未来の祀りふくしま2019、オーストラリア・チームとの3日間

8月8日朝、インドネシア出張からの帰国早々、東京の自宅にしばし寄った後、福島へ移動し、詩人の和合亮一さんと合流して、今年の「未来の祀りふくしま2019」を構成する二つのアーティスト・グループと会いました。

二つのアーティスト・グループですが、オーストラリア・チームとシアトル大学チームの二つです。実は、2018年12月28日、大雪の日、和合さんの誘いを受けて、この両チームの関係者とお会いし、福島でどのようなアート活動を行うのか、一緒にブレーンストーミングをしておりました。

そして、8月10日にはいわき市立美術館、11日には飯舘村の山津見神社で、オーストラリア・チームと和合さんとのコラボ・イベントに参加しました。これら一連の流れのなかで、地域とのアートの関わり方について、自分なりに色々と考えることができました。

今回は、オーストラリア・チームとの3日間について書きたいと思います。

8月11日、飯舘村・山津見神社でのコラボレーション・パフォーマンス

オーストラリア・チームは、和歌山大学の加藤久美先生、サイモン・ワーン先生、アダム・ドーリング先生が中心となり、ブリスベーンからパフォーミング・アーティストのジャン・ベーカー・フィンチ(Jan Baker Finch)さんとパーカッショニストのジョイス・トー(Joyce To)さんの2名を招聘しました。

チームは8月2日から9日まで、主に飯舘村に滞在して、どのような表現を作っていくかを練っていきました。飯舘村という地に根差した様々な場所(ひまわり畑、御影石加工所、製材所、廃材置き場など)を訪れ、関係者の方々から色々な話をお聴きし、その話とその場所にある音、色、匂い、風などを感じ踏まえながら、その場にて即興でパフォーマンス+パーカッションを試みました。

飯舘村での経験を踏まえ、それを咀嚼したうえで、8月10日、いわき市立美術館で「福島ー新しい光をさがして」と題するアートイベントに結実させました。このイベントは、ブリスベーンからの二人に和合さんを交えた3人によるもので、いわき市立美術館は、「人々が自然とともに生きる音や風景をテーマにした、ダンス、音楽、詩によるコラボレーション。三人のアーティストが、福島の風景、歴史、伝統、人々の暮らし、そこに込められた思いなど、『福島の美しさ(光)』を再発見し、表現します」と紹介しています。

 いわき市立美術館の紹介チラシ

パフォーミング・アートを含む現代アートを重視するいわき市立美術館の通路などの空間を利用して、このイベントが行われました。

美術館の入口から始まり、徐々に中へ中へ通路を移動し、その後、再び、入口のほうへ通路を戻り、最後は、階段の上で詩を詠む和合さん、そのすぐ下の通路で踊るジャンさん、階段の入口で音を奏でるジョイスさん、という動き。

観客が場所を移動する、という動きは面白かったのですが、実はいわき市立美術館では割と普通のことなのだそうです。

この3人、事前に大まかな流れを確認したのみで、入念な打ち合わせもリハーサルもなく、即興で演じていきました。

日本語が全く分からないジャンさんは、和合さんの詩の抑揚や声の大小、間の取り方から何を表現しているかをつかむ。そのジャンさんの動きが和合さんの詩の朗読のしかたに影響を与える。それを把握してジョイスさんのパーカッションが奏でられ、3人があたかも一緒に呼吸しているかのような、感じ、感じられる、誰かが誰かにただ合わせるのではない、3人の間の何とも形容しがたい緊張と共鳴の1時間が演じられていきました。

後で彼らに訊いたところ、ジャンさんは和合さんの詩の朗読における意図をかなり正確に把握していました。また、ジャンさんやジョイスさんのパフォーマンスの背景にある飯舘村の素材について、和合さんもそれを感じながら朗読をしていたとのことでした。

パフォーマンスの後は、オーストラリア・チームが飯舘村でどんな活動をしてきたか、映像を交えて紹介され、観客の皆さんと対話が行われました。

8月10日のいわき市立美術館のイベントについては、以下のような、いくつかのメディアで報じられました。

 鎮魂と再生願う「祀り」 詩、ダンス、音楽で表現 いわき(福島民報)
 福島第1原発事故 鎮魂と再生祈り 詩朗読とダンスコラボ いわき(毎日新聞)

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翌日の8月11日は、同じくこの3人で、飯舘村の山津見神社の社殿にて、コラボレーション・パフォーマンスを同神社へ奉納するアートイベントが行われました。

山津見神社は虎捕山津見神社とも呼ばれ、1051年に創建された伝統のある神社です。産業の神、交通安全の神、海上安全・豊漁の神、良縁結びの神、安産祈願、酒造、狩猟の神など多くの神徳があり、地元の人々から信仰を集めてきました。山頂の本殿は、海上の漁船にとっての道標にもなったといいます。また、山神の神使としての狼に対する信仰が篤く、社殿の天井には、狼を描いた242枚の天井絵がありました。

震災後の2013年4月1日、社殿が火災により焼失しました。もちろん、天井絵もすべて焼失しました。

その後、地元の方々の深い思いを受けて、山津見神社を再建することになるのですが、天井絵の再現は不可能と思われました。しかし、天井絵が写真で残されていることが分かりました。

その写真は、焼失の数日前にたまたま神社を訪れた、前述の加藤先生とサイモン先生によって撮られていたのでした。二人は、写真をもとに天井絵を復元させたいと動き、東京芸術大学保存修復日本画研究室の荒井経先生に働きかけ、荒井先生と学生たちが「山津見神社オオカミ天井絵復元プロジェクト」として取り組みました。

そして、2015年6月、山津見神社の社殿は再建され、天井絵の復元作業も進められ、2016年8月11日、オオカミの天井絵242枚が神社へ奉納されました。

そうなのです。2019年8月11日は、復元されたオオカミの天井絵がや山津見神社へ奉納されてからちょうど3年目なのでした。加藤先生とサイモン先生は、天井絵が奉納されてから3年間実施してきたアートプロジェクトの集大成として、この日に、ブリスベーンからの二人と和合さんの3人によるコラボレーション・パフォーマンスを奉納したのでした。

加藤先生やサイモン先生の招きで、今回お世話になり、オオカミの天井絵の復元に注力してきた飯舘村の方々が社殿に入り、オオカミの天井絵の下で、パフォーマンスを観賞しました。

和合さんの締めくくりの詩は「狼」。彼もまた、山津見神社の焼失、再建、オオカミの天井絵復元の一連の流れをずっと注視してきました。人と自然とのつながり、人々を結びつける力、震災によって帰らなかった命、翻弄された人々の思い、残された自分たちの故郷への思い。そんな様々な思いを胸に、山津見神社の狼をイメージして作られた「狼」。和合さんは、ずっと前から、この山津見神社で「狼」を朗読したいと願ってきました。

この「狼」、実は2018年5月、和合さんをインドネシア・マカッサル国際作家フェスティバルに招待したときに、夜のメインイベントで、壇上で日本語のまま朗読し、会場で大反響を呼んだ詩でした。私が聴くのはそのとき以来2度目でした。

彼ら3人は、ここでも即興ベースで演じました。ジャンさんのまるで何かが乗り移ったかのような舞、ジョイスさんの絶妙なパーカッション、そして、復元されたオオカミの天井絵の下で和合さんが朗読する「狼」。

ものすごかった・・・。

場の力・・・。まさしく、ここで、この場所で演じられなければならなかったのだ、と実感しました。和合さんの「狼」はここで朗読されなければならなかったのでした。

天井絵のオオカミたちが3人に乗り移っていたのかもしれません。3人の間の緊張と共鳴に加えて、即興なのに、何かが彼らを導いていたような、そんな不思議な気分になりました。

いつの間にか、自分の左目から、すうっとひとすじの涙が・・・落ちていきました。

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即興と即興のせめぎ合いが、緊張と共鳴と結合を生み出す。あらかじめ作られた何かではなく、そのとき、その場所だからこそ作られた、奇跡のパフォーマンス。

それは、どうやっても、二度と同じには再現できない。その瞬間に立ち会うことでしか得られない、はかなく消え、しかし、ずっと心にのこるもの。

あれはいったい、なんだったのだろう。ずっとそれを思い続けています。

ブリスベーンからの二人が飯舘村での滞在から得たものがあるからこそ、それがいわき市立美術館や山津見神社でのパフォーマンス表現に結実し、だからこそ、飯舘村の方々にとってもよそよそしくない、自分たちのどこか深いところに、心地よく突き刺さってくるような、言葉にならない何かを感じていたのかもしれません。

そこではもう、演じる人と観る人という垣根がいつのまにか溶けて、両者とも同じ時間、同じ場所を共有して一緒に何かを創っている、という感覚になるのではないかとさえ感じました。

一緒に何かを創る。地域とのアートの関わり方の神髄もまた、そこにあるのだということを実感した3日間でした。

福島で久々にフレコンバッグを見た

1月27〜28日は福島市でした。雪を予想して、東京から雪靴を履いて行ったのですが、1ヶ月前に比べると大したことはありませんでした。

それでも、歩道の一部は残った雪が凍って歩きづらくなっていたし、オフィスのある古民家の周辺は、溶け始めた雪で土がドロドロになっていて、雪靴で良かったと思いました。
今回の用事の一つは、税務署に年末調整の書類を提出すること。一人会社とはいえ、一応、法人なので、内容はなくても、書類は1月末までに提出する必要があります。28日の朝に出向いて、すぐに終わりました。
税務署を出るときに、ふと前を見ると、黒いフレコンバッグの積まれた山が見えました。久々に見ました。
筆者の実家からはだいぶ前に撤去され、もうずいぶんとフレコンバッグは撤去されたと思っていたのですが、ここにはまだ残っていました。残っているのもあるのはあるのでしょうが、久々に見たので、ちょっと新鮮でした。
ここから歩いて5分ぐらいのところの仮設住宅は今は廃墟のようになっていて、住まわれている方はいない様子でした。
除染土はまだ、身近に残っていました。

あの出来事から今年でまもなく8年。まだ8年。まだまだ8年。

自分のできる範囲で動くしかない

このところ、ブログの更新がだいぶ途絶えていました。特に何があったわけでもないのですが、いろいろと考え事をしていました。

例えば、インドネシアでは今も地震が続き、12月22日にはアナクラカタウ火山の噴火に伴う津波の被害が発生しました。

10〜11月にかけて、スラウェシ中部地震被災地支援の呼びかけを行い、協力を呼びかけ、緊急支援向けの義援金を送ったりしたのですが、12月22日のバンテン州やランプン州への津波被災地に関わる支援をまだ呼びかけていないことについて、自問していました。時には、自分を責めていました。

同じインドネシアのことなのに、スラウェシ中部地震被災地のことだけ支援を呼びかけるのは不公平なのではないか。ロンボクに対しても、同じような深さで支援を呼びかけるべきだったのではないか。

日本でも各地で今年もさまざまな災害に見舞われたが、それに対しては、特別の行動を起こしていないではないか。それで良いのか。

そう考えていると、もしかすると、自分は神様にならなければならないのではないか、などと思ってしまいます。スラウェシ中部地震以外の災害に対しては、なぜ同じように動けないのか。そんな批判の声が聞こえてくるような気がしてならなくなります。

だったら、そんなにスラウェシ中部地震のことにのめり込まず、大口の支援団体へ募金するにとどめて、そこそこに対応していればよかったのではないか。

誠に申し訳ないのですが、自分は神様にはどうしたってなれません。インドネシアのすべての、いや世界中のすべての災害支援に平等に関われるような能力は自分自身にはないことをはっきりと認めます。

だから、そのことを批判したり、責めたりする人がいれば、素直にお詫びしたいと思います。そんな能力は自分にはありません。

自分が人生の中で特に関わった、コミットした場所、特別の思いを持っている場所に対する特別な感情。そうした場所と、それほど思い入れのない場所とをどうしても比較してまう自分がいます。

自分が特別な感情を持ってしまった場所に対して、その思い入れから支援を行いたい、と思うことは、間違ったことなのか。そこしか見ていない、と批判されることなのか。

自分がスラウェシに特別な感情を持つように、世の中には、ロンボクに特別な感情を持つ人も、バンテン州やランプン州に特別な感情を持つ人もいることだろうと思うし、日本の災害被災地に特別な感情を持つ人もいるのだと思います。

それらの場所に特別な感情も関わりも持たない人が、どうしてそれらの場所への被災地支援を呼びかけられるでしょうか。

自分のできる範囲は限られています。その範囲で、自分はこれからも支援の関わりを続け、皆さんに呼びかけていきたいと思っています。

スラウェシ中部地震被災地への今後の支援についてですが、現地の友人たちが、被災者の思いを聞き取り、聞き書きを行う活動を始めつつあります。

インドネシアでは、被災者の声や気持ちを書き残していく作業がほとんどなされていません。とにかく、ひたすら被災者の声に耳を傾けつづけることは、その被災者に対するヒーリングとしても有効かもしれません。ただし、そこでは、聞く側の技術が多少求められます。聞き手が相手を遮ったり、誘導したり、代弁したりしないことが重要です。

そして、震災孤児を中心とした教育支援の可能性を探っていきたいと思っています。これについては、現地で震災孤児に関する正しいデータを収集し、管理運営できる能力を持ったパートナー機関が必要です。候補団体はすでにあるのですが、その能力の見極めをする必要があります。また、長期の奨学金プログラムのようなものを目指すとすれば、その管理運営をどのように行っていくか、など検討すべき課題はまだまだあります。

自分ができる範囲には限りがありますが、様々な方々と繋がっていくことで、より多彩な活動やスラウェシ以外の他の場所での展開も視野に入れていくことができるかもしれません。

そして、被災地同士が助け合う動きをもっと促していくことができるのではないか、という気もしています。すでに、ロンボクの被災者からスラウェシ中部の被災者への支援を行ったり、スラウェシ中部の被災者がバンテン州・ランプン州の津波被害者への連帯を表明する、といった動きが出ています。

日本でも、自治体同士が災害時の協力協定を結び、助け合う関係を作っていますが、そうした関係が国境を越えて作られる時代になってきているような気もします。

日本とインドネシアは、世界で最も地震・津波が頻発し、甚大な被害を受けてきた国でもあります。政府レベルだけでなく、それを補完するような形で、世界の地震・津波対策をリードしていけるような関係を作れるのではないかと思っています。

今時点では、まだまだ雑駁ですが、以上のようなことを考えています。

ロンボク島北部の被災地では、仮設住宅の建設が始まりつつありましたが、復興と言うにはまだまだの状況。
地震はまだ怒っていて、住民のトラウマは私たち外部者の想像以上に大きなものでした。
(2018年11月28日、筆者撮影)

INSISTネットワークから領収証とお礼状が来ました

スラウェシ中部地震被災地支援の第2弾として、10月から11月初めにかけて皆様にお願いして募金の送付先であるINSISTネットワークから、募金の領収証とお礼状が送られてきました。

募金の領収証は、以下のとおりです。宛先は、Jepang Friend via Matsui Kazuhisaとなっており、第1回送金分の領収証です。

INSISTネットワークへの緊急支援向け募金は、11月1日で締め切られ、現在、募金は受け付けていません。第2回送金分は締切後の11月7日に送金しましたが、受け取ってもらっています。

そして、以下がお礼状です。

さらに、INSISTネットワークからは、10~11月の緊急支援に関する詳細な活動報告(インドネシア語)も送られてきました。

ただし、ファイルが17MB以上ととても大きいものでした。以下のサイトから閲覧・ダウンロード可能です。興味のある方は、是非ご覧ください。写真だけでも、緊急支援の様子が伝わってきます。

 Laporan TRK INSIST

この報告書では、11月の私の現地訪問の様子にも少し触れています。

INSISTネットワークは現在、被災地でのニーズ調査を踏まえて、支援物資の配送を必要に応じて続けていますが、復興期における活動の方向性について、現在、内部で検討中です。今後、彼らとどのように協力していくか、どうするか、真摯に考えていきたいと思っています。

ともかく、このたびのスラウェシ中部地震被災地支援募金へ協力してくださった皆様に対して、改めて深くお礼申し上げます。皆様の思いをしかと受け止め、次のステップへの活動を検討してまいります。

スラウェシ中部地震被災地支援のネクストを検討中

11月21~23日にスラウェシ中部地震被災地を訪問し、多くの友人の安否を確認し、現場で動いている様々な友人・知人と会い、意見交換しながら、次の支援プログラムを考え始めています。

現段階では、まだおぼろげな状況ですが、今週から来週にかけて、何人かの同志的仲間と会い、話し合い、より明確になった段階で、再び、皆さんに呼びかけを行いたいと考えています。

もう少し、お待ちください。

それにしても、という思いがあります。

2011年の東日本大震災の後、故郷・福島を含む東北地方は今もいろいろな意味で厳しい状況に置かれています。だからこそ、福島から、東北から、古きを敬いながらそれを踏まえた新しい動きを創っていきたい、という気持ちが、法人登記を福島市にさせた一つの要因でした。その後、福島で何が起こっていったか、プラスもマイナスも、私なりに観察し続けてきています。そして、福島の正負両方の経験を次に生かしていかなければならないと思っています。

そして、JICA長期専門家(地域政策アドバイザー)として過去に計7年以上関わり、今もその深い絆を意識し、たくさんの仲間が活躍しているスラウェシで、今回、地震・津波・液状化という災害が起こりました。

自分の人生のなかで、まさか、自分が最も大切に思っている福島とスラウェシの両方で、甚大な災害に見舞われ、そこからの立ち直りをどうしていったらよいか、考えることになるとは思いもよりませんでした。

自分の関わりの度合いの深さが、自分の行動を決定づけている面があります。福島以外の日本各地やスラウェシ以外のインドネシア各地の災害に対して、決して無関心であるわけではないのですが、どうしても、自分にとって思い入れの強いところに傾いてしまうのは、やむを得ないことです。すべて平等に、と、雲の上から鳥瞰的にみられる神様のような存在に自分はなることはできません。

ですから、「他はどうでもいいのか?」という批判は受けますが、もはや雲の上の立派な存在ではあり続けられないということを正直に吐露したいと思います。それは、私の能力不足なのかもしれませんが、自分が超越したすばらしい人間でなければならないとも思えませんので、正直に申し上げるしかない、というのが実状です。

きっと、他の地域には、そこへの思い入れのある方々が同じように動いていることでしょう。それでいいのだと思います。

私も関係している「スラウェシ研究会」という自主的な勉強会があります。この会には、かつて戦時中、マカッサルに置かれた日本軍政下の民生部で働いておられた90歳を超える方や、過去に在マカッサル日本総領事を務められた方、JICA専門家でマカッサルに派遣されたのをきっかけに太平洋戦争前後のスラウェシでの日本人の足跡を丹念に追い続けている方など、マカッサルやスラウェシに特段の思いをもって、自分の人生経験のなかの大事な場所と位置づけ、関わり続けている方がいらっしゃいます。

そうした方々も、今回のスラウェシ中部地震被災地支援では、何度も何度も、募金と温かい言葉をお送りくださいました。彼らの脳裏には、自分たちがかつて経験したスラウェシやマカッサルの具体的な人々の名前や出来事があり、スラウェシのために何としても役に立ちたい、という気持ちが込められていたのだと思います。もしかすると、それは、スラウェシへの恩返しをまだ十分にしていないという気持ちを含んだものなのかもしれません。

私は、実はそうなのです。これだけ関わってきたスラウェシに対して、恩返しをまだ全然行えていない、と。

スラウェシの人々への思いを生前に語ってくださった尊敬できる先輩方も多くいらっしゃいます。今回、支援活動を試みながら、そうした方々の声が再び聞こえてきたような気がしました。

長年スラウェシに関わってこられた方のスラウェシへの思い。それをちゃんと受けとめたうえで、しっかりと腰を据えた支援活動を行っていく責務がある。そんな気持ちが、11月に、たとえ自腹でも、被災地訪問を決意させた理由の一つでした。

こんなことを思いながら、スラウェシ中部地震被災地支援のネクストを考えていきます。引き続き、よろしくお願いいたします。

大学生主催のイベントでスラウェシ中部地震について講演

2018年12月2日、東京・東小金井で開催された「パルに寄り添う~Thinking of Indonesia」と題する小さなイベントで、スラウェシ中部地震について講演しました。

このイベントは、インドネシアに短期留学したり、たまたまインドネシアに滞在していた大学生有志が中心となって企画し、東京在住のインドネシア人有志やインドネシア愛好者グループなどが協力して開催したものです。

このイベントを通じて、スラウェシ中部地震の犠牲者に思いをはせ、何かできないかという思いを募金などの形で果たす意味も持ち、チャリティーのための物品販売も行われました。

出席したのは61名、小さな部屋だったせいもありますが、立ち見も出る盛況でした。

興味深かったのは、おそらく、主催した大学生の友人たちである留学生が多数出席していたことでした。

このため、講演を始める際に、日本語以外に英語も使うことが求められ、急遽、バイリンガルで講演することになりました。

講演資料はすべて日本語で、日本語=英語バイリンガルの準備はなにもしておらず、しかも、日本語=インドネシア語のバイリンガルよりも日本語=英語のほうが個人的には面倒なので、ずいぶんとひどいバイリンガルになってしまったのではと思います。

来てくださった方々には、この場を借りて、聞き苦しかったことをお詫びいたします。

このイベントでは、友人のティニさんが主宰するインドネシア舞踊グループ「ドゥタ・メラティ」による踊りの数々も披露されました。彼らの演技を見るだけでも、このイベントは意味があったと思えました。

NHKの海外放送「ラジオ・ジャパン」インドネシア語放送の取材もあり、私も少しだけインタビューされました。以下のサイトで、1週間をめどに聴くことができるようです。

 Tamatebako: Penggalangan Dana bagi Korban Bencana Palu di Tokyo

現地訪問を踏まえたスラウェシ中部地震の現状に関しては、情報ウェブマガジン「よりどりインドネシア」にて報告していくとともに、必要があれば、日本あるいはインドネシア等での講演依頼にも、積極的に応じていきたいと思います。

スラウェシ中部地震とロンボク地震の被災地を訪問して

今回のインドネシア滞在中に、11月21~23日にスラウェシ中部地震被災地のパル市、シギ県、ドンガラ県を訪問し、その後、11月27~28日にロンボク地震被災地の東ロンボク県、北ロンボク県を訪問しました。
日本でもインドネシアでも、これらの地震に関するメディア報道はずいぶん少なくなりました。そうなると、復興が順調に進んでいるかのような雰囲気が出てきますが、やはり、実態はそんな単純なものではない、というのが今回訪問しての印象でした。
現場を歩きながら、「世の中から忘れられていく」という現場の人々の気持ちを強く感じていました。
スラウェシ中部地震被災地への訪問記は、情報ウェブマガジン「よりどりインドネシア」の第34号と第35号の2回に分けて書いていきます。第1回は、以下のサイトをご参照ください。
小見出しは以下のようになっています。
 ●被災地を訪問した意味
 ●津波に襲われたタリセ海岸を歩く
 ●液状化で街が沈んだペトボ地区にて
 ●政府と住民の微妙な関係
 ●外部者の被災地利用
詳細については、内容をぜひお読みいただきたいのですが、かなり強く政治ファクターが入り込んでいることもあり、復興へ向けてのプロセスは予想以上に難しいものになるのではないか、と感じました。
次号(第35号)では、今後の復興プロセスにおいて起こってきそうな諸問題、我々が外部者としてどんな取り組みに対して支援するのが良いのか、ロンボク地震との比較を踏まえたうえでの考察、などについて、書いてみたいと思っています。
ロンボクも含めた今回の訪問では、被災した友人・知人たちの消息や活動状況を知ることも個人的な目的でした。幸い、今回お会いした仲間は皆、元気でいてくれて、再会を喜び合いました。
ロンボク島の被災地も、その後に起きたスラウェシ中部地震との関連で、様々な影響を受けていました。多くのロンボクの被災者は、スラウェシ中部地震の被災地のほうがずっと大変な目に遭っていると思っている様子でした。
それは、東日本大震災の時、福島の被災者が「岩手や宮城の被災者は津波で実際にたくさんの方が亡くなって自分たちよりも大変なんだ」とか、逆に岩手や宮城の被災者が「福島の被災者は原発事故の影響も加わって自分たちよりも大変なんだ」と思ったことを想起させました。
今回ロンボク島も訪れてみて、表面上の明るさの陰で、被災者の地震への恐怖や将来への不安が強くある様子がうかがえました。仮設住宅の建設など生活を取り戻す過程は始まっていますが、急ピッチで復興が進んでいる、というようなものではないという印象でした。
それでもなお、ロンボクでは「自分で何とかしていく」という態度を見ることができました。自分たちの村を自分たちでなんとかするっきゃない!という、いい意味での開き直りというか、援助を待ち続けるという態度はほとんど見られなかったのが印象的でした。
よりどりインドネシアに「ロンボクだより」を連載してくださっている岡本みどりさんのお宅も訪ねました。可愛いお嬢さんにも遊んでもらえました。
岡本さんの周りのおじさんやおばさんたちは、皆さん、互いに笑い、話をすることで、気を紛らせ、やるべきことをやれる範囲でやるという、当たり前の態度で日々の生活を少しずつでも取り戻していこうとしていました。そんな人たちに温かく囲まれながら、岡本さんも、周りの皆さんの生きる力を感じていらっしゃるのだろうなと思いました。
マカッサルで仲間と話し合ったときに出てきた大事な言葉が、「生きる力」でした。
「生きる力」を持っている人々や社会は、再生への強さを内に秘めているのだと思います。それを肯定するような、「生きる力」を強くしていけるような、被災地や被災者へのリスペクトやポジティブな働きかけを、外部者としての私たちは適切に行なって行けるとよいな、と思いました。
そして「生きる力」とそれを強くしていけるようなプラスの働きかけは、今の日本にとっても必要なことでもあるのだ、と感じるのです。

マカッサルでさっそく活動

11月20日、マランからスラバヤ経由で昼過ぎにマカッサルに到着しました。

まずは、一年以上の音沙汰のなかった、昔マカッサルに住んでいたときのお手伝いさん夫婦にいきなり会いに行きました。彼らの携帯番号がたくさん記憶されていて、どの番号なのか分からなかったからです。携帯の支払いが途切れると、自動的に、番号が使えなくなるため、放置しておくと、そうなってしまうのです。

元気そうでよかったです。このお手伝いさん、料理名人で、彼女の料理に何度助けられたことか、数え切れません。
インドネシア料理はもとより、中華料理、西洋料理、そして日本料理と何でもござれ。そばつゆは醤油とみりんでしっかり作るし、おせち料理も作ってしまいます。アメリカ風の豆のスープも絶品です。
彼女を使ってみたい方がいれば、是非、ご紹介します!!
続いて、インドネシア研修生実業家協会(IKAPEKSI)南スラウェシ支部の皆さんと懇談しました。彼らは、日本への技能実習生OBで、今、KENJI日本語学校というものをつくり、日本語を勉強する場をつくっています。そこのカフェで色々と話をしました。
彼らの日本語はまだまだですが、もっともっと日本の皆さんとコミュニケーションをとっていきたいそうです。そして将来、日本への技能実習制度を通じて、南スラウェシにとって有用な人材育成に貢献したいという夢も持っています。
夜8時からは、カンポン・ブクという、友人のジンペ・ラフマン氏夫妻が運営する図書館で、今回、スラウェシ中部地震被災地支援で募金を送付したインドネシア海洋学士会(ISKINDO)のカマルディン氏、INSISTネットワークの実働部隊だったイニンナワ・コミュニティのアスフリヤント氏とイサック氏と会い、11時過ぎまで懇談しました。
彼らから主な活動状況を報告してもらい、現地での様々な裏話を聞くことができました。とくに、データをきちっととって支援を行うことの必要性とともに、データをとることの困難性(液状化で移動させられた住居とそこの元々の所有者との関係はどうなるのか、など)も指摘されました。
また、災害が起こったのは神の怒りだというような非科学的な言説の流布や、現パル市長の追い落としを企てる者たちによる政府批判、カイリ語の様々な地名の本当の歴史的な意味のほか、自社・自団体の宣伝のための援助物資供与競争、といった側面も指摘されました。
こうした懇談の中から現れてきた重要な言葉が「生きる力」(daya hidup)でした。メディアはどうしても災害のマイナス部分を伝えたがるが、本当に、そこでのプラス部分をもっと伝えることで、被災者の「生きる力」を助けることになるのではないか、と。
たとえば、パルなどからマムジュやピンランを通ってマカッサルへ避難する人々に対して、その街道沿いの多くの家がオープンハウスをしていたことは、ほとんど報じられていません。すなわち、多くの家が、避難者に対して気軽に立ち寄ってもらえる用意をしていたのです。食事の用意はもちろん、休息をとったり、沐浴をしたり、それを無償で提供していたのでした。
また、南スラウェシ州からはたくさんの米が被災地へ送られました。その影響で、パプアや北マルクでは米の流通量が減り、米の価格が急騰したそうです。
「生きる力」という言葉を聞いて、日本での震災後の孤独死や社会の分断のことを思いました。INSISTネットワークの仲間たちは、単に被災者を支援していただけでなく、彼らの「生きる力」をどうやって育んでいくかも意識していたのだと改めて思いました。
そしてこの「生きる力」は、震災が起こっても起こらなくても、インドネシアだけでなく、日本でも本当に必要とされていることなのだ、果たして日本はそれを応援する社会になっているのだろうか、などとつくづく考えてしまいました。
11月21日は、今から3時間後の午前4時45分に起きて、5時45分発の便で、いよいよパルへ飛びます。しばしの就寝です。

INSISTネットワークへの第2回目送金報告と緊急向け募金終了のお知らせ

スラウェシ中部地震被災地支援のための募金にこれまで多大なご協力をいただき、誠にありがとうございました。本日(11/8)、INSISTネットワークへの第2回目の送金を行いましたので、お知らせいたします。

募金寄付者リストおよび送金証明書は、以下のとおりです。

募金は、インターネット経由のPolcaと銀行振込の二つの方法で行いました。

Polcaについては、10%が利用料として天引きされ、私の銀行へのPolcaからの振込手数料も引かれますので、実際に送金に含めた額は81,729円となりますことをご了承ください。

また、銀行振込による募金は、総額224,000円でした。

以上を合算し、305,729円をINSISTネットワークの実働部隊であるyayasan Pao Paoの口座へ送金しました。なお、送金手数料1980円は私が負担しました。

なお、INSISTネットワークから、「緊急向けの募金の受付を終了した」との連絡がありました。このような活動を行っていて、「募金の受付を終了する」と言ってくる団体は今まで他に聞いたことがありませんが、誠意をもって透明性の高い活動を行いたいという、彼らの真摯な態度の表れであると受け止めています。

彼らの現時点での活動報告がインドネシア語でFacebookページに発表されていますが、その概略を以下の通りお知らせいたします。

現状:
・現地3ヵ所に設置した詰所とイニンナワ・コミュニティ本部との調整は継続中。
・募金や寄付物品はまだ本部(の口座)へ届けられている。
・第3回目の物資送付以降は、寄付物資の送付は止まっている。
・現地3ヵ所の詰所の物資はこの1週間でまだ十分にある。
・現地3ヵ所の詰所はINSISTネットワーク以外の団体からの支援も得ている。
・避難者への支援方向は、仮設住宅建設や基本サービス改善へ移っている。
・データ分析は、シギ県の詰所からのデータ分析の遅れから、まだ終了していない。

募金・寄付(11月1日時点):
・募金受入総額:2億4810万5003ルピア
・支出総額:1億953万6377ルピア
・残高:1億3856万8626ルピア
・物資による寄付の総額は、概算で5213万5000ルピア相当。
・これら資金から、INSISTネットワークの予備資金として4300万ルピアを取る。

今後の活動について:
・第4回目の寄付物資の配送計画について話し合う。
・アセスメントを継続することが重要。
・復興段階において協力を申し出ている外部団体への回答。
・INSISTネットワークの活動・会計報告を終わらせる。
・寄付や募金の受入れを終了する。
・INSISTネットワークチームの実績評価を行う。
・INSISTネットワークによる緊急対応以外の活動を継続するか否かを議論する。

これまで、INSISTネットワーク向けの支援を続けてきましたが、彼らは今、一度立ち止まって、自らの活動の評価を行ったうえで、次のステップへどう進めるかを考え始めています。このため、彼らへの募金の呼びかけもいったん終了し、次の段階でどのような協力が可能になるか、私としてもしっかり考えていきたいと思います。

いずれまた、次の段階に即した協力への呼びかけをすることになるかと思いますが、当面は、インドネシア側の状況を見守っていきたいと思います。

とはいうものの、スラウェシ島では、10月以降も、各地でマグニチュード5級の地震が発生しており、状況を注視していく必要があると考えます。

また、8月に地震に見舞われたロンボク島でも、住民の多くはまだテント生活を送っており、決して、地震による被害を克服して正常な生活へ戻れているわけではありません。

皆様のご理解とご協力を引き続きよろしくお願いいたします。

INSISTネットワークへの1回目募金送金報告など

本日(10/12)、募金第2弾で対象としているINSISTネットワーク(Disaster Response Team INSIST Networks)へ、1回目の募金として、22万4280円を送金しました。

なお、送金手数料1480円は、当方で負担させていただきました。

この額は、本日のレート、1円=134.6ルピアで換算され、3018万8088ルピアとなりました。なお、INSISTネットワークからは、すでに「入金を確認した」との連絡があり、協力してくださった日本の方々へ感謝申し上げます、との言葉が述べられておりました。

今回は、銀行振込と現金手渡しで募金をいただいた方15名の分のみを送金しました。なお、Polcaでの分は今回は含めず、10月末に送付したいと考えております。

今回の送金でご協力いただいた方々は次の通りです。お名前は省略し、イニシャル1文字のみ表記しております。

また、送金明細は以下のとおりです。

●INSISTネットワークの主な活動

INSISTネットワークの活動の様子は、逐次、フェイスブックにて紹介しておりますが、ここで、いくつか要点をかいつまんでご紹介します。

・救援物資を積んだトラックをマカッサルからすでに2台出発させました。

・まずは被災状況と支援対象とすべき地域を調査し、パル市、ドンガラ県、シギ県の支援対象とすべき地域に複数の詰所を設置しました。救援物資はこの詰所に集められたのち、配給されています。

・救援物資の配給に当たっては、乳幼児や妊婦、高齢者など、避難住民の状況に応じて物資を配給するほか、配給を受ける個々人の名前を特定させて、受取人には受取票へ署名をしてもらっています。これは物資配給の際に取り合いになることを防ぐとともに、ここの避難住民の状況に関するデータ収集の意味も持たせています。

・救援物資を配るだけでなく、地域の人々どうしの助け合いを促す活動もしています。たとえば、被害が比較的少なかった山間部の農村などで生産された農産物を購入して都市へ運び、都市の避難住民へ配給する、といった仲介をしています。現在、このプログラムに参加する近隣の農民を募っているようです。

・また、詰所で避難住民が衣服を選んだ後、あるおばさんが、残った衣服を枕に仕立て直して皆に使ってほしい、といった申し出をしたそうです。こうした、避難住民どうしが助け合うことで、今後の中長期的なコミュニティ再生への端緒をも築こうとしています。

決して大規模ではないにしても、また災害救助のプロフェッショナル集団ではないにしても、こうして、一つ一つ丁寧に避難住民と向き合い、彼らの主体性を尊重しながら、中長期のお付き合いを意識しつつ、実のある支援を試みているINSISTネットワークを、私たちも温かく見守っていければなと思っています。

●募金第2弾はまだまだ継続中です!

募金第2弾は、1回目の送金が終わりました。しかし、INSISTネットワークへの募金自体は、まだ継続しております。引き続き、ご協力をお願いいたします。

インドネシア在住の方などは、直接、彼らの銀行口座へ振り込んでいただいて結構です。入金は現地通貨(ルピア)となります。

 口座番号:3419-01-017682-53-2
 銀行名・支店名:BRI Unit BTP Tamalanrea
 銀行支店所在地:Ruko BTP, Jl. Tamalanrea Raya No. 16D,
         Tamalanrea, Makassar 90245, Indonesia.
 口座名義:Yayasan Payo Payo
 銀行SWIFTコード:BRINIDJA

日本からの募金は、銀行口座振込とPolcaの二本立てにしたいと思います(現金手渡しもも可能です)。

銀行口座振込は、ご信用いただけるならば、以下の私の口座宛にお振込いただき、お手数ですが、振り込んだ旨をメールにて matsui@matsui-glocal.com へお知らせください。

 銀行名:みずほ銀行大塚支店(支店番号193)
 口座番号:2268635
 口座名義:マツイカズヒサ

また、クレジットカード決済をご希望の方向けに、Polcaでも募金を募ります。以下のサイトにアクセスされてください。募金は一口1000円から受け付けております。なお、下記サイトは10月末までの1ヶ月間のみ有効となっております。

 スラウェシ中部地震被災地支援第二弾、INSISTネットワークへの支援

なお、Polcaでは募金総額の10%を手数料としてPolcaへ支払う必要が出てきます。第1弾では私がそれを全額自己負担いたしましたが、負担額が2万円以上と相当に大きくなってしまいました。今後は、募金総額の90%を支援先への実際の送金額とさせていただきたく思います。誠に恐縮ですが、皆様のご理解とご協力をよろしくお願いいたします。

以上、皆様のご理解をいただき、支援活動の第2弾を引き続き行なっていきたいと思います。改めまして、引き続き、ご協力のほど、よろしくお願いいたします。

スラウェシ中部地震被災地支援募金、第2弾開始

スラウェシ中部地震被災地支援の第1弾は、インドネシア海洋学士会(ISKINDO)宛の募金でした。この募金は10月3日(水)午後0時で終了し、早速送金いたしました。ご協力ありがとうございました。

第1弾の活動状況は、随時、本ブログやフェイスブックでお伝えしていきます。

第1弾募金受付終了後も、送金していただいたり、協力の意思を示していただいたりする方がいらっしゃり、すぐに第2弾を始めることにいたしました。

本日(10/5)より、募金受付の第2弾を開始いたします。第2弾の支援対象は、INSISTネットワーク(Disaster Response Team INSIST Networks)です。

ジョグジャカルタのNGOであるINSISTが中心になり、マカッサルのNGO連合体であるイニンナワ・コミュニティを実働部隊として、中スラウェシ州パル市やドンガラ県で活動するNGOであるBantayaやKarsaと協力し、被災者支援に取り組んでいきます。

イニンナワ・コミュニティについては、以下のサイトをご覧ください。

 イニンナワ・コミュニティ(Komunitas Ininnawa)(インドネシア語)

イニンナワ・コミュニティは、実は私とは15年近くの付き合いがあります。私が2006〜2010年にマカッサルに駐在した際には、自宅の4分の3を開放して彼らに使ってもらい、民間図書館事業、出版事業、アドボカシー活動を行う彼らの事務所が置かれたほか、映画上映会、セミナー、討論会、アート展覧会など様々なイベントが私の自宅で行われました。私も彼らの活動を側面支援してきました。

イニンナワ・コミュニティと私との関係については、過去の私のブログをご笑覧ください。

 イニンナワ・コミュニティと私との関係

私の離任とともに、彼らは自立し、マカッサルの郊外、マロス県バンティムルン近くに本拠を移し、そこに農民・若者向けの教育訓練センターを開設しました。傘下のNGOの一つパヨパヨ農民庶民学校(SRP Payo Payo)は、農民の自立や有機農業化を促し、農民と消費者との関係構築を図る地に足のついた活動をしています。

その彼らが10月1日、彼らの指導的役割を果たしてきたINSISTと組んで、INSISTネットワークを結成し、救援物資を募ってすでにパル市へ向けてトラック1台を出発させました。

彼らの活動の様子は、フェイスブックの以下のサイトに随時掲載されています。

 Tim Relawan Kemanusiaan – Jaringan Insist

パル市・ドンガラ県・シギ県などで、彼らは現地で根を張って活動するNGOであるBantayaやKarsaとともに、まずは救援物資の配給に関わると同時に、被災状況を把握するためのデータ・情報収集を行い、今後、中長期的に支援すべき対象地域を定めていきます。その後は、コミュニティの再構築や再生へと活動を継続していくものと思います。

まだまだ若者が中心のNGO主体ではありますが、私が信頼できる彼らを支援の第2弾としていきます。

彼らのインドネシアの銀行口座は以下のとおりです。インドネシア在住の方などは、直接振り込んでいただいて結構です。入金は現地通貨(ルピア)となります。

 口座番号:3419-01-017682-53-2
 銀行名・支店名:BRI Unit BTP Tamalanrea
 銀行支店所在地:Ruko BTP, Jl. Tamalanrea Raya No. 16D,
         Tamalanrea, Makassar 90245, Indonesia.
 口座名義:Yayasan Payo Payo
 銀行SWIFTコード:BRINIDJA

なお、日本からの募金などは、第1弾と同様、銀行口座振込とPolcaの二本立てにしたいと思います。銀行口座振込は、ご信用いただけるならば、以下の私の口座宛にお振込いただき、お手数ですが、振り込んだ旨をメールにて matsui@matsui-glocal.com へお知らせください。

 銀行名:みずほ銀行大塚支店(支店番号193)
 口座番号:2268635
 口座名義:マツイカズヒサ

また、クレジットカード決済をご希望の方向けに、Polcaでも募金を募ります。以下のサイトにアクセスされてください。募金は一口1000円から受け付けております。なお、下記サイトは1ヶ月間のみ有効となっております。

 スラウェシ中部地震被災地支援第二弾、INSISTネットワークへの支援

(注)Polcaでは募金総額の10%を手数料としてPolcaへ支払う必要が出てきます。第1弾では私がそれを全額自己負担いたしましたが、負担額が2万円以上と相当に大きくなってしまいました。今後は、募金総額の90%を支援先への実際の送金額とさせていただきたく思います。誠に恐縮ですが、皆様のご理解とご協力をよろしくお願いいたします。


以上、皆様のご理解をいただき、支援活動の第2弾を始めていきたいと思います。引き続き、ご協力のほど、よろしくお願い致します。


なお、この第2弾のほかにも、私からお勧めできる支援先がございます。それらについては、別途、皆さんにお知らせしていきたいと思っています。

海洋学士会への募金受付終了・送金報告

9月30日から受け付けたインドネシア海洋学士会(ISKINDO)への募金の受付は、10月3日午後0時にて終了させていただきました。

これは、海洋学士会の船が10月5日にマカッサルを出帆し、被災地のパル市、ドンガラ県へ向かうためです。現在、関係者は、救援物資の確保・買付など様々な準備に追われているようです。

インドネシアで海洋学を学んだ大学卒業生からなる海洋学士会は、海洋水産省捕獲漁業総局長(国立ハサヌディン大学海洋学部1990年卒)を会長とし、今回の活動では、(1) ドローンなどを活用した被災状況の地理的情報把握、(2) 医療チーム及び食料、医薬品、飲料水、テント、毛布、生理用品、発電機など緊急に必要とされる物資の提供、(3) 食べ物や食料品を提供する炊き出し、(4) 今後の支援活動に資する的確なデータや情報収集、を目的としています。

さらには、船にバイクを積み、パル市内などをバイクで回り、マカッサルから預かってきた親族への物資や郵便などの提供、親族の消息情報の把握など、クーリエの役割も果たそうとしています。

今回の活動はあくまでも緊急対応であり、この後、どのような活動が展開されるかは未定のようですが、マカッサルの信頼できる友人たちが動く活動としては最初のものであるため、今回はこのような募金を募った次第です。

9月30日午後から10月3日午後0時までのわずか2日半の募金でしたが、50名の方々からご協力をいただき、銀行振込+現金+Polcaで合計37万9020円を集めることができました。ご協力いただいた皆様、本当にありがとうございました。心から感謝申し上げます。

ご協力いただいた方々のリストと金額を作成しました。氏名はイニシャル1文字とさせていただいております。JPEGなのでちょっと見づらいかもしれませんが、掲載します。ご容赦ください。

本日(10/3)、さっそく海洋学士会宛に送金しました。以下が送金証明書です。

募金総額37万9020円を、本日の円=ルピアレート(1円=130.7円)で換算し、4953万7913ルピアを海洋学士会の銀行口座へ振り込みました。

なお、送金手数料、及びPolca関係の手数料等は、当方で負担いたしました。

皆様からいただいた募金が有効に使われることを願ってやみません。海洋学士会に対しては、活動状況を随時、写真等で知らせてくれるようにお願いしてあります。

改めて、今回の募金へのご協力に対して、心からお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

今回の募金は「とにかく早く」という気持ちを込めて動いたものですが、スラウェシ中部地震被災者・地域への対応は、まだまだ中長期的に続いていくものと思います。私の信頼できる複数の仲間たちグループも、支援活動を開始しました。

まだまだ支援を考えていらっしゃる方々もいらっしゃると思います。しかし、どこへ募金や寄付をしたらいいのか分からない、という方も少なくないと思います。

そうした方々のために、今後、本ブログ等を通じて、私の信頼できる仲間たちのグループ及びその活動を紹介していきたいと思っています。彼らの活動にご賛同いただければ、彼らの指定する口座へ直接振り込んでいただいてもかまわないですし、それが難しければ、私の指定口座へお振込みいただき、私から責任をもって彼らへ送金させていただきます。

今後も、フェイスブック、ツイッター(@daengkm)等で、スラウェシ中部地震関連の情報を発信していきたいと思います。引き続き、ご協力のほどをよろしくお願いいたします。

福島~浜通り~宮城県南部をまわる(3)

3月9日は、相馬市を朝出発し、宮城県に入って山元町、亘理町、名取市閖上、仙台市荒浜、仙台市中心部、とまわりました。

山元町では、みんなのとしょかん山元を訪問しました。雨風が強い中、みんなのとしょかんの隣にある大きなビニールハウスの中では、大勢の方々が3月11日に灯す竹灯籠の準備をされていました。この竹灯籠は、今回のツアーを企画したまち・コミュニケーションが神戸での経験をもとに山元町へ伝えたものだそうです。

こちらがみんなのとしょかんです。図書館をコミュニティ再生の起点にしていく運動の一環で、同様のみんなのとしょかんは各地にできています。

ここでは、バーテンダーとG7にお会いしました。バーテンダーというのは10人の女性たち(婆10ダー)、G7は7人の男性たち(爺7)を意味します。震災前は知らない同士だった彼らは、震災後、ここに集うなかで知り合いになり、今や、一緒に地域のつながりを作り、発展させていく同志となって、活動しています。誰もがいつでも立ち寄れる場所、でした。

山元町から隣の亘理町浜吉田にある海蔵寺というお寺に立ち寄りました。このお寺も、住職が亡くなるなど津波の被害を受けましたが、本堂は無事で、他の建物も少しずつ再建されました。

海蔵寺の前は公園になっており、築山が造られていました。

その一角には、親子の地蔵像がありました。

海蔵寺前の公園は、無数の太陽光パネルで囲まれ、それは海岸沿いに延々と広がっていました。

しばし、太陽光パネルを見ながら走り続け、名取市閖上へ行きました。閖上さいかい市場で昼食をとりましたが、ここはカナダの支援で建てられた場所でした。

昼食後、閖上の仮設住宅にある集会場へ。この時は、某テレビ局のクルーが取材で同行していました。

このクルーは、「7年間も仮設住宅に入っているのは間違っている」という結論先にありきで、番組を作ろうとしていました。そこで、集会場で、仮設住宅の自治会長さんから話を聞く際に、その様子を収録していました。

自治会長さんは、被災して仮設住宅へ移る際に、できる限り、昔の隣近所がそのまま仮設住宅の隣近所に入れるように、行政と掛け合ってそれを実現させ、今後、仮設住宅から被災者向け復興公営住宅へ移る際にも、抽選ではなく、隣近所をそのまま維持する形で入居できるよう、行政へ働きかけていました。

集会所は、某建設会社が意を汲んでしっかりした建物として建ててくれたため、今でも、様々な行事で使われていて、すでに閖上を離れた人でも、この集会所があるから集まってこれる、という面が強いそうです。そして、ここの仮設住宅もまた、プレハブのペラペラな建物ではなく、断熱材の入った建物で、自治会長さんの働きかけで、追い炊き機能のついたお風呂が各家に設置され、居心地は決して悪くないということでした。

自治会長さんは、法律の不備や復興公営住宅への入居を抽選で行う行政の怠慢を批判し、特に政府のしさい者への対応の不備を強く批判しました。このため、結局、テレビ局のクルーは、当初の彼らの結論に沿うような映像を撮ることはできずに終わりました。

自治会長さんは、住民を上から目線で見がちな行政に対して、むしろいろいろ教えて手なずけ、住民側の意向を受けとめてもらえるよう、配慮しています。それは、自治会長さんが現市長の選挙顧問だからというオチがありました。

閖上の後は、震災遺構となっている仙台市立荒浜小学校を訪れました。

構内の1階は、瓦礫は取り除かれたものの、あの時のままの状態で残されていました。2階はあの時起こったことの克明な時系列展示があり、3階は閉鎖され、4階は小学校のある荒浜地区の過去の記憶を残すための展示がなされていました。

4階から屋上に出てみました。冷たい強い風が吹き付けて、とても寒い状態でした。7年前、子供たちと先生、地域住民の方々は、眼下に荒れ狂う津波を見ながら、この寒さに震えていたのだと、勝手な解釈ではありますが、ほんの少し追体験をしたような気分になりました。

屋上から見ると、学校の北側では、マツの植樹が始まっていました。荒浜に再び松林を復活させる計画なのでしょうか。

荒浜小学校から荒浜海岸へ出てみました。震災前は仙台随一の海水浴場だった荒浜は、その面影を失ったままでした。

荒浜を後にし、地下鉄東西線の荒井駅にあるせんだい3・11メモリアル交流館に立ち寄り、常設展を見学しました。そして、夜は、仙台弁護士会の勉強会に出席し、弁護士会による「在宅被災者調査結果を踏まえた提言」などを拝聴しました。提言では、在宅被災者向けに災害時に弁護士が戸別に住宅を回り、適切な補助金の申請などを手伝えるよう法整備が必要という意見が出されました。

勉強会終了後、宮定さんらと別れて、仙台駅前から高速バスに乗り、福島へ向かいました。

今回の3日間の「ツアー」は、私にとって得るところの大きい有意義な機会でした。置かれた状況や立場によって、思いや意見は異なりますが、皆、自分たちの日常生活を取り戻すことで懸命でした。そして、自分だけよければいいのではなく、誰もが排除されない、気軽に集まれる場づくりを営んでいることがいかに重要かということも理解できました。

「ツアー」で出会った人々とのお付き合いは、私にとって、まさに今、始まったところと言えます。自分なりの付き合い方や寄り添い方を考えながら、じっくりとお付き合いをしていけるよう、努めていきたいと念じています。

(終わり)

福島~浜通り~宮城県南部をまわる(2)

3月8日。朝、福島市を出発し、飯館村に新たにオープンした道の駅いいたてに立ち寄りました。ここで、岩手県、宮城県から南下してきたもう1台のグループと合流しました。

道の駅いいたては、木材をふんだんに使った新しい建物で、入口に掲げられた村の人々一人一人の大きな笑顔の写真が印象的でした。

道の駅いいたてを出発し、南相馬から常磐自動車道を経由して、浪江町へ。メディアからすれば、浪江町で避難指示解除があった今年は「浪江の年」になりそうです。

浪江町役場に到着。立派な建物です。役場の方によると、現時点での町民は約500人、300世帯程度ということです。

浪江町役場の脇には、いくつかの小さな仮設店舗が集まった「まち・なみ・まるしぇ」がありました。

ここでランチ。食べたのは、もちろん、なみえ焼きそば。特徴の太いうどんのような麺をこってりソースで炒め、麺の上に大ぶりの豚肉が3切れのっています。

浪江町役場からそう遠くないところに、災害復興公営住宅が建てられていました。

4月から再開される小中学校は、小学校8人、中学校2人で開校、ということでした。元々の中学校の場所に、小学校と中学校を(一貫ではなく)併設する形で開校するそうです。

浪江町の青田荘にも立ち寄りました。簡易宿泊施設である青田荘は、避難されている町民と帰還した町民、浪江町民と外部者、といったつながりを自然に生む一時滞在施設としての役割が期待されています。

浪江町の後は、南相馬市小高区へ。

以前、2012年8月、誰もいない小高へ行きました。誰もいない、野良猫しかいない場所に、なぜか商店街の音楽だけが流れていました。以下の2枚は当時、小高で撮った写真です。

今回行ったら、小高は、人の気配のある町になっていました。「なぜ、人のいない町で音楽が流れていたのか」と聞いたところ、音のない街は死んでしまうと思った小高の商工会長さんの意向で、あえて流していた、ということが今回の訪問で分かりました。

最初に訪問したのは、小高復興デザインセンター。南相馬市と東京大学が運営する復興のための協働拠点です。

小高復興デザインセンターで、最近の小高での取り組みについてうかがった後、近くにある小高ぷらっとほーむ(小高工房)を訪問しました。

ここは、誰でもふらっとやってきて、お茶を飲んだり歓談したりできる、どんな人にとってもの居場所という役目を果たしています。ガヤガヤと押し寄せた我々も、ゆるっとした雰囲気で受け入れてもらえました。

しばらくすると、代表の廣畑裕子さんが我々を別室へ招き、活動内容をお話ししてくださいました。別室へ招かれたのは、その時に訪れていた方々のなかには、いろいろな方がいらして、ふとした瞬間にトラウマや悲しみの感情が溢れてしまうこともある、という理由でした。誰にとっても、その存在を否定せずに受け入れる、どんな人にとっても居場所となることが大事なのでした。

廣畑さんは、10分ぐらいとおっしゃっていたのに、30分近く、7年目を迎えるにあたっての思いを真剣に話してくださいました。喜怒哀楽をもった普通の人間が生きている。でも、よそ者のメディアは、7年経っても悲しみにくれる映像を求めてくる。被災地の人間は笑ったり、楽しくしていたりしてはいけないのか。廣畑さんは、ときに怒りを込めながらも、自分たちの気持ちをなかなか分かってもらえない虚しさやもどかしさを訴えていました。

廣畑さんは、この7年間の思いを文字の形で映像にしています。でも、それは英語版のみです。日本語で書いて英訳したものなのですが、英語版のみをユーチューブにのせています。いかにそのサイトを上げておきますので、ご覧になってみてください。

 I will live my life fully today. 311 minamisoma odaka

建物の壁面には、来訪した若者たちによる描画がありました。

小高には、小高ワーカーズベースや柳美里さんが準備中の本屋「フルハウス」(私もささやかながらクラウドファンディングに協力しました)など、訪れたい場所が他にもいろいろあります。小高にはそうした新しいよそ者がまちづくりにも関わっている雰囲気があり、まだまだ面白くなりそうな気配がありました。

小高を後にして、相馬へ向かいました。相馬では、早川医院の早川先生のお話をうかがいました。早川先生は、死体の検案を行う医師でもあり、7年前の震災の際には、たくさんの検案を行いました。

早川先生は、その時から全ての記録を克明にとってきました。死体の発見場所、時間、発見された時の状況、本当の死因、その他、彼の関わった震災に関連する記録を克明にとっていたのです。そのデータから、彼なりの幾つかの疑問が提示されました。

たとえば、個人情報という観点から、3・11の際、災害時要支援者情報を支援者団体へ提供した自治体は岩手県(県単位)と南相馬市の2つのみで、他は提供しなかったということです。個人よりも個人情報保護が重要なのか、という問いかけがありました。

そして、たくさんの他県の医療関係者による支援があり、それに対する深い感謝の気持ちが改めて示されていました。

そして、夜は、早川先生の主宰で、賑やかな夕食の宴が催されたのでした。

浜通りを1日駆け足でまわって、日常を取り戻そうとする様々な動きを知るとともに、それが、よそ者の考えるような単純な復興ではなく、まだまだ、ぐだぐだと、よそ者から見れば焦ったく見えるような、少しずつの歩みが続くのであり、同時に、誰もが存在を認められる環境・場づくりが大事であることを感じました。

浜通りの現場としっかり向き合ってじっくり付き合っていくことが、必要になってくると思いました。

(つづく)

福島~浜通り~宮城県南部をまわる(1)

先週、3月7~9日は、友人である神戸・まちコミュニケーション専務理事の宮定章さんとその仲間たちと一緒に、福島市、飯舘村、浪江町、南相馬市小高区、相馬市、山元町、名取市閖上、仙台市荒浜と、駆け足でまわりました。

福島県福島市出身で1年前にあえて福島市に一人会社を登記し、自分では、遅ればせながらの出戻りと思っていますが、福島市のある中通りの人間にとっては、同じ福島県でありながら、浜通りや会津は違う世界、という感覚があります。

福島県は、山々に隔てられる形で、会津地方、中通り、浜通りの大きく3地方に分かれていますが、それもあってか、福島県として一体感を感じることは、正直、あまりなかったように思います。

7年前の震災・原発事故と、それに伴う大規模な強制・自主避難のなかで、浜通りの方々を中通りや会津地方の方々が受け入れる、という事態が起こりました。もちろん、全国すべての都道府県が避難された方々を受け入れてくださっているのですが、福島県内でそのような事態が起こったのはもちろん初めてでした。

それに加えて、福島という言葉にまつわる様々な誹謗中傷、偏見や差別が起こるなかで、福島という同じ名前を背負った会津地方、中通り、浜通りは、「自分は違う」として他の二つの地方を見捨てるようなことはできなくなりました。そうした境遇が、おそらく初めて、三地方が福島県としてまとまりを意識する契機を作り出したのではないか、という気がします。

そんなことを思いながら、宮定さんの「ツアー」に同行しました。

3月7日は、まず、三春町にある福島県環境創造センター交流棟(コミュタン福島)を見学しました。

この施設では、震災後に起きた原発事故と現在に至るまでの取り組みを開設するほか、放射線・放射能・放射性物質に関する正しい科学的な知識を説明するコーナーがあり、東京の国立科学博物館以外ではここにしかない360度シアターでの迫力ある映像番組を観ることができました。

次に、郡山市のNPO法人原発事故災害者復興タウン鬼生田開発プロジェクトを訪ねました。ここでは、地権者と話をつけ、原発事故で避難を余儀なくされている方々で農業で生計を立てたい方々に農地と宅地を提供し、そうした方々をコミュニティの新たな一員として受け入れる準備を進める活動をしています。

この鬼生田地区は、遠く安達太良連峰を望む風光明媚な場所で、できる限り有機農業で米や野菜を作っているところです。おそらく、他の地域と同じように、人口流出や高齢化が課題となっているようで、原発事故で避難された方々がここで安心して暮らすことが鬼生田地区にとっても大きなメリットになる、という意味があるようでした。

鬼生田地区の後は、福島市へ戻り、飯舘村から移った、私の行きつけの珈琲店・椏久里で、浪江町津島地区から福島市へ避難したご夫妻からお話をうかがいました。お二人は、私の友人のご両親です。店内が混んでいたので、席が離れざるを得ず、私以外の参加者を優先して話を聞いてもらいました。

津島地区は浪江町の内陸部にあり、原発事故当初、浪江町の海岸部の町民たちの避難先となっていました。ところが、海岸部から津島地区への谷道は風の通り道であり、かつ、南東の風が吹き込んだため、津島地区は放射能汚染で高い放射線量を記録する場所となり、さらに中通り方面へ避難することになりました。

その避難の際の混乱とどのように動いて最終的に福島市へ落ち着いたのか、友人曰く話下手のご夫妻が、ポツリポツリとではありましたが、事細かく話してくださいました。息子である友人自身も初めて聞く話だった、と言います。

夜は、市内で、福島大学名誉教授の鈴木浩氏と福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任教授の真野博氏のお話を聞く、宮定さん主宰の勉強会に出席しました。真野氏からは、2017年6月30日に出された福島復興再生基本方針に、国の決意表明のような、以下のような記載があることが紹介されました。

「福島の復興及び再生を国政の最重要課題と受け止め、原子力災害によって福島にもたらされた深刻な事態の記憶と教訓を決して風化させることなく、これからも、原子力災害に対する福島の住民の怒りや悲しみに共感し、福島の住民に寄り添いながら、誇りと自信を持てるふるさとを取り戻すことができるまで、その責務を真摯に、かつ、国の威信をかけてあらゆる知恵と力を結集し、総力で実行していくものである」

この言葉通りの実行がなされることが求められるのですが、現実の動きを見ると、果たして国は本気で共感し、寄り添う意思があるのか、疑問を持たざるを得ない面もあります。

また、住民の生活再建と行政の政策の位相にずれがあり、行政が何をしたらいいのか把握しきれていない様子もあります。国から下りてくる事業で精いっぱいで、住民参加をむしろ避ける傾向すら見られるといいます。行政と住民とをどのようにつなぐのか、住民参加を政策へ反映させるための方策は何か、それらを支えるサポート人材を大学などが育ててはいるのですが、需要があまりにも多く、まだまだ人材が不足しているということです。

自分が福島でこれから取り組みたいことの一つが、こうした「つなげる」人材を育てていくこと。単につなげるだけでなく、つなげ方やつなげる目的を理解し、どのような未来を作っていくのかを意識できる「つなぎ屋」を育ててみたい、と思っています。

(つづく)

岩手日報の「大切な人を想う日」

岩手日報が、3月11日を「大切な人を想う日」に、という取り組みを始めています。賛同する人に署名をしてもらう、というささやかな運動です。以下のページを覗いてみてください。そして、賛同されるなら、署名をしてみてください。

 岩手日報:3月11日を「大切な人を想う日」に

このページには、「最後だとわかっていたなら」という動画が3本掲載されています。大槌町の「風の電話」の話も含まれています。心に響きます。

突然何かが起きて、明日が来なくなるかもしれない。

同じ明日が来ることを当たり前に思っていた私たち。

震災という現実を前に、それまでの人生と大切な人たちとの関係を考えると、たとえ自分だけが生き延びたとしても、強い後悔と深い自省に苛まれ続けることになります。

それが自分にはどうすることもできない不可抗力だったとしても。自分はただ真面目に生きてきて、何の罪もないとしても。

明日は来ないかもしれない。だから、今の一瞬一瞬を大事に生きていく。いつこの世が終わろうとも、悔いのない人生を歩んでいく。あのとき、多くの人がそう思い、生き方を変えようとしたのだと思います。

そして、大切な人のことをもっともっと愛そう、いとおしく思おう、やさしく接しよう、そう誓ったのだと思います。

でも、実際には、私も含めて、その誓いを意識し続けられたのか、と振り返って思います。私自身、ともするとそれを忘れ、世の中の忘却の流れのなかの一部になっていたような気がします。

この世に生まれたこと、今生きていること、大切な人のことを想えること。それらが当たり前に見える奇跡なのだ、ということを忘れてしまうのです。

岩手日報のささやかな運動は、そんな自分を戒めてくれたような気がします。

でも、3月11日だけ大切な人を想うのではなく、この3月11日から「大切な人を想う日」を毎日にしていくことを自分に決めました。

昨日、寺田尚子さんの「カッチーニのアヴェ・マリア」の生演奏を聴きながら、そう決めました。

もし、私が不機嫌な顔をしていたらごめんなさい。不躾な態度だったらごめんなさい。もし私がそうだったら、遠慮なく指摘してください。

今日出会った人、明日出会う人、来週出会う人、そして毎日のように会う家族。

真剣に生きているのか、と自分に問いながら、当たり前の奇跡を意識した毎日をすごしていく。

そんな決意を自分なりにした今年の3・11。

7年目の3月11日、佐伯で寺井尚子コンサート

3月7~9日は、神戸の震災復興を支援してきたNPO法人の友人らとともに、福島から浪江、小高、相馬、山元、閖上、荒浜、仙台とまわりました。3月10日に福島でのシンポジウムに出席した後、11日は大分県佐伯市へ飛びました。

友人らとまわった話は、別途、このブログに書きたいと思います。

そう、今年の3月11日は、東北で過ごしませんでした。大分県佐伯市へ行った目的は、さいきミュージック・アートクラブが主催する「寺井尚子コンサート」に出席するためでした。

高速バスで佐伯に着いたのが午後2時。ホテルへチェックインし、午後2時46分、ホテルの部屋で黙とうしました。これまで毎年、インドネシアにいるときは時差を考慮しながら、この時間に必ず黙とうしてきました。

部屋で黙とうしようとすると、突然、サイレンが鳴り始め、それは1分間続きました。東北から遠く離れた佐伯市でも、サイレンが1分間の黙とうを市民へ促しているのでした。

街中を歩くと、地元の高校に掲げられた国旗は半旗でした。

東日本大震災を忘れまい、という気持ちは、まだそれなりに強くあるのかもしれない、と信じたくなりました。

寺井尚子コンサートですが、さいきミュージック・アートクラブが昨年、招聘を計画してから、このジャズ・バイオリニストの名前を知りました。そして、何曲か聴いて、はまってしまいました。

とくに、「トワイライト」というアルバムの1曲目の「ブエノスアイレスの冬」を聴いて衝撃を覚え、そのメロディーが頭の中から離れなくなってしまいました。

その後、しんしんと雪の降るとある日に、さいきミュージック・アートクラブの友人が薦める「カッチーニのアヴェ・マリア」を聴いて、鳥肌が立ってしまいました。

そんな寺井尚子を生で聴く機会なのでした。自分では、彼女の音楽のなかに、震災で亡くなられた方々への鎮魂や残された方々への励ましを勝手に感じていたのです。

実際のコンサートは、すごくパワフルなものでした。佐伯という地方都市だから手加減するということはなく、彼女の超絶技巧のバイオリンが、ピアノやベースやドラムと掛け合いながら、アドリブが際限なく続く、まさに真剣勝負のセッションでした。

録音された同じ曲でも、実際に生で聴くと、そのセッションの激しさがガンガンに響いてくるのでした。

後半になって、それまでのアップテンポな激しいセッションが続いた後、突然、静かに、そしてしんみりと、「カッチーニのアヴェ・マリア」が始まりました。

最初のバイオリンの入りの絶妙さ。単なる悲しさや寂しさや苦しさとは違う、いや、むしろそれらが複雑に被さり合い、混ざり合い、折り込み合っているような、何とも言葉に表せないような音色。

聴きながら、頬を涙が伝って落ちていきました。びっくりしました。初めての経験でした。

いろんなものやことを思い出していました。それは映像で観たものもあれば、かつて2012年に自分の目で見たもの、つい数日前に現場でお会いした方々と彼らが話してくれたお話、そして震災の前年に亡くなった父のことも。そしてそれらが混じっていきました。

コンサートでこんな気分になるなんて・・・。自分でも信じられない経験でした。

コンサートが終わった後、寺井尚子さんを囲んでの懇親会・ご苦労さん会が小さな洋食店でありました。ちょうど、今日11日が誕生日の出席者がいたのですが、寺井尚子さんはいきなりバイオリンを取り出し、ハッピーバースデーを弾き始め、弾きながら席の合間を歩き始めました。本人にとっては、超感激な誕生祝となりました。

私はどうしても寺井尚子さんに訊ねたいことがありました。3月11日に行うコンサートのどこかに、3・11への思いが込められていたのか、と。

幸運にも、彼女から直接答えがありました。3・11とあえて口には出さなかったけれども、震災の日だということに思いを込めて演奏していた、と。

彼女の音楽のなかに、震災で亡くなられた方々への鎮魂や残された方々への励ましを勝手に感じていた自分でしたが、それは寺井尚子さんに通じていたのでした。

魂を揺さぶる音楽。自分が最も大事にしている奥底に触れてくるのでした。それは、彼女の超絶技巧のバイオリンだからなのでしょうか。

生で聴いた彼女の「カッチーニのアヴェ・マリア」の衝撃を、当分、忘れることはないでしょう。5月の新アルバムのリリースが待ち遠しくなりました。

現場へ行ったから分かるとは限らないが、行かなかったらきっと分からないままのこと

先週、気仙沼と陸前高田へ行ってきました。前回行ったのが2012年8月だったので、5年ぶりでした。

陸前高田は、震災による津波で街が物理的に消えてしまった街です。5年前、ひたすら野原が広がるその土地に、壊れたままのいくつかの建物やかろうじて残る住居の区画跡を見ながら、そこで響いていたであろう人々の声やいたいけな子供の笑顔をずっと創造し続けていました。生の痕跡を、自分の体の周りのあちらこちらで感じながら、目をつぶってパッと目を開けたら、目の前に生の街が現れるような、そんな気持ちになりました。

5年経って再訪した陸前高田は、5メートル以上の盛り土がなされ、その上に新しい街を作り始めていました。バイパス沿いにあった花々の列も、壊れたままのスーパーも、亡き人を追悼する墓標も、見えなくなっていました。過去の陸前高田が新たな盛り土によって覆いかぶされ、見えなくなっていました。

それでも、新しくオープンした大型複合商業施設「アバッセたかた」は、きれいなお店が入り、賑わいを見せていました。素敵な市立図書館も併設されていました。

ランチを食べた陸前高田の蕎麦屋「やぶや」は、行列ができるほどの大人気でした。一番人気は、天ざる。しっかりいただきました。
明るく前を向いていこう、という気分は、かなり感じました。6年以上という時間が、ある意味、後ろを向いていても仕方がない、前を向いて明るくやろうや、という割り切りを陰に陽に促しているようにも感じました。
でも、そんなふうにスパっと割り切れるはずはない・・・。

気仙沼で友人と夕食をご一緒したとき、開口一番、彼が口にしたのは、「つらい」という話ばかりでした。彼の周りで、亡くなる人が絶えない。自ら命を絶ったのか、病気だったのか、色々な話があるようでした。

普通は、自分にとってつらい話をよそ者にしたりはしないものです。メディアに話が出ないからと言って、みんな前を向いて進んでいるわけではなく、心の中に言葉にできないようなつらい思いを抱えながら、それが何かの瞬間にあふれ出て、誰にも受け止めてもらえない孤独感。

現場へ行ったからこそ、知ることができた話なのでしょう。でも、現場へ行ったからと言って、分かったとは言えないかもしれません。でも、遠くにいたら、現場へ行かなかったら、きっと知らないまま、分からないままのことなのです。

楽しい再会、飲み会の前に、どうして彼はそんなつらい話をしてくれたのだろうか。いや、もしかしたらずっと閉まっておいた話が、たまたま私と会って、溢れてしまったのかもしれません。本当は、彼は、泣きたかったのかもしれません。

しばらくして、彼は、ちょっと無理やり笑いながら、気仙沼の景気が決して良くないことや、よそ者には知られたくない様々な街の問題を話してくれました。それから先は、気仙沼とインドネシアをさらにどうやってつないでいくか、という真面目な「前向きな」話へ展開していきました。

でも、今でもふと、津波で両親を亡くした子供が、クリスマスの夜に海へ入水してそのまま帰ってこなかった、という彼の話を思い出してしまうのです。いい悪いの話ではなく、その子を温かく見守ってあげられなかった大人の一人として。同じような地元の大人に刻まれた心の傷を、まるで自分の傷のように感じてしまうのです。

アバッセたかたを行きかう人々を眺めながら、その人々の一人一人が、言葉にならない辛さや傷を心の中にしまいながら生きているのだ、と想像してしまうのでした。

盛り土で見えなくなったとしても、よそ者には見えなくとも、震災の傷跡が癒えるものではないのです。それは、言葉に出せない、出すべきではない、感情なのです。