グローカルとは何か:私なりの解釈

昨日は、福島市で法人登記申請をした後、実家で少し休み、登記が完了する4月20日までは何も手続を進められないので、とりあえず、東京の自宅へ戻ることにしました。

ふと思って、久々に、福島から東京まで東北本線の普通電車を乗り継いで行くことにしました。福島から黒磯、黒磯から宇都宮、宇都宮から赤羽、赤羽から自宅の最寄り駅まで、5時間かかりました。昔ならば6〜7時間かかったので、ずいぶん短縮されました。

たいして疲れを感じることはなかったのですが、池袋の法明寺で桜を眺め、帰宅すると、かなりの疲労感を感じてしまい、少し睡眠をとりました。年齢のせいとは思いたくないのですが、福島と東京との間の移動については、時と場合による良い方法を追求していきたいと思います。

法明寺の桜

ところで、松井グローカルという名前に使う「グローカル」という言葉について、世間で言われているのとは、ちょっと異なる解釈かもしれませんが、私なりの解釈があります。それについて、今回は少し述べてみたいと思います。

インターネット上でグローカルという用語は、たとえば、「グローバル(Global:地球規模の、世界規模の)とローカル(Local:地方の、地域的な)を掛け合わせた造語で、「地球規模の視野で考え、地域視点で行動する(Think globally, act locally)」という考え方」というのがあります。

日本語ウィキペディアでは、さらに以下の3つのような意味合いで使われる用語、とされています。

1)地球規模/多地域での展開を目指しながらも、地域の法律や文化に応じる形で提供される製品やサービス。
2)インターネットなどの電子コミュニケーション技術を活用し、地球規模/多地域の基準の下で提供される地域限定のサービス。
3)地域の文化や需要に応じるために、世界的な企業が設立する現地法人、など。

上記の一般的なグローカルの意味を見て感じることは、「まずはグローバルがあり、それをローカルへ展開する」「グローバルを目指しつつもまずはローカルから始める」という方向性です。日本語ウィキペディアには、「「グローカリゼーション」という言葉は、1980年代の日本企業が営業戦略として使用し始めた」ともあります。

日本で「グローカル」という名前を用いた企業や法人はいくつかありますが、その多くは、日本での事業を世界へ広げる、あるいは世界的視野で行う、というニュアンスがうかがえます。
私の考える「グローカル」はこれらとは異なります。
私の考える「グローカル」は、ローカルから始まります。地域、地域の人々や暮らしから始まります。
地域を大事にするという意味では、地域主義や、グローバリゼーションの反対語としてのローカリゼーションとも共通するところがありますが、それらとも異なります。
私の考える「グローカル」は、ローカルとローカルがつながることから始まります。そのつながりが、蜘蛛の巣状のインターネット網のように、無秩序にどんどんつながっていくような、ローカル間のネットワークが国境を越えて作られ、結果的に、ローカル間のネットワークがグローバル化する、というイメージです。
なぜ、ローカルとローカルとをつなげるのでしょうか。
日本やインドネシアやアジア各国やアフリカなど、様々な場所の地域を訪ねて感じたことがあります。それは、世界中のローカルが根底で同じ問題に直面している、ということです。
インドネシアでは、グロバリゼーションは、西洋化や欧米化の文脈で捉えられてしまうことが少なくありません。しかし、EUやアメリカの農民たちもグローバリゼーションを嫌っていることを話すと、「信じられない」という顔をします。他方、彼らは、ファーストフードの流行や携帯電話を手放せないことなどは、誰かよそ者に強制されて強いられているわけではなく、自分から好きでそうしている、ということは、自分もまた、グローバリゼーションをつくる一員になっている、ということに気づきます。
私たちは、そうした意味で、グローバリゼーションから逃れることはできなくなっています。グローバリゼーションに反対して自らを閉じてしまうのではなくて、グローバリゼーションによって、自分自身の育った地域が伝えてきた様々な教えや自分のくらしを自分たちが否定したり、忘れたりしそうになっている、ということに目を向ける必要があると思うのです。
15年ほど前に地元学に出会って学んだことは、果たして自分は自分の暮らしやその暮らしを成り立たせる地域について、どれだけ知っているのだろうか、ということでした。まずは、自分の足元を実は意外に知らない、ということに気づくことの大切さでした。
多くの地域では、自分たちの足元にあるものよりも外から来るもののほうが優れている、と思いがちです。日本もまた、欧米化することがより良くなることだと、もしかしたら今もずっと信じ続けているかもしれません。
そして、祖先から伝えられてきた、自然とうまく共生し、自然を上手に活用する様々な知恵を忘れていきました。自然から天候を読むのではなく、スマホの天気予報のほうを信じるようになりました。
私は、そうした変化を拒んだり、否定するものではありません。しかし、自分自身やその暮らしの元になっている地域を否定したり、忘れたりしてはならないのだと思います。
記憶に残すということは、過去を懐かしむためではありません。それが何十年も、何百年も、もしかすると何千年も伝えられているとするならば、そこに何かの意味があるはずです。その意味を現代の地域の文脈で学び直すことが、地域をもう一度見直すことにつながるはずだと思うのです。
そうしたもののなかから、その地域はいかなる地域であるか、という地域のアイデンティティが醸し出されてくるのです。しかし、そのアイデンティティがどこにあるかを感じられなくなっている、というのが、全世界のローカルが直面している根底問題ではないか、と思うに至りました。
まずは、自分たちだけではなく、世界中のローカルがアイデンティティ危機に直面していることに各々のローカルが気づき、自らが何であるのかを知りたいと思って行動を始め、それで改めてつかんだ何かをアイデンティティに加えていく、それを行っているローカルどうしがそれぞれのアイデンティティを認め、尊敬し合い、場合によっては、一緒に何か新しい価値を生み出していこうと動き始める。それに地域おこし、地域づくり、地域振興、地域復興などの名前を付けたければ付ければよいのではないか。
私がローカルのために何かを創るのではありません。そこの方々が自ら主体的に何かを創るお手伝いをする。私は、そんなプロフェッショナルな触媒を目指したいのです。
松井グローカルの活動対象は、全世界のローカルです。まずは、法人登記した生まれ故郷の福島市から始めます。
日本全国どこでも、世界中どこでも、必要とされるローカルで、そのローカルが自ら主体的に自らを知り、活動を自ら始め、必要に応じて他のローカルとつなぎながら、新しいモノやコトを創り始める、そのプロセスに触媒として関わっていきたいと思います。
ローカルの力を信じ、自分たちの暮らしを見つめながら、新しい価値を自ら創り出すお手伝いをする、そんな仲間が日本中に世界中に増えてくれば、国家単位で物事を見てきた風景とは違う、新しい風景が生まれてくるのではないか、おそらく地域づくりというものの中身が変わってくるのではないか、という気がしています。
私が「松井グローカル」という名前を使うのは、こうした世界が生まれ、支配者のいない、ローカル間のネットワークがグローバル化していくことを夢見ているためなのです。

違う言葉で、インターローカル、インターローカリゼーション、という言葉もあり、これも私が目指すことを表しているかもしれません。

妄想に取り付かれたような文章を長々と書いてしまいました。皆さんからの忌憚のないご意見やご批判をいただければ幸いです。

松井グローカル合同会社を設立

本日(2017年4月11日)、福島地方法務局に法人登記申請をいたしました。したがって、本日が松井グローカル合同会社の設立日となりました。

これまで、「松井グローカル」の名前で活動してきましたが、ステータスとしては個人事業主であり、「松井グローカル」は屋号でした。今後は「松井グローカル合同会社」という法人として活動してまいります。基本的には、これまで同様、私1人だけの会社(従業員なし)の形となります。

福島地方法務局によると、登記完了は4月20日午前ということで、実質的な活動はそれ以降となりますが、これから少しずつ、本格的な活動へ向けての準備を進めていきます。

定款の中で定めた事業の目的は以下のとおりです。

1.国内外での地域づくりに係る調査、アドバイス、コンサルティング
2.国内外でのビジネス支援に係る調査、アドバイス、コンサルティング
3.国内外での国際協力に係る調査、アドバイス、コンサルティング
4.国内外での地域づくり、ビジネス支援、国際協力に係る交流・連携支援
5.インドネシア等の政治・経済・社会等に関する調査・分析・情報提供
6.セミナー、ワークショップ、研修、会議等の実施運営、講演・ファシリテーション
7.前各号に付帯関連する一切の事業

「ローカルとローカルをつないで新しいモノやコトを創り出す触媒となる」という自分のミッションを掲げた以上、活動の軸足をローカルに置く必要があると考え、故郷の福島市で登記申請を行いました。これは、前々から考えてきたことでもあります。

今後は、福島市を主拠点とし、東京、マカッサル、ジャカルタなどを副拠点としつつ、これまで通り、日本や、インドネシアをはじめとする世界の必要とされている場所で必要とされる活動を行い続けていきたいと思います。

そして、福島を含めた個々のローカルが自らの力を高め、国境や宗教や種族を越えて互いに尊重し合い、学び合い、活動し合う関係を築けたら、もっと温かく、もっと楽しく、もっと面白い未来が開けてくるのではないかと思います。

まずは福島から始めます。松井グローカル合同会社を通して、そんな仲間を世界中に作り、一緒に未来を作っていく旅を始めます。

(上記は、松井グローカルのホームページに記載したものと同じ内容です。ご了承ください)

スラバヤの食は劣化しているのか

3月26日〜4月5日は、借りていたアパートの部屋の片付けなどでインドネシア・スラバヤとマランへ行っていましたが、食べ歩きも、もちろん忘れませんでした。

スラバヤへ行ったら食べたくなる食べ物も味わいましたが、その中には、明らかに味が落ちたものがいくつかありました。どうして、こんなに味が落ちてしまったのか、ちょっと残念でした。

これまでの経験から独断と偏見でいうと、インドネシアで食べ物の美味しい街といえば、ジャワ島ではスラバヤ、スマラン、マラン、バンドンあたりでしょうか。もちろん、ジャワ島の農村部で食べる何の変哲もない食事でとても美味しいものに出会うこともよくあります。

たとえば、スラバヤの5つ星ホテルの一つ、マジャパヒトホテルのコーヒーショップで出されるアップル・ストゥルーデル。

マジャパヒトホテルは、オランダ植民地時代にはオレンジホテル、日本占領期にはヤマトホテルと呼ばれた、コロニアル風建築のホテルで、一泊の価値があると思います。

オランダ植民地時代からの独自レシピで、このホテルの前身のホテル以来、出してきた名物スウィートです。これが食べられるのは、インドネシアではここだけです。

上が今回2017年4月2日に食べたもの、下は2016年12月8日に食べたもの、です。二つの写真を比べれば、その違いがよく分かります。

アップル・ストゥルーデルは、りんご餡と生地を交互に重ねたケーキ菓子で、その美味しさに重要な役割を果たすのが、甘すぎないりんご餡とサクサクの生地です。

以前の下のものは、生地がサクサクで、上部に冷たいクリームがしっかり入っていて、甘さだけでなく、冷たさも味わえ、ナイフでサクッと切るのが難しいほど、生地がしっかりしていました。

今回のものは、生地のサクサク感がなく、真ん中に入る生地がしっかりしておらず、また、クリームの質も以前より落ちていました。

生地のサクサク感がないのは、冷凍保存していたものを解凍して出してきているのも理由の一つでしょう。冷凍ものを出すようになって、明らかに生地のサクサク感がなくなり、味が落ちました。もちろん、昔のアップル・ストゥルーデルはもう戻ってこないかもしれません。

他にも、中華系の麺店エンペラー・ラーメンの辛味肉味噌そばも、残念な味になっていました。

常連だったチプトラ・ワールド店は閉店してしまったので、今回は、トゥンジュンガン・プラザ店で食べてみました。

味噌がドバッと載っていて、何よりも、味噌の下の麺がほぐされてなく、くっついたままの状態でした。味噌と絡める前に、麺をほぐさなければなりません。麺の茹で具合はやわからすぎ。肉味噌の味も辛さやパンチが効いていません。

ちなみに、以前、よく食べていた辛味肉味噌そばは、下の写真です。

肉味噌と細切りジャガイモが絶妙に絡み、汁なし麺のなかでも最も好きだった麺の一つでした。写真を見比べると、違うメニューのようにも見えますが、同じメニューなのです。

これら二つのほかにも、いくつか残念な食がありました。食材コストや労働コストの上昇が料理の質の劣化を招いている可能性があります。

でも、人気店にはますます客が集中していて、長蛇の列になっています。一方、いったん質が落ちると支店の数が減ってどんどん劣化します。スラバヤでも、こうした二極分化が進んでいて、前者の数が増えていないのかもしれません。

ソトアヤム・チャ・ハールのように、屋台同然だった店が評判になり、メニューはソトアヤム(鶏肉の実だくさんスープ)だけなのに、広い敷地で営業するようになるケースもあります。

スラバヤ全体として食の劣化傾向が起こっている、とまでは断定できないかもしれません。しかし、飲食業界での競争はますます激しくなり、かつての有名店でも、名物料理を持っていても、うかうかしていられない、という状況であることは確かなようです。

タニンバル絣を使ったファッションショー

今日は、在日インドネシア大使館で開催されたファッションショーに行ってきました。

今回のファッションは、インドネシア・マルク州西東南マルク県にあるタニンバル島のイカット(絣)を使い、服飾デザイナーのウィグニョ・ラハディ氏が制作した作品が紹介されました。

ウィグニョ氏は、日本の伝統的な着物に着想を得て、それをタニンバル絣と組み合わせた「メタモルホスイースト」(Metamorphoseast)というテーマで作品を制作。たしかに、着物や帯、袴といったものをイメージさせる作品が出されました。

昨日の会議で一緒だった西東南マルク県高官を含むマルク州訪問団の方々と再会しましたが、自分たちの伝統的な布がこのような形で日本で紹介されることを、とても喜んでいました。

最近の絣は、原料の木綿の糸が細いものを使い、薄い生地にして着やすくしてきているのだとか。あのゴワゴワの絣も味わい深いものがありますが、ファッションとして着こなすならば、薄い生地もありなのだろうなと思いました。

インドネシア大使館も、1階のロビーをこんな風に使って、こんな素敵な企画を催すなんて、いつの間にか随分とセンスがよくなっているなあと感心しました。

このファッションショーには、マルク州代表団からもらった招待状で出席しました。マルク州代表団から「どうしても出席して欲しい。招待状を出させるから」と言われていたものです。本当にありがたいご招待でした。

今回の絣の生産地であるタニンバル島へ日本から行くには、ジャカルタないしバリからマルク州の州都アンボンへ飛び、アンボンからタニンバル島のサウムラキへ飛びます。アンボンからサウムラキまでの飛行所要時間は1時間半、ウィングエアが1日1〜2便飛ばしています。

タニンバル島のある西東南マルク県は、日本企業も開発に関係するガス田・マセラ鉱区の近くで、今後のガス田開発の展開を踏まえても、なかなかセンシティブな場所でもあります。しかし、今回の訪問団からは、日本への親近感と期待が強く表明されていました。

今回の出会いを機に、単にガス田開発があるからという理由だけではなく、彼らとの関係を深め、西東南マルク県とも丁寧にしっかりとお付き合いしていきたいと改めて思いました。

帰国、花見に間に合い、夜は用事

ジャカルタからタイガーエア+スクートというLCC乗り継ぎ、しかもシンガポール、台北経由の成田着で帰国しました。

当初、シンガポール=成田間で座席指定したのに、なぜかシンガポール=台北間と台北=成田間の座席が異なるというので、おかしいと主張したら、改めて通しのシンガポール=成田間で席を用意してくれたのですが、その席が優先降機となる前方座席だったので、今回のスクートはなかなかラッキーでした。

初めて日本に来た外国人観光客の鉄道乗り換えの手伝いなどをして、帰宅したのは午後1時過ぎ。その後、自宅でしばし、庭の桜で花見をしました。花は8分咲き程度でしょうか。4月2日に「東京の桜は満開」との報道があり、今年は東京で花見は無理かなと思ったのですが、間に合いました。

しばし、庭に机と椅子を出し、桜を愛でながら、お茶の時間を過ごせました。

桜以外の庭の花々も、咲き始めて、まさに春が来た!という感じでした。

そして、午後5時からは、都内某所で用事があるため、出かけました。インドネシア・マルク州の訪日団の一員である州政府職員の友人から「ぜひ来てほしい」と言われたためです。でも、行ってみたら、知らない日本人のビジネスマンばかりで、場違いな雰囲気でした。

会場に現れたマルク州訪日団を見てびっくり。同州政府職員の友人から紹介された訪日団の団長は、昨年2月、20年近くぶりに再会した私の友人でした。今回は、マルク州官房経済開発投資部長としての来訪でした。

会議では、ただ出席するだけと思っていたのに、ひょんなことからインドネシア語の通訳をする羽目になり、結局、最後まで通訳のお手伝いをしてしまいました。でも、その結果、当初は全く面識のなかった日本人のビジネスマンたちともお知り合いになることができました。

それはともかく、さすがに、帰宅途中の電車の中では久々に相当の疲労感を感じてしまいました。

マラン・ムハマディヤ大学の学生との討論会で講演

今日は朝9時から、マラン・ムハマディヤ大学で国際関係学科の学生たちと討論会がありました。学生側から希望されたもので、中間試験期間中にもかかわらず、40〜50人ぐらいの学生が集まりました。

会場は、校内のアル・ファッフルディン・モスクの1階です。このモスクには、アラビア語教室、国際関係学科の図書館、カウンセリング室など、様々な機能の部屋が設置されています。

私の講演テーマは、「グローバルの挑戦に対するローカルの強化:インドネシアと日本のケース」(Kekuatan Lokal dalam Menghadapi Tantangan Global: KAsus di Indonesia dan Jepang)というもので、このお題でインドネシア語での講演を40分ぐらいやった後、学生との質疑応答セッションとなりました。

講演では、今、なぜ、グローカルなのか、という話を中心に、生活の中での身近な事例をあげながら、グローバリゼーションという抽象的なものをどのように捉えたらいいのか、といったことを考えてもらう内容にしました。

出席した学生はとても熱心で、居眠りしている者は見当たらず、メモを取りながら聴いてくれている学生も多数いました。

質疑応答セッションでは、次々に手が上がり、活発に質問してくれたので、こちらも真剣に答えることができ、とても充実したセッションとなりました。

やはり、学生たちと真正面から真剣に議論し合うのは、本当にいいものですね。学生たちにとっても、何か少しでも、有益なものが伝わっているといいなと思いました。

自分でいうのもなんですが、こういうのが自分は好きなんだな、と改めて思いました。そして、インドネシアでも日本でもどこでも、正解を求めるためでも勝ち負けを決めるためでもない、自分たちが自分たちの頭で一生懸命考えるための対話の機会を、少しづつでもつくっていけたらいいなと思いました。

当初乗る予定だった午後3時マラン発のスリウィジャヤ航空便がキャンセルとなり、一便前の午後12:50発へ繰り上げになったため、討論会の後は、T先生にマラン空港まで送ってもらい、ずいぶんと早目にジャカルタに着いてしまいました。これから、シンガポール経由のLCC乗り継ぎで東京へ戻ります。桜がまだ見頃だといいのですが。

マラン・ムハマディヤ大学を訪問

今回のマラン行きは、マラン・ムハマディヤ大学を訪問することが目的です。同大学政治社会学部のT先生の招きで大学を訪問し、先生方や学生らと色々話をしました。

この大学は、インドネシアのイスラム社会団体であるムハマディヤが経営している大学の一つで、全国各地にあるムハマディヤ大学のなかで評価の高い私立大学で、インドネシア政府が認定したAクラス大学(国立29校、私立15校)の一つです。

英語で授業を行う国際クラスにも力を入れていて、ガルーダ・インドネシア航空の機内誌にその広告がよく載っています。学生数は3万人を超え、3つのキャンパスがあり、第3キャンパスはマラン市、マラン県、バトゥ市のちょうど境界に建っています。なかなか学校経営がやり手で、経営が悪化した遊園地を買い取って、教育機能を持った施設へ帰る計画もあるようです。

まず、政治社会学部国際関係学科の先生方と面会し、意見交換をしました。T先生は、私を客員として招聘して授業をしてもらいたいという希望を持っているようで、その話を追って内部で検討するということになりました。

次に、同大学調査・社会貢献局で同局の先生方と面会し、意見交換しました。この局は教員や学生の調査・研究の実施管理や、知の社会還元を意識した実地授業(KKN)の実施運営を行っている部署です。

今後、日本の大学と提携して、学生たちが一緒にフィールドワークを行うプログラムを行いたいという話でした。すでに複数の日本の大学と協力関係を持っており、まずはそこでのプログラムのさらなる発展という文脈で考えてみることをアドバイスしました。そして、必要に応じて、私からも協力することを約束しました。

調査・社会貢献局の方々からは昼食に招かれ、さらに歓談が続きました。

夜は、T先生の友人であるジャーナリスト、華人系団体代表、女性活動家、大学教師などと一緒に、夕食の後、約2時間半、自由に意見交換を行いました。話し合ったトピックは、グローバリゼーションとローカルの対応、インドネシア農業の今後、環境保全、日本との関係など、多岐に渡りました。

今日お会いした皆さんは、私の話を真剣に聞いてくださり、議論も前向きのものが多く、有意義な内容でした。今後、何らかの形で、マラン・ムハマディヤ大学と日本の大学などとの交流とそこからのさらなる展開を生み出していけるよう、引き続き、彼らとコンタクトを取りながら話を進めていきたいと思いました。

友人とスラバヤ街歩き(2)

プネレ墓地周辺を歩いた後、スラバヤ街歩きの友人I氏のバイクにまたがって、スナン・アンペルへ行きました。ここは、アラブ人街として知られているところで、観光地としても人気があります。

まず、スナン・アンペル地区の地区長をすでに30年以上も務めている、町の顔とでもいうべきC氏にご挨拶。普通ならば地区長に型どおりの挨拶をして、すぐに歩き始めるのですが、C氏はとても話好きで、スナン・アンペルに関する話が止まりません。友人I氏ともとても親しい様子です。

しばらく歓談して、友人I氏と歩くのかと思ったら、C氏も一緒について来てくれることになりました。私はスナン・アンペルは2回目の訪問だったのですが、実際、スナン・アンペル地区の主ともいうべきC氏と一緒に歩くと、また違ったものが色々見えてとても面白かったです。

C氏の家がある通りは下の写真のようなのですが。

一つ向こう側の通りに入ると、店が並んで人通りが多くなります。

スナン・アンペル大モスクの裏にも行ってみました。前回は行かなかったところです。人で溢れています。参拝者は24時間訪れ、とくに休息日の金曜の夜はたくさんの参拝者で大にぎわいとなるようです。

モスクの敷地内にあった古い墓は、墓標のみを残して、柵の向こうに新たに移されました。

人々が「聖水」の入った壺に群がっています。でもC氏によると、その聖水たる所以は明らかではなく、飲用に適するのかどうかを計ったこともないので、その辺のただの水ではないか、それを有難がって飲んでいるのはよくわからん、と言っていました。

敷地の隅にチャオ氏の奥さんの家族の墓があります。チャオ氏は華人系でアンペル地区の地主の一人です。

アンペル地区の最大の地主だったのは、アラブ系のバスウェダン一族で、現在、ジャカルタ州知事選挙に出ているアニス氏はその子孫にあたります。

スナン・アンペル大モスクにつながる商店街とその入り口。

この入り口の門の欄干、AMPEL SUCIと書かれた両側を磨いたところ、ジャワ文字が彫られているのが最近発見されたそうです。でも、古代ジャワ文字なので、まだ解読されていないのだとか。

商店街の中にある小さな礼拝所。電光掲示板の数字もアラビア語表記です。ふと見ると、右側にあの人の来訪を告げるビラが貼ってありました。

スナン・アンペル地区も、古い建物が壊され、新しい建物に建て替えられていますが、古い建物もまだ残っています。その一つは、香辛料の販売と調合を行う店でした。香辛料を調合したマサラコーヒー(Kopi Rumpah)も売っています。

実は、私もよく行った、ジャカルタの某有名インド料理店で使うスパイスは、この店から供給されているのだそうです。先代がインド人からスパイスの調合の仕方をじかに習って習得したとのこと。

スナン・アンペル地区を歩いて、最後は、50年以上前からあるという、サルカムという小食堂で緑豆カレー(Gulai Kacang Hijau)。でも豆だけでなく、肉(おそらくマトン)も一緒に入っており、マリヤム・パンと一緒に食べました。C氏は、パンをちぎってカレーの中に入れてから食べよというので、そうしてみました。うーん、美味しい。

C氏にお礼を言い、I氏のバイクにまたがってホテルまで送ってもらい、今回の街歩きは終了しました。スラバヤには、まだまだ自分の知らない面白い場所がありそうで、今後も機会があれば、街歩きを続けたいと思います。

そして本日(4/2)夜、スラバヤまで迎えに来てくれた別の友人の車に乗せてもらって、マランへ到着しました。

友人とスラバヤ街歩き(1)

アパートの部屋の契約が終了し、マランへ行くまでスラバヤで過ごすのは今日土曜日と明日日曜の半日。そこで今日は、スラバヤ街歩きの友人I氏と一緒に、プネレ墓地周辺とスナン・アンペルの二箇所を歩きました。

ホテルに迎えに来てくれたI氏のバイクの後ろに乗って出発。最初に訪れたのは、プネレ墓地です。

この墓地は、オランダ植民地時代の墓地で、埋葬されているのはオランダ人が多いのですが、他にもドイツ人などの西欧人、アルメニア人なども埋葬されています。

すでに1920年代に埋葬は停止され、現在までに、亡骸のほとんどは別の場所へ移動されているとのことです。所有者が全て判明した後は、公園にする計画があるようです。広さ15ヘクタールもあります。

下の写真は、火葬場の跡。

1841〜1844年に蘭領東インド総督を務めたPieter Merkusの墓もありました。
そのすぐ近くに、墓標の朽ちた小さな墓があります。この墓は、蘭領東インド専属写真家のOhannes Kurkdjianというアルメニア人の墓で、蘭領東インドの今の残る写真のほとんどは彼の手によるものだそうです。
このプネレ墓地周辺には昔からバリ人が多く住んでいます。実は、初代大統領のスカルノもこの近くに住んでいました(厳密にはプネレ地区ではないようです)。スカルノはスラバヤのこの辺りで生まれ、母親はバリ人ですので、バリ人コミュニティの存在が安心感を与えたのかもしれません。
たしかに、ここからバリ島のシンガラジャやデンパサールへの直行バスが出ていますし、スラバヤで最も有名なバリ風のナシ・チャンプルの店もこのプネレ墓地のすぐそばにあります。
このプネレ地区は、墓地があるためか、以前から葬儀関係の仕事を行う人々が多い場所のようです。しかし、近年、プネレ地区から他所へ移っていく人が増え、バリ人集落としての一体感がなくなってきている様子です。
このプネレ地区で、I氏の友人のK氏がコーヒーとジャムゥ(ジャワの伝統薬用飲料)を出すカフェを1年ほど前から開設し、ちょっとしたコミュニティスペースになっていました。今回も、ちょうど、女性を対象にしたSNSに関する研修会が行われていました。
このカフェの建物は、植民地時代は植民地官吏の家だったそうです。
K氏はもともと地元紙の新聞記者だったのですが、スラバヤの伝統や歴史に造詣が深く、新聞記者を辞めて、カフェを運営するとともに、伝統や歴史を生かしたTシャツや雑貨を製造販売しています。カフェの裏に作業場があり、今はちょうど、政治団体向けのTシャツを作っているところでした。
ふと見ると、日本語で書かれたこんなものも。
I氏やK氏とスラバヤの都市としての発展の歴史や今後の課題などについて、いろいろと意見交換をしているうちに、気がつくと2時間近くもダベっていたことに気づきました。
一息ついたところで、再びI氏のバイクの後ろにまたがり、スナン・アンペルへ向かいました。この続きはまた次回。

スラバヤの郵便局から船便

昨日で部屋の片付けが終わってホッとしていましたが、部屋を引き払う前にやらなければならないことが残っていました。スラバヤから日本へダンボール箱5個、ジャカルタへダンボール箱1個を送る作業です。

日本へ送るダンボール箱は、元をたどれば日本から送ってきていたものも含まれるのですが、地域振興、地域づくり、スラウェシ地域開発などの資料や本で、それに文房具などが追加されたものです。

ジャカルタへ送るのは、過去に記念品やお土産などでいただいたバティックなどの布地やシャツなどが主で、ジャカルタの「アジト」(昨年25年ぶりに舞い戻ったインドネシア大学大学院留学時代の下宿)へ送ります。

緊急に必要なものはないので、スラバヤの郵便局から日本宛のは船便で送ることにしました。ジャカルタ宛は、通常のトラック便です。

昨日、お世話になった友人から運転手と車を使わせていただき、郵便局へダンボール箱6個を運びました。スラバヤから海外へ送る場合には、近所の小さな郵便局ではなく、中央郵便局まで出向いて処理した方が良いようです。専用の窓口があります。営業時間は朝7時から夜10時まで、土日祝は休みです。

スラバヤ中央郵便局

まずは、ジャカルタへ送る分。これはすぐに窓口で手続きが終わり、重さも10キロ程度だったので、普通便で約1週間、料金は62,500ルピアで済みました。

さて、日本向けのダンボール箱です。

船便はPaket Pos Biasa Luar Negeri(外国向け普通小包)、航空便はPaket Pos Cepat Luar Negeri(外国向け速達小包)と呼ばれ、さらにEMSがあります。

ダンボール箱を持ち込むと、「中身は何か」と聞かれました。本、資料、文房具など個人用のもので商業用ではないというと、「本ということにしろ。それ以外の余計なことは書くな」と言われ、結局、すべて「本」ということになりました。何度も聞かれたのは、「バッテリーは入っていないだろうな」ということでした。

そして、中身を開けることを覚悟していたのですが、幸いなことに、それはなしですみました。

郵便局の職員から「会社名などが外に見えると商業用とみなされるので、その部分を全部テープで隠すように」と言われました。さらには、すべて茶色のテープで覆い隠し、下地の文字が見えないようにすべし、とも言われました。

今回のダンボール箱は前回使った引越会社のものを流用したので、結局、すべてを茶色のテープで覆い尽くすことになりました。でも、郵便局の職員が手際よくテープで隠していくのを見ていて、さすが慣れているな、と思いました。最後に、SEGEL(封印)と書かれたテープをぐるっと貼ります。

テープで覆い尽くされて梱包されたダンボール箱に差出人名・住所と受取人名・住所を油性マジックで書き、箱の重さを計ります。5箱のうち1箱が31キロありました。1箱の重さを30キロ以下にしなければならないとのことで、せっかく綺麗に「封印」した箱をもう一度開封し、中身の一部を別の軽そうな「封印」を解いたもう一つの箱へ入れ替え、何とか5箱とも30キロ以下に収めました。もちろん、もう一度「封印」テープを貼りました。

なお、1箱当たりの相当金額を書類に書かなければならないのですが、「個人用なのでできるだけ低く抑えたい」と言うと、郵便局職員は「最低は1箱50万ルピアだから、それでいこう」とアドバイスしてくれました。1箱4200円ぐらいの計算になります。

もうすでに金曜礼拝の時間が迫っていましたが、郵便局職員の配慮で、料金の支払いも済ませることができました。今回の料金の目安は、30キロで127万8000ルピア(約1万1000円程度)で、速達小包だとこの約3倍、EMSだと約5倍ぐらいの金額になるようです。

船便なので、日本の宛先に着くまでには約1〜2カ月程度かかるそうです。日本の税関がどれぐらいの関税をかけるかは分かりませんが、これでインドネシアで支払う分は終了です。

金曜礼拝の時間になり、友人の車の運転手も礼拝へ行ってしまったので、郵便局でぼーっと運転手が戻ってくるのを待っていました。この中央郵便局は、いつ来ても、本当に風情があって、ただいるだけでも気持ちがいいのです。

高い天井が居心地のいい空間を作っています

オランダ時代のものと思しき郵便ポスト像

この場所には初代スカルノ大統領が子供のころ通った学校がありました

郵便局から船便を出し終えて、昼食の後、アパートに戻ると、本当に部屋の中に何も物がなくなり、2年前、この部屋を始めてみた時と同じ状態に戻りました。アパートの事務所へ鍵を返して、この部屋とお別れとなりました。

部屋の片付けが済んでしまった

今日、アパートの部屋の片付けが概ね済んでしまいました。もう少し時間がかかるかと思っていたのですが。

荷造り作業中の地元NGOメンバーの一人

3月28日に友人が、29日に地元NGOが、それぞれアパートの部屋を見に来て、譲って欲しいものを物色していきました。荷物を運ぶトラックの用意などもあるだろうし、彼らが来るのは31日、アパート契約の最終日かな、と思っていました。

ところが昨日の夕方、両者から「明朝9時にうかがう」と連絡が来ました。こちらは31日だと思っていたので、ちょっとびっくりし、彼らが来る前に、昨晩、自分の必要なものを選り分ける作業を急遽しなければならなくなりました。

今朝、アパートの管理事務所に物品搬出願いを出し、台車を借りて、彼らが来るのを待ちました。ところが、今朝になって急に、業務用エレベーターが故障。一般用エレベーター2基のうち1基が故障中なので、3基あるエレベーターのうち1基しか動いていない状況となりました。

私の部屋は21階にあり、エレベーターなしには荷物を運び出せません。しかし、3基中1基しか動いていないため、エレベーターは超満員状態が続いていました。こんな状況で、荷物を搬出できるのか、焦りました。

最初に来たのは、28日に会った友人の運転手とその兄貴の2人。彼らは、本棚、机、椅子、プリンター、本、その他もろもろのものを持って行ってくれました。

彼らがまだ作業している間に、NGOメンバー3人もやってきました。私のインドネシア語の本を彼らの運営する図書館へ寄付する約束をしていたのです。彼らにも本棚、本、その他を譲りしました。

幸い、故障していたエレベーター1基が動き始めたため、荷物の搬出でものすごく困る事態にはならずに済みました。11時半前、両者とも荷物を積み終え、アパートを出て行きました。

引っ越しと同じかそれ以上の荷物を積んだかもしれません

荷物がほとんどなくなって、がらーんとした部屋に一人で佇んでいると、いかに自分の荷物が多かったかをしみじみと感じるのでした。

明日で、この部屋ともお別れ・・・。

iPhoneがとうとう死んだ、と思った

私のインドネシアなど海外で主に使う携帯電話は、iPhone 5s。アップルストアでSIMフリー64GBを買って以来、もう3年以上使っています。

2年ぐらい前から電池の持ちが悪くなったと感じていて、ようやくつい最近、電池交換を初めてしましたが、それ以後は、また昔のように快適に動いてくれています。

このiPhone 5sにインドネシアのキャリアのSIMを入れて、日本でも使っているのですが、海外ローミングはオフにしているので、日本ではWifiのあるところでのみSNSを使い、ないところでは、Wimaxの一番安いのを使ってつなげています。

この愛機ともいうべきiPhone 5sが今朝、突然動かなくなりました。なぜかマカッサルの帆船の写真が画面に写っていて、指でスライドしても、スリープ/スリープ解除ボタンを押し続けても、一向に画面は帆船のままで反応しません。

アパートの借りている部屋の片付けは佳境に入っており、明後日までに引き払わなければならないのに、よりによってこんな時に愛機が動かなくなるなんて・・・。iPhone 5sはとうとう死んでしまった、と思いました。

片付けをする気になれず、スラバヤのアップルストアがどこにあるのかも分からないので、とりあえず、携帯電話屋が集まっているWTCへ向かいました。

ウェブで見ても、アップル製品を売っている店はすぐ出てくるのですが、修理できる店は見当たらないのです。アップルストアという名の洋品店さえありました。

WTCに着いて、アップル製品を売っている店に行くと、店員は「うちは売っているだけだから」とつれない返事。まあ、修理はできないだろうと思っていたので、仕方ないなあと思い、アップル製品の修理ができるところはどこか尋ねると、スラバヤには2箇所あるとのことでした(マリナ・モールの3階とあともう一つは忘れました)。

でもその店員は優れていました。「リスタートすればいいんだよ。スリープ/スリープ解除ボタンとホームボタンを同時に押してさ。ちょっとやってみるね」と言って試みると、ちゃんと元どおり、動くようになりました。

開いているアプリが多すぎて、使用メモリがいっぱいになっていただけでした。「ちゃんと終わったらアプリをこまめに消してね」と微笑んで、店員は去って行きました。

そういえば、iPhone 5sの再起動って、これまでほとんどしたことがなかったと思いました。遅ればせながら、今日、強制的に再起動させる方法を知りました。

3年目に入った愛機との付き合いも、まだしばらくは続けられそうです。

ソト・アヤム屋のイメージを変える店

今日のインドネシアは、ヒンドゥー教の「正月」ニュピで祝日。友人に誘われて、ランチを一緒にしたのですが、行き先はソト・アヤムの店。

ソト・アヤムは、ちょっと煮込んだスープに鶏肉の入った濃い味のスープのことで、ジャワ島ではどこでも食べられる庶民の味です。私も大好物なのですが、地方地方によって味付けが異なり、それを探訪して味わうのが楽しみの一つです。

中ジャワや東ジャワでは、ソト・アヤムの中にご飯(インドネシア語でナシと言います)を入れて食べるのが一般的で、それはナシ・ソト・アヤムと呼ばれます。不思議なことに、ジャカルタではご飯とソト・アヤムを別々に出すのが一般的です。私は、ナシ・ソト・アヤム派です。

場末のありふれた屋台で食べるのが普通なので、そんな質素な感じのところかと思って行った先は、ソト・アヤム・チャッ・ハール。噂には聞いていましたが、これがとんでもないソト・アヤム屋でした。

ダーッと広い店内。隣のカフェとの境までたくさんの席が用意されています。メニューはなく、ソト・アヤムの一つのみ。ただし、肉はムネ肉かモモ肉か、ご飯はソトに混ぜるか分けるか、が訊かれます。

場末のソト・アヤム屋では、ソト・アヤム以外に、うずら卵や鳥皮、テンペなどが目の前にあって、それを適宜とって食べる仕組みですが、この店のテーブルにそれらはありません。レジの脇に、うずら卵の串刺しと鳥皮の串刺しが1本それぞれ5000ルピアで売られていて、別途買う仕組みになっていました。

さて、評判のソト・アヤムですが・・・

ラモンガン風(ソト屋はラモンガン県出身者が多いことに由来しているらしいです)ということで、例によってお馴染みのクルプッの粉をかけ、レモンを絞り、サンバルとケチャップ・マニスを適宜かけて、いただきます。

私がふつう食べるラモンガン風のソト・アヤムに比べると、ずいぶん濃厚でこってりした感じの味わいでした。屋台のものよりもボリュームもやや多めです。

個人的には、もう少しサラッとしているほうが好みなのですが、まあ、これはこれでいけるかな、と思いました。

この店は、つい数年前までは、今の店の先のビルの前の軒先を借りて、細々とやっていた場末のソト・アヤム屋に過ぎなかったそうですが、車が前によく停まるようになり、評判が評判を呼んで、あっという間に、店が大きく拡張したようです。

このような成功物語は、ちょっと長い時間を同じ町で過ごすと、いろいろあることに気づくように思います。以前は屋台だったのに今では有名レストラン、という事例のスラバヤで最たるものは、ワポ(Wapo: Warung Pojok)というレストランです。名前の通り、端っこの屋台だったのが、今ではショッピングモールに支店を出すほどになりました。値段が安く、ボリュームが他店の倍以上あるのが売りになっています。

インドネシア各地で、こうした小さな無数の成功物語が産まれていることでしょう。そして、その裏には、またたくさんの失敗物語もあるに違いないのです。

マーベルシティ・モールを探検

スラバヤに無事到着しました。早速、準備のためにやるべきことをいくつか行い、夕方に小一時間寝てから、街へ出ました。

今夜の行き先は、マーベルシティ・モール。以前、スラバヤに住んでいたときはまだ建設中だったモールで、つい最近オープンしたと聞いたので、行ってみました。

マーベルシティはモールとアパートが敷地内に隣接し、その間をちょっとした広場のような形で結んでいます。飲食店がたくさん入っているようなので、行ってみたのですが・・・。

まだ半分ぐらいが工事中で、入居店舗も多くなく、閑散としている割には、若者や家族連れがけっこう来ていました。メインは地下にあるロッテマートで、ここで買い物をするために来るような感じでした。

意外にも、ジャカルタなどでおなじみの系列フランチャイズの飲食店は少なく、本格的な食事というよりも、軽く食べる感じの店がほとんどでした。その一つ、369カンティーンへ行ってみました。

この店は、スラバヤに本店がある上海小籠包の店として有名な369(ジャカルタのマンガ・ブサールにある支店は在留邦人によく知られています)の新規店で、ライス&サンドイッチ、という副題が付いています。

ちょっと寄って、軽くライスボウルやサンドイッチを食べる、というスタイルの店で、369のオーナーの息子が店を出したらしいです。

私が頼んだのは、マンチェスター風エビのライスボウル、というもの。ライスボウルは料理によって、バターライスか炒飯か白飯になっており、このマンチェスター風はバターライスでした。

小エビのフライにソースがかけられたものでした。でもどうしてマンチェスターでエビなの?と店員に聞いたら、「ソースがイギリス・ソースなので」という答えが返ってきました。

インドネシアでイギリス・ソースというのは、日本でいうとウスターソースに当たります(でも、ちょっと味が違うような気もしますが)。369らしいと思ったのは、それでもちょっと中華っぽく味付けてあり、バターライスもくどくなくて、けっこう美味しくいただきました。

この店では、いくつかの種類の飲み物はお代わり可能で、足りなくなると継ぎ足してくれます。

私の隣の席の子供連れは、2人の小さい子供が雄叫びをあげながら机上で創作活動を激しく行っていて、それが終わると、親が子供を連れて逃げるように店を出て行きました。その残骸を店員が愚痴ひとつ言わずに綺麗に片付けていました。

このほか、ロッテマートのすぐ近くに、友人のやっている「おにぎらず」の店がありましたが、今回は夕食後だったので、次回、また来てみようと思います。

マーベルシティ・モールは、まだまだ未完成のような状況でしたが、他のモールにあるような、タクシー乗り場がないのに困りました。歩道もなく、車で来ることのみを前提にしている作りです。

私はタクシーで来たのですが、マーベルシティ・モールでは帰りのタクシーを捕まえられず、モールを出て、しばらく10分ほど歩いて、ようやく道端で捕まえることができました。

早速、来て早々、スラバヤで大汗をかいてしまいました。

4月5日までスラバヤ、マラン

今夜のエアアジアで再びインドネシアへ向かいます。

ちょうど、海外から日本へ桜を観に来る方が多いせいか、LCCといえども、思ったよりも運賃が高かったのですが、やむをえません。帰国日がなかなか決まらなかったので、帰りも、ジャカルタから片道のLCC(タイガー+スクート)です。

今回は出張ではなく、プライベートです。スラバヤで2年間借りていたアパートの部屋の契約を3月31日で終了するため、部屋に置いたままになっている私物の片付けを行うのが主たる目的です。

スラバヤへ行く頻度が昨年来大きく減ってしまい、部屋を借り続けるのが経済的負担になったというのが理由です。これからの活動の中で、今後、スラバヤをどう活用していくかも考えてきたいと思います。

スラバヤ行きを友人たちに知らせたところ、縁あって、マラン市にあるムハマディヤ大学も訪問することになりました。スラバヤでの片付けが終わった後、マランへ移り、同大学の教員である友人が色々と予定を組んでくれています。

帰国は4月5日午前中です。それでは、行ってきます。

ガルーダマイルからスカイマイルへ

飛行機に乗るときに重宝するマイレージカードですが、私はこれまで、JALカードでワン・ワールド、ANAマイレージカードでスター・アライアンス、そしてガルーダマイルでスカイチーム、を代表させてきました。

ガルーダ・インドネシアが発行するマイレージカードは、かつてGFF(ガルーダ・フリークエント・フライヤー)と呼ばれた時代から愛用し、今は、ガルーダマイルのシルバーです。

でも、いろいろ考えて、スカイチームのマイレージカードをガルーダマイルからデルタ航空のスカイマイルへ変えることにし、今日、スカイマイルJCBテイクオフカードが届きました。変えることにした理由は、次のようなものです。

第1に、ガルーダマイルが貯めにくくなったことです。スカイチームに加盟したのと同時に、GFFがガルーダマイルへ変わり、マイルの取得条件が厳しくなりました。ディスカウント・チケットではマイルがほとんどつかなくなっただけではありません。

かつて、GFFには、ECプラス・ゴールドというステータスがあり、長い間、愛用していました。これは、お金を払って、ラウンジ利用、優先チェックイン・搭乗、預け荷物上限増量などのゴールドのステータスを買うものです。

GFFの時は年間150万ルピア(前年に一定回以上利用した場合の継続は50万ルピアのみ)払えばECプラス・ゴールドに慣れたのですが、ガルーダマイルになってからはそれが600万ルピアへ引き上げられ、しかもサービス内容は同じ、と改悪されたので、すぐに解約しました。

第2に、ガルーダマイルは期限があり、マイル利用座席数が少なく、すぐに埋まってしまうことです。ウェブ上でマイル利用の航空便の予約ができず、必ずガルーダのオフィスへ出向いて予約しなければならないので、日本を拠点としている現在では、マイル利用で座席をとるのが事実上難しいためです。

第3に、インドネシア国内で飛行機を使う場合でも、シティリンクやスリウィジャヤ航空などの格安便に乗ることが多くなったので、自腹でガルーダに乗ることが本当に少なくなったためです。やむをえず乗るとしても、大抵は割引運賃で乗るので、マイルはつかないことが多いのです。

マイルがつきにくく、マイル利用座席数が少なく、マイルに期限がある、という状況では、ガルーダマイルで貯めても、ほとんど意味がないと感じました。

インドネシアへ渡航する際、その時期に応じて格安の便で行くことにしていますが、中華航空や大韓航空など、スカイチームの航空会社を使うこともあるので、スカイチームのマイレージカードを持っていたいとは思いますが、ガルーダマイルで貯めるメリットを感じられなくなりました。

そこで、色々探した末、デルタ航空のスカイマイルJCBテイクオフカードを入手することとしました。

このカードの特徴は年会費が1500円(初年度無料)と安く、マイルの期限がないことです。もちろん、最上位のアメックス・ゴールドにすれば、スカイマイルの「ゴールド・メダリオン」というステータスを自動的に手に入れられるというのは魅力的なのですが、26,000円という年会費の高さとそれに見合うだけの利用頻度はないと考えると、スカイマイルJCBテイクオフカードで十分、という判断になりました。

今回、申し込んでからカードが手元に来るまで約10日間でした。

ガルーダマイルにはまだマイルが多少残っていますが、今後、スカイチームの航空会社便を利用する際には、スカイマイルで少しずつ貯めていきたいと思います。

自宅近くのレンタルオフィス

昨日までとは打って変わって、今日は冷たい雨の降る、寒い1日でした。

そんな冷たい雨に打たれながら、いつものように、自宅近くのレンタルオフィスで、作業をしていました。管理費を除いた賃料が3万円弱、しかも個室という、とても経済的な部屋は暖房がよく効いて、セーターを脱いでも汗ばむほどでした。

この部屋を借りて間もなく2年になります。狭い自宅には物があふれ、本を読んだり、物を書いたり、集中して作業できる場所が限られているため、思い切って、レンタルオフィスを借りることにしたのでした。

でも、東京都心のレンタルオフィスは総じて賃料が高く、安いと思ってみると、個室ではなく、机や椅子を共用するタイプのものがほとんどでした。

とにかく、自宅やインドネシアから持ち帰った本の置き場がないと困るので、個室が条件。たまたま、自宅近くに新しくできたレンタルオフィスが、オープン記念価格で借りられることを発見し、借りることができました。

部屋は通常のスチール本棚が2本入るスペースがありますが、今ではもう、すでに2本では足りず、あふれています。

そろそろ契約した2年目を迎えるので、更新しようと思って、管理会社に電話し、賃料が値上げになるかどうかを聞くと、何と、これまでと同じ賃料で借りられるとの返事。本当にありがたいことです。

まだしばらく、東京では、このレンタルオフィスを使うことにします。何せ、自宅から歩いて10分もかからない距離。最寄駅からも徒歩5分程度です。

これからも複数拠点で活動したいので、こうしたレンタルオフィスの賃料コストや滞在コストをいかに抑えるかはとても重要です。とりあえず、東京はこれでOK。さて、次は福島、マカッサル、ジャカルタです。

なお、スラバヤでもこれまで部屋を借りていましたが、3月末で契約が終了するので、来週は、スラバヤへ出かけて、部屋の片付けと明け渡しをする予定です。

新たに訪れたジャカルタの麺店2店

ジャカルタの夕陽と汚水を「堪能」(?)すると同時に、せっかくプルイットやPIKを通るのだから、この際とばかりに、麺の店を2軒、回りました。

でも、プルイットの麺店は、その多くは夕方4時か5時頃には閉まってしまいます。そこで、夕陽の前に1軒、夕陽の後に1軒、行くことにしました。

最初の店は、Asli Mie Keriting P. Siantarという店。この周辺には、北スマトラのトバ湖に近い小都市プマタン・シアンタルの名前の付いた縮れ麺を出す店が何軒もありますが、ここは1954年創業で、それらの元祖を名乗っています。

飾り気のない素朴な店構えですが、「こういう店が美味しい」という自分の直感が当たりました。

麺は自家製で、コシがあり、いい具合にスープと絡み合いますが、普通の麺よりも、ここの麺のほうが、主役は麺である、と強く主張しているように感じます。麺の上にのせられた具も、麺の主張を壊さないような控えめな味付けですが、よく味が付いています。

この店は、実は2006年にじゃかるた新聞でF記者によって紹介されており、その新聞の切り抜きが貼られていました。きっと、麺好きの日本人の間でも知られた店なのでしょう。

次に訪れたのは、PIK(Pantai Indah Kapuk)の飲食店街にあるBakmi Aloiという店。

以前、友人に連れられて、PIKのBakmi Siantarという店へ行き、そこで食べたカレー麺(カレー麺の上に豚の血の塊がのっているもの)をまた食べたいと思って探したのですが、見つけられず、その店があったと思しきところにあるBakmi Aloiに入ってしまいました。

入ってメニューを見て、「まずった」と思いました。先に食べたAsli Mie Keriting P. Siantarと同じような内容だったからです。カレー麺が食べたかったのにー。

ともかく、なんでものせ、を注文。出てきた麺を見てちょっとびっくりしました。

小丼ではなく、皿に入って出てきたのです。これは、マレーシアやシンガポールや香港でおなじみのドライ麺、汁なし麺の系統だな、と思いました。

早速、麺を食べてはスープをすすり、というふうに食べ始めました。麺はストレートですが、茹で加減が絶妙で、麺に絡ませたと思われる油もあっさり。具がとても美味しく、麺と一緒に食べて、スープをすすると、なんとも言えない美味しさなのです。

この店の本店は南スマトラのパレンバンにあり、実は、ジャカルタには多くの支店があると後でわかりました。

麺店を2軒まわって満足し、スカルノハッタ空港でチェックインを済ませて、無事に、帰国JAL便に乗りました。ラッキーなことに、プレミアムエコノミーにアップグレードされていたし、気分良く乗りました。

さあ、朝食でオムレツ、と思ってウキウキしていると、「お食事です」の客室乗務員の声。えっ? 朝食は? と聞くと、朝6時過ぎに成田に着くこの便では、朝食は出さずに、離陸後すぐに夕食を出すように変更されたとのこと。

夕食を出したすぐ後に、パンも配られ、そのパンが、適当な時間にスナックとして食べていただければ、という話でした。朝到着前に朝食で起こされたくない乗客と、サービスを一回で済ませられる客室乗務員側の利害が一致した、サービス変更でした。

今回の夕食はミーゴレン。麺店を2軒まわって大満足の自分には、とても食べられる余裕はなく、夕食は辞退しました。

ちなみに、一緒に麺店、夕陽、汚水を堪能した若い友人は、機内でも夕食をしっかり食べたとのこと。さすが若者、という感じですね。

ジャカルタの夕陽と汚水(追記済)

出張最後の今日は、ジャカルタでいくつかの用務を行い、夕方から、たまたま一緒に便で帰国する友人とジャカルタの北海岸をまわってから、空港へ向かいました。

ジャカルタ市内にいると渋滞に巻き込まれるので、帰国便への搭乗時間まで、ジャカルタの北海岸にできた新しいスポットへ行ってみました。北海岸沿いのプルイット・シティというモール+高層アパートです。

ちょうど、日の入りの時間に近かったので、あまりいいポイントではありませんでしたが、夕陽を眺めました。

マカッサルの海に沈む大きな夕陽は何者にも代えがたく好きなのですが、ジャカルタの夕陽もまた別の趣がありました。

振り返ってみると、ジャカルタで生活していた時には、夕陽なんて見たことも気に留めたこともなかったように思います。でも、マカッサルでは、1990年代の滞在のときには、毎日のように、仕事を終えて帰宅後、幼い娘を抱っこしながら、家族3人で一緒に夕陽を眺めたものでした。

ジャカルタの友人たちが、フェイスブックやツイッターにジャカルタの夕陽の写真をアップしていますが、今日だけはその仲間に少し慣れたような気がします。

夕陽を満喫していると、突然、ドボドボドボ・・・という音が聞こえて、下の海を見ると・・・。

黄色く濁った水が海へ放出されていました。色や匂いからして、汚水ではないかと思います。その下の菅からは、色の付いていない水が放出されていました。

おそらく、このモールやアパートからの汚水でしょうか。汚水処理がきちんと施された後の水であることを祈るしかありません。

ジャカルタの意外に素敵な夕陽と、ドボドボと排水される黄色い汚水。その両方ともが、ジャカルタという街を象徴しているように感じられました。

マカッサルでの用務を終了

3月10日からのマカッサルでの用務を首尾よく終了しました。

物件探しでお世話になった方々にご挨拶をし、今後の活動に関する様々な助言をいただくことができました。

おそらく、今年から今までよりも頻繁にマカッサルへ、スラウェシへ、東インドネシアへ来ることになりそうな予感がします。こうありたい、という自分の希望する方向へ、状況が徐々に動いているのが嬉しいです。

これからジャカルタへ飛びます。2時間のフライトです。

明日、ジャカルタでいくつかの面会を終えた後、夜便で帰国します。

今日のブログはここまでで失礼します。

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