数日前、個人ツイッター(@daengkm)に次のようなつぶやきを書いた。
日本以外にいる、個人名でお付き合いしている友人・知人は何人いますか。自分は、ずいぶん前に、人数をもう数えられないので、数えるのをやめてしまった。
いつの頃からだろうか、友人をどの国の人か、人種は何か、宗教は何か、というような面から見ることができなくなった。インドネシア人だとか、イスラム教徒だとか、ブギス族だとか、そういううふうに見ることができなくなった。
もちろん、彼らとやり取りする言葉は違う。彼らがインドネシア語でメッセージをくれればインドネシア語で返し、英語でやりとりすることもあるし、日本語のときもある。
日本人だからより近い友人だとか、インドネシア人だけど近い友人だとか、そういうふうに思えなくなった。いるのは、ただ単に、信頼できる友人、話していて楽しい友人、意見は異なってもその違いを尊重してくれる友人、それだけである。
私たちは、この世に生を受けた場所がたまたまそこだった、親がたまたま国籍や種族がそうだった、ということで、何らかの属性をもって生まれてくる。国家が私たちを生まれさせたのではない。生まれたときの属性のなかに、偶然、たまたま、国家というものがそこにあったに過ぎない。
もちろん、たとえ国家がなかったとしても、人間は生まれるのだ。そして、国家のために生まれたのではない。自分が一人の人間として生きるために生まれたのだ。
ただ、人間として生きていくために、他者と自分を区別するために、名前がつけられる。生きていくためのコミュニティに身を置く。そこで暮らす。そこで個人を識別するものは、名前という固有名詞であって、国籍や種族ではない。
〇〇国人は△△だ、□□族は??だ、といったたぐいの話を一般にきく。でも、その特性を証明するデータや論文は存在しない。人間は一人ひとり異なる。善人も悪人もいる。感情的な人も冷静な人もいる。どんな国でも、どんな種族でも、一般化の根拠になっているのは外部者(ときには内部者も?)の勝手な印象にすぎない。
外国人という方々と接するときに、そうした、ただの印象論に基づくバイアスが無意識にかかってはいないだろうか。
初めて会うときはやむを得ないかもしれない。この人はいい人なのか、信用できるのか、こちらを騙そうとしていないか、なにか思惑があるのではないか。色々と詮索してしまうのは当然である。
では、何をきっかけとして、どの当たりから、相手を信用できると思えるようになるのだろうか。
見た目だけでそれがわかるのは超能力者だけだろう。普通人には、対話のプロセスが必要になる。対話が成り立ち、お互いに自分をさらけ出せるレベルまで対話が進んで、初めて相手を信用できるのではないかと思えるようになる。
もっとも、それが常に正しいとは限らない。間違っていて、あとで後悔するような事態にならないとも限らない。それでも、相手を知るためには、対話するしかないのではないか。
対話のしかたというのもあるだろう。相手として安心できる対話とはどのような対話だろうか。こちらがずっと警戒し続ければ、相手もずっと警戒する。相手の疑念が溶け、安心できるような対話術。それは、こちらから相手を信用しようという態度からしか生まれないのではないだろうか。
そうした対話を通じて、〇〇国人とか□□族とかではない、お互いの名前という固有名詞でつながる関係を作ることができる。あるいは、そこまで行かなくとも、対話を通じて、自分と通じ合えるであろう人間がこの世の中に存在することを確認することができる。
さらに、そうした方々が暮らす地域もまた、固有名詞の地域として存在する。国家の一部ではあるが、国家がどうなろうとも、人々の暮らしの舞台である地域は固有名詞の地域として存在し続ける。
対話を通じて人と人が安心でき、信用し合える、固有名詞でつながる関係をつくるのと同じように、地域もまた、固有名詞の地域として他の地域とつながり合える。官僚的手続は国家を経由することを求める場合もありうるが、国家を経由しなければつながれないわけではない。地域と地域との間も、そこに関わる人々どうしの対話を通じて、安心でき、信用し合える関係を作っていけるはずである。
人間どうしが属性や肩書などと関係なく、対話を通じて互いに尊敬し合い、信用し合える関係をつくるときには、どちらが上か下かという話は起こり得ない。同じように、地域と地域が関係をつくっていく際にも、どちらの地域が上か下かという話にはならない。
その人間を育んできた自然や社会や文化や歴史が違うのと同様に、地域を成り立たせる自然や社会や文化や歴史が異なるのだから、どちらが上か下かを比べることはできないはずなのである。
他方、国家は、経済規模や戦争などを通じて、いつの間にか、上下関係が常態化してしまった。様々な比べる指標があるからである。
そうなのだ。固有名詞でつながる世界は、上下関係、主従関係から解き放たれた世界、互いの違いを尊重し合える世界なのかもしれない。そのために必要なのは、対話、そしてそれを続けるためのいくばくかの忍耐と寛容なのではないか。