものではありません。しかし、自分自身やその暮らしの元になっている地域を否定したり、忘れたりしてはならないのだと思います。
記憶に残すということは、過去を懐かしむためではありません。それが何十年も、何百年も、もしかすると何千年も伝えられているとするならば、そこに何かの意味があるはずです。その意味を現代の地域の文脈で学び直すことが、地域をもう一度見直すことにつながるはずだと思うのです。
そうしたもののなかから、その地域はいかなる地域であるか、という地域のアイデンティティが醸し出されてくるのです。しかし、そのアイデンティティがどこにあるかを感じられなくなっている、というのが、全世界のローカルが直面している根底問題ではないか、と思うに至りました。
まずは、自分たちだけではなく、世界中のローカルがアイデンティティ危機に直面していることに各々のローカルが気づき、自らが何であるのかを知りたいと思って行動を始め、それで改めてつかんだ何かをアイデンティティに加えていく、それを行っているローカルどうしがそれぞれのアイデンティティを認め、尊敬し合い、場合によっては、一緒に何か新しい価値を生み出していこうと動き始める。それに地域おこし、地域づくり、地域振興、地域復興などの名前を付けたければ付ければよいのではないか。
私がローカルのために何かを創るのではありません。そこの方々が自ら主体的に何かを創るお手伝いをする。私は、そんなプロフェッショナルな触媒を目指したいのです。
松井グローカルの活動対象は、全世界のローカルです。まずは、法人登記した生まれ故郷の福島市から始めます。
日本全国どこでも、世界中どこでも、必要とされるローカルで、そのローカルが自ら主体的に自らを知り、活動を自ら始め、必要に応じて他のローカルとつなぎながら、新しいモノやコトを創り始める、そのプロセスに触媒として関わっていきたいと思います。
ローカルの力を信じ、自分たちの暮らしを見つめながら、新しい価値を自ら創り出すお手伝いをする、そんな仲間が日本中に世界中に増えてくれば、国家単位で物事を見てきた風景とは違う、新しい風景が生まれてくるのではないか、おそらく地域づくりというものの中身が変わってくるのではないか、という気がしています。
私が「松井グローカル」という名前を使うのは、こうした世界が生まれ、支配者のいない、ローカル間のネットワークがグローバル化していくことを夢見ているためなのです。

違う言葉で、インターローカル、インターローカリゼーション、という言葉もあり、これも私が目指すことを表しているかもしれません。

妄想に取り付かれたような文章を長々と書いてしまいました。皆さんからの忌憚のないご意見やご批判をいただければ幸いです。

Pendirian Matsui Glocal LLC

Hari ini (tanggal 11 April 2017), saya melakukan permohonan registrasi pendirian badan hukum kepada Kantor Hukum Daerah Fukushima, Fukushima, Jepang. Dengan ini, hari ini menjadi hari pendirian Matsui Glocal LLC secara resmi.

Selama ini, saya bergerak atas nama ‘Matsui Glocal’ namun ini hanya nama panggiran kegiatan saya dan status saya sebenarnya freelance. Namun sesudah hari ini, Matsui Glocal menjadi badan hukum sebagai Matsui Glocal LLC (Limited Liability Company). Matsui Glocal LLC tidak memiliki karyawan kecuali saya.

Menurut Kantor Hukum Daerah Fukushima, prosedur registrasi tersebut akan selesai pada tanggal 20 April 2017. Maka, aktivitas riil akan mulai sejak itu. Saya akan mempersiapkan berbagai hal untuk aktivitas yang akan datang.

Tujuan di dalam Anggaran Dasar Matsui Glocal LLC adalah:

  1. Riset, nasihat dan consulting tentang pengembangan daerah/lokal
  2. Riset, nasihat dan consulting tentang pengembangan bisnis
  3. Riset, nasihat dan consulting tentang kerjasama internasional
  4. Interaksi dan kolaborasi terkait pengembangan daerah/lokal, pengembangan bisnis dan kerjasama internasional
  5. Riset, analisa, pengolahan informasi dan promosi tentang Indonesia
  6. Pengelolaan, kuliah dan fasilitasi seminar, loka karya, pelatihan dan rapat

Misi saya adalah “Menjadi katalisator yang menciptakan sesuatu yang baru dan baik dengan menyambung antara lokal dan lokal”. Maka, saya merasa kegiatan saya harus berakal di lokal. Dengan demikian, saya mendirikan perusahaan saya Matsui Glocal LLC di Fukushima, kota yang saya lahir. Wacana ini lama tersimpang sejak dulu.

Fukushima menjadi basis utama kegiatan saya. Tokyo, Makassar, Jakarta dan tempat-tempat lain di dunia sebagai basis yang lain. Saya akan beraktivitas seperti selama ini dan mau bekerja kegiatan yang saya diperlukan di tempat yang saya dibutuhkan.

Masing-masing lokal termasuk Fukushima berupaya meningkatkan kemampuannya, saling menghormatinya, saling belajar/mengajarnya, dan melakukan aktivitasnya. Jika ini terwujud, masa depan kita pasti akan lebih hangat, lebih senang, dan lebih tertarik.

Saya mulai dari Fukushima. Dengan Matsui Glocal LLC ini, saya ingin membuat teman-teman sepaham dan mulai perjalanan untuk menciptakan masa depan bersama-sama.

 

Establishment of Matsui Glocal LLC

Today (April 11, 2017), I applied for corporate registration of Matsui Glocal LLC to Fukushima District Legal Affairs Bureau. Then, today became the establishment day of Matsui Glocal LLC.

I have used the name “Matsui Glocal” until now, but the status has been a freelancer. Now, I has started my activities in the name of corporation as LLC (Limited Liability Company), even though there is no employee and this is one-man company.

Because the registration procedure will be completed in April 20, 2017, my activities as LLC will start completely after that. Now I will make preparation to my LLC activities.

The objectives of Matsui Glocal LLC in Articles of Incorporation are as follows.

  1. Research, advising and consulting on local/community development
  2. Research, advising and consulting on business support
  3. Research, advising and consulting on international cooperation
  4. Interaction/collaboration support in local/community development, business support, and international cooperation
  5. Research, analyzing and information provision on Indonesian politics, economies, and social/cultural affairs
  6. Making lecture, facilitation and coordination in seminar, workshop, training and meeting

Because my mission is “to be catalyst to create something new and good with connecting local to local”, I must make my root in local. So, I established Matsui Glocal LLC in my home town, Fukushima city in Japan. I had planned this since before.

From Fukushima as my main base, and Tokyo, Makassar, Jakarta and others as my sub bases, I want to do activities what is required to me at places where I am needed in Japan, Indonesia, and other places in the world without any borders.

Locals including Fukushima try to their own capacities. They respect, learn and act each other beyond borders of countries, religions, and races. If those are realized, the future would be more warm, more fun, and more interesting, I think.

I start this from Fukushima. Through Matsui Glocal LLC, I start my journey to make such my colleague in the world and make such future together.

 

松井グローカル合同会社を設立

本日(2017年4月11日)、福島地方法務局に法人登記申請をいたしました。したがって、本日が松井グローカル合同会社の設立日となりました。

これまで、「松井グローカル」の名前で活動してきましたが、ステータスとしては個人事業主であり、「松井グローカル」は屋号でした。今後は「松井グローカル合同会社」という法人として活動してまいります。基本的には、これまで同様、私1人だけの会社(従業員なし)の形となります。

福島地方法務局によると、登記完了は4月20日午前ということで、実質的な活動はそれ以降となりますが、これから少しずつ、本格的な活動へ向けての準備を進めていきます。

定款の中で定めた事業の目的は以下のとおりです。

1.国内外での地域づくりに係る調査、アドバイス、コンサルティング
2.国内外でのビジネス支援に係る調査、アドバイス、コンサルティング
3.国内外での国際協力に係る調査、アドバイス、コンサルティング
4.国内外での地域づくり、ビジネス支援、国際協力に係る交流・連携支援
5.インドネシア等の政治・経済・社会等に関する調査・分析・情報提供
6.セミナー、ワークショップ、研修、会議等の実施運営、講演・ファシリテーション
7.前各号に付帯関連する一切の事業

「ローカルとローカルをつないで新しいモノやコトを創り出す触媒となる」という自分のミッションを掲げた以上、活動の軸足をローカルに置く必要があると考え、故郷の福島市で登記申請を行いました。これは、前々から考えてきたことでもあります。

今後は、福島市を主拠点とし、東京、マカッサル、ジャカルタなどを副拠点としつつ、これまで通り、日本や、インドネシアをはじめとする世界の必要とされている場所で必要とされる活動を行い続けていきたいと思います。

そして、福島を含めた個々のローカルが自らの力を高め、国境や宗教や種族を越えて互いに尊重し合い、学び合い、活動し合う関係を築けたら、もっと温かく、もっと楽しく、もっと面白い未来が開けてくるのではないかと思います。

まずは福島から始めます。松井グローカル合同会社を通して、そんな仲間を世界中に作り、一緒に未来を作っていく旅を始めます。

(上記は、松井グローカルのホームページに記載したものと同じ内容です。ご了承ください)

松井グローカル合同会社設立

本日(2017年4月11日)、福島地方法務局に法人登記申請をいたしました。したがって、本日が松井グローカル合同会社の設立日となりました。

これまで、「松井グローカル」の名前で活動してきましたが、ステータスとしては個人事業主であり、「松井グローカル」は屋号でした。今後は「松井グローカル合同会社」という法人として活動してまいります。基本的には、これまで同様、私1人だけの会社(従業員なし)の形となります。

福島地方法務局によると、登記完了は4月20日午前ということで、実質的な活動はそれ以降となりますが、これから少しずつ、本格的な活動へ向けての準備を進めていきます。

定款の中で定めた事業の目的は以下のとおりです。

1.国内外での地域づくりに係る調査、アドバイス、コンサルティング

2.国内外でのビジネス支援に係る調査、アドバイス、コンサルティング

3.国内外での国際協力に係る調査、アドバイス、コンサルティング

4.国内外での地域づくり、ビジネス支援、国際協力に係る交流・連携支援

5.インドネシア等の政治・経済・社会等に関する調査・分析・情報提供

6.セミナー、ワークショップ、研修、会議等の実施運営、講演・ファシリテーション

7.前各号に付帯関連する一切の事業

「ローカルとローカルをつないで新しいモノやコトを創り出す触媒となる」という自分のミッションを掲げた以上、活動の軸足をローカルに置く必要があると考え、故郷の福島市で登記申請を行いました。これは、前々から考えてきたことでもあります。

今後は、福島市を主拠点とし、東京、マカッサル、ジャカルタなどを副拠点としつつ、これまで通り、日本や、インドネシアをはじめとする世界の必要とされている場所で必要とされる活動を行い続けていきたいと思います。

そして、福島を含めた個々のローカルが自らの力を高め、国境や宗教や種族を越えて互いに尊重し合い、学び合い、活動し合う関係を築けたら、もっと温かく、もっと楽しく、もっと面白い未来が開けてくるのではないかと思います。

まずは福島から始めます。松井グローカル合同会社を通して、そんな仲間を世界中に作り、一緒に未来を作っていく旅を始めます。

 

今年初めてのブログ書き忘れ

とくにバタバタしていたわけでもなく、忙しかったわけでもないのに、ボーッとしている間に、4月10日が過ぎてしまいました。そう、今年初めて、このブログを書き忘れてしまいました。

いつもだいたい、日付の変わるギリギリに書いているのですが、今回だけは、その時間に何もする気が起こらず、テレビで浅田真央さんの引退ニュースの同じフレーズが5度も6度も繰り返されているのをボーッと見ながら、ブログを書くことを忘れてしまったのでした。

今年に入って、1月1日から毎日書き続けてきたのですが、それがここで途切れてしまったのは、個人的に、ちょっと残念です。

スラバヤの食は劣化しているのか

3月26日〜4月5日は、借りていたアパートの部屋の片付けなどでインドネシア・スラバヤとマランへ行っていましたが、食べ歩きも、もちろん忘れませんでした。

スラバヤへ行ったら食べたくなる食べ物も味わいましたが、その中には、明らかに味が落ちたものがいくつかありました。どうして、こんなに味が落ちてしまったのか、ちょっと残念でした。

これまでの経験から独断と偏見でいうと、インドネシアで食べ物の美味しい街といえば、ジャワ島ではスラバヤ、スマラン、マラン、バンドンあたりでしょうか。もちろん、ジャワ島の農村部で食べる何の変哲もない食事でとても美味しいものに出会うこともよくあります。

たとえば、スラバヤの5つ星ホテルの一つ、マジャパヒトホテルのコーヒーショップで出されるアップル・ストゥルーデル。

マジャパヒトホテルは、オランダ植民地時代にはオレンジホテル、日本占領期にはヤマトホテルと呼ばれた、コロニアル風建築のホテルで、一泊の価値があると思います。

オランダ植民地時代からの独自レシピで、このホテルの前身のホテル以来、出してきた名物スウィートです。これが食べられるのは、インドネシアではここだけです。

上が今回2017年4月2日に食べたもの、下は2016年12月8日に食べたもの、です。二つの写真を比べれば、その違いがよく分かります。

アップル・ストゥルーデルは、りんご餡と生地を交互に重ねたケーキ菓子で、その美味しさに重要な役割を果たすのが、甘すぎないりんご餡とサクサクの生地です。

以前の下のものは、生地がサクサクで、上部に冷たいクリームがしっかり入っていて、甘さだけでなく、冷たさも味わえ、ナイフでサクッと切るのが難しいほど、生地がしっかりしていました。

今回のものは、生地のサクサク感がなく、真ん中に入る生地がしっかりしておらず、また、クリームの質も以前より落ちていました。

生地のサクサク感がないのは、冷凍保存していたものを解凍して出してきているのも理由の一つでしょう。冷凍ものを出すようになって、明らかに生地のサクサク感がなくなり、味が落ちました。もちろん、昔のアップル・ストゥルーデルはもう戻ってこないかもしれません。

他にも、中華系の麺店エンペラー・ラーメンの辛味肉味噌そばも、残念な味になっていました。

常連だったチプトラ・ワールド店は閉店してしまったので、今回は、トゥンジュンガン・プラザ店で食べてみました。

味噌がドバッと載っていて、何よりも、味噌の下の麺がほぐされてなく、くっついたままの状態でした。味噌と絡める前に、麺をほぐさなければなりません。麺の茹で具合はやわからすぎ。肉味噌の味も辛さやパンチが効いていません。

ちなみに、以前、よく食べていた辛味肉味噌そばは、下の写真です。

肉味噌と細切りジャガイモが絶妙に絡み、汁なし麺のなかでも最も好きだった麺の一つでした。写真を見比べると、違うメニューのようにも見えますが、同じメニューなのです。

これら二つのほかにも、いくつか残念な食がありました。食材コストや労働コストの上昇が料理の質の劣化を招いている可能性があります。

でも、人気店にはますます客が集中していて、長蛇の列になっています。一方、いったん質が落ちると支店の数が減ってどんどん劣化します。スラバヤでも、こうした二極分化が進んでいて、前者の数が増えていないのかもしれません。

ソトアヤム・チャ・ハールのように、屋台同然だった店が評判になり、メニューはソトアヤム(鶏肉の実だくさんスープ)だけなのに、広い敷地で営業するようになるケースもあります。

スラバヤ全体として食の劣化傾向が起こっている、とまでは断定できないかもしれません。しかし、飲食業界での競争はますます激しくなり、かつての有名店でも、名物料理を持っていても、うかうかしていられない、という状況であることは確かなようです。

花見客のいない桜の「名所」

東京都心の桜は満開をそろそろ過ぎ、ちらほらと花が一つ二つと散り始めました。

花見といえば、酒を酌み交わし、楽しく過ごすたくさんの人々が満開の桜の下に集っています。花見の名所ともなれば、場所取りの競争も激しく、夜の会のために、朝早くから場所取りをするのが、新入社員の最初の仕事、なんていう話もありました。

花を見に行くのか、人を見に行くのか。そんな風景が花見の名所では見られます。

幸いなことに、私の東京の自宅には、古くからの桜の木があり、自宅で花見ができるのが嬉しいです。ちょっとぜいたくではありますが。

でも、自宅から歩いて数分のところの坂には、それは見事な桜並木があります。しかも、地面に敷物をひいて宴会を楽しんでいる人はいません。通りすがりの数人の人たちが、桜の木を見上げて、盛んに写真を撮っていました。

坂なので、坂の上のほうへ行くと、桜の花がすぐ近く、目の前、手の届くところに咲いています。

遠くから見てもよし、近くから見てもよし。花見客がいないので、ゆっくりのんびり、じっくり桜の花を楽しむことができる場所です。

東京の自宅や自宅近くで桜の花を楽しめるのもあと数日。そのあとには、それはそれは見事な花吹雪をこの坂で見ることができます。

そして、来週は、福島で桜の花を楽しむ予定です。

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