今ごろ、我が家にも来ました

本日(5/20)、とうとう全国1億2千万人の日本国民に1世帯当たり1袋2枚配られるという代物が、日本国民の端くれである我が家族にも送られてきました。

私たちが働いて納めたお金を勝手にたくさん使って、欲しくない国民も欲しい国民も関係なく、半ば強制的に、すべての国民に勝手に配られました。
為政者が国民のためを思ったふりをするために、勝手に配られました。
うん百億円は、これの製造者、全国民へ配達する日本郵便、そしておそらく国民の多くが知らない誰かに配分されました。
この袋の裏側には、ご丁寧に、国民へのお願いが書かれていました。
下々の者は、これを配られてありがたい、と思うと思ったのでしょうか。為政者はすばらしい、と思うと思ったのでしょうか。
日本国の劣化、ここに究めり、という感じがします。あーあ、アホらしい。

インドネシア元技能実習生からの問い合わせが増えた


このところ、インドネシア在住の元技能実習生たちからWhatsAppなどで問い合わせが来ます。そのほとんどは、「特定技能ビザはどうなりましたか」というものです。
彼らはかつて、日本で技能実習を経験しました。昨年(2019年)、日本は「特定技能」というステータスを新設しました。この特定技能に対して、すでに帰国した元技能実習生がビビッと反応しました。同じ業種に限るという条件で、日本での受け入れ先があれば、彼らは「特定技能ビザ」によって、再び日本で就労できるからです。
正確・公式にいうと、技能実習は就労ではなく技術・技能習得のための研修という性格が強いのに対して、特定技能は、同じ業種に限るとしながらも、就労という性格が強いのです。特定技能での就労は、日本の労働者とほぼ同じ権利を行使でき、同じ業種ならば、他者への転職も認められ、労働条件も日本人と同じでなければなりません。
実は技能実習も、労働条件は日本人と同じでなければならないのです。でも、多くの場合は、「就労ではない」という理由で最低賃金ギリギリしか支払われず、またその他の福利厚生コストも省かれてしまっているのが実情です(説明がきちんとなされず、技能実習生自身がそのことを理解していない場合もあります)。研修だから実習生は3年間動けない(3年間の労働力は確保できる)、研修だから労働者と同じ賃金や条件は支払われない(ただし、実際は監理団体に対する支払いや受入開始前の準備費用などがあるため、企業の全体的なコストとしては必ずしも安くならない)、といった状況が生じてしまいます。
こうした事情から、日本では、特定技能よりも技能実習のほうを選好する傾向が強いように見受けられます。日本政府が想定していたほど、特定技能は企業側に受け入れられていないのが現状だと思います。
昨年の今頃は、インドネシアで特定技能に関する正しい知識が広まらず、様々な嘘の情報によって詐欺まがいの行為が横行する状態になっていました。その状況を看過できず、私もインドネシアへ行って、各地で特定技能に関する情報提供のセミナーを行ったり、フェイスブックの法人ページで連日、彼らからの数え切れないほどの相談にのっていました。
下の写真は、2019年4月、中ジャワ州の州都スマランで、特定技能の説明を行ったときの様子です。
2019年6月には、西スマトラ州の州都パダンで、州労働局主催のセミナーで、特定技能について説明しました(下写真。私の左隣が州労働局長)。
私自身、2019年4月、弊社が特定技能に関わる登録支援機関の資格を取るべく、出入国管理局へ申請したのですが、7月、却下されてしまいました。どれだけたくさんの活動をしてもボランティア・ベースではダメで、請求書ベースのカネのやり取りがなければ認められない、ということのようでした。申請時に支払った高額の登録申請料は泡と消えました。
これを受けて、私宛に相談を寄せてくれた何人ものインドネシア人の方々に対して、登録支援機関に認められなかったことを詫びました。その後、怪しげな登録機関の話を聞くたびに、心を痛めていました。
自分の能力不足なのだ、と思うことにしました。そして、労働者として扱われる特定技能は他のより優れた登録支援機関に委ね、自分はむしろ、技能実習を本来の意味での技能実習へ変えさせることを目指そうと思いました。
そんななかで起きた新型コロナウィルスの感染拡大。仕事のなくなった企業が技能実習生を一方的に解雇したりするという情報や、農業の現場で作業するはずの技能実習生が来日できなくなって困っているという情報などがたくさん流れてきました。日本経済の裾野を彼らがしっかり支えてくれていること、それに対して日本側がどのような扱いをしてきたのかということが、図らずも浮かび上がってきたのでした。
そして、今、インドネシアにいる元技能実習生から「特定技能ビザはどうなったのか」という問い合わせがよく来るようになりました。想像するに、これまで以上に、彼らもインドネシアの国内での仕事がなくなったり、仕事を探すのが難しくなったりして、苦しんでいるに違いありません。そんな彼らが一縷の望みをかけて、日本へ行けば大丈夫だろう、特定技能があるはずだ、と、こちらへすがってきたのだと思います。
そこで今日、フェイスブックの法人ページに、今の日本の実情について説明を書きました。日本も経済が落ち込んで失業や解雇が増えていること、現実にインドネシアから日本へ入国するのが無理な状態で特定技能ビザが発出される可能性は低いこと、そもそも日本企業は特定技能よりも技能実習を選好する状況であること、などの内容を書きました。

(インドネシア人の元技能実習生からの弊社ファイスブックページへの書き込みやシェアが止まりません。5月20日午前1時時点で5,758人が上記メッセージを見ています。びっくりです!)
日本で技能実習を経験した彼らには、私たちが思う以上に、日本を「すごい」と崇拝する気持ちが強いのです。そのため、今のような状況になっても、日本経済は大丈夫だ、という不思議な思い込みがあるようです。今の日本経済の現状をちょっと率直に書いただけで、「情報をありがとう」と感謝されるのです。
受入企業では決して良い思い出ばかりではなかったにもかかわらず、日本はすごい、素晴らしいと思ってくれている彼らは、インドネシアの対日感情を好意的なものにしてくれている一つの要素でもあります。これまで我々は、そのうえに胡座をかいて、彼らの「幻想」を放置してきたのかもしれません。
私が彼らに日本の現実を伝えることは、果たして反日的な行為でしょうか。自分が抱いてきたすごい日本像が仮に崩れたとしても、それでも日本が好きだと言ってくれるような彼らになってもらうことのほうが、ずっと重要なのではないか。そのための付き合い方は、決して、日本はすごい、インドネシアはまだまだ、と思わせるような、日本側の上から目線では決してないはずです。
そうした普通の付き合いのできる関係を目指して、これからも活動していきたいと考えています。

Alasan Kesulitan Visa Tokutei Ginou

Kepada teman-teman ex-Kenshusei dari Indonesia,

Saat ini ada WA dari teman-teman anda tentang visa Tokutei Ginou di Jepang. Saya menduga anda-anda sulit mencari kerja di Indonesia maka ada harapan mau lagi ke Jepang. Saya perlu menjelaskan tentang keadaan Jepang saat ini.

Pertama, dalam keadaan Covid-19 saat ini, ekonomi Jepang mengalami penurunan pertumbuhan. Ekonominya lesu. Banyak perusahaan menurunkan kegiatan usaha dan terpaksa PHK kepada karyawan. Banyak Kenshusei juga mengalami di-PHK-kan karena tidak ada pesanan dan kerja. Dengan demikian, saat ini sulit mencari kebutuhan pekerja Tokutei Ginou di Jepang.

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マンズィーニ氏と小松理虔氏は同じことを言っていたのか

昨日、小松理虔『新復興論』の感想めいたことをこのブログで呟いてみた。が、その後、よくよく考えてみたら、5月15日のブログで呟いたマンズィーニ氏のソーシャル・デザインの話と同じことを言っているのではないか、ということに気づいた。
マンズィーニ氏は、「ローカル」の広さが違う人々のあいだで、対等で質の高い対話が成り立つためには、フラットな関係をつくることが重要である、とする。そのためには、対話をする人々どうしが、誰が正しいかを決めるのではなく、「一緒に何かをやる幸せ」に価値を見い出すコラボラティブな関係づくりが求められてくる。そこでは、弱さや本音をさらけ出せる環境、安心して各人どうしが信頼し合える関係が生まれ、質の高い対話が成立していく。
小松氏は、目標達成や課題解決のみを重視するような、リアリティに囚われた真面目の度合いを下げて、多くの人々に関わってもらえるような環境づくりが、地域づくりでは重要だと論じる。そこではある種のゆるさが大事で、何かを一緒にやって楽しかったり、嬉しかったりすること自体が地域づくりの一端になる、という実感がある。こうした状況をそれとなく促す役割をアーティストが担っている。
小松氏は最近、『ただ、そこにいる人たち』という報告書を出した。報告書自体はまだ読んでいないが、そこへ至る彼の浜松での経験について書かれたエッセイをネット上で何本か読んだ。そこで彼が主張したのは、徹底的に寄り添うのでも突き放すのでもない、そうした二項対立ではない関わり、ふまじめで個人的な興味や関心、「いるだけでもいい」という低いハードルが、課題を社会に開き、既存の当事者の枠を超える新しい関わりを作り出すということである。
小松氏がそれを定義した「共事」という言葉は、マンズィーニ氏の主張するコラボラティブな関係づくりと相通じるものがある。その空間に一緒にいる、一緒に何かをしている。それは何かの目的を達成するための手段や方法ではない。そのこと自体に意味があり、それがもしかすると予期せぬ新たな何かを生み出したり、全く関係がないと思われた人々へ誤配さたりするのかもしれない。
地域づくりにおけるよそ者の関わり方については、いろいろと考えることもあるが、おそらく、よそ者が地域のためと称して、目標を設定して課題解決をできるだけ効率的にかなえようとする手法は、その地域の人々にとっての「共事」とはならず、よそ者の目的への地域の人々の動員で終わるだろう。そんな事例をこれまで、インドネシアの援助という名の現場で嫌というほど見てきた。そしてそれらと同じことが、震災後の東北でも見られたことに落胆した。
その意味でいうと、マンズィーニ氏のソーシャル・デザインも、小松の新復興論も、言わんとすることや方向性は同じではないかという気がしてきた。両者とも、精緻に理論化する必要もない。いや、してはいけないのではないか。
ゆるさ、ここちよさ、一緒にあることの幸せ。そこで醸成されるゆるやかな共感や信頼感。それらが人々の安心できる環境を生み出し、その環境の質をどのように高め、安心し続けられるようにしていくかを楽しく、愉快に、そして面白く考えていけるのではないか。
ゆるさ、ここちよさ、一緒にあることの幸せ、楽しさ、面白さ。それをつくるのではなく、自ずとつくられる環境の醸成。新型コロナの有無にかかわらず、在野の我々が目指すべき、これからの楽しい地域づくりのキーワードになるような気がする。
まだ、マンズィーニを深く読み込んだわけではない。ただ、なんとなくそんな風に感じた、ということに過ぎない。
いわき市の道の駅「よつくら港」(2015年9月19日撮影)

小松理虔著『新復興論』を読了

購入して読み始めたのはずいぶん前だったが、ようやく本日(5/17)、小松理虔著『新復興論』を読了した。

あいにくまだ同氏とは面識はないが、東日本大震災後の彼の活動は興味深く、ツイッターなどにおいて、自分で勝手に追いかけていた。
私自身、福島のことを考える際、「復興」という言葉を素直に受け止められなかったり、様々な現象を「福島」という地名で一般化されてしまうことに強い違和感をずっと感じていた。
自分の出身地である福島市における福島の人々と、いわき市を含む浜通りの「福島」の人々との微妙な心理的距離や、福島市在住の人々によるあたかも自分が福島全体を代表しているかのような言動が跋扈するなかで、インドネシアなど海外とも深く付き合ってしまって、福島については出戻りのような自分が自分の立ち位置をどこに置いたらいいのか、悩み続けるなかで、小松氏の発信になんとなく親近感を抱いていた。
『新復興論』は、よそからの借り物ではない、小松氏が地元での生活経験のなかから、自分の言葉で自分の思想を編み出していくプロセスを経ながら書き上げたもので、二者択一の単純な議論や政治性を排除した、他の専門家の真似のできない内容だと感じた。
とくに、リアリティとの関わり方に関して、地域づくりにおけるコミュニティデザイナーとアーティストとの役割の違いを明確にしていた点に思わずうなづいた。
いくつもの珠玉の言葉があった。いくつか自分なりにまとめてみる。
「アーティストは事実を伝えるのではなく、真実を翻訳するのだ」という古川日出男氏の言葉の引用。アーティストは課題を提示する人であり、そこには、現状に対する批判精神が込められているのが当然である。アーティストが社会的課題を解決するのではない。行政などの意図に応じて作品制作を行うなど、リアリティに囚われすぎると弊害が生じる。土地の歴史や文化を掘り起こし、そこだから存在するものを大事にする。それを進めるにもアートの力が有効である。
原発を含む福島のエネルギーをめぐる歴史は、外部から求められての「敢えての依存」が時が経つにつれて「無意識の依存」へ変わっていった歴史であった。それに伴って、福島では、自らが犠牲となって国策に貢献したのにその後結果的に差別を受けるという「方法的差別」を繰り返してきた。そうした福島と同様の経験を持つ人々は世界中に存在する。アートを通じて、それら世界の様々な場所で闘っている人々と連帯すべきだ。
外部者を排除した地域づくりは前に進められない。様々な人々に関わってもらうには、まじめの度合いを下げるしかない。復興事業の多くはまじめに行われすぎている。まじめの度合いを下げるのにアートの役割がある。徹底して楽しむこと、そして小さく展開すること。不まじめさによって、予期せず偶然に誰かへ情報が誤配され、その誤配から全く新しい何かが生まれる可能性がある。ゆるさの効用がある。
原発事故を障害として捉える。治癒して元に戻るケガではなく。障害としての原発事故をむしろ価値と捉え、共存を図る。
この最後の障害論は、まさに、今の新型コロナウィルス感染拡大の現状にも当てはまるものだろう。そうだとするならば、地域づくりの場合と同様、アートにも、閉鎖状態を和ませる以上の、何らかの果たせる役割があるような気がする。また、まじめすぎるのもよくないのかもしれない。
『新復興論』は地域づくりの現場に関わる方々はもちろん、地域づくりを教える教師やそれを学ぶ学生にとっても示唆の大きい内容である。そして、それぞれの経験に照らして、地域づくりにおける自分なりの思想や考え方を見つける良い材料になるものと思う。
小松氏の今後の活動や言論についても、引き続き注目していきたい。

ようやくZOOMデビュー

外出自粛でテレワーク、インターネットを利用したテレビ会議が花盛りとなっていますが、私も今日(5/16)、ようやく、遅ればせながら、東京の自宅でZOOMデビューしました。

実は妻は、すでに友人とZOOMおしゃべり会をしており、先を越されていました。
ZOOM自体は、約1ヵ月程度前にすでに登録して、使ってみようと思っていたのですが、セキュリティ上の脆弱性が指摘され、使うのを躊躇していました。その後、Microsoft TeamやSkypeやGoogle Meetなど様々な手段が出てきて、どれをどう使うのがいいのか、悩んでいるうちに、時間が経ってしまったのでした。
今日のZOOM会議は、マカッサルに住む、友人のワスパダ・サンティン氏から誘われた以下のようなものでした。
テーマは、ハラル食品をどのようにインドネシアから海外へ出していけるか、というもので、アメリカ、オランダ、オーストラリアに在住のインドネシア人識者を交えてのミニセミナー、という趣でした。
実は当初、私もスピーカーに加わって欲しいと依頼されていました。でも、ハラルの専門家ではないし、ということでお断りし、一般参加者として会議に参加することにしました。
もっとも、ハラル食品の話であっても、イスラム教の教義など宗教的な話になっていくことが予想されたので、スピーカーとなっても自分だけ浮いてしまうのではないか、と思ったこともお断りした理由でした。
会議終了後、ワスパダ氏から送られてきた写真
会議の内容は、アメリカ、オランダ、オーストラリアでハラル食品がどのように扱われているか、ハラル認証はどうなっているか、インドネシア製品が各々のマーケットへ入っていく余地はあるか、といった内容でした。
私も楽しく視聴していたのですが、スピーカー3人のプレゼンが終わった後、進行役のワスパダ氏から急に振られ、コメントを求められました。全く準備をしていなかったのですが、即興で以下の4点をコメントしました。
1)日本では、ハラル食品がまだイスラム教徒だけの特別なものと思われている。
2)日本でのハラル認証は民間が行っているが、公的な裏付けがないので、それらのハラル認定が正しいかどうかを判断しにくい。よく知らない企業などを相手にした金儲けビジネスの様相もある。
3)日本からハラル食品を輸出するにしても、相手国によってハラル認証基準が異なるので、対応が難しい。マレーシア向けとインドネシア向けとで別々の対応が必要になる。
4)ハラル食品を広めるには、イスラム教徒以外の人々も消費できるユニバーサルで健康的な食品であることをアピールし、浸透させていく必要がある。たとえば、インドネシア製即席麺はハラルだからだけでなく即席麺として認知されてマーケットを得ている。
会議で発言することを想定していなかったので、パソコンのマイクの調整をしておらず、ハンドセットも使っていなかったので、私の声が小さくてよく聞こえなかった様子でした。それで、上記の4点のコメントをインドネシア語にしてチャット欄に流し、念のため、会議終了後、ワスパダ氏にも送りました。
会議には、最多時点で160人余が参加していました。インドネシア国内も、ワスパダ氏らの拠点である南スラウェシ州にとどまらず、スマトラ島のアチェからパプアまで、海外ではシリアのダマスカスからの参加者もいました。
地理的境界を超える、インターネット会議の可能性を感じさせます。参加者も大学の先生やイスラム教指導者だけでなく、学生や一般の方々も多数いた様子でした。
さあ、これでZOOMデビューしましたので、これからは大いに活用したいです。このブログを読んでいる皆さんで、私とコミュニケーションされたい方は遠慮なくご連絡ください。
また、「よりどりインドネシア」のオフ会を2ヶ月に1回、という形で定期的に開催してみようと思います。その他にも、インドネシアに関するミニセミナーや、日本人とインドネシア人とが入り混じって語り合えるような場も考えてみます。
皆さんからも、何かアイディアがあれば、どしどしお寄せください。ツールは、ZOOMでも、Microsoft Teamでも、Skypeでも、Google Meetでも、あるいは他のツールでも何でもかまいません(ツールについては、むしろ色々教えて欲しいです)。
よろしくお願いいたします。

ポスト・コロナはハイパーローカルの時代?

今日は、たまたま、ある方のNotesに刺激を受けて、自分の活動の今後の新しい方向性を示唆されたような気分の一日でした。
日経COMEMOというNotesのマガジンから毎日更新情報が届くのですが、今日来たもののなかに安斉洋之という方の「コミュニケーションの質と意味がさらに問われることになる「ハイパーローカル」の時代」という記事がありました。
ハイパーローカルという言葉からは、何かデジタル化やハイテクに関係したイメージを抱いたが、中身は全く違っていました。
ローカルというのは通常、自分の住む場所やその周辺という物理的な領域として認識されますが、個人の能力で規定される活動領域もローカルと規定できる、という意味での二重の意味でのローカルを「ハイパーローカル」と定義する、ということです。
インターネットやグローバリゼーションで活動領域が広がった個人が、ものを考えるスペースとしてのローカルを持つと同時に、そこにリアルな行動とそのフィードバックを物理的に受けるコミュニティに属している、という条件が組み込まれていて、この組み込みが弱いと、孤独感を感じる、といいます。
この感覚は、自分でも腑に落ちるものでした。
自分にとって、ジャカルタやマカッサルをも活動領域としてのローカルと認識しつつ、毎日のリアルの生活では東京が今は自分のローカルとなっています。
安斉氏が依拠しているのは、イタリアのソーシャルデザインの第一人者と言われるエツィオ・マンズィーニ(Etio Manzini)という方の議論です。
ハイパーローカルという捉え方からすると、個々人の能力の違いによって、ローカルの広さは異なってきます。このため、ローカルの広さの違う者同士では、コミュニケーションの質のレベルが違ってきて、うまく対話できません。フラットな関係をつくる必要があります。
彼によれば、コミュニティの基本は、対等で質の高い対話がどれだけ成立しているかどうか、にあります。対話を成り立たせるには、人とコラボレーションすること自体に価値を見いだす、すなわち「あの人たちと一緒に何かやって幸せを感じたい」という願いを持続的に満たすことに重点が置かれるべきだと説きます。
そのためには、お互いが弱い状態を作り出して出逢いを活発化させる一方、その出逢いが安全な場所で行われるようにする、という戦略を採るべきだとしています。
自分の弱さ、というか本音を出しても誰も蔑んだり糾弾したり嘲笑したりしない、安心して弱さや本音をさらけ出せる、生身の人間としてフラットな関係をつくることで、互いの信頼感を醸成する、ということになるのかなとも思います。
個々の能力の違いに由来するハイパーローカルの違いを意識したうえで、様々なローカルが経済的価値よりも「一緒に何かをやる幸せ」に価値を置いて関係をフラット化させ、弱さや本音をさらけ出せる環境のもと、質の高い対話を行う。
言い方は異なりますが、日頃から自分が思ってきたことと相通じるものがあるように感じます。
この後、以下の安斉氏の別のNotesも読んでみました。
ここでは、コロナの時代にたしかなことが分からない、という現実を認識し、「知らない」からこそ学びのコラボレーションが重要になる、という主張でした。その芯は先のNotesと同じです。
安斉氏の二つのNotesに触発されて、マンズィーニの著作をいくつか検索して調べてみました。そこからは、ソーシャル・デザインへの彼なりのアプローチ、すなわち、コラボラティブ経済への希求がうかがえました。また、開発途上国の現場で、どのようにステイクホルダー間のコラボレーションを促していくかという、ファシリテーションも重視されていました。
これまで、自分も、コミュニティ・ファシリテーションやコミュニティ・デザインの視点から、関係者間の信頼をどのように醸成し、本音で対話ができる環境をどう創っていくかを試みてきましたが、ハイパーローカルの時代のコラボラティブ経済でも、考え方の基本となっていると確認できました。
久々にちょっと興奮しました。勤務先の図書館に行って論文を漁って興奮した研究者時代を思い出しました。ソーシャル・デザインということを意識して、マンズィーニの著作をもう少し読み込んでみようと思います。

友人であるマカッサル市長代行が任期終了

5月13日、私の友人がマカッサル市長代行としての一年の任期を終えた。最後は、マカッサル市に大規模社会的制限(PSBB)と呼ばれるセミ・ロックダウン措置を発動し、新型コロナウィルス対策の陣頭指揮を採っていた。

彼と出会ったのは1996年4月、インドネシア国家開発企画庁(BAPPENAS)所属のJICA長期派遣専門家(インドネシア東部地域開発政策アドバイザー)として、マカッサルの南スラウェシ州開発企画局(BAPPEDA)に赴任したときだった。
BAPPEDAで職員全員を前に赴任の挨拶をした際、私は生意気にも「私にカネや援助を期待する人はこの場から去っていただいてかまわない」と述べたとき、そこにいた半数近くがゾロゾロと退場していった。その光景を今でもよく思い出す。
そのときに残った者たちと一緒に活動しようと思った。彼はその残った者たちの一人だった。
その後、彼を含めた若手職員とほぼ毎日夕方、寛いだ雰囲気の中で、地域開発政策に関する様々な議論をざっくばらんに行なった。それらの若手職員の多くが今、南スラウェシ州政府幹部として大活躍している。
彼もそうしたうちの一人だった。常に何か新しいことを考えようとしていた姿が今も脳裏に残っている。
BAPPEDAでの彼は、特定の部門に特化する対応ではなく、とくに総務・管理畑で重要な役割を果たした。その後、州知事選挙などを通じて、州政府内で政治的な派閥対立が先鋭化したときも、うまく立ち回って生き残り、着実に出世の階段を上がっていけた。
今の南スラウェシ州知事(彼も古くからの友人の一人だが)にも重用され、1年前、マカッサル市長代行に任命された。
マカッサル市長は空席だった。マカッサル市長選挙が行われたが、現職が汚職疑惑で立候補できず、立候補したのは1人(インドネシアの地方首長選挙は正副のペアで立候補するので正確に言えば1ペア)だった。彼は地元有力実業家の一族で、当選は間違いないと思われていた。インドネシアの選挙では無投票当選はなく、信任投票のような形で、立候補した1ペアは投票箱と戦う、という構図になった。そして選挙結果は、投票箱の勝利だった。
この結果、市長職は空席となり、2020年以降に改めて選挙を行うまでの間、州知事が任命し内務省が承認する市長代行が置かれることになった。複数の候補の中から、当時、州研究開発局長を務めていた彼が州知事によって抜擢された。
2017年1月、彼は家族を連れて、日本へ旅行に来た。そのとき、リクエストに応じて、1日、富士・箱根を案内し、新宿でハラルラーメンを食べてもらった。
彼の後任は、現職の南スラウェシ州BAPPEDA局長。国立ハサヌディン大学林業学部教授でもあり、同学部教授でもある州知事の後輩にあたる。市長代行の任期が当初の予定通りの1年で、延長されなかった理由は不明である。
ともかく、今は、市長代行を終えた彼にご苦労さまでしたと言いたい。次回、マカッサルへ行ったら、シーフードかチョト・マカッサルを一緒に食べたいものだ。

公文書が見事に軽んじられる国で

国家の正式文書である公文書を書き換えたり、破棄したり、元々なかったと嘘を言ったりする。
そのような国には、行政マネジメントをきちんと教え、国家をきちんと成り立たせる基本をしっかり身につけさせるような技術援助が必要だ。そんな国は、先進国にはなれない。
開発途上国の行政能力をどのように改善するように支援するか、という文脈から、そんなことを大所高所から議論していた昔。民主化や国づくりはまだまだ先のことだね、なんてため息をついていたものだ。
インドネシアで地域開発政策アドバイザーを務めていた頃、よくそんな議論をしていた。地方へ視察に行った際、県職員が農作物生産などのデータを鉛筆なめなめしている現場に何度か出会った。行政関係者と正しい記録を残すことの意味を何度も話し合ったものだった。
インドネシア・マカッサル市のパオテレ港で荷役する男性(本文とは関係ありません)
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冒頭の話は、もちろん、いまの日本である。でも日本は、行政能力が未熟だから、公文書管理をきちんとできないのではない(はずだ)。
逆である。能力があるからこそ、なのである。公文書の重要性やその役割など、官僚は誰よりもよく理解している。それでいて、公文書を書き換えたり、破棄したり、元々なかったと嘘をいったりするのは、彼らの能力が、真実をどう書き残すかということではなく、話のつじつまをどのようにうまく合わせるかに集中して使われているのである。
なぜか、私たちは、彼らがすべて記録をきちんと残している、と信じている。実際、いかなる会議でも議事録は作られ、詳細なメモがとられ、すべての記録(公文書をどう改ざんしたか、処分しようとしたかも含めて)は、何らかの形であるはずなのだ。
でも、それを表に出さない、知らないふをする技術を磨いてきたことも、忘れてはならない。
些細な私の過去の経験談だが、インドネシアでアドバイザーを務めているときに、対照的な二人の担当者がいた。そのころはまだ、メールも携帯もなかった。連絡は電話またはファックス。
一人は、私とのすべてのやり取りを、細かなことまで含めてファックスで残した。電話で話した内容も、すべてファックスに記して確認した。
もう一人は、ファックスでのやり取りを一切しなかった。こちらから「ファックスでお願いします」と言っても、絶対にファックスを使わなかった。電話のみだった。そして、言った、言わないの話が頻発した。私は、日時と内容を必ずメモしていた。でもその人は「そんなことは言っていない。証拠はあるのか?」とすごんでくるのだった。極めて不愉快だった。
自分の非を認めなければならなくなるような内容は、昔から、部外者には出ないように配慮されていたのだ。仲間内では口頭で共有し、場合によっては、自分たちに都合のいいようなお話をつくってしまう。自分たちが責められて、のちの評価や昇進にかかわってくるような内容は、あえて残さなかったのだ。そして、自分たちを守るために、部外者に責任や非を押しつけようとさえした。
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部外者である国民に公表されている公文書であっても、その内容が正しいと単純に信じてはいけないのではないか。議事録も詳細な内部用をつくり、そのなかで問題になりそうな個所や表現を省き、場合によっては骨抜きになったようなどうでもいい内容のものが外部用として残されたのである。
そう、そんな公文書だから、改ざんも、破棄も平気だし、その存在自体を消しさえしてもかまわないのだ。大事なことは、議論や発言の実際の中身を忠実に記録することではなく、外部から責められたり、批判されたり、問題になったりしないように「きれいに」した芯のない文書を残し、波風を立たないように平静を装うことなのだろうから。
そうしたことを可能にする能力や技術を何年も、何十年もかけて養って、社会の上層部に立ち続けている、公文書を扱う人々。政治家が重宝するのは、その専門的な知識や見識とは限らない。むしろ、政治家が何をしても、常につじつまを合わせ、綻びを隠し、世論を騒がせないようにする相当に専門的な技術なのかもしれない。
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時の権力者にとって不都合な事実は、記録として残されていかない。歴史は常に勝者を正当化する歴史である。その正当化の過程で、不都合な真実は無残なまでに残されない。為政者がどのような政治を行ったかは記録に残っても、下々の人々がどんな生活を送っていたのか、なぜ百姓一揆に至ったのか、そんな庶民のくらしの歴史は、ほんの一部しか残っていかない。
公文書を軽んじ、もてあそぶ国家は、到底、国家とはいえない。為政者が勝手に公文書をもてあそぶ政治を支持する国民とは、いったい、どのような国民であろうか。為政者を支持するかしないかで、誰を守り、誰を守らないかを決める政治。そのような為政者が、形式的にせよ、民主的な制度によって選ばれている。かつてのスハルト体制下のインドネシアは開発独裁と呼ばれたものだ。
民主化のパラドクス、という現象は、世界中で顕著に表れている。
日本もまた、その一つになっていることを自覚しておかなければならない。
でも、その公文書自体もまた、真実を正しく記録しているとは限らない。
私たちにできることは、公文書を軽んじる為政者への批判に留まってはならない。今起こっていることを、各自が自分なりに記録に残し、それが記憶に残っていくことである。もしかすると、新聞やメディアには残らないかもしれない。不都合な真実は消されていく。
SFにような、脳から記憶を強制的に奪うような事態が起きれば別だが、何が起こっているのか、人々はそれにどう対峙したかを、各人が記録に残し、記憶に刻む。どんな時代になろうとも、為政者がどんな手法を使って私たちを騙そうとしても、動じないために、自分なりの「真実」を残す努力を続ける。それを怠らず、自分なりの思想を深めていく。

庭の花々に安らぎを感じる



新型コロナウィルス感染拡大に伴い、事業自粛、雇い止め、ストレス増大、弱者への支援の削減など、明日をどう生きていったらいいか、悩みに悩んで苦しんでいる方々の存在を思う。本当に、どう暮らしていったらいいのか、途方に暮れてしまうだろう。
もっとも、それを伝える者も、対処する政府関係者も、明日の暮らしをどうしていったらいいかに日々悩んでいる人々ではない。今月も来月も、定期的に給与が支払われ、生活が保障されている人々である。
サラリーマン生活を辞めて12年。自分の思う人生を歩みたい、自分の納得のいく仕事以外はしたくない、とわがままな生き方をしてきた。いつも複数の原稿締め切りに追われていた日々とおさらばし、ストレスを感じない毎日を過ごしてきた。
でも、気がつくと、貯金は減り、毎月の家計が苦しい状態の日々。収入は安定せず、このままずっと暮らしていけるのか。将来へ不安を感じ、別のストレスと向き合う日々になった。
その意味では、新型コロナウィルス感染拡大によって、状況が急に悪化したというわけではない。その前も後も、厳しい状況に変わりはない。明日の暮らしをどう維持するか、という状況にはまだなっていない(いずれなるかもしれないが)だけ、前述の方々よりはまだ恵まれているのかもしれない。
そんな日々の中で、幸いなことに、自宅の庭に咲く花々が、つかの間にすぎないかもしれないが、自分にささやかな安らぎを与えてくれる。

色々とうまくいかないことがあると、どうしても落ち込んでしまう。自分には能力がないのだ、どうしてこんな生き方をしてしまったんだ、生きていて何か意味があるのか、などと自分を責めてしまう自分も出てくる。弱い自分が確かに存在する。
それでも、何はともあれ、家があり、家族と一緒に暮らせている。
外出自粛というけれど、庭に出れば、花々や緑色に染まる植物たちと戯れられる。もちろん、(人と接触しない形で)近所へ散歩に出かけたりもする。
ここにいるから、なんとかなっているのかもしれない。
自分の思う人生を歩みたい、自分の納得のいく仕事以外はしたくない、という私のわがままを、家族はまだ温かく見守ってくれている。
ありがたいことだ。その気持ちを忘れないように、日々を丁寧に生きていきたい、と改めて思う。

村を育てる学力、村を捨てる学力

ツイッターを眺めていたら、地域づくり関係で私が注目している方の紹介している言葉に目が止まった。そこでは、小学校の先生が黒板に書いた板書の写真が掲載されていた。
その言葉は、以下のようなものだった。

* * * * *

 村を育てる学力

 

 私は、子どもたちを、全部村にひきとめておくべきだなどと考えているのではない。

 ただ私は、何とかして、学習の基盤に、この国土や社会に対する「愛」をこそ据えつけておきたいと思うのだ。みじめな村をさえも見捨てず、愛し、育て得るような、主体性をもった学力、それは「村を育てる学力」だ。そんな学力なら、進学や就職だって乗り越えられるだろうし、たとえ失敗したところで、一生をだいなしにするような生き方はしないだろうし、村におれば村で、町におれば町で、その生まれがいを発揮してくれるにちがいない、と思う。

 「村を捨てる学力」ではなく「村を育てる学力」を育てたい。

 「村を育てる学力」は、何よりも、まずその底に、このような「愛」の支えを持っていなければならない。それは、町を育て、国を育てる学力にもなっていくはずだ。
 村を育て、町を育て、国を育てる学力は、愛と創造の学力である。それは、村に残る子どもにとっても、町で働く子どもにとっても、しあわせを築く力となり、子どもたちの、この世に生まれてきた生まれがいを発揮してくれる力になっていくのだと、私は信じている。

「東井義雄 一日一言 いのちの言葉」より
* * * * *
教育というものは、近代化の手段だった。教育を受けて得られる学力は、自分を古く遅れた世界から解放し、新しい進んだ世界へ導くものだった。だから、教育は子どもたちを伝統的で閉鎖的な世界から近代的で開放的な世界へ、すなわち子どもたちを村から町へ引き剥がしていくものだった。
多くの場合、それが進歩だと見なされた。東井氏の言葉で言えば、教育が授けたものは「村を捨てる学力」だった。
彼の人生を少し調べてみた。戦前は皇国教育を徹底した教育者だったが、戦争を経て、そこでの深い懺悔と反省のもとに、戦後は綴り方教育を通じて、主体性を持った子どもの教育を兵庫県の村で行い続けた。
彼の言葉には珠玉の響きがある。彼のたくさんの言葉に勇気づけられ、励まされた人々は、教育者をはじめとして、数多いことだろう。
なかでも、上に挙げた「村を育てる学力」で私が最も心を打たれた言葉は、「生まれがい」という言葉だ。
それぞれの子どもの「生まれがい」をとことん尊重する。そこに国土や社会に対する「愛」を育ませることで、主体的に自分の依って立つ「村」を大切に思う気持ちを促す。その子が村に残ろうが町へ出ていこうが、大事なのはその子たちの「生まれがい」が尊重されることなのだ。
村を育てる学力は、必ずしも村に残って頑張るための学力ではない。世界中どこにいても、村のことを思い続けて行動できるための学力である。その場所が、たとえ村でなくとも。
昨今の地域づくりの現場では、人口減少という深刻な状況に直面して、UターンでもIターンでもなんでもいいからとにかく人口を増やすにはどうするか、ということに関心が集中しすぎているきらいがある。そして、村の子どもたちにできるだけ村に居続けてもらうために、大人たちが子どもたちに対して、村の将来への過度な期待を半ば強制している様子もうかがえる。とくに、震災後、その傾向が強まった印象がある。
次の世代への期待は当然ある。でも、それが強すぎれば、そして表面的には子どもたちが健気にその期待に応えようとしているならばなおさら、どこかで無理が生じて破綻するのではないかと危惧する。なぜなら、そこには、大人の思惑はあっても、村に対する「愛」が大人にも子どもにも欠けているからだ。
村を育てる、という言葉は今や死語なのだろうか。市町村合併と高齢化が進み、村を育てるどころか、村を維持できるのかが切実な問題となってしまっているからだ。
そして、とくに行政上の効率の観点から、村を町へ糾合するような政策の流れも加速化している。村を育てる学力が必要な局面は、もうとうに過ぎてしまったということなのか。
東井氏の地元である兵庫県豊岡市では、兵庫県立の国際観光芸術専門職大学(仮称)の設立準備が進んでいる。国公立初、演劇を本格的に学べる兵庫県立の専門職大学で、兵庫県但馬地域を拠点に観光・芸術文化分野で事業創造できるスペシャリストを育成する、という目標を掲げ、学長に平田オリザ氏を招聘する計画のようだ。
平田氏は、東井氏の「村を育てる学力・村を捨てる学力」を意識しつつ、グローバル化に直面する今の教育が「国を捨てる教育」になるのではないか、との危惧を示している。この新大学をそれに対する新しい地域発の価値創造の場としたいのだろう。
それも良いのかもしれない。でも、今必要なのは、やはり、広い意味での「村を育てる学力」なのではないだろうか。村ではなく、広くコミュニティや地域社会や集団をも包含する「ムラ」と捉えたほうが良い。「ムラを育てる学力」を養うのは、学校だけでなく、コミュニティや地域社会や集団、もしかすると家族もなのではないか。
学力は授けられるものではなく、主体的に自分たちで学び取っていく力である。今必要なのは、自分から自分の依って立つ足元を学ぶこと。それは必ずしも、自分がそこに居続けなければならないということではないはずだ。たとえムラから離れていても、ムラのことを思い、それを踏まえて行動する。そして、そのムラは国境を越え、あるいは、世界中に複数のムラを抱いて生きる人々もいることだろう。
東井氏の「村を育てる学力」を「ムラを育てる学力」と言い換えて現代の文脈で考えたとき、その根本にあるのは、ローカルを基盤としつつもローカルに必ずしも留まらない、ローカルに「愛」を持った人々が様々なムラで活動する、そのための学力、ローカルへの「愛」に根ざした自分の頭で考える力、と言いかえることはできないだろうか。
「ムラを育てる学力」を育てたい、と改めて思った。
私が小学1・2年生の時に過ごした二本松市立原瀬小学校の旧校舎。当時、父はこの学校の校長で、2年間、この敷地内にあった校長住宅で過ごした。この松の木には数え切れないほど登って遊んだ。2012年3月9日撮影。東日本大震災で建物が危険な状態になり、旧小学校の建物は取り壊された。

新自宅へ移るのはのんびりと

今住んでいる家の隣に、新しい家が建ちました。私たちの新自宅です。
庭から見ると、こんな風に見えます。向かって左側が、今、住んでいる自宅です。

2階+ロフトというつくりで、屋根には太陽光パネルと太陽熱ヒーターが載っています。
太陽光パネルで発電し、売電はせず、蓄電池に貯めて使います。冷蔵庫用などに電力会社からの電力も使いますので、完全なオフグリッドではありませんが、セミ・オフグリッド、という感じです。
すでに、3月半ばに鍵は引き渡され、内装は終わっており、後は引っ越すばかりなのですが・・・。

新自宅につけるスロープや家の周りのタタキ、門を含む外構がまだでき上がっておらず、まだ工事中です。
今日は、アマゾンに頼んだ宅配の荷物が「住所不明」ということで届かず、再配達される、という事態がありました。通りに面しているのですが、工事中で、どうもよく分からないまま、当方へ連絡することもなく、荷物を持ち帰ったようです。
万事がのんびりペースで進めているので、外構も終わっていないし、新自宅への引っ越しも当初の予定よりずっと遅れそうです。急がなければいけないわけでもないので、ゆっくり引越しするつもりです。
新自宅へ引っ越した後、今の家は、借家かシェアハウスにして、どなたかにお貸ししたいなあと思っています。また、敷地内にもう一軒ある、通りに面した建物は、シェアハウス(またはオフィス?)+私の仕事スペースにする予定です。いずれも、私たちののんびりペースで進めているので、いつ完成するか、まだ分からない状況です。
のんびりペースにお付き合いできる方に借りていただければ、お互いに居心地がいいのではないか、と勝手に思っています。
ご希望の方はいらっしゃいますか? いらっしゃったら、別途、個別にご連絡ください。庭には、花見のできる桜の木や柿の木などもありますよ。
新自宅の様子は、今後もおいおい、お知らせしていきます。

1年前はバングラデシュでユヌス教授に会っていた

新自宅へ移るのはのんびりと

毎日、東京の自宅で過ごしていると、常に新しいことやハッとすることが現れるとは限らない。

作業をしながら、初めて、あんみょんという歌手の歌を聴いたり、アップル・ミュージックのオススメのままに、知らなかったジャズ・ミュージシャンに出会ったりと、刺激は色々あるのだが、物理的に動きの少ない日々。
そんななかで、1年前のことを思い出してみた。バングラデシュへ行っていたのだった。

たまたま知り合いになった若手実業家の方のお誘いで、「事業構想ツアー」というイベントに参加し、2019年5月5〜8日、バングラデシュに滞在した。初めてのバングラデシュだった。
このツアーは、その若手実業家の企業とバングラデシュのグラミン・グループとの共同開催で、実際にグラミン銀行やその他のグラミン・グループの様々なソーシャル・ビジネス企業を訪問できるというのが魅力で、参加したのだった。グラミン銀行から小口融資を受ける女性グループの集まりも覗かせていただいた。
そして、2019年5月8日、グラミン・グループを率いてきたモハマド・ユヌス教授と直に面会するという、貴重な機会を得ることができた。このツアーで一番実現したいことだった。
建設中のグラミン・グループのメインビルでマイクを握るユヌス教授
このツアーでは、ソーシャル・ビジネスとは何かを、グラミン・グループの実践から学ぶことが目的だった。
学んだことの一つは、ソーシャル・ビジネスでは、利益を企業内部に溜め込むのではなく、それを社会的に有用な活動へ再投資する、ということであった。社会投資のためには利益を上げなければならないから、それを織り込んだ上での企業経営が求められる、ということになる。
すなわち、社会投資を行うためには、利益を上げるだけではなく、社会投資を行うのに十分なさらなる利益を上げ続けていかなければならないということ。そのため、費用・便益をより厳しく考えなければならない、ということなのだった。
グラミン・グループは、そのノウハウを長年にわたって培ってきたという。そのノウハウの一端でも学びたい、と思ったが、1年前のツアーではそこに至る前の段階で終わってしまった。
グラミン・グループは、グラミン銀行の顧客となっている貧困者の子弟を対象に、ビジネス・スタートアップを支援する事業「ノビン・プログラム」というのを行なっていて、そのノウハウの一部は海外へも移転している。
今年は当初、それを集中的に学ぶためのツアーに参加する予定で、本来ならちょうど今頃、そのツアーを終えて、バングラデシュから帰国している頃だった。新型コロナウィルス禍が落ちついたら、再度、バングラデシュへ行って、それを学びたいと思っている。
面会の際にユヌス教授が何度も強調していたのは、現場からの学びだった。ソーシャル・ビジネスの種は、すべて現場にあり、その課題をどう解決するかを考えていくなかで、ビジネスを通じた解決の方法が見えてくる、ということだった。
その意味でいうと、現在の新型コロナウィルス禍は、まさにそうしたソーシャル・ビジネスを生み出すような社会的課題だらけの状況といってもよい。そして、ユヌス教授は、今後のビジネスの主流はソーシャル・ビジネスになる、とまで予言している。
それ以来、自分なりにソーシャル・ビジネスのことを考えてきた。具体的な事業が思いついたわけではないが、ユヌス教授が予言したような、ビジネスが社会的な課題の解決を目指す方向性は1年前よりも顕著になってきていると感じる。
私たちは、どんな未来を創っていくのか。
ビジネスセンスにはあまり自信のない自分だが、現場からつぶさに考え、自分なりの社会的な課題解決モデルが創っていけたら、という気持ちは持ち続けたいと思う。いつかそれが結実できることを願う。
そのために日本から持参したご著書へのユヌス教授の自筆サインは、自分のかけがえのない宝物となった。

新自宅へ移るのはのんびりと

柿の花を見たことがありますか

東京の我が家の庭には、柿の木が3本あります。1本が甘柿、1本が渋柿、1本はよく分かりません。

3月後半の桜の花が終わって、我が家の庭は今、ツツジの花が盛りを終え始めました。

新緑、といってよい若々しい緑がどんどんしげり、うっそうとし始めた柿の木。すると、妻から「ちょっと来て!」という声。

妻が指差す方向を、目を凝らしながらみると・・・

柿の葉の間に、いくつもの四角い花を見つけました。柿の花です。

これは甘柿の木。1年おきに豊作と不作を繰り返します。

今年は、もちろん豊作に違いありません。

関西に行くと、いつも楽しみにしているのが柿の葉寿司。ということで、柿の葉はおなじみでしたが、柿の花は今回初めて見ました。

皆さんは、柿の花を見たことがありますか。

先ほど、ようやく『よりどりインドネシア』第69号を発行

柿の花を見たことがありますか

毎月2回、おおよそ7日前後と22日前後に、ウェブ情報マガジン『よりどりインドネシア』を発行しています。

今日も、昼前からずっとこもって、編集作業プラス自分の原稿を書き上げて、先ほど午後10時半過ぎ、ようやっと発行しました。

第69号のカバー写真です。

第69号の内容については、以下のサイトをご覧ください。

 https://yoridori-indonesia.publishers.fm/issue/4843/

2017年7月1日発行の創刊準備号(第0号)から始まり、今日まで、欠版を出すこともなく、毎月2回、発行し続けて、第69号までこぎつけました。バックナンバーの第0号から第19号までは無料全文公開しています。

バックナンバーはこちらから → https://yoridori-indonesia.publishers.fm/backnumber/

『よりどりインドネシア』を発行しているのは、様々なインドネシア、いくつものインドネシアをお伝えしたいと願っているためです。

ともすると、日本でお目にかかるインドネシアの情報は、観光地のバリ島か、ビジネス関係者の集まる首都ジャカルタかの2つに偏る傾向があります。

もちろん、そこに日本人の情報に関する需要があるので、日本のメディアの関心はバリ島とジャカルタに集中してしまうのはやむを得ないことです。

でも、インドネシアは「多様性の中の統一」の何でもありの場所。無尽蔵の様々なインドネシアが全国各地に深く広く散らばっています。

それをよりどりつまみ出して、インドネシアの多様性と深みがお伝えすることは、35年間プロとしてインドネシアと付き合い、34州中28州を歩いた自分にとってのミッションであり、喜びでもあります。

幸いにも、インドネシアで現地社会のなかで生活されている方々に執筆してもらい、日本からの出張者の目とは違う視点から見えるインドネシアをお伝えできています。

今後は、さらにインドネシアの様々な現地社会で生活されている方やされていた方に新たに執筆者と加わっていただくことや、ぎゃうに、日本で生活しているインドネシアの方々からみた日本社会の様々な出来事なども書いていただけたらなあと思っています。

海外に日本を紹介する場合でも、東京と京都しか紹介されなかったら、日本を紹介したとはいえないことでしょう。

このささやかなウェブ情報マガジンをきっかけに、日本の皆さんも、様々な、いくつものインドネシアの面白さを味わって、興味を持っていただければ、とても嬉しいです。

よろしくお願いいたします。

柿の花を見たことがありますか

マスクが大量に売られているのだが・・・

先ほど、ようやく『よりどりインドネシア』第69号を発行

日本で、世界で、マスクが入手できない、という声がずっと続いているのに・・・。

なぜか、東京の自宅の周辺では、数週間前から、マスクが大量に売られている。自宅から通りに出て、すぐの3店で、売り切れることもなく、マスクが売られ続けている。
そして、自宅から駅までの間で、マスクを売っているところが、さらに2~3ヵ所ある。

でも、それはドラッグストアや薬局ではない。ドラッグストアや薬局では、依然として入荷していない。

自宅の近くでは、上の写真にある健康食品を売っている店、雑貨店、そしてそれらと通りの反対側にある小さなスーパーで、マスクが売られている。
駅までの間では、なぜか、飲食店でマスクが売られている。
そして、売り切れることなく、ずっと売られている。群がってマスクを買っている人を見ることもない。
価格は、50枚1袋で3,000円程度。
日本語表示はされているが、製造元や品質に関する情報が不明確なのである。
日本の有名メーカーの製品なら、たちどころに売り切れるだろうが・・・。
アベノマスクの話や、シャープなどが製造するという段階になって、どこかでだぶついていたマスクが一斉に姿を現したのだろうか。
SNSでは、出元不明のマスクが大量に売られていて、しかも値崩れを起こし、毎日、売価がどんどん下がっている、という話もある。
マスクは、感染防止という性能が決定的に重要なので、その性能が明確でないマスクはいくらあっても売れないし、ドラッグストアや薬局でも売らないという判断なのだろう。
マスクを売っている自宅近くの店では、今日から、ハンドサニタイザーも売り始めた。でも、やはり出元不明である。

田谷さんのベビーリーフが届いた!

マスクが大量に売られているのだが・・・

5月1日のブログでも触れた農園たやの田谷さんのベビーリーフが今日届きました。

農園たやは、高級レストランなどのプロ用にベビーリーフを出荷してきましたが、新型コロナの影響でレストランが閉店し、行き場を失ってしまいました。
この行き場を失ったベビーリーフを、希望者向けに販売し始めたのですが、それを購入したところ、今日、クール宅急便で、東京の我が家に届きました。
箱を開けると、それはそれは立派なベビーリーフが・・・。
届いた今が一番新鮮で絶対おいしい!、ということですぐにいただきました。

レストランじゃないので、盛り付けは格好よくないのはお許しを。

まず、何もつけずに生で食べると・・・おいしい!
野菜の味が濃く、そのまま食べて本当においしい。
続いて、去年、馬路村へ視察に行ったときにお土産でいただいた柚子ドレッシングをかけてみると・・・もちろんおいしい!
ドレッシングがおいしいのはもちろんですが、べビーリーフ本来の味がしっかりのこる。野菜の味が消えないのです。
あっという間にベビーリーフをひと盛り食べ終え、もうひと盛り追加しました。
しばらく、田谷さんのベビーリーフを味わえる喜びが続きます。
皆さんもいかがですか。
1組(100g x 5袋)は通常価格1,890円(税込)ですが、それを972円(税込)の特別割引価格で提供しています。
農園たやのベビーリーフの詳しい情報はこちらから → https://nouen-taya.raku-uru.jp/item-detail/344199
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そうそう、ベビーリーフを運んできてくださった配達員の方には、ダリケーのペイフォワードで購入したチョコレートを差し上げました。
ダリケーのペイフォワードについては、5月2日のブログで紹介しました。

ダリケーのペイフォワードの情報・購入はこちらから → https://dari-k.shop-pro.jp/?mode=f2

あなたがペイフォワードでダリケーの対象製品を購入すると、それに見合う数のチョコレート菓子が医療従事者にギフトされます。

アートへのアクセスを民主化させたい(追記あり)

田谷さんのベビーリーフが届いた!

昨日(5/3)、いつものように夜、NHKのEテレの「日曜美術館」を観ていた。

番組で取り上げられていたのは、オラファー・エリアソン氏の「ときに川は橋となる」という名の展覧会。東京都現代美術館で開催されているはずだった。

展覧会の詳細はこちらから → https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/olafur-eliasson/

オラファー氏のアートは、どれも魅力的であるとともに、いずれにも、なぜこのようなアート表現をするのか、という彼の思想や哲学が明確に存在する。

そして、ディーテールまで計算して創りあげるというよりも、むしろ、自然の光や風が、二度と再現できないような、その瞬間瞬間の偶然の美しさが自ずと現れてくる。湧き上がってくる、といったほうがいいかもしれない。

その彼が番組の中で語っていた言葉に惹かれて、書き取っていた。

 アートへのアクセスを民主化させたい
 アートはプラットフォームのような場所である
 社会的につながれるアートという場所で何ができるかを考えたい

アート作品を誰がどのように感じようと、それは自由であり、観ている人たちも、実はその瞬間瞬間にアート作品の一部と化している、ということか。

様々な見方や、様々な感覚や、様々な解釈がそこで出会い、そしてそれぞれがそのまま混ざり合う。そのなかの何物も否定されない。誰がどう観ても否定されない。そういった様々なものがそのまま存在する。

場としてのアート、ということか。今、様々な場をつくるということがよく言われるが、アートもまたそんな場所を作れるのだ。

アートのアクセスを民主化させたい、ということは、まだ民主化されていないということなのか。もしかすると、民主化させていないのは、アートを何か特別なものと意識している私たちなのかもしれない。そんなことに気づいた。

<追記(2020年5月12日)>
2020年5月12日付『朝日新聞』朝刊の「折々のことば」にオラファー・エリアソンの「私はアートとのつながり方を民主化したいのです。」が、以下のように取り上げられています。
制作者と鑑賞者という関係を離れて、お年寄りから子どもまでそれぞれに楽しみ、また何が大事なのかをいっしょに考える。アートは人びとが行き交うプラットフォームのような場だと、デンマーク出身の美術家は語る。文学もそう。物理的に離れていても本さえあれば、人は何百年も前に生きた異国の人とも一対一で向きあえる。NHK・Eテレ「日曜美術館」(4月26日)から。

貧困の津波

アートへのアクセスを民主化させたい

新型コロナウィルス感染拡大は、私たちに様々な困難を強いている。自分も含め、多くの人々が日々の生き残り策に集中し、自分以外の人々になかなか関心を向けられない状況になっているのかもしれない。

そんななかで、今日、自分に突きつけられた言葉。
それは・・・「貧困の津波」
2020年5月3日付『朝日新聞』の国際面のその言葉があった。

新型コロナウイルスの大流行により、世界中で4億人以上が貧困状態に陥り、貧困問題は10年前に逆戻りする恐れがある――。国連大学の研究所が先月、そんな予測を出した。報告書を書いた研究者は事態の深刻さを「まるで貧困の津波だ」と語った。

インドで起こった突然のロックダウンで、解雇などで失職し、交通機関も途絶えるなか、故郷へ、何十キロも、何日も、昼の炎天下、食べ物もお金も尽きても、無言のまま歩き続ける人々。
故郷の村まであと150キロのところで息絶えた12歳の少女は、そんな数百万人の人々の一人だった。
彼女の12年の人生を思う。インドは豊かになったのではなかったのか。

法外な料金を払い、荷台にぎゅうぎゅう詰めのまま、運よくトラックに乗れても、故郷へ向かう途中で警官の検問に出くわし、首都デリーへ強制的に戻らされる。避難所に収容されればラッキーなのだが、故郷へは戻れぬまま。ロックダウンのなかでどうやって生きていくのか。

人口14億人のインドを「貧困の津波」が襲う。
南アフリカでも、ケニアでも。インドネシアでも。そして日本でも。
自分ではもうどうにもならない、でも誰も助けてくれない、世界も国も金持ちも。
貧困の津波は、寄せては返し、寄せては返しを繰り返し、起こり続けていく。そして、寄せては返すたびに、貧困は深まり、そして広がる。
成長重視から分配重視へ生き方を変えよう、などと言える余裕はもうない。
感染で亡くなる。そして、感染しなくとも、貧困で亡くなってしまう。
富める先進国も、自国のことで手一杯で、「貧困の津波」が世界中で起こっていくことに頭が回らない。自分たちの生活が第一であることは当然である。でも、同時に、世界中に「貧困の津波」が押し寄せていることにも心を留めておきたい。
この種の「津波」の予知が難しいのなら、せめて、金銭的な施しや人道支援はもちろんだが、それだけでなく、「津波」の力をどう緩められるか、どう乗り越えていけるか、世界中で皆が知恵を出し合い、行動していかなければならないだろう。
自分がもしも彼らだったら・・・・。「かわいそうなひとたち」で片付けている間は、人々が思い合う新しい世界は造れない。どうすればいいのか、簡単に答えは出ないが、しっかりと心に留めておきたい。

アートへのアクセスを民主化させたい

ダリケーのペイフォワード、さらにその先へ

貧困の津波

京都のチョコレート製造販売会社、ダリケー。インドネシア・スラウェシ島産のカカオを使ったチョコレートや、非食品を含む様々なカカオ製品を製造・販売しています。

おそらく、インドネシア産のカカオを使ったチョコレートを日本で製造販売しているのは、ダリケーともう1社ぐらいでしょうか。

スラウェシということで、私も、ダリケーのアドバイザーとして、お手伝いをしてきています。毎年恒例の、スラウェシのカカオ農家を訪問するツアーの引率をずっと務めています。

ダリケーについての詳しい話は、同社のホームページ(https://www.dari-k.com/)をご覧ください。

そのダリケーが今、ペイフォワードという取り組みを始めています。

新型コロナウィルスの影響で、他者と同様、ダリケーも多くの在庫を抱えることになりました。そのままでは、スラウェシのカカオ農家からの買付を続けられなくなってしまうかもしれません。でも、そもそもダリケーは、国際価格に翻弄されるカカオ農家に寄り添うことを目的に事業を始めた経緯があります。

新型コロナウィルスに翻弄される今、ダリケーは社会に対して何をなすべきなのか。ダリケーも含めて、関わる人々がウィン=ウィンを共有できるような仕組みとは何か。

考えに考えた末に、出した結論が、今回のペイフォワードです。

すなわち、新型コロナウィルス対策の最前線で懸命に対応している医療従事者への感謝の気持ちを自社のチョコレートで示す。そこで、趣旨に賛同していただいた方にチョコレートを購入してもらい、その販売量に合わせて、医療従事者にチョコレートを届ける。

ダリケーの在庫を減らすことができ、カカオ農家からの買付も継続できます。

医療従事者の方々にとって、チョコレートは決して必需品ではないかもしれません。でも、たとえほんの束の間でも、ホッとするひと時を味わえる。そのチョコレートの裏に、たくさんの方々が応援している気持ちが伝わります。

チョコレートには、そんな誰かが誰かのことを思う、思い合う、そんな気持ちと気持ちを通わせる力があるはずです。

名も知れぬ誰かが医療従事者である誰かのことを思ってくれている。その実感。

ペイフォワードで購入したチョコレートを味わう購買者も、今頃、自分の知り合いでも何でもない医療従事者である誰かを思う。

そして、そんな思い合い(思い愛?)の根本は、スラウェシのカカオ農家が作ってくれたカカオにある。そんなカカオ農家のことを思う。カカオ農家は、自分たちのカカオを使った製品が日本の医療従事者の力になっていることを思う。

そんな思い合いが繰り返され、広がっていったら、そのような世界は幸せな世界になるのではないでしょうか。

コロナ後に私たちが目指す未来の一端は、もう始まっているのかもしれません。

そして、そして、ペイフォワードでダリケーのチョコレートを購入した方々は、医療従事者やカカオ農家やダリケーのことだけでなく、ほかの方々への感謝の気持ちも現れるかもしれません。それは、たとえば、ダリケーのチョコレートを配送してくださった宅配業者とか・・・。

誰かを思い、誰かから思われる。それが連鎖となって、次から次へとつながっていく。自分は一人ではないと、みんなが思える世界。新型コロナが強いる、物理的に遮断される社会は、だからこそ生まれる思い合いの連鎖が、あたかも想像の共同体のようになり、つながっていく、他者を信じられる世界へつながっていくのかもしれません。

未来を悲観したり、諦めたりしたくはありません。ダリケーのペイフォワードのさらにその先に、新型コロナ後の新しい世界が少し見え始めたような気がしています。

貧困の津波

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