昼夜同一料金、人形町の気どらない洋食屋

人形町は個性的で手頃な洋食屋が多い町である。

先日、人形町へ行った際、甘味処・初音で栗あんみつをいただき、今半でメンチカツを買った後、妻と洋食屋へ行こうという話になった。

でも、人形町に洋食屋が多いのは分かっていても、「ここ!」という馴染みはなく、どこへ行ったらいいものか、考えあぐねていた。

思い切って入ったのが、東京メトロの人形町駅近くの小春軒。有名な店なので、ちょっと気どっているのではないか、と戦々恐々でドアを開けて入ると・・・。

全く逆だった。

そこは、東京の下町のあったかい雰囲気の空間だった。

小春軒に来たからには、特製カツ丼をいただく。

5〜6枚の一口カツの上に、ゴロゴロ野菜に味付けて炒めたものと目玉焼が載っている。洋風カツ丼とでも言おうか。

これがなかなかいける。こういうのもありだ。カツが美味しい。

ネットを見ていたら、このカツ丼の由来等についての説明が以下のサイトに載っていた。

 よみがえった明治時代の味:小春軒

妻は「特製盛り合わせ」。何が盛り合わされているのか、小春軒のおばさまは教えてくれない。そして出てきたのがこれだった。

一見すると普通のカツやフライだが、一口食べた時に違いを感じる。揚げ方が絶妙で、本当にサクサク、美味しく揚がっているのだ。

「昼も夜も値段は同じ。でも、夜に来るほうがいいわよー」

小春軒のおばさまが楽しそうに話す。でも、どうして? 何が違うの?

「夜はね、お客が少ないから、おしぼりが出せるのよー。昼はお客が多くて、おしぼり出す暇がなくてねえ」

そこでしたか。でも、本当はおばさまがお客さんとお話したいからだったりして。

昼夜同一料金の洋食屋は、小春軒と、その少し手前の来福亭(ここは以前、友人と行ったことがある)。焼き飯やカツライスが食べたかったら、来福亭へ行く。

小春軒、常連になりそうな予感。

人形町の黄金芋屋さんと甘味屋さん

用事があって、妻と一緒に人形町方面へ出かけた。

人形町といえば、色々な名物が目白押し。有名な黄金芋を買いに、壽堂を訪れた。

間口の狭い店に入ると、年代ものの木箱に入った「御見本」を見せてくれる。小さな区枠のなかに、すてきな生菓子が並んでいた。

黄金芋は別に包まれていて、3個入、5個入という感じで、気軽に買えるようになっていた。

注文したお菓子を包んでくれる間にお茶が出てくる、という気配りの良さ。とても気持ちの良いお店だった。

次に訪れたのは、壽堂と道を挟んでちょうど反対側にある甘味処の初音。

ここも古くからの良さを残している店で、栗あんみつをいただいた。

季節柄、栗あんみつを頼んだのだが、この栗がとても美味しかった。それだけでなく、ここの餡の絶妙な美味しさ。

給仕してくださるおばさんたちの無愛想さも、何となく世の中に媚びない、古き良き東京の雰囲気を醸し出していて、嫌な気分はなかった。

浅草の新ハラルラーメン

11月9日、中アチェ県政府高官4名をお連れしての東京見物。

銀座でアンテナショップを見学した後、浅草に連れて行ったのだが、ランチをどうしようか思案して、ラーメンを食べに行った。ハラルの。

浅草でハラルラーメンといえば、成田屋が有名だが、今回行ったのは、田原町の「麺屋 帆のる 浅草店」。

頼んだのは、スパイシーラーメン。タンタンメン風のなかに、鶏チャーシューとメンマが入っている。

今回は2階で食事。2階の一角はカーテンで仕切られ、礼拝することができる。礼拝の前に体を浄めるウドゥは1階の洗面所で。1階と2階を移動するためのサンダルが用意されている。

4人とも、礼拝もして、すっかり落ち着いて、ランチを楽しむことができた。
帆のるは東京に4店、大阪に1店、そしてジャカルタに1店ある。ハラル対応なのは、東京の2店(恵比寿店、浅草店)、大阪なんば店、ジャカルタ店。
店の名前は、ホノルルへの出店を目指して名付けたとのこと。
浅草にムスリムのお客さんをお連れしたときにご活用あれ。おススメです。

今年も東京でお盆の季節

東京の我が家は、今年もお盆の季節を迎えました。

東京は、7月13〜16日頃までの新暦でお盆を迎えるのが一般的のようですが、日本の多くの地域では、8月半ばに旧暦でのお盆を迎えるところが大半ではないかと思います。

我が家では、今年も、提灯をつけ、行灯を灯し、野菜などのお供え物と、キュウリとナスで作った馬と牛を作りました。それらをマコモの筵の上に置きます。

キュウリの馬とナスの牛は精霊馬、精霊牛と呼ばれ、前者は、ご先祖さまの霊ができるだけ早く戻ってくるための乗り物であり、後者は、できるだけこの世に留まっていられるようにという意味を込めたあの世に戻る時の乗り物なのだそうです。

日が暮れた後、迎え火をしました。皮を剥いだ麻である「おがら」を折って、焙烙(ほうろく)と呼ばれる平たい素焼きの皿の上に置き、それに火をつけて煙を出し、ご先祖さまの霊が迷わずに戻ってこれるようにします。

このときには、家の入口のドアを開けて、ご先祖さまの霊を迎え入れます。

おがらを焼き終わって、煙が出なくなったら、禊萩(みそはぎ)という草木に水を含んでおがらの上に水をふりかけ、火を消します。そして、家のドアを閉めます。

これから数日、お盆が終わるまで、ご先祖さまの霊と一緒にいる、ということになります。ご先祖さま、今年もよろしくお願いいたします。

それにしても、精霊馬・精霊牛と一緒に、トラジャのトンコナン・ハウスのミニチュア、アルパカのぬいぐるみ、昔マカッサルにいた20年前に撮った家族写真、イノシシのイヤープレート、象さんのお皿などが写り込んでいるこの写真は、まさに、我が家の愛すべき混沌を表していますね。

我が家では、毎年、ちょうどこの時期、妻の父親と伯母の命日が重なります。この場所で生まれ、人生を歩んできた妻にとっては、今は亡き両親、祖母、伯母など、かつてともに過ごした大切な人々を想う、とても大事なひとときなのだと思います。

他所からやってきた、マスオさん状態の自分にとっても、最後は、ここが自分の帰るべき場所になっていくのだなという思いを強くする毎年のお盆です。

目の中を飛ぶ黒い点とぼわーっと白い世界

先月、インドネシアへ行った頃から、左目の中で虫のような黒い点が飛ぶようになりました。飛蚊症というものらしいです。

歳を取ってくると、そういった現象が起こるものだということですが、場合によっては網膜剥離の可能性もありうるということです。
まあ、大したことはないだろうと思ったのですが、念のため、眼科に行って診てもらいました。
私にとって、病院の中で、一番嫌いなのが眼科。
まだ子供の頃、目をいろいろいじられて、とても嫌な気分になったのが、今もトラウマになっています。
でも、何十年ぶりかで眼科へ行ったら、様子が随分変わっていました。機器が見違えるほど良くなり、目を見開いているだけで、医師が様々に診察してくれます。
まず、眼孔を開くために、ある薬を点眼されました。それを点眼すると、目の前がぼわーっと白っぽくなる状態が5〜6時間残る、ということでした。
点眼の後、待合室で20分ほど待った後、再び診察。眼孔が開いた状態になったらしく、いろいろと診ていただいた結果、とくに問題はない、という答えでした。
今後も、黒い点は現れるだろうし、増えるかもしれないし、消えてしまうかもしれない、それを自分でコントロールすることはできない、ということでした。
薬も処方されない診察のみで、眼科を後にし、外へ出たら・・・。
世界がぼわーっと白くなっています。
明るいところでは、そのぼわーっとした状態が強まり、モノをはっきり見ることができません。モノを見るのがつらく感じました。
日陰や屋内などやや暗いところに入れば、通常よりも劣りますが、日なたよりはモノを見るのがつらくはなくなりました。でも、日なたに出ると、目の前が、まるで白いモヤに覆われているかのように、ぼわーっとよく見えなくなるのでした。
きっと、こんなふうに、ぼわーっとモヤのように景色が見えている人もいるに違いない。そんなことに初めて気づきました。

明日は、日なたを歩いても、ぼわーっと白く、モノを見るのがつらくないといいのですが。

目の中を飛ぶ黒い点は、あれ、なくなったかもしれない、という感じになりました。

でも、夜になると、また現れてきました。

目の中を飛ぶ黒い点とは、まあ、仲良く付き合っていくことにします。

眼科に行く前に見た朝の自宅の桜。眼科から帰って後は、
目の前がぼわーっとして、見るのがつらくなりました。

新年度開始、新元号発表、ふつうの日

4月1日になりました。

弊社・松井グローカル合同会社も今日から新しい2019年度が始まりました。企業や学校など、今日から新しい年度が始まった方々も多いことと思います。

そして、政府が5月1日からの新元号を発表しました。今日のメディアはその話題で持ちきりですが、日常生活のなかで、ほとんど意味を持たない元号に大騒ぎしているのを、少し不思議な気分で眺めています。

私自身は、先週までの活動の疲労が少し出て、今日はあまり体調の良くない1日でした。所用で税務署へ出向き、説明を受けて、また一つ勉強になりました。

その後、ちょっと足を伸ばして、法明寺の桜を見に行きました。

桜の季節、ここには、桜を遮るほど露店がたくさん出るので、いつも盛りを過ぎてから、花吹雪の頃に行くのですが、今日は、平日のせいか、露店の数は少なく、ゆっくり桜を楽しめました。

今日もふつうの日でした。そして明日からも毎日、ふつうの日を積み重ねていきます。その1日1日を大切に過ごしていきたい、というあたりまえのことを思いました。

東京の我が家の桜が満開、来年の今頃は・・・

東京の自宅には、妻方の先代が戦後すぐに植えた桜(ソメイヨシノ)の木が一本あります。おかげさまで、毎年、自宅の庭でお花見を楽しむことができます。

ほかにも、我が家の近くには、ネットには載らない、穴場的な桜並木があります。昨日通ったら、ちょうど満開でした。

この桜並木では、地元の商店会がさくらまつりをするのですが、なぜか、いつも満開から1週間後に開催なのです。

でも、この桜並木の見どころは、満開の桜だけではありません。散るときの桜吹雪が、それはそれは見事なのです。さくらまつりは、実は桜吹雪を楽しむためなのかもしれません。

我が家の庭にも、近くの桜並木にも、今は桜が咲き誇り、とても気持ちのいい季節になりました。

我が家の庭には、桜以外にも、様々な花が咲き始めています。

来年の今頃も、きっと、また家の庭の桜の木を見ながら、ささやかなお花見をしていることでしょう。

私たちの家族だけでなく。

ここに集う、インドネシアなどからの新しい友人たちと一緒に・・・。

もし、シェアハウスが完成していたなら・・・。

完成しているかどうか? それは、神のみぞ知る・・・ですね。

【お知らせ】よりどりインドネシアのオフ会+交流会を検討中

ちょっと更新が途切れました。三連休も終わり、私は今週末まで福島です。

毎月2回発行している情報ウェブマガジン「よりどりインドネシア」は、2月7日発行分で第39号となりました。購読者数も70名ほどとなり、少しずつ増えてきています。バックナンバーは以下のリンクからご覧ください。

 よりどりインドネシアのバックナンバー

一般のメディアではなかなか伝えられない、いくつものインドネシアを伝える日本語媒体にしていきたい、と願って発行してきましたが、そろそろ、購読会員のオフ会+交流会を行いたいと考えています。

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会のスタイルをとくにかっちり決める必要はないと思いますが、一般の講演会スタイルではなく、もう少し参加者同士の距離が近い、トーク+自由討論(意見交換)に食事または飲物付き、という感じで考えています。参加された方の誰もが自由に発言し、それをもとに対話するという形を採りつつ、内容は易しくかつ正しいものにしていきたいと思います。

もちろん、購読会員に限定せず、よりどりインドネシアに興味のある方や、そのときのテーマに関心のある一限さんも歓迎、という緩やかな会になればと思います。この会を通じて、新たに購読者になってくださるならば、それはもちろん、存外の喜びです。

会の頻度ですが、できれば毎月、難しければ2~3ヵ月の1回ぐらい、と考えています。毎回、ゲストをお招きしたいと思っていますので、「話題提供者になってみたい」という方は遠慮なくお知らせください。また、こちらからも一本釣りで、話題提供者になっていただけるよう、お願いしていく予定ですので、よろしくお願いいたします。

インドネシア在住の方で、たまたまその頃一時帰国するよ、という方、是非、話題提供者になっていただきたいので、お知らせください。

東京、ジャカルタ以外でも、開催できればと思いますので、ご希望の方はお知らせください。スケジュール調整をいたします。費用面の相談は後ほど、ということで。

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とりあえず、まずは3月半ばにジャカルタで、3月後半または4月初めに東京で、私が話題提供者として、「2019年大統領選挙・総選挙とその後のインドネシア」という話をしようかなと思っています。できれば、ゲストもお招きして、トークの形で話をしたいとも思っています。

日程が確定しましたら、改めて告知いたします。よろしくお願いいたします。

メダンのインド人街出口(2019.1.20)

我が家の近所の一風変わった「門松」

妻と一緒に、近所の天祖神社へ初詣に出かけました。

自宅近くの大塚駅南口は、天祖神社の門前町のような雰囲気を今も残しています。そこで、よくイメージされるのとは異なる「門松」を見つけました。

店の両端に背の高い竹が立てられ、その間の軒先に注連飾が掛けられています。竹の高さは2メートル以上あり、葉はついたままです。

他の店にも、同様の「門松」を見かけました。

地元民である妻によると、彼女がまだ小さい頃の年末の商店街は、どの店にもこうした「門松」が立てられ、高いところの竹の葉が、ずうっとたくさん揺れていたそうです。

かつては、毎年、鳶(トビ)の親方が売りに来る「門松」用の竹を買って、正月過ぎまで立てて、その後は、竹は洗濯物を干すための竿竹にしり、先端に切り込みを入れて柿の木の柿をとったり、短く切って垣根にしたりと、自分の家で使ったそうです。

妻の祖母や母は、そうした竹を活用する術を知っていて、毎年、「門松」あがりの竹を色々使っていたようです。

長い竹を使った「門松」を立てている店や建物は、昔から存在するところばかりです。その数は、片手で数えられるぐらい、本当に少ないものでした。

すなわち、大塚駅の周辺の物件のほとんどは、新しいものばかりだと言えます。第二次大戦後ほどなく、大塚駅のとくに北口の物件の多くは、新しくやってきたよそ者(外国籍の方々を含む)に買われたと言います。昔からの住民が所有する物件は多くありません。

今も、店の盛衰が激しく、一年も経たずに新しい店へどんどん取って代わられていきます。そんな物件には、「門松」は全く見当たりません。

先の長い竹を使った「門松」は江戸時代からのもののようです。鳶の方々がずっと伝えてきたもので、彼らの年末の重要な仕事であり続けたのでしょう。

長い竹ではなく、途中で切った竹を使うバージョンも幾つか見られました。

我が家の門の前の門松も、このバージョンです。毎年、旧知の鳶の方がやってきて、クリスマス前に立ててくださいます。そして、松が明けると撤去してくださいます。

ちなみに、大塚駅北口から自宅までの間で、「門松」を立てているのはわずか2軒でした。いずれも、妻が幼い頃から存在するお店でした。

我が家のすぐ近くで、かすかに残っている「江戸」を感じられたひとときでした。

「さん」づけで呼び合った時代を懐かしむ

大学を卒業して就職したのは、政府系の研究機関でした。この職場で、筆者はインドネシア地域研究のいろはのいから手ほどきを受け、20年以上奉職しました。

この職場は、とても素晴らしい職場でした。何より、新人だった筆者を、20年選手、30年選手が「さん」づけで呼んでくださるのです。そして、新人の筆者にも、研究者として実績を積んだ著名な大ベテラン研究者を「さん」づけで呼ぶように促されたのでした。

また、そこでは、誰がどの大学の出身かは問われることはなく、学閥のようなものは見えませんでした。

さらに、男性でも女性でも、職場での役割の違いはほとんど見当たりませんでした。お茶くみなんて言うものは当然ないし、「男だから」「女だから」といったことを耳にすることはありませんでした。筆者自身も、仕事上の男女の違いを感じることはありませんでした。できる人はできる、という当たり前の感覚しかなかったのです。

年齢や性別の違いや出身大学などを意識することなく、誰もが「さん」づけで呼び合う職場でした。

「さん」づけで呼び合うということは、年齢や性別の違いを意識せず、互いを一人の人間として尊重し合うことの現れだと思います。若造だけど存在が認められている、という安心感がそこにはありました。

本当に、それだけで、素晴らしい職場だと思いました。

そして、2000年代に入って、職場の何かが大きく変わり始めました。

それは、人事評価・業績評価が導入されてからでした。上司と部下、という明示的な関係が職場に持ち込まれたのです。上司と部下なくして、人事評価・業績評価は成立しないのです。

人事評価・業績評価が導入されてから、誰もが「さん」づけで呼び合う、ということはなくなっていきました。「部長」「課長」「グループリーダー」といった役職名で呼ぶようになりました。皆が上と下を意識するようになりました。

筆者は、決して人事評価・業績評価を否定するわけではありません。何のために人事評価・業績評価を行うのかさえ忘れなければ、です。

筆者を「さん」づけで呼んでくださった数々の先輩方のことを一人一人思い出します。今でもお会いすると、同じように「さん」づけで呼んでくださいます。そのことを、とてもありがたいことだとつくづく思うのです。

今も、そしてこれからも、あの「さん」づけで呼び合ったかつての職場のことを懐かしみつつ、大切な人生の美しい思い出として大切にしていきます。

地域仕掛け人市2018に行ってみた

6月30日、東京・恵比寿に新しくできたEBIS303というイベントスペースへ行き、「地域仕掛け人市2018」というイベントに行ってきました。EBIS303というのは、スバル自動車の新社屋のなかに位置しているスペースです。

地域仕掛け人市というのは、様々な地域で活躍する「仕掛け人」が集まり、東京にいる若者たちをターゲットに、彼らを地方へ引き寄せ、あわよくば、地方で働いてもらうことを目的としたイベントでした。ただ、就職説明会や移住相談会とは違い、もう少しゆるく、地方の魅力を説明し、ファーストコンタクトしてもらえればいいな、という感じでした。

 地域仕掛け人市

毎年の恒例行事のようですが、2018年は33箇所から地域仕掛け人が集まり、それぞれがブースを出して、自分たちの活動をアピールしました。他方、別室では、継業(VS起業)、働き方改革、関係人口作り、暮らしの4テーマ別セッションが行われ、複数の地域仕掛け人によるパネルトークが行われました。

まあ、言ってみれば、「地方へより多くの人材に来てもらいたい地域仕掛け人たち」と「東京ではなく地方で何かをしたい若者たち」との間の、新手のマッチングイベント、といったものでした。実際、参加者の多くは若者たちで、とくに、地域活性化に関わりたいと思っている大学生などが多く見られました。

地域活性化に関わりたいといっても、そんなに簡単なことではないよね、と思いつつ、昨今、地方創生などの言葉に踊らされて増殖する大学の傾向などが想起されました。

実際、地域仕掛け人のなかには、地方自治体も少なからず含まれ、その多くは、地域おこし協力隊としてきてくれる人材リクルートを目的としていました。

筆者は、先に挙げた4つのテーマ別セッションに参加し、実際の当事者が自分の言葉で語る姿を見ることができ、有益でした。とくに、最初のセッションで取り上げた「継業」に色々と感じ入るところがありました。

日本のほとんどの地域で人口減少・高齢化が厳しい状態となっており、東京周辺のみが人口増を享受している現状となっていることは、このイベントでも強調されていました。

その一方で、地方では、後継者がいないことで、廃業を余儀なくされる事業者が数多く存在します。そのなかには、経営的に苦しいわけではなく、いや、むしろ黒字経営で利益を上げ、顧客もしっかりいる、マーケットも持っている、にもかかわらず、後継者がいないという理由で、自分の代で事業を止める場合が少なくありません。

そうした事業者に対して、後継者を探し、マッチングさせる試みを行っている地域仕掛け人の話は、なかなか心に響くものでした。今回のセッションでは、石川県の「能登の人事部」と「七尾街づくりセンター」の話を聞きました。

能登の人事部は、能登地域で継業を希望する事業者たちが個々に人材を探すのではなく、彼らの求人情報を一手にまとめ、東京や大阪などをターゲットに、求人活動を行って、継業を希望する事業者と繋げる役割を果たしています。

実際に、能登の人事部のサイトを見ると、地域おこし協力隊の募集のほか、福祉旅行プランナーヘルスケアコーディネーター和ろうそくの海外セールス担当者などの求人情報が掲載されています。Wantedlyという求人サイトをうまく活用しています。

能登の人事部が民間なのに対して、七尾街づくりセンターは半官半民の株式会社ですが、関わっている方々は、よそ者とUターン組で、いわば、外部者の目を持った人たちです。

よそ者として関わる、七尾街づくりセンターの友田氏は、どのような技術を持った人材が欲しいかという質問に対して、「とくに何かスキルや技術を持っている必要はない」「できないから恥ずかしいと思う必要はない。むしろ「できない」と公言して欲しい。必ず地元の人々が助けてくれる」と述べているのが印象的でした。

地域おこし協力隊の様々な現状なども鑑みると、上記のような、ウチとソトとを繋げる人材や組織の存在がとても重要であると思いました。このイベントに集った地域仕掛け人はまさにそのような存在であり、彼らが生き生きと活動できる地域は、きっと地域も生き生きとし続けていけるのだろうなと思いました。

それは、人口減少・高齢化に直面する地域の覚悟の問題でもあると思います。地域活性化や地方創生などを国の方針に沿った事業実施という枠だけで捉え、ウチとソトを繋げる人材や組織を便利屋、時にはうっとおしい存在、と見なしているうちは、まだまだ覚悟が足りないのではないか、と思ってしまいます。

そして、今回のイベントではまだほとんど触れられていませんでしたが、地方での仕事の担い手となってきていて、その地域に愛着を持ってくる外国人材をこれからの地域にどう活かしていくか、という視点も大事になってくるような気がします。

単なる人手としてではなく、彼らを地域を一緒につくっていく人材として位置づけ、継業や関係人口の担い手と考えていく時代が来ているように思います。とはいえ、外国人材に対する否定的な見解は、まだなかなか根強いものがありそうです。

継業や就業のために東京などで人材を探す一方、地元の人材はソトへ出て行ってしまう、という現実。その地域が好きだ、何かしたいという(外国人材を含む)ヨソ者と、地域から出て行く、あるいは地域に住みながら買い物は地域外の地方大都市へ行くというウチ者と。どちらが地域のこれからにとって役目を果たしていくのか。ヨソ者とウチ者との関係は、簡単に何か言えるものではないことは、もちろん承知しています。

そして、地域で現実と直面して格闘する人々と、その地域に研究対象として関わる学識者との関係もまた、別な意味でのヨソ者とウチ者との関係として、考えていく必要があるものと思います。

本ブログでも、今後、自分なりに色々と考えていきたいと思います。

グローカルとハイローカル

1月半ば、会津坂下の話を書いて以来、2週間以上もブログをお留守にしてしまいました。「日記」と言いながら、これはこれまでで最長の空白期間になりました。

この間、調子が悪かったわけでも、何か深刻な問題が起こっていたわけでもありません。ずっと元気に過ごしていましたが、ブログを書くのを単に怠っていただけです。
では何をしていたか、というと、けっこうバタバタしておりました。ローカルとローカルとを結びつけて新しいモノやコトを促す、ということに関わるいくつかの動きと出会っていました。そして、その方向性は誤っていないという確信をさらに得るに至りました。
1月23日には、JICA地域創生セミナーに出席しました。国家=国家を単位とする経済協力外交の一角を担うJICAのなかで、日本の地域振興の経験を世界へ発信し、そのインパクトを日本の地域へフィードバックする、という動きは、決してJICAのなかで主流ではありませんが、驚いたのは、そのような方向性に賛同して動き始めた人々がいる、ということでした。今はまだ、新たな案件形成の観点から日本の地域に目を向け始めたという面も強いでしょうが、いずれその殻を破る動きが現れてくる予感がします。
また、青年海外協力隊経験者が帰国後、地域おこし協力隊として日本の地域に入って活動する動きも見られます。青年海外協力隊OBの活動を支援する公益社団法人青年海外協力協会(JOCA)は、そうした海外経験者の地方での活動を積極的に促しています。
JICAはすでにグローカル協力隊というスキームを持っています。これは青年海外協力隊員が派遣の前または後に日本の地域で活動する、というスキームですが、まだあまり知られていないようです。
こうしたJICAの動きは注目されますし、私の活動ともどこかでつながってくるような気がします。私自身、地域おこし協力隊のツイッターをいくつもフォローしていますが、なかなか面白いものが多いです。こうした人材が今後、どのような展開をしていくかも、大いに興味があります。私の勝手に仲間候補者と言ってもいいかもしれません。
また、1月25日には、「ハイローカルを創ろう」プレイベントというのにも顔を出しました。出席していたのは若い世代がほとんどでしたが、なかなか面白いひとときでした。
これは、美意識を持った地域づくりとでもいうもので、美意識を媒介した新しい価値を地域で作り出す行動を促すものです。つまり、かっこいいローカルを創る、ということのようです。
ハイローカルという言葉はまだよそ者によって唱えられていますが、これが地元の人々の意思とどのようにつながり、溶け合っていくのか、まずは、コミュニケーションの問題が横たわっているような気がします。
それでも、よそ者による美意識の押し付けになるのではなく、その美意識を契機として新しい価値が生まれてくるのであれば、ハイローカルがその地域のものになっていくプロセスが現れてくるような、そんな可能性を感じました。
ローカルという言葉が様々なシチュエーションで以前よりもより頻繁により真剣に、それも東京で語られ始めている、そんなことを感じた1月後半でした。
1月23日、所用でみなかみ町にも行ってきました
先週は、ジャカルタへ出張でした。その話は、また改めて。また、2月4〜5日は京都へ行ってきます。

東京にシェアオフィス/コワーキングスペースをつくる

今、東京の自宅付近にシェアオフィスまたはコワーキングスペースをつくる、ということを考えています。

まだ構想段階ですが、どんな人に使ってもらったらいいか、少しずつ考え始めています。

できれば、私が信頼できる方々に使っていただき、結果的に、何かを一緒に作り出せる場所にしていければと思っています。

その一方で、分野も専門も全く異なる人々、様々な国から来た人々が集まるような場にしてもいいなとも思います。

亡くなった伯母の店舗兼住居を改装する予定です。広さは、2階建てで、1階をコワーキングスペース+会議室、2階を3〜4部屋のシェアオフィス、という形にしようかなと思っています。

裏に庭があります。古い桜の木があり(下写真)、4月にはまだ花見ができます。

動き回っているので常駐は難しそうですが、私の仕事場も作る予定です。

会員制にして、会員は24時間使えるようにしてはどうかと考えています。

場所は、JR山手線の大塚駅から徒歩7分、近くに24時間営業のセブンイレブンがあります。

開業はおそらく、早くても2018年8月以降になりそうです。

どうでしょうか。

興味のある方、一緒に管理運営してみたい方、いずれ使ってみたい方、オフィスを構えたい方、何か面白いアイディアをお持ちの方は、お気軽に、メールにて私( matsui@matsui-glocal.com )までご連絡いただけると嬉しいです。

ただ今、東京でおこもり中です

スラバヤ出張中に体調を悪くし、帰国した12月1日はあまり具合がよくなかったので、ひたすら眠り、翌2日には、体調も回復し、正常に戻りました。

2日は、大学時代のゼミのOBの勉強会「竹内記念フォーラム」に出席しました。恩師である故竹内啓一先生(社会地理学)を偲び、教え子たちが自主的に開催しているもので、1年に2回開かれます。

毎回、OBの一人が発表、それを話題に自由討論するという形で、私もちょうど1年前、「宮本常一、地元学、メタファシリテーション:いまの私の活動を支える三本柱」と題して、発表しました。中身について興味のある方は、個別にご連絡ください。

その後、今週中に終わらせなければならない原稿作業が3本重なってしまったので、ここしばらくは、自宅からレンタルオフィスへ行って、こもって書いています。でも、量が多いためか、ちょっと遅れ気味です。

3本のうちの1本は、明後日発行予定の「よりどりインドネシア」第11号なのですが、もしかすると、1~2日、発行を遅らせるかもしれません。あらかじめ、ご容赦のほどをお願いいたします。

と、今回は、状況報告のみなのですが、最後に、ちょっとつぶやきを。

東京23区内で、オフィス、シェアオフィスあるいはコワーキングスペースが欲しいなと思っている方はいらっしゃいますか。一緒にそんな空間を作ってみたいな、と思っていらっしゃる方はいますか。

秋ももう終わりですねぇ。

サンシャワー展は本当に良かった!

明日(10/11)から月末までのインドネシア出張の前に、前々からどうしても観ておきたいと思っていた「サンシャワー:東南アジアの現代美術展」へようやく観に行けました。

この展覧会は、国立新美術館と森美術館の2館同時開催で、しかも展示数が多いので、どうしても2日掛かりになってしまいます。夜遅くまで開いている森美術館を10月8日に、国立新美術館を翌9日に訪れました。

東南アジアのアーティストが色々と面白い試みを行っていることは知っていましたが、これだけの数を集めるとさすがに圧巻でした。しかも、その一つ一つに、アーティストのゆるさや柔らかさや軽さを感じつつ、その裏に何とも言えない深い闇やもやもやとして晴れない奥行きが浮かび上がる、そんな作品が多かったと感じました。

彼らの共通の特徴は、社会に対して自分の思想をぶつけていること。それは忘れられた歴史やアイデンティティを取り戻すことであったり、イデオロギーとは異なる人々の身近な生活の中からの政治・社会批判や風刺であったり、常識と思っていることへの疑問であったり・・・。

適当に考えているように見えて、実は深く考えぬいたものを軽やかに表現する。それは、表面的にみれば明るい東南アジアの社会を反映したものなのかもしれません。

様々な意味で自由な表現を虐げられてきた中で、それをあざ笑うかのように、しなやかに自らの表現力を練成させ、常に新しい表現方法で自分の社会への問いかけを表そうとしていく彼らの作品を、今の日本社会の文脈からみると、とても新鮮なものに見えることでしょう。

映像を使った秀逸なアート作品が多く、しかもそれぞれがとても興味深いものでした。自分がもっと時間を2倍ぐらい余裕だったならば、これらの映像作品を心ゆくまで楽しめたであろうに、と少し後悔しました。

サンシャワー展は、とにかく文句なしに面白く、刺激的でした。日本のアーティストともどんどんコラボしていってほしいなあ。まだ観に行っていない方は、ぜひ、時間をゆっくりとって、五感を使って味わってきてほしいです。東京では10月23日まで開催、その後は福岡で開催されます。

近年、地域づくりとアートとの親和性が注目されていますが、9月に行った石巻を中心とするリボーン・アートフェスティバルにも連なる、様々なヒントを個人的に得ることができたのは大きな収穫でした。シンガポールやチェンマイのアーカイブ活動は大いに参考になりました。

ふと、アジアを含む世界中の面白いアーティストたちが福島市に集まって、街の至るところでアート作品を動的に作成し、それを市民がただ観るだけではなくて体験しながら楽しんでいる。すると、市民が即興で自分のアート作品をつくり始める・・・。

目をつぶったら、そんな光景を思い浮かべていました。

そんなの、やってみたい!!

映画「アンダーグラウンド」完全版5時間を観に行く

台風18号が西日本で猛威をふるっていた9月17日の夜、まだ小雨程度で済んでいた東京・恵比寿ガーデンシネマで、エミール・クストリッツァ監督の映画「アンダーグラウンド」(1996年)の完全版を観てきました。

前編で3話、後編で3話の計6話から構成され、前編と後編は別々に鑑賞券が売られる、という形式でした。前編が16:15〜19:00、後編が19:25〜22:05、合わせておよそ5時間以上の作品でした。

時代設定は、ナチス・ドイツによるベオグラード爆撃からユーゴスラビア崩壊までおよそ50年以上のスパンでの物語でした。

しかし歴史大作というわけではなく、出演する人物は、ヒーローや偉人が活躍するわけでもない、人間味あふれたフツーの人々でした。人間のエゴや醜さ、友情と裏切り、信頼と背信などが、時には暴力を伴い、やや露骨に表現されていました。

そんな人々の姿は、基本的に、喜劇として描かれていました。そして、だからこそ、戦争に翻弄され、国家に裏切られ、挙げ句の果てにはその国家さえ失ってしまうということの無情さがかえって迫ってくるような印象を持ちました。

ネタバレになるので、具体的なあらすじは述べません。同じく長編の台湾映画「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」のような、様々な伏線が最後につながっていくようなストーリーの重厚さを感じることはありませんでしたが、手法は違うとはいえ、時代の闇をフツーの人々の目から表現しようとした作品だったのだと思いました。

映画終了後も、しばらく、ずっと作品の中で流れていたブラスバンドの曲が耳から離れませんでした。政治的に物議を醸した映画とも評されているようですが、ストーリーは単純でも、勧善懲悪からは程遠い筋書きでした。

ナチズムにせよ、共産主義にせよ、そして民族対立にせよ、結局はフツーの人々の生きざまとは関係のない話なのだ、という静かなメッセージが聞こえたような気がします。

この写真は結婚披露宴のシーンなのですが、本当の世界を知らないままで幸せを感じている人々の姿が描かれていて、現代を生きる我々自身の状況を示唆しているようにも感じてしまいました。

9月29日まで公開予定ですが、上映スケジュール等については、以下のサイトをご参照ください。

 アンダーグラウンド(完全版):恵比寿ガーデンシネマ

日本橋ふくしま館MIDETTEでビックリな出会い

先日、福島県三春町のFUKUSHIMARTで知り合ったSさんから、「今、東京です」という電話をもらいました。

Sさんは、福島市でゴボウやモロヘイヤなどを練りこんだうどんを製造している方なのですが、東京の日本橋ふくしま館MIDETTEで、その自慢のうどんを出しているので、食べに来てほしい、ということでした。

正午に用事があったので、午後1時過ぎに行くと返事をしたら、「大丈夫ですよー」という答え。あんまり人が入っていないのかなあ、と思いながら、行ってみました。

日本橋ふくしま館MIDETTEというのは、神田と日本橋のちょうど中間あたりにある、福島県のアンテナショップです。

MIDETTEというのは、外国語ではなく、実は福島弁で、「見ていって(ね)」という意味です。

さっそく、Sさんご自慢のゴボウうどんセットをいただきます。

ゴボウうどんの真ん中に、何か、ワカメのようなものが載っています。よく見えないので、ご飯の上に載せたら、分かりました。

レーザーで切断したのだそうです。そりゃあ、ずいぶんコストがかかったね、と言うと、「そうなんですよー。でもうどんの値段には転嫁できないです」と嬉しそうに答えてくれました。
うどんにゴボウが練りこまれていて、それにさらにゴボウが載り、ゴボウの和え物とゴボウのかりんとうが付く、というまさにゴボウづくし、でした。ゴボウの香りを感じながら、うどんを美味しくいただきました。
Sさんは、むろうどん製麺所を経営していますが、福島市の公設地方卸売市場の敷地内で、「お福さんのひっぱりうどん」というお店も出しています。ただし、昼過ぎには営業終了となるので、早めのお昼を食べに行くことになります。
さあ、うどんを食べ終えたので、店を出ようとしたら、どこかで見かけたものが売られていました。
郡山市の西北にある石筵地区の蜂蜜でした。数年前、私は友人たちと一緒に、石筵地区を訪れたことがあります。石筵地区は、コミュニティによる共有林管理をずっと続けてきた集落で、そのときは、水田に水を入れる前に水路の清掃を集落成員総出で行う「堰上げ」の様子を見に行ったのでした。つい最近、NHKの番組でも全国放送されたので、ご覧になった方もいると思います。
今回は、そのときにお世話になったGさんの奥様がMIDETTEに来られていて、蜂蜜を売っていました。その時の話をしばらくして、Gさんがお元気でいらっしゃる様子をお聞きした後、あの時にお土産でいただいたのと同じ大きさの蜂蜜を1瓶購入しました。
とてもおいしい高品質の蜂蜜なのですが、残念ながら、福島市の街中ではお目にかかったことがありません。郡山市では売っているのでしょうか。福島の地元で買えないのがちょっと残念です。いしむしろ養蜂園のリンクはこちらです(https://www.fukulabo.net/shop/shop.shtml?s=6334)。
さらには、高校時代の親友で今は福島県庁の高官として地域復興の先頭に立っている友人Nさんにも、店内で偶然に会い、お互いにビックリでした。
ただ単にSさんのうどんを食べに行っただけだったのに、こんなビックリな出会いがあるとは、思いませんでした。うーん、やっぱり、動くと出会いますねえ。
おいしい福島に出会いに、皆さんも是非、MIDETTEにいらしてみてください。楽しい気分になること、間違いなしです。福島県は、知られざる美味しいモノの宝庫なのです。

雨の中、花菖蒲を眺めにいく

6月18日、日曜日の東京は、一日中、雨が降ったり止んだりのあいにくの天気でした。でも、この日は私たち2人にとって特別の日。

そう、もう20何回も過ぎた結婚記念日。一緒に、紫陽花や花菖蒲を見に行こうということになって、雨の中、出かけました。

スマホ・アプリの気象レーダーで雨雲の動きを確かめながら動いたはずなのに、途中で何度も激しい雨に出くわしたのは、日頃の行いのせいかもしれません。

行先は明治神宮。北参道の入口に紫陽花があり、明治神宮の中には菖蒲園があるので、両方見られる、ということで行ったのですが。

北参道の入口の紫陽花はたしかにありました。でも、数株程度、ほんの少し。「明治神宮で紫陽花って聞いたことないなあ」という妻の言い分がまあ正しかったようです。

一人500円を払って、菖蒲園へ行きました。いやー、色とりどりの様々な花菖蒲が咲き誇っていて、なかなか見事でした。

雨滴に濡れた花菖蒲は、美しさがより際立つように感じました。

菖蒲田はゆるやかにカーブを描いていて、周りの鬱蒼とした緑あふれる木々とともに、ここが本当に東京のど真ん中とは到底思えないような風景を作っていました。

ちょうど、真ん中に橋が渡されていて、そこが写真撮影のスポットとなっています。
あいにくの雨のおかげで、菖蒲田を訪れる人の数も少なく、じっくりと味わうことができて、とてもよかったと、ここはやはり、物事をポジティブに捉えてしまいます。

南池へ行くと、夕方近いというのに、白い蓮の花が見事に咲いていました。

明治神宮の参道の木立は、雨で靄のように烟っており、訪問者の少なさも相まって、一段と厳かな雰囲気を感じました。

明治神宮での散策を終えて、二人ともとても空腹になったので、帰宅前に、原宿の南国酒家(英語表記だと South China Restaurant なのですね)で少し腹ごしらえ。

久々の五目焼きそばに大満足でした。

「食と農」の博物館を楽しんだ日曜日

今日は、姪の用事に付き合って、東京農業大学を訪問しました。ちょうど、芽吹祭という学園祭が行われていました。姪と別れてから、すぐ近くにある「食と農」の博物館を訪れました。

建物の周りでは、世田谷区の野菜直売イベントが行われており、朝採り野菜が人気を集めていました。

「食と農」の博物館では、大きな雄鶏の像に迎えられました。雄鶏の後ろには、キリンとゴリラが見えます。隈研吾氏の設計だそうです。

ちょうど今は、「微細藻類の輝かしき未来」という企画展が行われていました。イスラエルの死海で発見されたドナリエラ・バーダウィル、コッコミクサなど、門外漢の私には初めて聞く名前の微細藻類についての研究の現況がパネルで説明されていました。

βカロチンなど医薬品や機能性食品などに点火される微細藻類や、表土流失を抑える効果を持つ微細藻類、農業分野で肥料などに活用される微細藻類などが紹介されていました。
微細藻類の企画展の脇には、東京農業大学の設立者である榎本武揚や、初代学長で足尾鉱毒事件で(田中正造が関わる以前から)農民側に立って汚染状況を科学的に立証してきた横井時敬に関する説明展示がありました。
2階では、酒に関する展示があり、酒造りのほか、酒を嗜むための酒器、酒を楽しむ人々を描いた絵画、などがありました。他には、古くから使われてきた農具のほか、酉年にちなんでなのか、様々な鶏の剥製が展示されていました。

建物のすぐ外には、温室があり、熱帯の動植物がそこにおりました。

メガネザル
ゾウガメ
イグアナ
温室内の動植物は、よく世話をされていると見え、どれも元気にしていました。また、東京農業大学のキャンパス内の植物もよく手入れされている様子がうかがえました。
もしも、娘が小さい頃に、こんな博物館が近くにあったら、きっと毎週のように、メガネザルさんやカメさんに会いに通ってしまうことでしょう。
姪の用事に便乗して、楽しんでしまいました。

N. S. ハルシャ展を観れてよかった

今日は、昼と夜にミーティングの予定が入っていたので、その合間を利用して、森美術館で開催されている「N. S. ハルシャ展:チャーミングな旅」を観に行きました。

N. S. ハルシャは、インド南部カルナータカ州のマイスールに生まれ、今もこの地方の古都を拠点に活動するアーチストで、伝統文化や自然環境を踏まえつつ、開発に伴う農民の苦悩などに象徴される不条理、イメージの繰り返し、など独特の世界を表現していました。

有名人を含む2000人の人物が一面に描かれた「ここに演説をしに来て」と題された大作。今回の展覧会の目玉作品ですが、「ウォーリーを探せ」的にいろんなユニークなキャラクターを探す面白さに加えて、全体が醸し出すなんとも言えぬ雰囲気に飲まれていきます。

鏡張りの部屋には、床一面にハルシャの描いた人々の姿があり、そこへ寝転がって、天井を見ると、天井の鏡を通して、ハルシャの描いた人々と自分が一体になる、という不思議な空間がありました。スマホを掲げる私が写っています。

さらに行くと、そこには193台の足踏みミシン。これらのミシンの下には世界各国の国旗が置かれ、ミシンの間が糸で結ばれています。グローバリゼーションを表現したものですが、ミシンの下に敷かれた国旗の存在の薄さが印象的です。

「ふたたび生まれ、ふたたび死ぬ」と題された大作。勢いのある太い線の中には、宇宙を構成する星々が描かれ、観る者へ向けて、なんとも言えぬ光を放ってきます。

最後に掲示されていたのは、「道を示してくれる人たちはいた、いまもいる、この先もいるだろう」という作品。様々な所作の猿たちがすべて、上を指差しています。猿たちは、神の化身であるハヌマンなのでしょうか。

土曜日の午後だったせいか、森美術館の入口は大変な人出で、長い行列ができていました。前売券を買ったものの、窓口で入場券に引き換える必要があり、相当な混雑が予想されました。観るのをやめて引き返そうかとも思いました。

でも、11日までしかやっていないので、頑張って観ることにしました。そして、その決定で本当によかったと思います。ハルシャ展自体は、さほど混んではいませんでした。

ハルシャの作品のスケール感、そして、地方の生活に軸足を置き、地に足のついた社会に対する痛烈な批判と世界への警鐘。地域の子供たちなどとのワークショップを頻繁に行っている姿勢にも感銘しました。

森美術館は近年、アジアの埋もれたアーチストの発掘・紹介に力を入れているとは聞いていましたが、今回のハルシャ展は十分に満足いく内容でした。彼の活動拠点であるマイスールをいつか訪れ、彼自身といろんなことを話し合ってみたくなりました。

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