自宅の地鎮祭を行いました

私的な話で恐縮ですが、東京の自宅を新築することになり、本日(7/5)、地鎮祭を執り行いました。

これまで約2年をかけて、建築事務所とゼロから中身をじっくり話し合ってきて、先月、ようやく旧宅を解体し、地鎮祭にこぎつけた次第です。

我が家が氏子となっている天祖神社の神主さんの指導に従い、施工者の建設会社さんを中心に場所が設営され、スルメの結び方なども教授されました。

神さまをお呼びし、建設の進捗と家の安全を祈り、妻と私の施主2名で鍬入れを行いました。神さまにお帰りいただいた後、建設区域の四隅に、米と塩をまき、区域に沿って酒を注ぎました。

これまで、新築へこぎつけるまでには、様々なハードルがありましたが、これで建設へ向けての一つの区切りを終えることができました。

私たちの家族の色々な思いが詰まった新しい自宅、どんな家になるのでしょうか。順調に行けば、来年初めに完成の予定です。楽しみに見守っていきます。

久々に素敵なイタリアン・ランチ

6月18日は、久々に、二人で素敵なイタリアン・ランチを楽しみました。

場所は、高田馬場の老舗イタリアン。もう何十年もよく行く店です。ちょっと時間をずらして行ったせいか、待たずに席に座ることができました。

最初は冷たいジャガイモのスープ。ジャガイモの味がよく出ていて美味。

前菜3種盛り合わせ。これも美味しい。以前は、5種だったような・・・。

パスタは、イタリア国旗をイメージしたニョッキと色々な肉の手打ちパスタ。

メインは、魚介類のスープと山形豚のソテー。これも絶品でした。

食後にカプチーノを頼んだら・・・。

飲むのが惜しい、可愛いライオンさんでした。きっと、この絵を見ていたからでしょうね。

すっかり満喫した久々のイタリアン・ランチ。

この後、小石川後楽園で、見ごろを過ぎたものの、花菖蒲を堪能しました。

二人が一緒になって、30年の記念日なのでした。おわり。

伊藤若冲展を観に行く

今回の福島滞在中に行きたいと思っていたのが、福島県立美術館で開催中の「伊藤若冲展」。ようやく時間の取れた4月13日(土)、気合を入れて、開場時間の午前9時半に合わせて実家を出ました。

実家から会場までは自転車でわずか5分。今回はすごく混んでいるし、土曜日だし。でも、朝早くだったら、入れるかも。

でも甘かったです。

開場前、すでに長い列。ともかく、列に並びました。

雲一つない青空、快晴。天気がよくて良かったです。

行列に並んでから約30分経って、ようやく、美術館の中に入れました。

展示会場は5つに分かれ、若冲の作風の変化を順に追って観られるように配置されていました。でも、入館者がとても多くて、作品をじっくりと観ることができないほどでした。

屏風絵や襖絵などは、少し遠くから全体をゆったり眺めたいのですが、とにかく人が多くて、無理でした。

サクッと1時間程度で観るのを切り上げましたが、入館者はその後も次々にやって来ていました。バスを仕立てたツアーで来たお客さんもたくさん。すごいなー、若冲の人気。

個人的には、サクッと観るのを切り上げたせいかもしれませんが、前回の「若冲が来ました」のときよりはややインパクトが薄く感じました。

それでも、若冲の描く直線・曲線、線を組み合わせた構図の的確さ、迷いのなさがとても印象的でした。それ故に、作品の一つ一つが驚くほどシンプルに、観る人の心に迫ってくるのだと感じました。

穴のあいた蓮の葉。立ち上がっていくその姿を、福島の復興になぞらえて、力を与えてもらっている、という風に感じている、ようです。

若冲展の前半は今週いっぱいで終了し、一部の展示を入れ替えた後半が来週以降となるようです。

常設展を観て美術館らしさを少し味わった後、ふたつやま公園へ行って、雪を被った吾妻連峰と安達太良連峰に会いに行きました。

福島にいた子どもの頃、毎日見ていた吾妻と安達太良。今も福島に帰ると再会できて、ほっとした気分になります。私自身の脳裏に焼き付いた原風景がなのです。

隣の森合運動公園の桜が見事でした。

先週までの東京での桜に続いて、福島でも桜を楽しめました。

そして、毎月1回は行きたいと思っている常連の椏久里珈琲で、今月のケーキとコーヒーを味わいました。

焼きたてクロワッサンも追加!

おだやかな、春の福島の一日でした。

Bijiという名のお店を訪ねてみた

福島市内には、どのぐらいインドネシアと関わりを持つ人々がいるのだろうか、と思って、気になる店や場所や人を探し始めました。

昨年10月、福島市で初めてのインドネシア・フェスティバルが開催されたときに、何人かのインドネシアの方と結婚して市内に住んでいる方にお会いしました。そんな、インドネシアと関わりを持つ方々とも知り合いになれたら、と思った次第です。

今日は、Bijiという名前のお店を訪ねました。

Bijiというインドネシア語の意味は、種、粒、といった感じでしょうか。

お店の方に、どうしてBijiという名前を付けたのか、訊いてみました。

すると、このお店にあるモノを買っていただき、種から草花が育っていくように、大事に大切にそのモノを使っていいものへ育てていってほしい、という願いを込めて、Bijiという名前を付けたのだそうです。

店内には、ちょっと個性的でしゃれた小物や家具が置かれていて、しかもその各々が作者によってきちんとつくられたモノたちでした。モノに込められた作者の思いやモノが造られるまでのストーリーが聞こえてくるような、そんなモノたちでした。

インドネシアのモノは家具で、旦那さんが定期的に買い付けに行かれるそうです。

創業は2005年。こんなお店がもう15年も福島市内にあったなんて、恥ずかしながら、気がつきませんでした。

ただ、お店の方は、昨年10月のインドネシア・フェスティバルのことはご存じなかったのでした。また、福島市内に居住するインドネシア人の方々ともお付き合いはまだないとのことでした。

福島市だけではないのでしょうが、インドネシアと関わった日本人の方と、技能実習生などで来ているインドネシア人の方とが、同じ福島市という比較的こじんまりした空間に居ながら、それぞれが違う世界にいる、という状況なのだと改めて認識しました。

それなら、両者をつなげてみようかな、と思いました。何が起こるかは分からないけれども。つなげることで、もう少し楽しい空間や時間が生まれるような気がします。

BIJI
960-8051 福島市曾根田町3-14
Phone/Fax: 024-535-7716

目の中を飛ぶ黒い点とぼわーっと白い世界

先月、インドネシアへ行った頃から、左目の中で虫のような黒い点が飛ぶようになりました。飛蚊症というものらしいです。

歳を取ってくると、そういった現象が起こるものだということですが、場合によっては網膜剥離の可能性もありうるということです。
まあ、大したことはないだろうと思ったのですが、念のため、眼科に行って診てもらいました。
私にとって、病院の中で、一番嫌いなのが眼科。
まだ子供の頃、目をいろいろいじられて、とても嫌な気分になったのが、今もトラウマになっています。
でも、何十年ぶりかで眼科へ行ったら、様子が随分変わっていました。機器が見違えるほど良くなり、目を見開いているだけで、医師が様々に診察してくれます。
まず、眼孔を開くために、ある薬を点眼されました。それを点眼すると、目の前がぼわーっと白っぽくなる状態が5〜6時間残る、ということでした。
点眼の後、待合室で20分ほど待った後、再び診察。眼孔が開いた状態になったらしく、いろいろと診ていただいた結果、とくに問題はない、という答えでした。
今後も、黒い点は現れるだろうし、増えるかもしれないし、消えてしまうかもしれない、それを自分でコントロールすることはできない、ということでした。
薬も処方されない診察のみで、眼科を後にし、外へ出たら・・・。
世界がぼわーっと白くなっています。
明るいところでは、そのぼわーっとした状態が強まり、モノをはっきり見ることができません。モノを見るのがつらく感じました。
日陰や屋内などやや暗いところに入れば、通常よりも劣りますが、日なたよりはモノを見るのがつらくはなくなりました。でも、日なたに出ると、目の前が、まるで白いモヤに覆われているかのように、ぼわーっとよく見えなくなるのでした。
きっと、こんなふうに、ぼわーっとモヤのように景色が見えている人もいるに違いない。そんなことに初めて気づきました。

明日は、日なたを歩いても、ぼわーっと白く、モノを見るのがつらくないといいのですが。

目の中を飛ぶ黒い点は、あれ、なくなったかもしれない、という感じになりました。

でも、夜になると、また現れてきました。

目の中を飛ぶ黒い点とは、まあ、仲良く付き合っていくことにします。

眼科に行く前に見た朝の自宅の桜。眼科から帰って後は、
目の前がぼわーっとして、見るのがつらくなりました。

大学時代のサークルが100周年だった

大学時代に所属していたサークルが100周年を迎えていました。それに気づかせてくれたのがフェイスブックでした。

先週のとある日、大学時代のサークルの一つ上の先輩たちが久々に集まって温泉旅行に行った、という記事がフェイスブックに上がっていました。友達関係にある私の先輩が投稿したものでした。

写真が付いていて、懐かしい先輩方の顔があって、思わず、「いいね」を押してしまったら・・・。

写真に写っていた、懐かしいもう30年以上会っていない先輩からフェイスブックで「友達申請」が来て、承認して友達になったら、すぐにその先輩からメッセージが来ました。

そんなこんなしているうちに、大学時代の所属サークルである男声合唱団が2月3日に100周年記念演奏会を行なうことを知りました。

はい、実は、高校、大学と男声合唱をやっていました。トップテナーでした。

大学を卒業してからは、合唱など全くしていないのですが、一時期、ジャカルタで男声合唱を再開しようと思ったことがありました。でも、「月光とピエロ」の高音が出ず、断念しました。

ともかく、100周年記念演奏会へ行くことにしました。

行ってみたら、もう歴代の先輩方がたくさん来られていて、私の代など、まだまだ若手。OBの男声合唱団は団員の平均年齢が70歳代なのでした。

合唱を人生の友として長年歩んでこられた方々の熱さに、一時期は自分もそうだったのに、圧倒されました。

その熱さになぜかついていくことができず、そそくさと会場を後にしたのでした。

でも、また、時々、聴きに行くことと思います。

我が家の近所の一風変わった「門松」

妻と一緒に、近所の天祖神社へ初詣に出かけました。

自宅近くの大塚駅南口は、天祖神社の門前町のような雰囲気を今も残しています。そこで、よくイメージされるのとは異なる「門松」を見つけました。

店の両端に背の高い竹が立てられ、その間の軒先に注連飾が掛けられています。竹の高さは2メートル以上あり、葉はついたままです。

他の店にも、同様の「門松」を見かけました。

地元民である妻によると、彼女がまだ小さい頃の年末の商店街は、どの店にもこうした「門松」が立てられ、高いところの竹の葉が、ずうっとたくさん揺れていたそうです。

かつては、毎年、鳶(トビ)の親方が売りに来る「門松」用の竹を買って、正月過ぎまで立てて、その後は、竹は洗濯物を干すための竿竹にしり、先端に切り込みを入れて柿の木の柿をとったり、短く切って垣根にしたりと、自分の家で使ったそうです。

妻の祖母や母は、そうした竹を活用する術を知っていて、毎年、「門松」あがりの竹を色々使っていたようです。

長い竹を使った「門松」を立てている店や建物は、昔から存在するところばかりです。その数は、片手で数えられるぐらい、本当に少ないものでした。

すなわち、大塚駅の周辺の物件のほとんどは、新しいものばかりだと言えます。第二次大戦後ほどなく、大塚駅のとくに北口の物件の多くは、新しくやってきたよそ者(外国籍の方々を含む)に買われたと言います。昔からの住民が所有する物件は多くありません。

今も、店の盛衰が激しく、一年も経たずに新しい店へどんどん取って代わられていきます。そんな物件には、「門松」は全く見当たりません。

先の長い竹を使った「門松」は江戸時代からのもののようです。鳶の方々がずっと伝えてきたもので、彼らの年末の重要な仕事であり続けたのでしょう。

長い竹ではなく、途中で切った竹を使うバージョンも幾つか見られました。

我が家の門の前の門松も、このバージョンです。毎年、旧知の鳶の方がやってきて、クリスマス前に立ててくださいます。そして、松が明けると撤去してくださいます。

ちなみに、大塚駅北口から自宅までの間で、「門松」を立てているのはわずか2軒でした。いずれも、妻が幼い頃から存在するお店でした。

我が家のすぐ近くで、かすかに残っている「江戸」を感じられたひとときでした。

スラウェシ中部地震とロンボク地震の被災地を訪問して

今回のインドネシア滞在中に、11月21~23日にスラウェシ中部地震被災地のパル市、シギ県、ドンガラ県を訪問し、その後、11月27~28日にロンボク地震被災地の東ロンボク県、北ロンボク県を訪問しました。
日本でもインドネシアでも、これらの地震に関するメディア報道はずいぶん少なくなりました。そうなると、復興が順調に進んでいるかのような雰囲気が出てきますが、やはり、実態はそんな単純なものではない、というのが今回訪問しての印象でした。
現場を歩きながら、「世の中から忘れられていく」という現場の人々の気持ちを強く感じていました。
スラウェシ中部地震被災地への訪問記は、情報ウェブマガジン「よりどりインドネシア」の第34号と第35号の2回に分けて書いていきます。第1回は、以下のサイトをご参照ください。
小見出しは以下のようになっています。
 ●被災地を訪問した意味
 ●津波に襲われたタリセ海岸を歩く
 ●液状化で街が沈んだペトボ地区にて
 ●政府と住民の微妙な関係
 ●外部者の被災地利用
詳細については、内容をぜひお読みいただきたいのですが、かなり強く政治ファクターが入り込んでいることもあり、復興へ向けてのプロセスは予想以上に難しいものになるのではないか、と感じました。
次号(第35号)では、今後の復興プロセスにおいて起こってきそうな諸問題、我々が外部者としてどんな取り組みに対して支援するのが良いのか、ロンボク地震との比較を踏まえたうえでの考察、などについて、書いてみたいと思っています。
ロンボクも含めた今回の訪問では、被災した友人・知人たちの消息や活動状況を知ることも個人的な目的でした。幸い、今回お会いした仲間は皆、元気でいてくれて、再会を喜び合いました。
ロンボク島の被災地も、その後に起きたスラウェシ中部地震との関連で、様々な影響を受けていました。多くのロンボクの被災者は、スラウェシ中部地震の被災地のほうがずっと大変な目に遭っていると思っている様子でした。
それは、東日本大震災の時、福島の被災者が「岩手や宮城の被災者は津波で実際にたくさんの方が亡くなって自分たちよりも大変なんだ」とか、逆に岩手や宮城の被災者が「福島の被災者は原発事故の影響も加わって自分たちよりも大変なんだ」と思ったことを想起させました。
今回ロンボク島も訪れてみて、表面上の明るさの陰で、被災者の地震への恐怖や将来への不安が強くある様子がうかがえました。仮設住宅の建設など生活を取り戻す過程は始まっていますが、急ピッチで復興が進んでいる、というようなものではないという印象でした。
それでもなお、ロンボクでは「自分で何とかしていく」という態度を見ることができました。自分たちの村を自分たちでなんとかするっきゃない!という、いい意味での開き直りというか、援助を待ち続けるという態度はほとんど見られなかったのが印象的でした。
よりどりインドネシアに「ロンボクだより」を連載してくださっている岡本みどりさんのお宅も訪ねました。可愛いお嬢さんにも遊んでもらえました。
岡本さんの周りのおじさんやおばさんたちは、皆さん、互いに笑い、話をすることで、気を紛らせ、やるべきことをやれる範囲でやるという、当たり前の態度で日々の生活を少しずつでも取り戻していこうとしていました。そんな人たちに温かく囲まれながら、岡本さんも、周りの皆さんの生きる力を感じていらっしゃるのだろうなと思いました。
マカッサルで仲間と話し合ったときに出てきた大事な言葉が、「生きる力」でした。
「生きる力」を持っている人々や社会は、再生への強さを内に秘めているのだと思います。それを肯定するような、「生きる力」を強くしていけるような、被災地や被災者へのリスペクトやポジティブな働きかけを、外部者としての私たちは適切に行なって行けるとよいな、と思いました。
そして「生きる力」とそれを強くしていけるようなプラスの働きかけは、今の日本にとっても必要なことでもあるのだ、と感じるのです。

ジャカルタの「父」を見舞う

9月3日、ジャカルタに到着後、そのまま、ジャカルタの「父」を見舞いに行きました。

筆者には、インドネシアに複数の「父」「母」がいるのですが、そのなかでも、最も高齢で、最も世話になった「父」を見舞いに行きました。

見舞い、というのは、一週間ほど前、それまで家族と散歩するなど元気だった「父」の容態が突然変化して入院、集中治療室に入ったという連絡があったためです。意識も衰え、大量出血したそうです。「父」は87歳、家族もいったんは覚悟しました。

その後、病院側の献身もあって、奇跡的に「父」の容態は回復し、出血も止まり、意識も回復して、集中治療室から通常の病室へ移り、「なぜこんなところにいるのだ」「カプチーノが飲みたい」などと言うようになり、ほどなく、退院することになったのでした。

「父」は娘夫婦の家で受け入れ、静かに療養中でした。姪によれば、「ガドガド(茹で野菜をピリ辛のピーナッツソースであえたもの)が食べたい」などと繰り返していたそうです。

空港から「父」のいる娘夫婦の家に到着、休んでいた「父」が現れて、会うことができました。退院したばかりで、ちょっと疲れが出ている様子でしたが、娘夫婦や、さらにかけつけた姪夫婦らと一緒に、夕飯の食卓を囲みました。

「父」はまだ普通の食事は制限されていて、やわらかいご飯に辛くない薄味の柔らかくした野菜などをまぜた別メニューを「母」が食べさせてあげました。

一週間前に聞いた情報からすると、こうして一緒に食卓を囲んでいることがなんだか本当に奇跡のように思えました。「父」と「母」と記念の写真を撮ってもらいました。

思い返せば、「父」と初めて出会ったのは、最初の勤務先である研究所に入所した33年前でした。その頃、「父」はインドネシア中央政府の某官庁で次官を務める高級官僚。歴代の研究所の先輩研究者たちが世話になった大事な方でした。先輩研究者たちがまだペーペーの筆者に「父」を紹介してくださったのです。

その後、折に触れて、「父」に支えられました。研究所の海外調査員として2年間ジャカルタに滞在し、インドネシア大学大学院で学んだときには、「父」が身元保証人になってくれました。もっとも、そのとき「父」は研究所の客員研究員として日本に滞在しており、ビザ更新のレターなどは、前もってフォーマットをお送りして署名していただき、ジャカルタへ送り返してもらっていました(インターネットなどというものがなかった時代の話です)。

詳細は省きますが、あるとき、筆者が心折れて、絶望したくなるようなことがありました。そんなときに、なぜか「父」がたまたま現れ、一緒に食事をし、筆者の話を微笑みながら聴いてくれました。「父」と会ったことで、筆者は救われたのでした。

インドネシアにいるたくさんの恩人のなかでも、「父」はとくに大事な恩人でした。

そんな「父」だから、何としてでも会いに行きたかったのです。そして、会うことができて、あまり言葉は発しませんでしたが、「父」は、疲れ気味ながら、うれしそうでした。

4日朝、姪から「父」の様子を伝えるメッセージが来ました。筆者があったときとは打って変って、「父」は元気になり、よくしゃべり、筆者のことを「どこへ行った、どうしてる?」と尋ね続けたそうです。筆者の来訪がきっと「父」を元気にしたんだね、と姪は綴っていました。

よかった。よかった。本当によかった。

まだまだ容態はアップダウンあることでしょうが、元気でいてほしい。もうすぐ、以前の通り、「父」はガドガドを楽しく食べられることでしょう。

今週、「父」は、米寿をむかえます。

夕焼け空を母と見上げた

6月24~26日は、福島です。

先ほど、夕方、福島に着きました。今日の日中の福島は東京よりも熱かったようですが、夕方になると、さわやかな風が南から吹いて、歩いていて気持ちのいい陽気でした。

実家へ歩いて帰る途中、ふと西の空をみると、空が赤くなり始めていました。吾妻連峰のシルエットが映えています。福島製作所前の交差点で、空がパッと広くなり、上空を飛行機雲が通っていき、その線がぼやけていきました。

三河踏切を渡って、振り返ってみた線路(奥羽線)と高架(山形新幹線)を背にした夕焼けも、きれいでした。

自宅そばの小学校の校舎を包むような、やわらかな夕方の陽のひかり。

実家に着いて、すぐに母を呼びました。何事かとバタバタかけてきた母と、一緒に空を見上げました。

しばし、無言で、空を見上げ続ける母と私。

人間がおそらく絶対に創り出せない色合いや形状、そしてこのマジックアワーの何とも言えない雰囲気。

「まだ子供だった頃、毎夕、屋根の上から、一番星が出るまでずっと夕焼け空を眺めていたのよ」 ポツリと母がつぶやきました。

筆者も、今から20年以上前、家族3人で、マカッサル沖に沈む夕日を海岸から眺めていた日々を思い出しました。

世界のどこかで、おそらく必ず、今、この瞬間に、それぞれの夕日を眺めている人々がいることでしょう。そんなことを思います。

夕日を眺める豊かで美しい時間を、決して失いたくない、他の人のそれも決して失ってほしくない、と思いました。

夏至を過ぎたばかりの福島の夕焼けでした。

スラバヤで1泊、蟹カレーを食べる

5月15日、バトゥでの用務を終えて、スラバヤに1泊しています。16日の朝、ジャカルタへ向けてスラバヤを発ちます。

この間、スラバヤでは、複数の家族による自爆テロ事件が5月13・14日の2日間に相次ぎました。家族全員で自爆テロを行うという、これまでにない新しい形のテロが起きてしまいました。

この種のテロは、どこで起こるか分からないという恐怖があります。道行く人が突然何かするのではないか。目の前の人が爆弾を抱えているのではないか。そんな不安はなかなか払拭できるものではありません。

また、顔を隠し、眼だけ出して長いイスラムの服装をしている女性が不審者としてみられ、いくつかの場所で入場を断られたりする話も聞こえてきます。

いつ何時、誰がテロを引き起こすか分からない・・・。街中の見知らぬ人々を信用できなくなっている。実際の自爆テロで数十人の方々が犠牲になったのに加えて、今、スラバヤの街中では、そうした不信感が大きくなっている印象を受けました。

暴動のように、物理的に目に見える形で騒ぎが大きくなっている場合には、できるだけそのような場所を回避することが望ましいことは言うまでもありません。

しかし、テロ事件のように、いつどこで誰が起こすのか分からない、運命によっては防ぎようのない状況に陥るものは、予防措置として、周辺の不審者に注意を払うような行動を採らざるを得なくなり、精神的に落ち着かない状況が続いていきます。

たとえ、周辺の様子を絶えず不審なものはないかと注意を払い続けたとしても、それを察知して確実に防げるとは思えないからです。

そんなことを色々考えながら、スラバヤに1泊することにしました。周辺状況を自分なりによく観察し、大丈夫だと判断して、夕食を食べに出かけました。

行く先は、久々に食べたかった、Hai Nanの蟹カレー。

店は営業していましたが、中は閑散としていて、普通なら午後8時には満席となるのに、ガラガラのままでした。それでも、お客さんが来てくれたのは嬉しいらしく、フロアマネージャーは笑顔で対応してくれました。もちろん、蟹カレーは、いつも通りの美味しさで、大満足でした。

見えない恐怖を感じながらも、普段通りの生活を続け、スラバヤは決してテロに屈しないことを静かに示し続けること。今のスラバヤの人々にできることは、やはりそういうことなのだと思います。

スラバヤでこんな事件が起こってしまった、と市民に率直に謝り、先頭に立って現場を歩き、被害者を慰問するスラバヤ市のリスマ市長の姿から、人々は前を向く勇気をもらっているように見えます。街中には「テロに屈しない」「スラバヤのために祈る」といった手書きの横断幕が掲げられていました。

今回の自爆テロ犯は、必ずしも貧しい家族ではなかったと見られています。貧しさだけがテロへ走らせるのではなく、心が満たされない、社会から疎外された、そんな精神的な部分にカルトのささやきが忍び込んでくるのでしょうか。

SDGsが目指す誰も見捨てない社会は、所得向上だけを目的とするのではなく、こうした精神的な面をどのように内包していくかも問われています。それは、やはり、人が人を信用できる、知らない人でも信頼できるような、いわゆる信頼社会をどう作っていくか、ということと関わってくるものと考えます。

自分たちの身の回りから始められることは何か。きっと、一人ずつ、自分の信頼できる他人を増やしていく。そのためには、自分も他人から信頼される人間になっていく。もう一度、一つずつ、社会を作り直していく必要を認識させられているのかもしれません。

岩手日報の「大切な人を想う日」

岩手日報が、3月11日を「大切な人を想う日」に、という取り組みを始めています。賛同する人に署名をしてもらう、というささやかな運動です。以下のページを覗いてみてください。そして、賛同されるなら、署名をしてみてください。

 岩手日報:3月11日を「大切な人を想う日」に

このページには、「最後だとわかっていたなら」という動画が3本掲載されています。大槌町の「風の電話」の話も含まれています。心に響きます。

突然何かが起きて、明日が来なくなるかもしれない。

同じ明日が来ることを当たり前に思っていた私たち。

震災という現実を前に、それまでの人生と大切な人たちとの関係を考えると、たとえ自分だけが生き延びたとしても、強い後悔と深い自省に苛まれ続けることになります。

それが自分にはどうすることもできない不可抗力だったとしても。自分はただ真面目に生きてきて、何の罪もないとしても。

明日は来ないかもしれない。だから、今の一瞬一瞬を大事に生きていく。いつこの世が終わろうとも、悔いのない人生を歩んでいく。あのとき、多くの人がそう思い、生き方を変えようとしたのだと思います。

そして、大切な人のことをもっともっと愛そう、いとおしく思おう、やさしく接しよう、そう誓ったのだと思います。

でも、実際には、私も含めて、その誓いを意識し続けられたのか、と振り返って思います。私自身、ともするとそれを忘れ、世の中の忘却の流れのなかの一部になっていたような気がします。

この世に生まれたこと、今生きていること、大切な人のことを想えること。それらが当たり前に見える奇跡なのだ、ということを忘れてしまうのです。

岩手日報のささやかな運動は、そんな自分を戒めてくれたような気がします。

でも、3月11日だけ大切な人を想うのではなく、この3月11日から「大切な人を想う日」を毎日にしていくことを自分に決めました。

昨日、寺田尚子さんの「カッチーニのアヴェ・マリア」の生演奏を聴きながら、そう決めました。

もし、私が不機嫌な顔をしていたらごめんなさい。不躾な態度だったらごめんなさい。もし私がそうだったら、遠慮なく指摘してください。

今日出会った人、明日出会う人、来週出会う人、そして毎日のように会う家族。

真剣に生きているのか、と自分に問いながら、当たり前の奇跡を意識した毎日をすごしていく。

そんな決意を自分なりにした今年の3・11。

福島市のホッとするブックカフェ・コトー

先週、インドネシア人作家のリリ・ユリアンティさんを連れて福島を案内したのですが、前々から気になっていたブックカフェ・コトーへ行ってきました。

コトーの場所は、新浜公園のすぐ近く。筆者が小4~高1まで住んでいた場所(今や当時の家の面影も何も全くない)から歩いて5分もかからないところにありました。そう、子どもの頃の私にとっては庭みたいな場所です。

ちょっと古ぼけた二階建ての建物の2階に、コトーはひっそりとありました。

階段を上がって中へ入ると、子ども向けの本から美術書まで、面白そうな本が並んでいます。選者のセンスの良さを感じさせるラインアップでした。

寒い外からストーブで温かな空間、とても居心地のよい空間でした。リリさんとコーヒーを飲みながら、しばし読書談義をしているうちに、いつしか、店主の小島さんも話に加わり、誰も他にお客さんがいないのをいいことに、色々な話をしました。

ここの本はみんな買取で、すべて販売している本です。言ってみれば、古本屋さん。小島さんに言われて気づいたのですが、福島市内には古本屋が見当たりません。人口30万人の街にある唯一の古本屋なのかもしれません。

もっとも、今や、古本はブックオフやアマゾンで売買すればよいから、古本屋は必要ないと割り切る向きが多いのかもしれません。それもまた、全国の地方都市で地元の本屋がどんどんなくなっている現象と軌を一にするものでしょう。

本屋はただ単に本が置いてあるのではなく、そこに様々な本がある偶然、自分には思いもしなかった本と出会う偶然、そんな偶然が起こる場所であり、そんな偶然が自分では思いもしなかった新しい自分や何かを生み出していたのかもしれません。

地方都市にとっての文化って、いったい何なのだろうか?

効率や損得が第一のような風潮のなかで、敢えて、古本屋という媒体を通じて急く時間を止め、様々な偶然が生まれて浸み込んでいく時間と空間を提供している場所。そんな場所を求めている人々がこの福島にもいるということに、自分勝手ではありますが、ものすごく救われた気分になりました。

そして、こんな場所が福島市内のあちこちに生まれたら、もっと素敵な町になっていくなあ、と思いました。

小島さん、またお邪魔します。自分も、そんな場所を作ってみようかな?

文化をつくるって、きっと、こういうことから、じわじわ、ゆるゆると始まっていくのかもしれません。

ワールドシフト京都フォーラム2018へ行ってみた

2月3日朝、ジャカルタから東京へ戻り、翌4日朝、東京から京都へ行って、「ワールドシフト京都フォーラム2018」というイベントへ行ってみました。

前から興味はあったのですが、何せ、知り合いがほとんどいないイベントです。とはいえ、30年ぶりに大学の後輩に会うなど、いい時間を過ごせました。

このイベントは、一般社団法人ワールドシフト・ネットワーク・ジャパンが主催するもので、持続可能で平和な未来の実現のため、これまでとは異なる、新しい世界や価値観へのシフトを起こし、行動していくことを目指す運動の一環です。

そのシフトはまず自分自身から始まる、という能動的な運動でもあります。世界がこう変わってくれたらいいなあ、という受け身ではなく、まず、自分は何から何へ変わるのか、という問いから始まり、自分から何らかの行動を起こしていく、そんなたくさんの個人が世界中で行動を起こしていくなかで、シフトが起こっていく、ということを目指している、と理解しました。

今回のフォーラムの「まなぶ、つながる、うごく」というサブタイトルにも惹かれました。まさに、自分が今、目指している行動だからです。


「まなぶ」「つながる」「うごく」の各セッションで、様々な方々が、自分は何から何へ変わるのか、を明言しながら、プレゼンテーションを行なっていきました。そのすべてにおいて、他者への想像力と敬意、偽りのない真の自分自身の発見と向き合い、思いを形へ変えていく力、などのキーワードが通底していました。

個人的にとても新鮮だったのは、AIやブロックチェーンなどの最新テクノロジーを、人間と人間、地域と地域がつながるための道具として活用することへの期待が、今の学問の世界に芽生えていることを知ったことでした。

たとえば、環境経済学の専門家で、世界大での水問題を提起した東北大学の佐藤正弘氏が披露した、世界の水の偏在と不確実性を克服するために、異なる地域の違う水をつなげる、といった試みです。

川の水しか使えない地域と地下水の使える地域との間で、後者から前者へ食料を供給し、前者から後者へは水を供給する、その際に、後者が食料生産に費やす水の量を計算してその分を前者から水で後者へ供給してもらう、といった考え方で、バーチャル・ベイズンという用語を使っておられました。

資源を持つ者の力による支配から、テクノロジーを使って人と人、地域と地域を結びつけ、関係性による最適化の形成を目指す。グローバルな安定を目指すことが多様なローカルの創発につながる、という話が、個人的にとても新鮮でした。

これは、まさにグローカルではないですか。

イギリスの団体が取り組む、ブロックチェーンによる記録を活用した、インドネシアのカツオ漁と消費者とをつなげる試みも興味深い事例でした。

アミタ・ホールディングスの熊野英介氏のプレゼンテーションは、自らが主宰する信頼資本財団による共感融資と共感助成の話でした。3人単位で自分たちの思いを実現するための事業を提案し、財団から共感を得られれば、無担保・無利子で融資をする、助成をする。これまでに100件以上の案件が動き、焦げ付きは一切なし。もう何年もそれが続いているというのです。

人間の欲求のゼロポイントは「孤独になりたくない」ということだとも彼は言います。自治的交差共同体ネットワーク化によって、安定社会から安心社会へ変えていく、そこでは共感と信頼で経営力を増やしていくことが求められ、信頼資本主義を目指すべき、という主張が強く響きました。

「つながる」のセッションでは、ただ単につながればいいという話ではなく、誰がどのようにつながるのか、どのようにつながれば社会問題の解決や平和を造っていけるのか、ということを考えながらつながっていくことが大事だということが強調されました。

広島の被爆者や語り部の方々が、アメリカの核の町・ロスアラモスで果敢にも対話を試みた際、意見の異なる者を結ぶための「文化」の力を痛感した、という話も心に響きました。

誰もが何かがおかしいと、本当はうすうす気づいているのに動けない、動かない。大きな流れに身を任せるしかないというあきらめ。でも、もしかしたら、自分の思っている以上にたくさんの人々が同じようにおかしいと思っているという事実を知ることができたなら、新たな行動へのシフトが生まれてくるかもしれません。

分断は、そうしたことに気づかないように仕向けるものです。誰かの意見に賛成する、自分がいいと思う意見を選ぶ、ということではなく、自分で考えて、自分で行動する。そのときに同じような仲間がいることを意識し、それぞれの自分の考えをそのまま尊重し、ゆるくつながれるところで、必要ならばつながっていく。

分断されているのではなく、自分が分断に加担しているのかもしれないのです。

会ったこともない人のことを心配できる能力を人間は持っている、と発表者の一人の方が力強く主張していました。

辺野古をめぐる分断された住民のこと。台湾東部の地震の被災者のこと。何十年もの精神科病院への入院を強いられた方々のこと。シリアで今も爆撃を受けて逃げ惑う人々のこと。ジャカルタの洪水で避難する人々のこと。彼らのために何かがすぐできるわけではないかもしれませんが、そういった人々のことを思うこと、想像すること、それがまだできるということを自覚することが最低限大事なのかもしれません。

何かを思ってすぐに行動に移せる人の数は、決して多くはありません。でも、シフトが起こるには、予備軍がたくさんいるということを想像できることが少なくとも必要なのではないでしょうか。

イデオロギーや教義ではなく、自分たちの人生や日々の暮らしこそが最も基本であり、それを守り、子孫により安心な世界を残していくことが我々の務めであると思います。だから、変化を起こすのは国家や権力者や一部のエリートではなく、地域や私たち一人ひとりのささやかでしたたかな行動なのだと思うのです。

祈りだけでなく行動へ

新しい年、2018年が始まりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年の自分のキャッチフレーズは、「祈りだけでなく行動へ」としました。毎年、家族の健康や世界の平和を祈ってきましたが、それだけでは不十分、自らそのための行動を起こしていかなければならない、と今年は特に強く感じました。

それでも今日は、東京の自宅近くの神社へ初詣し、しっかり祈ってきました。

23年間勤めた研究所を辞め、一人で動き始めて、今年で10年になります。これまでも、そして今も、試行錯誤の毎日ですが、一人で動けるということの意味をもう一度考えています。

日本のローカルとインドネシアのローカルをつなげて新しいモノやコトを創る、という活動を、さらに進めていきます。そして、日本のローカルどうし、インドネシア以外のローカルへの展開を試みていきます。

ここでのローカルには、地域社会・コミュニティ、地方自治体、地方企業、農民グループ、社会組織、そして地域に生きる個々の人々、を含みます。

ローカルとローカルをグローバルにもつなげていった先に、私なりの未来の姿があります。

それは、国や種族や宗教による勝手な先入観を抑え、同じ人間としての他者への想像力を深め、広げた世界であり、それを足元の日々の暮らしから発想し、意識する、ということです。

そのためには、暮らしから遠いところにある国家ではなく、暮らしに直結したローカルから発想する必要があると考えます。平和というものは、人々が自分の暮らしを第一に意識するところから始まるはずです。

ローカルは他のローカルの支配者になる必要はありません。国家という枠がはめられている以上、一つのローカルが世界中のローカルを支配することはできません。ローカルとローカルとの間に上下関係はありません。対等の関係でつながり、互いの違いを認め合うだけです。学びあいの関係をつくるのに適した関係と言えます。

そんなローカルが他のローカルを認め合いながらつながっていく世界は、国家が覇を唱え合うだけの世界よりも、あるいは覇を唱える国家の横暴を抑制させる、より安定した世界になるのではないか。

それは夢想かもしれません。お花畑かもしれません。でも、つながらずに、知らない相手を一方的に妄想し、相手を誹謗・中傷し罵声を浴びせるようなことは、個人のストレス発散の方法だとしても、決して許されるものではありません。だって、自分がそれをされたなら、決して嬉しく感じるはずがないからです。

国を知ることも大事ですが、同時に、そこで人々が暮らすローカルをもっと知り、その人々や彼らの暮らしへの想像力を高めることが必要です。

ローカルから始める意味はそこにあります。ローカルは暮らしと直結するからです。

そのような意味を込めて、これから仲間を増やす長い旅に出たいと思います。皆さんがそうした仲間に加わっていただけることを願いつつ・・・。

自分にしかできないことを高める

先日、友人から人生相談を受ける機会がありました。何かアドバイスできるような立派な人生など歩んでいるわけではないですが、ともかく、彼より少しシニアだということで、お会いすることにしました。

話を聞きながら、自分も、かつて、いや今も、自分の生きていく道筋について悩んできているということを改めて思いました。

ポジティブ全開の人も含めて、どんな人でも、自分に対して正直になったとき、今まで歩んできた道を少しも後悔しない人はいないのではないか、と思います。自分が計画した通りのベストな人生を歩んでいると実感している人はいないのではないか。

でも、自分が歩んできた道がベストだったのだ、と思って生きることは大事なことだと思います。思い描いたベストな人生ではないかもしれないけれど、今の自分は過去からの様々な出来事の因果関係の連鎖のうえに成り立っていて、後から振り返ると、これで良かったのだと肯定しないと、やっていられないように感じるのです。

相談した友人は、現状への不満と漠然と「こういうことをしたい」という思いは持っているのですが、その思いはまだホワッとした状態で、それをまだ明確に具体的にできていない様子でした。

そのときに、自分がやりたいこと、それを実現するために何をしなければならないか、ということを考えたとき、年齢や家族構成などを考慮すると、できるだけそれを無理なくできる方法を考えたほうが良さそうです。

自分の比較優位は何かも自覚しておくことが重要でしょう。比較優位がないものを実現するためには、ものすごい労力と努力を必要とします。たとえば、インドネシアに関するコンサルティングを行ないたいという場合に、既存のコンサルタントにはない何を比較優位とするのか、が問われてきます。

残念ながら、友人がそれを実現するためには、それこそ、ものすごい労力と努力を必要とすることが明らかでした。

しかし、今、自分で関わっている仕事から派生する形で、比較優位を作っていくことのほうが無理なくできる場合もありえます。友人の場合、今の仕事は、日本で専門家がほとんどいないある外国に関わるものでした。ですから、少し努力すれば、友人はその国の専門家になることができるのです。

生きてきた証は、自分にしかできないことを高めていくことで培われるものです。自分がこの世に生きた意味や証は、自分にしかできないことを世の中で実現することで生まれてくる。それは、自分という個を、アイデンティティを、明確にすることでもあります。

友人には、今の自分の状況を冷静に把握し、できるだけ無理なく、自分にしかできないことを高めていくのがいいのではないか、とアドバイスしました。

と、そこで気づきました。これは、地域が生き生きとしていく、生き残っていくことと同じではないか、と。その地域の持つ地域性をしっかり理解し、そこから他にはない、その地域にしかできないことを見つけ、それを高めていく。

そして、自分にしかできないことを高める人々が集まる地域が、自らの地域にしかできないことを高めていけるのではないか、と。

振り返って、私自身、自分にしかできないことは何なのか、改めて考えています。そして、自惚れではなく、それは、確かにある、ということを確信しています。

それは、小さい頃からずっとやりたいと思っていた、ホワッとした思いが徐々に具体的なイメージにフォーカスしてきているのでした。研究所で研究員を務めたことも、開発援助の実務に関わったことも、NGOで活動したことも、独立して自由に動け回れるようになったことも、後から振り返ると、すべてつながっているのでした。

家族を養うという意味での生活を考えれば、後悔する気持ちが全くないわけではありませんが、自分はこういう生き方をしたかったのだ、そこに意味があるのだ、という気持ちのほうが勝っている気がします。

さて、来年はどうなりますことやら。楽しみです。

起き上がりムンクさんに癒される?

40年前までの福島市民が今また戻ってきた訳

今週は金曜日まで福島市です。おこもりでしていた原稿執筆が、終わってはいないけれども、今日でようやく目途がついたので、少し気持ちに余裕ができました。

福島市で法人登記してから、ちょうど今日で8ヵ月が経ちました。法人登記したのは4月11日、東日本大震災の月命日にあたります。本当は3月11日に登記したかったのだけれど、今年は土曜日だったので、無理でした。

あの震災がなかったら、自分は故郷の福島市に活動拠点をかまえようとは、きっと思わなかったでしょう。

震災の前年に亡くなった父が、私がまだ福島市で中学・高校に通っていたころによく言っていた言葉を思い出します。

父は、「福島に居るな。外に出ろ。できれば、日本の外へ出ろ」と何度も言いました。「世界のどこにいても、元気にしているならそれでよい」とも言いました。

私は、父のように、地元・福島で学校の先生になりたいと思っていました。何かを教えることが好きだったし、たくさんの教え子に囲まれる人生が素敵に見えたものです。でも、父は、私が自分と同じ職業に就くことを望んでいませんでした。そして、大人になってから、その理由がはっきりと分かりました。

父が満足していたかどうかは別として、高校を卒業した後、東京で一浪して東京の大学に入り、縁あって就職した職場では、インドネシアと付き合うことになりました。

そして、頻繁に日本とインドネシアを行き来し、ときにはインドネシアに長期滞在し、30年以上経った今でも、インドネシアとの付き合いは切れるどころか、ますます深みにはまっていく感じがするほどです。

福島がどんどん遠くなっていきました。インドネシアがどんどん近づいてきました。

一身上の都合で23年お世話になった職場を離れ、今度は一人で挑戦しようと動き始めてほどなく、父が亡くなり、震災が起こりました。

震災後の様々な社会の動揺や変化を見ながら、自分の人生にとって何か大きなパラダイム転換が起きたように感じました。豊かになることが幸せなのか。他人に勝つことが人生の目的なのか。生きるって何なのか。依存するって何なのか。自立って何なのか。

震災後の福島が、世の中の様々なものに翻弄され、ときには差別され、排除され、無視され、ズタズタにされていく様子を見ていました。ただただ、それに対して無力な自分を攻め続け、自分で自分を罵倒していました。

個人としては原発には反対だけれども、原発に長年真面目に関わってきた高校・大学時代の友人たちや、原発のおかげで幸せな生活が送れるようになった人たちのことを思いました。白黒なんて簡単に線は引けない。きれいな結論を出せなくなりました。

自分が今できることは何なのだろう。福島から出ていった自分は、福島にとってはよそ者です。でも完全なよそ者ではなく、出戻りです。そうした出戻りが、これまでの日本の地域づくりのなかで重要な役割を果たした事例をたくさん学んではきましたが、では、自分はどうなのか。

まずは、自分の立ち位置を定めること。福島市に法人登記したからといって、福島市から一歩も外に出てはいけないわけではないし、日本中、いや世界中、どこで活動してもかまわない訳です。でも、その出発点を福島市に定めた、という意味を法人登記に込めたいと思いました。

福島市を出発点として、福島市はもちろんのこと、日本中、世界中の必要とされている場所で活動し、その成果のエッセンスを何らかの形で福島へ返していく。逆に、福島での活動の成果やエッセンスを外の世界へ流していく。

そんな、福島と外とを行き来しつつ、福島と外の世界をつなげたり、外からヒトやモノやコトを福島へ取り込んだりしながら、その過程で新しい何かが生まれる触媒の役割を果たす。それが、今考える、自分なりの立ち位置ではないか、と思っています。

これをやるんだ、というものをギラギラさせているわけではありません。今の福島市にとって必要なモノやコトは何か、といつも考えています。もちろん、やりたいと思っていることは色々あります。

でも、すでにいろんな方がいろんなことをされていて、まずはそれを学ぶことから始めているつもりです。じっくりと、慌てずに、しかし本物の活動をしたり、促したりしていけるように、研鑚を積んでいきたいと思っています。

40年前まで福島市民だった自分の、根っこの部分とよそ者の部分のハイブリッドで、自分が一体何をしていけるか。動いていきます。

昔から、大好きな福島のリンゴを毎日、実家で食べられる幸せ・・・

ただ今、東京でおこもり中です

スラバヤ出張中に体調を悪くし、帰国した12月1日はあまり具合がよくなかったので、ひたすら眠り、翌2日には、体調も回復し、正常に戻りました。

2日は、大学時代のゼミのOBの勉強会「竹内記念フォーラム」に出席しました。恩師である故竹内啓一先生(社会地理学)を偲び、教え子たちが自主的に開催しているもので、1年に2回開かれます。

毎回、OBの一人が発表、それを話題に自由討論するという形で、私もちょうど1年前、「宮本常一、地元学、メタファシリテーション:いまの私の活動を支える三本柱」と題して、発表しました。中身について興味のある方は、個別にご連絡ください。

その後、今週中に終わらせなければならない原稿作業が3本重なってしまったので、ここしばらくは、自宅からレンタルオフィスへ行って、こもって書いています。でも、量が多いためか、ちょっと遅れ気味です。

3本のうちの1本は、明後日発行予定の「よりどりインドネシア」第11号なのですが、もしかすると、1~2日、発行を遅らせるかもしれません。あらかじめ、ご容赦のほどをお願いいたします。

と、今回は、状況報告のみなのですが、最後に、ちょっとつぶやきを。

東京23区内で、オフィス、シェアオフィスあるいはコワーキングスペースが欲しいなと思っている方はいらっしゃいますか。一緒にそんな空間を作ってみたいな、と思っていらっしゃる方はいますか。

秋ももう終わりですねぇ。

映画「おだやかな革命」の試写会に行った

ダメもとで応募したら、映画「おだやかな革命」の試写会に当たったので、11月21日に東京・銀座で観てきました。

この映画は、来年2月、ポレポレ東中野を皮切りに、全国での上映が予定されています。それに先駆けて、今回、観ることができました。

内容は、全国各地で起こり始めた、地域がエネルギー主権を取り戻すというお話ですが、単なるご当地エネルギーの話にとどまらず、それが地域のなかで引き起こす様々な新しい動きが、地域をより温かく、楽しくしていく、関わる人々の間に様々な学びと他者への尊敬を生み出していく、その様子を丁寧に描いたものでした。

取り上げられた事例自体は、日本の地域づくりに関わる人にはよく知られた事例かもしれません。でも、取り上げられた4つの事例を通じて流れるのは、未来へ向けての根本的なパラダイム転換であり、それを「おだやかな革命」と評しているように思えました。

この「革命」は、単におだやかであるだけでなく、私たち自身が未来に対して主体的に関わっていくことを促しているものです。為政者が声高に語る空虚な「革命」と対峙する愚をとらず、確実に、地に足をつけて、しっかりと広がり始めた「革命」です。

それは、雲のうえにあるかのような国家と、日々の暮らしに立脚したローカルとでは、観ている地平が違うということでもあります。富や名声ではなく、他と比べて優越を競うのでもなく、自分たちの暮らしとその基盤となる地域やコミュニティを温かく、楽しく、希望を感じる場所へと作り上げていく、あるいはもう一度そんな場所を取り戻そうとしていく日々の営みこそが、「おだやかな革命」とでもいうものであるような気がします。

この映画を作った渡辺智史監督と少しお話しする機会がありましたが、鶴岡市という地方に立脚しているからこそ、描けている部分もあると感じました。そして、渡辺監督自身もまた、「おだやかな革命」を遂行している一人であることを自覚しているはずです。

私も、そしてあなたも、自分自身を暮らしの中に取り戻そうと動いている人々は、「おだやかな革命」の遂行者なのだと思います。

映画を通じて、大丈夫、私たちはまだ大丈夫、そう信じていいのだ、というメッセージも受け止めました。

ぜひ、一人でも多くの方々にこの映画を観てほしいと思います。そして、私たちもまた、「おだやかな革命」の遂行者なのだということを意識し、おだやかにつながっていければと願うものです。

福島、晩秋、オフィスと同じ敷地内にて

昨日(11/15)、福島に着きました。

秋はすっかり深まり、今日(11/16)は寒い一日でした。暖房のない冷えきったオフィスで、寒さに耐えきれず・・・。ともかく暖房対策を急がなければ。

私のオフィスのある敷地内の古民家と庭の景色も、すっかり晩秋の装い。どの季節も、この場所で見る美しさが、何とも落ち着くのです。

11月、12月。締め切り迫る原稿に向かいつつ、福島から自分が始めるモノやコトをじっくり仕込み始めたいと思っています。

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