1月12日、マラッカを歩く(3ー了)

いろんな博物館があるものだなあと思いながら、橋を渡って、マラッカの古い街を歩きました。

橋を渡ったところに、街の雰囲気を壊さないように配慮したと思われるハードロック・カフェがありました。

さらに進むと、鄭和マラッカ来訪611周年を祝う垂れ幕が掲げられ、その上部にマレーシアと中国の国旗が描かれていました。

ジョンカー・ウォークと名付けられた街歩きをしているわけですが、古い街並みが続きます。その多くは、飲食店や商店として活用されています。

通りに面した建物の間口は狭く、鰻の寝床のように奥が深い、華人系の建物の特徴を表しています。

福建会館がありました。この種の会館も多数見られます。

しばらく歩くと、マラッカで最も古いモスクがありました。Masjid Kampung Klingという名前で、1748年にスマトラ式建築で建てられました。ヒンドゥー寺院のような尖塔、床に敷かれた西洋風のタイル、西洋風シャンデリアのようなランプ、インド風あるいは中国風の壁の彫刻など、モスクとはいえ、他からの様々な影響を受けた様子がうかがえます。

その隣には、ヒンドゥー寺院がありました。Sri Poyatha Venayagar Moorthi寺院で、1781年に建てられました。門が閉まっており、残念ながら中には入れませんでした。

さらにその隣は、華人系の増瀧会館で、ここは、イスラム、ヒンドゥー、中国仏教の3つが隣同士で並んでいるところなのでした。

そこから西へ少し歩くと、マラッカ、いや、おそらくマレーシア最古の華人廟である青雲亭(Cheng Hoon Teng)があります。1673年、中国人が初めてマラッカへ入植した頃に建てられた廟で、観音像を中心に道教、儒教、中国仏教が平等な位置に置かれています。

そこからすぐの場所には、伝統的な高床式住居があり、人が住んだまま保存されていました。高床式といっても、南スラウェシのブギス族のものに比べると、地面からの距離は随分と少ないです。

高床式住居から少し奥に入ったところに、Syamsudin Al-Sumatraniの墓があります。彼は、Sultan Iskandar Muda治世下のアチェ王国の著名な学者・著述家でした。彼は、ポルトガルの占領されたマラッカを解放するためアチェから派兵された軍隊に加わり、マラッカで戦死し、ここに葬られているということでした。

今回は、わずか3〜4時間という時間の関係で、マラッカの古い街歩きもハイライトのみでした。次回来るときは、他の道や路地裏をゆっくりと探検したいところです。でも、昼間歩くのは暑くて、かなり堪えそうな予感がします。

街歩きの最後は、マラッカで有名な庶民的インド料理店Selvamでのランチでした。テーブルに敷かれたバナナの葉の上に、ご飯やおかずが載せられ、追加で他のカレーや揚げ魚などを注文します。ご飯とカレーは「お替りいかがですか」と何度も聞かれます。食事が終わったら、バナナの葉を半分に折ります。うーん、満腹、美味しかった!

1月12日、マラッカを歩く(2)

パウル教会跡の丘を下りて門を出ると、2004年にできたマラッカ独立花公園(Taman Bunga Merdeka Bandaraya Melaka)があります。子ども用の遊具も置かれた普通の公園ですが、その真ん中に、周囲を囲まれた黒いポールが立っています。

これは、ザビエルがマラッカに上陸した場所だそうです。つまり、以前はここまでが海だったということです。黒いポールについての説明は何もありませんでした。

パウル教会跡の丘の下には、幾つもの古い建物がまだ残っていますが、その多くは今は博物館として使われています。その数がけっこうありました。

マレー・イスラム世界博物館(上写真)の前には、キティちゃん風船がいっぱいのリキシャーが客待ちをしていました。

マラッカ・イスラム博物館(上写真)。

マレーシア建築博物館(上写真)。

マラッカUMNO博物館(上写真)。UMNOとはマレーシアの与党です。

パウル教会跡の丘の上には、こんな博物館もありました。

民主政府博物館。この建物は、マラッカ州知事公邸(ちょっとあやふやですが)として使われていたそうです。

いろいろな博物館がありましたが、それらのうちのどれがお勧めなのか、どなたか教えていただけると嬉しいです。次回、マラッカを訪問した際に、行ってみたいと思います。

1月12日、マラッカを歩く(1)

マカッサル滞在もあとわずかですが、少し時間があるので、1月12日のマラッカ訪問の話を半分ぐらい書いておきます。

クアラルンプールからマラッカまでは、意外に近かったという印象があります。高速バスでKLIA2からマラッカ・セントラルまで2時間、マラッカ・セントラルからクアラルンプールのTBSまでも2時間、でした。クアラルンプールからならマラッカは十分に日帰りできる距離で、今回も数時間の滞在でしたが、できれば1泊してゆっくり回りたいものだと思いました。

KLIA2からバスで到着後、マラッカ・セントラルで友人とおちあい、マラッカ・セントラル内にある荷物預り所にスーツケースを預けて出発。まずはバスで市内中心部へ(バスは30分に1本ぐらいしかないようです。料金1リンギット)。
バスを降りて少し歩くと、マラッカ川の橋のところに出ます。ここからマラッカ川沿いの歩道を歩いて行きます。ウォーターフロントをきれいにした様子で、昔に比べると川がずっときれいになったのだそうです。
川沿いの建物には、マレーシアの諸民族の絵が描いてありました。

「ここで写真を撮れ」という看板もありましたが、何が被写体としていい景色なのかは不明です。
「1万歩歩きましょう」という看板もありますが、そのような人は誰も見かけませんでした。
しばらく行くと、1845年に建てられた聖フランシス・ザビエル教会(カトリック)が現れました。
ここには、日本へも布教に来たザビエルの像(下写真の右側)の隣に、やじろうの像(下写真の左側)が立っています。
やじろうは今の鹿児島県の出身で、ザビエルを日本に連れてきたという通訳の人物です。海賊の出身とも言われますが、その生涯は多くの謎に包まれているようです。
聖フランシス・ザビエル教会の内部。

しばらく、赤い色の建物の通りを歩いたその先には、やはり赤い建物のマラッカ教会(オランダ時代の1753年に建立)が建っていました。
このマラッカ教会の脇から小高い丘の上へ登っていきます。
丘の上にもザビエルの像がありました。やじろうと一緒の像とはちょっと趣の異なる感じがします。
丘の上には、破壊されたセントポール教会(ポルトガル時代に建立)の跡がありました。ザビエルがマラッカに到着した1545年頃に建てられた教会で、ザビエルの死後、1553年に遺骸がこの場所に保管されたそうです。その後、イギリス統治下で破壊されましたが、それをラッフルズが批判して途中でやめさせたということです。
ザビエルの遺骸が安置された場所は、金網で覆われていました。
内部には墓碑がいくつもあり、その中には、日本人のものと思われる墓碑もありましたが、上部にはドクロ・マークが。
丘から下ると、オランダ人の墓があります。
坂を下りていくと、やはり破壊された門の跡がありました。
丘の上から見たマラッカ死骸ですが、ポールから向こうは、かつては海だったところを埋め立てて、新しい市街地を作ったということでした。
マラッカの支配者がポルトガル、オランダ、イギリスへと変わっていった様子が残された建物からうかがえます。そして、その眼下には、新しいマラッカの街並みが広がっていて、列強による植民地時代から一気に現実へ引き戻されるような、そんな感覚を持ってしまいます。

今回マカッサルで食べたもの

今回のマカッサル滞在で食べたもの(の一部)は、以下のとおりです。今回は、うんちくなしです。

Coto NusantaraのCoto Makassar

Kios Muda MudiのEs Pisang Hijau

Toarco Toraja Cafeのリングシュークリーム

Kios Ratna JuwitaのGado-Gado

Roemah PojokのNasi Kuning Ambon

他にもいろいろ食べましたが、とりあえず、今回は以上のようなものをマカッサルで食べました。皆さんのお好きなものはありましたか。

インドネシア研修生実業家協会南スラウェシ支部のメンバーと面会

1月13日、マカッサルでインドネシア研修生実業家協会南スラウェシ支部のメンバーと面会しました。

インドネシア研修生実業家協会(IKAPEKSI)という組織は、技能実習研修生として日本に滞在し、インドネシアへ戻った後、起業したり、企業で働いたりしている方々が立ち上げたOB会のような組織です。この組織の立ち上げは彼ら自身のイニシアティブによっており、日本政府からもインドネシア政府からも立ち上げに関する支援は受けませんでした。

現在は単なる親睦団体としてだけでなく、IKAPEKSI会員間のビジネスマッチングや情報交換、日本から帰国した技能実習研修生に対する教育訓練や事業相談、なども行っています。現在、インドネシア国内の各州に支部をつくり始めており、南スラウェシ州支部もその一つとして昨年立ち上がりました。

南スラウェシ州からの技能実習研修生は、日本滞在中に行方不明になるなど問題を起こしたため、しばらく同州からの派遣が見合わされてきました。それゆえ、メンバーの多くはだいぶ前に日本に滞在した古い人がほとんどで、若いメンバーがいないという特徴があります。彼らとしては、何としてでもそうした汚名を晴らし、再び南スラウェシ州から技能実習研修生を派遣できるようにしたい、という強い願いがありました。

縁あって、私はIKAPEKSIのアドバイザーを務めており、真面目に活動している彼らの良き相談役でありたいと願っています。そして、技能実習研修生に関するマイナスのイメージを払拭し、彼らのような活動がもっと認知されるように、微力ながら努めていきたいと思っています。

Meeting with IKAPEKSI South Sulawesi

After arriving at Makassar at noon in January 13, I met members of IKAPEKSI South Sulawesi. IKAPEKSI is Ikatan Pengusaha Kenshusei Indonesia, Indonesian ex-Japan-Trainee Businessmen’s League.

They were ex-Trainee in Japan for three years. Mainly worked in small and medium enterprises in Japan to officially learn know-how and technique/technology to be applied in Indonesia in the future. However, some Japanese companies regarded them as cheap labors because of serious shortage of labors in industrial sector.

Officially, government of Japan does not permit immigrant labors in Japan but in fact those trainee are used to fill the labor shortage.

IKAPEKSI was established spontaneously by ex-trainee themselves without any support of government of Japan and Indonesia. Most of members of IKAPEKSI manage their own companies, work in companies, and start their own small business. The ex-training program has contribute to create new entrepreneurs and skilled labors in Indonesia.

I have been an advisor to IKAPEKSI since 2015. I am happy to meet the South Sulawesi part members this time and want to support them.

友人の結婚式に出席

1月14日は、マカッサルで友人の結婚式に出席しました。

友人のお父様は地元国立大学医学部の重鎮教授で、広島大学に留学したこともあり、マカッサルの日本人社会とは深いお付き合いをしてきた方です。友人はその時、日本の小学校で学び、日本語を勉強し、今はマカッサルで日本語学校の校長をされています。

とてもきれいな流暢な日本語を話す友人は、これまでに何人もの生徒に教え、また、マカッサルで日本人にインドネシア語も教えてきました。

控えめで落ち着きがあり、裏表がなく、真面目でしっかり者の彼女はみんなに愛され、親しまれてきました。今日の結婚披露パーティーも、そんな彼女の姿が見られました。

私以外にも、日本から駆けつけた友人たちが数名いました。日本人、インドネシア人問わず、久々にお会いできた私の友人・知人がたくさんいました。温かい雰囲気のとても気持ちのよいパーティーでした。他人のために色々尽くしてきた彼女に、今度は彼女自身がもっと幸せになってほしい、と願わずにいられませんでした。

さて、先ほど、その日本人の友人たちから「これから飲みに行こう」という誘いが入りましたので、夜も更けてまいりましたが、これから出かけてきます。

インドネシア研修生実業家協会南スラウェシ支部のメンバーと面会

マラッカの興奮も冷めやらぬ中、1月13日昼前、無事、マカッサルに着きました。雨季のマカッサルということで、雨模様でした。

ホテルにチェックインして、まずは、もちろん、ワンタン麺を食べに行きました。マカッサルに着いたら真っ先に食べたくなるのが、これです。

そして、ホテルに戻ってから、インドネシア研修生実業家協会南スラウェシ支部のメンバーと面会しました。

インドネシア研修生実業家協会(IKAPEKSI)という組織は、技能実習研修生として日本に滞在し、インドネシアへ戻った後、起業したり、企業で働いたりしている方々が立ち上げたOB会のような組織です。この組織の立ち上げは彼ら自身のイニシアティブによっており、日本政府からもインドネシア政府からも立ち上げに関する支援は受けませんでした。

現在は単なる親睦団体としてだけでなく、IKAPEKSI会員間のビジネスマッチングや情報交換、日本から帰国した技能実習研修生に対する教育訓練や事業相談、なども行っています。現在、インドネシア国内の各州に支部をつくり始めており、南スラウェシ州支部もその一つとして昨年立ち上がりました。

南スラウェシ州からの技能実習研修生は、日本滞在中に行方不明になるなど問題を起こしたため、しばらく同州からの派遣が見合わされてきました。それゆえ、メンバーの多くはだいぶ前に日本に滞在した古い人がほとんどで、若いメンバーがいないという特徴があります。彼らとしては、何としてでもそうした汚名を晴らし、再び南スラウェシ州から技能実習研修生を派遣できるようにしたい、という強い願いがありました。

縁あって、私はIKAPEKSIのアドバイザーを務めており、真面目に活動している彼らの良き相談役でありたいと願っています。そして、技能実習研修生に関するマイナスのイメージを払拭し、彼らのような活動がもっと認知されるように、微力ながら努めていきたいと思っています。

クアラルンプールで夕食中

毎日更新を目標にしているこのブログ。

日本時間で間も無く日付けが変わります。でも、まだ、クアラルンプールで友人たちとベトナム料理レストランで夕食中です。

今日は、マラッカへ行って、たくさんの写真を撮ったのですが、時間がないので、別のブログでご案内することにします。ごめんなさい。

今日は、マラッカでもクアラルンプールでもよく食べました。やっぱり、こちらへ来ると食事へのテンションが上がります。でも食事の写真を撮るのを忘れました。

夕食会の会場は、Bukit Bintangの
Sao Nam Fine Vietnamese Restaurant

ウソがまことか、まことがウソか

最近の様々な情報を見ていると、本当に、「ウソがまことか、まことがウソか」という気分になります。

日本でもインドネシアでもアメリカでもどこでも、誰かが何らかの目的や意図をもって、端からは生の情報のように見えながら、実は加工された情報が流されるようになっています。情報操作のための手段として、メディアの情報が流れるようになってきました。

特に、映像情報では、映像を傍目にはわからないように加工して、誰かを貶めるための手段として使われています。また、貶めたい人の過去を目を皿のようにして調べて、ちょっとでも貶められそうなネタがあれば、それをことさらに強調する者もいます。

そうした情報が正しくないことが証明されたとしても、そうした情報を流した者がそれを認めることはなかなかありません。

なぜなら、そうした情報が量的に拡大し、たくさんの人々に知られるようになれば、そのウソの情報が力を持ち、権力と結びついたりすると、それが本当の情報として認知されてしまったりするからです。

そうなると、地道に事実を積み上げて客観的な情報を提供しようと努める真摯な人々が、反動的だとか権力迎合だとか体制的だとか、いわれのないレッテルが貼られ、その声がメディアを通じて大きくなればなるほど、真摯な人々を誰も守ることができなくなってしまいます。

最近、とみに、こうした「ウソがまことか、まことがウソか」という状況が強まっていて、その一端をSNSがになっていることは否定できないような気がします。

こうした情報に振り回されて、自分が自分であることを見失ってしまう、いや、失ってしまっていることに気づかないような場面が出てくる恐れがあります。

自分を見失わないためには、他人が言うことではなく、自分の五感をまず信じることが大事でしょう。本を読み、旅をし、様々な人と交わることで、借り物ではない自分自身の思想を作っていく作業を続けていくことが肝要かなと思います。

そのためにも、自分の生活の場である地元、ローカルの現実に自分なりの根を張り、五感で得た現実の事実から思想の根を生やし始めることだと思います。そして、飛び交うメディアなどの情報を、自分の思想に基づいて取捨選択し、白か黒かではない、情報に応じた是々非々の態度をとることが求められるような気がします。

さらに、白か黒かをはっきりさせるような議論はレッテル貼りの亜流であり、そうした動きには関わらないこと、レッテル貼りの対象になるようなことがあってもひるまないこと、が大事になるかもしれません。

ウソがまことでまことがウソ、という状況を笑って済ませられる時代は、もう終わりつつあるのかもしれません。様々な疑問をしっかり持ち、常に批判的に情報に接する態度を養いたいものです。

Trip to Indonesia and Malaysia (12-18 Jan 2017)

As the first trip to outside Japan in 2017, I will visit Indonesia and Malaysia in 12-18 January 2017.

I plan to arrive at Malaysia in 12 January, and visit Melaka to meet new friends at noon. After that, bound for Kuala Lumpur to have dinner with my friends.

In 13 January, I will fly from Kuala Lumpur to Makassar, Indonesia. I hope I will meet my old friends during my stay in Makassar for four days, 13-16 January.

During my stay in Makassar, I will attend a wedding party of my friends in 14 January.

In 16 January evening, I will fly from Makassar to Kuala Lumpur. After meeting with my friend there in 17 January, I will fly from Kuala Lumpur to Tokyo in 18 January.

I hope this trip will be the start point for me to extend my work horizontally from Indonesia to Malaysia and other countries.

30代のご夫婦の遺志をどう継いでいけるか

昨日のNHKスペシャルでは、村の再生のために頑張っていた30代のご夫婦が自ら命を絶つという選択をしたという話が、まだ心に刺さったままの状態です。

彼らのところへは、当初、震災ボランティアがたくさんやってきて、一緒に汗を流し、米づくりを始めたという話でした。しかし、時が経つにつれて、ボランティアは少なくなり、ほとんど来ないような状態になったということでした。

その話を見ながら、よそ者が寄り添うというのはどういうことなのか、どこまで寄り添えばよいのか、私自身も関わることの多い外国援助の現場のことと重ね合わせて考えていました。

30代のご夫婦にとって、ボランティアの方々が来てくださるのは、本当に嬉しかったのだと思います。と同時に、いつまでもボランティアの方々が来続けるわけではないこともわかっていたと思います。むしろ、いつまでもボランティアに来てもらっている間はまだ本当の復興ではない、と思っていたかもしれません。

でも、徐々にボランティアの来訪数が減るにつれて、自分たちの支持者が減っていくような、寂しさも感じていたことでしょう。でも、きっと、それでも頑張らなければ、と頑張ったのだと思います。

ボランティアで来ていた方の中には、昨日の放送をご覧になった方もいたことでしょう。そして、ずっと30代のご夫婦のところへ行き続けなかったご自分を責めていらっしゃる方もいるかもしれません。自分がもしそのボランティアだったら、きっとそうするだろうなと思います。

ボランティアなんだから気にする必要はない、という考え方もあるでしょう。でも、そうやって本当に割り切れる人はいないと思います。

かわいそうだから行ってあげるボランティアから、好きで面白いから行くボランティアへの転換が進まなかった、ということでしょうか。

でも、亡くなられた30代のご夫婦にとって、一番辛かったのは、自分たちの同世代の仲間で、一緒に村へ戻って、ともに農業で再生を果たそうとする仲間が、ほとんどいなかった、増えなかったということではないかという気がします。

かつて村で農業を生業としていた人々が村へ戻らない、戻れない中で、よそ者のボランティアに定住して一緒に農業をするように促すこと、お願いすることは現実的ではなかった、のでしょう。

日本中、一部を除いて、ほとんどの山村で人口が減少し、若者の多くが都会へ行ってしまっています。一部では、都会の若者が山村へ移住し、新しい生き方を始めているケースもあります。

それに加えて、原発事故による風評の消えないところへ、わざわざ行く、移住するというのは、とても勇気のあることです。そんな動きが少しでも現れれば、30代のご夫婦の遺志も生かされるのではないか。希望はほんの少しでも、そんな動きが起こるきっかけを作ることに自分も微力ながら関わっていきたい。そんな風に思います。

そんななか、この30代のご夫婦が生きてきた川内村に、昨年11月、タイ最大の珈琲店チェーンである「カフェ・アマゾン」の日本1号店が開店したというニュースを聞きました。このことが、これから川内村の風評イメージを反転させ、どんな変化を創り出していくのか、興味を惹かれます。

全村避難となった飯舘村には、椏久里(あぐり)というスペシャリティ・コーヒーの名店がありましたが、震災後に閉店を余儀なくされ、福島市で開店、再出発しました。

福島でのコーヒーをめぐる動きが、新しい福島を創り出すストーリーの一つになれば、と祈っています。

よそ者の自分が軽々しく言うべきではないとは思いますが、コーヒーがきっかけとなって、小さな希望が生まれ、それが少しずつ膨らんでいくことを願いつつ、それを膨らませる一人に自分もなれれば、と思います。

それでも生きて欲しいー原発事故から5年の福島を観て

9日夜、NHKスペシャル「それでも、生きようとしたー原発事故から5年・福島からの報告」を観ました。重く、つらく、簡単に言葉を紡げません。それでも、少しは書かなければならない、という気がします。

人間は、何か自分の打ち込めるものがあったり、将来こうしたいという希望を持ち続けたり、誰かのためになっていると思えたり、そんな感情を生きるエンジンにしているように思います。それを生きがいと言ってもいいかもしれません。

その生きがいが、たとえば東電原発事故のような、何らかの理由で断たれてしまうと、その原因を作った対象をいかに憎み、恨み、糾弾し、裁判に訴えようとも、それ自体が生きがいになっているうちはいいのですが、たとえ裁判に勝ったとしても、その後の生きるエンジンにはなれないかもしれません。生きがい自体が喪失し、それに変わる短期的な生きがいも終焉し、新たな生きがいが生まれていないからです。

それに追い打ちをかけるような、相手のことを気にかけない誹謗、中傷。誹謗、中傷を行っている本人には、それで相手が傷つくということを理解できないばかりか、そう言い続けることが彼らの生きがいになっているかのような、そんな状況も加わります。

自分の土地のほぼ近くにおびただしい数の除染廃棄物のプレコンバッグがあるのを見たら、故郷へ戻る夢が断たれたと絶望的な気持ちになるのは理解できます。その土地はただの土地ではなく、かつて、農産物を育てただけでなく、その人にとって様々な思い出の積み重なった土地に違いないからです。

村に戻って、自分たちが頑張って農業で村を元気に復興させたいと、本当に頑張っていた30代のご夫婦。放送されたことだけが原因なのかどうかは分かりませんが、米価低落や外からの関心の低下、同じ若い世代が戻ってこないという現実などを前に、自分たちの頑張りって一体何だったのだろうか、という疑問が深く湧いてきてしまったと察します。

こんな状態で、自分は何のために生きているのだろうか、という気持ちが現れる。一人で頑張っていればいるほど、自分が惨めになる。意味があるんだろうか、生きていたって。面白いことなんか何もない。分かってくれる人なんてこの世の中にはいない。そんな気持ちが湧いていたのではないかと思うのです。

人様の迷惑にならない。これは、亡き父から私が生前よく聞かされました。NPO「なごみ」の方が訪問しても、構わないでほしい、もう来ないでほしい、と言ったお年寄りの気持ちが何となくわかるような気がします。自分が生きていることで、人様に迷惑をかけたくない、と思っているのではないかと思うのです。

長生きしてごめんね、と心の中で思っているお年寄りは少なくないのではないか。最近、そんなことをよく思います。

そして、年金や介護保険の世代間負担の格差が拡大するにつれ、なんとはなしに、そうしたお年寄りを内心では迷惑がる風潮も感じられる気がします。

福島の自殺が増えているという問題もそうですが、日本全国どこでも、自殺の問題は、こうした気持ちや状況がその背景に横たわっていると感じます。

自分が生きていることになんの意味があるのだろうか、という人たちが欲しいものは、生きていることに意味がこんなにある、ということをなんらかの形で示してあげること、それ以外にないと思います。

人様に迷惑をかけられない、といって面会を拒否する方には、いかにお節介を焼いたり、迷惑をかけてもらいたいと思っているかを他人が態度で示すことから始めるしかないでしょう。そして、その方の話を、一切否定せずに、ひたすら聞く。ずっとずっと聞く。一人でも心を開く相手がいるだけで、その他人に話を聞いてもらうことが生きがいのようになってくる、というのでもよいのではないでしょうか。

7日のNHKスペシャルの「ばっちゃん」も、そうやって若者たちに居場所を何十年も提供している方の話でした。

人の話を否定せずにじっくり聞いてあげる。そんなことを、自分の身の回りの人から始めてみてはどうでしょうか。

ツイッターでこの番組が話題になっていたのですが、それは福島の話として特別視したり、悪いのは東電・政府だ、だから原発再稼働反対と言ったり、どことなく、遠い他人の可哀想な話として受け止めているような印象を持ちました。

でも、状況背景や環境は違っても、自殺するのは、自分がこの世の中で必要のない、意味のない人間だと思うのが原因のような気がします。だとするならば、自分が苦しいときに話を聞いてくれる人間が存在し、また他人が苦しいときに自分が話を聞いてあげる存在になることから始めるしかないのではないかと思うのです。

福島の自殺者が増えているという現状は、もちろん重大です。たとえ他の地域よりも件数や率が低いからといって、「大したことはない」と軽視できるものではありません。自殺する人にとって、地域ごとに多いか少ないかは、関係ないからです。

自分の身の回りから話を聞く、聞いてもらう関係を作り始めること。それがたとえ昔のようなコミュニティの復活につながらなかったとしても、今よりはもう少し生きていてよかったと思えるような世の中へ近づいていくのではないかと思います。

色々と思うことはあるのですが、今はこの程度のことしか書けません。ご容赦のほど。

友人の結婚式に出るためマカッサルへ

今度の土曜日、1月14日の私の友人の結婚式に出るため、インドネシア・マカッサルへ行ってきます。今回は、仕事ではなくプライベートです。

彼女は、マカッサルで長年、日本語学校を運営し、たくさんの若者たちに日本語を教え、日本のことを伝え広めてきました。

彼女自身、日本の大学に留学中の父親に連れられて、日本で何年も過ごしました。日常会話の日本語はまったく淀みなく、インドネシア人と会話していることを忘れるほどです。

彼女の結婚式がメインではありますが、久々に、時間の許す限り、懐かしいマカッサルの友人たちとも再会する予定です。仕事で行くと、時間がなくてなかなか彼らに会えないので、今回のようなプライベートの旅の時間は貴重でもあります。

友人たちの中には、南スラウェシ州政府の国際交流局長や投資調整局長など、重要ポストに就いている者も少なくありません。20年以上前、JICA専門家(地域開発政策アドバイザー)としてマカッサルに滞在したとき、彼らはまだヒラで、毎日のように、オフィスで彼らと地域開発政策について、それこそ色々と議論したものでした。

彼らとの再会も楽しみです。

もちろん、マカッサルですっかり馴染んだ食べ物との再会も楽しみです。

マカッサルの夕陽(2016年8月27日)
今回は雨季なので、恐らく素敵な夕陽にはお目にかかれないでしょう。

今回は、マレーシアのクアラルンプール経由のエアアジアで、東京=マカッサルを往復します。11日夜に羽田を出て、12日はマレーシア、13〜16日がマカッサル、17日がマレーシアです。マレーシアでも、知人に紹介された新しい友人たちほかと会う予定です。

個人的には、今年ぐらいから、日本=インドネシアの二国間の往来から、マレーシアなどの他の国へのヨコ展開を進めていきたいと考えています。

とくに、いろんな国の地方で頑張っている人々の活動をもっと学んでいきたいと思っています。皆さんのご推奨の場所があれば、ぜひ、情報提供をお願いします。

巣鴨の知る人ぞ知る地元キャラ

先日、巣鴨駅前を歩いていたら、謹賀新年の看板とともに、クリスマス・イルミネーションの名残のような、灯りがキラキラ光っていました。

今の流行りは、青色なのでしょうか。そういえば、渋谷の公園通りの「青の洞窟」というイルミネーションが話題になっていました。

その巣鴨駅前のイルミネーションの下に、何かが立っていました。

見たことのないキャラクターでした。頭には角、いや兜をかぶり、腰に刀を差し、顔は鳥のようです。

巣鴨といえば、有名なキャラクターは、すがもんです。巣鴨地蔵通り商店街の公式イメージキャラクターで、地元ではけっこう有名です。巣鴨駅から地蔵通り商店街へ向かうと、商店街の入口に「すがもんのお尻」もあって、なでることができます。

私の持っている、小さいすがもんはこちら。

ちなみに、すがもんのホームページはこちらです。

 すがもんのページ

でも、今回、巣鴨駅前で見たのは、すがもんとは違います。はて?

新たな巣鴨のゆるキャラか、と思ったら、違いました。

巣鴨一丁目商店会のキャラクター、その名は「すいっち」でした。巣鴨一丁目の短縮形である「巣一」から来ているようです。次のページをご参照ください。

 すいっち:巣鴨紹介ブログ

キャラクターグッズがいろいろ販売されている「すがもん」に比べたら、「すいっち」は本当に無名のキャラクター、巣鴨の知る人ぞ知るキャラです。といっても、知らない人が圧倒的に多いように思います。

巣鴨のすがもんとすいっち。これから、両者がどんなふうに絡んで、巣鴨をより面白くすることに貢献するのか。あまり期待はしませんが、見ていきたいです。

右ならえの自己アピール

昨日のブログを私のFacebookで紹介したところ、友人たちが色々なコメントを寄せてくれました。そのなかで、興味深かったのは、自己アピールについてのコメントでした。

マレーシア在住の友人から、日本の外へ出ると自己アピールの強い人ばかりで、しかもそのやり方がうまい、という話が寄せられました。たしかにその通りで、私が長年付き合っているインドネシアでも、同じように感じます。

それはアジアに限ったことではなく、欧米などでも同じで、「イエス・ノーをはっきりしなさい」とか、「自分の意見をはっきり言いなさい」といったアドバイスをよく聞いたものでした。そうしないと世界で通用する人間にはなれないような気分になるものです。

日本は、組織でうまく渡っていくには、その場その場の雰囲気(今の言葉でいえば空気)をうまく読んで、イエスともノーとも取れるような対応で、生き残っていく、そんな処世術がベースになっているような気がします。いったん組織に入ってしまえば、オレがオレがの自己アピールはむしろマイナス、とだんだんに学習するようです。

もしそうだとすると、大学生などの就活での自己アピールとは一体何なのでしょうか。学生の就活指導を行っている別の友人は、私のFacebookに「就活する多くの学生が自己PRに戸惑っている」とコメントを寄せられました。

極言すれば、企業側にいい印象を持ってもらって採用してもらうための自己PR、自己アピールなのでしょう。私は知りませんが、おそらく、自己アピールのハウツーを教える講座や教材もあるのかもしれません。それも仕方ない面があるとはいえ、手段としての自己アピールはちょっとつらいなあと感じます。

自己PRや自己アピールを考えることは、自分自身は何者かを振り返って知るためのよい機会とも考えられます。でも、そこから導かれる自分像が果たして企業側に受け入れてもらえるようなものなのか、企業側の希望やニーズに沿った自分像になっているかどうか、そういったことが気になって仕方ないのではないかと察します。

そうすると、他人がどんな自己PRをしてその企業に就職したかが気になり、採用してもらうためには同じような自己PRや自己アピールをしたほうがよい、という判断になりかねません。何だか、自己PRや自己アピールも受験テクニックのようになってしまうようです。

本当の自分はこうだけれども、それとは別に、就職のための自己アピール用の自分を作ってしまえ、と割り切ってしまうのも一つのやり方かもしれません。でも、それができる人は、おそらく自己PRに戸惑うことはないでしょう。

多くの学生は、就活をする大勢の同類が自己PR、自己アピールするという状況のなかで、自分だけ、それをしないで済ますことはできない、という感覚に支配されているのではないでしょうか。彼らのは、みんながそうだから自分もするという、右ならえの自己PR、自己アピールと言えなくもないでしょう。

それは、私が日本の外で感じたインドネシアなどでの自己アピールとはずいぶん違うように思います。

自分はどうしても将来これをやりたい、これを自分がやることにはこんな意味がある、だから組織もこのように変わらなければならない、自分はそれを実現するためにこの組織に加わりたいんだ・・・。日本の外で感じた自己アピールには、そんな要素がたくさん含まれていたような気がします(印象なので人によって感じ方は異なると思いますが)。

右ならえの自己アピールは、こうした自己アピールとは違うものだと思うのです。

自己アピールは、アピールしておしまい、というものではないはずです。本来、その自己アピールがマルかバツか、白か黒か、決めるものではなく、そこから何かが始まるもののはずです。では、何が始まるのか。

対話です。対話というコミュニケーションが始まるのです。

他者との対話。自己との対話。

物事の結論は、マークシートのようにすぐに決まりません。対話のプロセスの中で、様々な思いもよらないモノやコトに気づき、それを新たに含めながら論理を組み直し、もう一度深く考え、新しい考えを生み出し、対話し、様々な思いもよらないモノやコトに気づき、というプロセスを何度も経ながら、結論らしきものが遠くにおぼろげに見えてくる、というものではないでしょうか。

対話のためには、自分が何者かを深く考える時間と経験が必要でしょう。読書や旅、そこでの人との出会いが、自分が何者かを考える機会となるはずです。本来、比較的時間に恵まれた大学時代に、そういったことをしっかりしておく必要があるのだと思います。

就活のための右ならえではない、しっかり対話のできる自分を作るための機会として、自己PR、自己アピールを考えることが大切なのではないかなと思います。

それにしても、今の若者にとって、素顔の自分をさらけ出してもいい場所、自分の意見や気持ちをそのまま吐き出してもかまわない安心できる場所、自分という存在をその考え方とともに認めてくれる場所、そんな場所が本当に必要なのではないかという気がします。

それが大学やアルバイト先にあるのか、いや家庭にあるのか、状況は個々人によって様々だと思いますが、右ならえの自己アピールに悩む学生たちが安心して悩み、そんな彼らを認めてくれる場所を作るのは、作らなければならないのは、我々、シニア世代なのだと思います。なぜなら、もしかすると、我々が彼らをそういう状態に追いやったのかもしれない、という気さえするからです。

「日本はすごい」の裏側

「日本はすごい」という言葉をよく耳にします。そして、その言葉を聞いて、日本は本当にすごいと素直に感動する人もいれば、なんだかそういう言葉を胡散臭く感じる人もいることでしょう。

私は後者です。大体において、日本人が自分で「日本はすごい」という、あるいは外国人に「日本はすごい」と言わせて、日本人が喜ぶのはいいのですが、で、それで? と思ってしまうのです。

なんだか、「ねえねえ、私はすごいのよ」と自分で自分を慰めているような気になってくるのです。

そういえば、昔、ある時点から、就職のときの面接試験が変わったという印象があります。

私が面接を受けるときに先輩たちから言われたのは、「自分が自分が・・・」と自己中心的な態度で前面に出るな、分からないことは恥ずかしがらず正直に「分からない」と言え、聞かれたことにだけ答えなさい、というようなものでした。新入社員の自己紹介は、奥ゆかしい、自分は未熟者である、といった内容が多かったと記憶しています。

ところが、ある時期からそれが変わりました。面接では、「自分はこんなことができます」「自分はこんな素晴らしい人間です」と自己アピールすることが大事だという風潮になり、みんなそうし始めました。それは今も続いています。新入社員の自己紹介も、いかに自分は優れた人間であるか、いかに組織に貢献できる能力のある人間であるか、という内容へ変わっていました。

今や、採用する側も、自分が自己アピールして企業や組織に入った人間なので、そうした自己アピールは自明のこととなっているかのようです。

奥ゆかしい時代に社会人になった私から見ると、自己アピールで自分が優れた人間であると堂々と言える人々は、なんだか本当に優れた人間で、私の時代の人間の能力をはるかに超えて、素晴らしい世の中を作っていくのだろうな、と思ってしまうほどでした。

でも、現実を見ると、そんな「すごい」人たちを採用した企業や組織が厳しい状況に置かれていて、そこで働く「すごい」人たちの能力を発揮させていないように感じるのです。

何となくフツーであることが蔑まれるような、そんな雰囲気の中で、もしかしたら、自分自身を「すごい」と形容した人々が、実際の自分とのギャップに悩み、その形容どおりに演じることに疲れてしまっているのかも知れません。

そして、そういう人は、自分を「すごい」と思ってくれる人、そう言ってくれる人をどこかで探し続けているのでしょう。そう思ってくれる人、そう言ってくれる人がいてはじめて、自分の存在に安心できるのではないでしょうか。

今の日本は、もしかしたらそんな状況なのかなと思います。日本は「すごい」と誰かに言って欲しい、共感して欲しい。そして、自分は捨てたものではないと日本は自分で思いたいのではないでしょうか。

私は、本当にすごい人は自分を「すごい」などとは言わないと思っています。誰かに評価してもらいたいとも思っていないし、誰かと比べて自分のほうが優れているという思考にもならないのだと思います。それは、自分にとってはごくフツーのことであり、無理して背伸びをしたり、役職や立場に合わせて演じたりする必要もないのです。

だから、「日本はすごい」の裏側にあるのは、日本の自信のなさなのではないかと思うのです。自分に自信がないから、自分より弱そうな誰かをいじめたり、他人を侮蔑したりして、自分が彼らよりも上であると思い込みたいのです。

そんなことにかかわらずに、我々はフツーに生きて、自分を大きく見せて無理やり演じることもなく、楽しく過ごしていけばいいのではないか。そんなふうに思います。

本当にすごいならば、それは自分で「すごい」と言わなくとも、他人から「すごい」と言われなくとも、すごいのではないでしょうか。

地域づくりの勉強をしていて、私の勝手に師匠の一人から学んだことがあります。世界で一番すごい料理人は誰か、と。それは、家族のために毎日食事を作ってくれる母親や父親です。

それは、実にフツーのことです。1日3食、1年365日、毎年1095回、家族の健康を思いながら食事を作り続ける彼らこそ、世界で一番すごい料理人だと。

フツーであることが実はすごいことである、当たり前の中にあるすごさ、というのを私は学びました。

どうせなら、「日本はすごい」などという必要のない日本を目指したいものです。当たり前のすごさをきちんと認識しながら。

あなたの「故郷」はいくつありますか

ずっと前から、故郷は一つでなければならないのだろうか、と考え続けています。

生まれた場所は一つしかないので、生まれ故郷は一つだけです。でも、「故郷」と呼べるような場所は、生まれ故郷と同じ場所である、とは限りません。

私にとっては、生まれ故郷は福島県福島市、その後、父の仕事の関係で福島県二本松市原瀬に2年、二本松市内に1年住んで、また福島市へ戻りました。

高校卒業まで福島市にいて、大学浪人中は埼玉県川口市、大学入学後は東京都東村山市、国立市、就職後は再び川口市、小金井市、そして、東京都区内に移りました。

さらに、インドネシアのジャカルタに2年、東京に戻った後、マカッサルに5年、また東京に戻った後、マカッサルに1年半、1ヶ月おいて再びマカッサルに2年、ジャカルタに3年、スラバヤに2年、そして今は東京に・・・、というふうに、点々としてきました。

これまでに挙げた場所はどこも、自分にとって、懐かしく愛おしい大事な場所になっています。何度か再訪するたび、そこで生きていた、生活していた自分(たち)を臨場感を感じながら思い出します。就職前までに住んだ家は、全てが跡形もなく無くなっており、自分(たち)がそこに居たという物理的な証は、もはや見つけることはできません。それでも、そこに行けば、いや、行かなくとも、行けなくとも、その場所とそこに居た自分(たち)を思い出すのです。

東日本大震災後に訪れた母校・
二本松市立原瀬小学校(2012年3月)

危険建築物として取り壊された
二本松市立原瀬小学校跡(2013年8月)

長く住んだ場所以外に、出張などでたくさんの場所を訪れ、色々な人々に会い、色々な思い出を作ってきたのですが、なぜか、それらの場所で思い出したくもない、嫌いになった場所を一つも思い出せないのです。

そんななかで、故郷は一つじゃなくていいのではないか、と強く思うようになりました。そのきっかけは、東日本大震災に伴う原発事故で突如故郷を失った人々の存在でした。自分の意思ではなく、ある日突然に、自分の居場所を去らなければならない、それも自然災害ではなく人災によって、というのは本当に理不尽なものです。それに加えて、自らの判断で自主的に避難した人々もいました。そんな様子を見ながら、自分の故郷でもある福島のことを思っていました。

強制的にせよ、自発的にせよ、避難した方々は、自分の生活の場である故郷を離れたわけです。新しい生活の場所をいずれ戻るための一時的な滞在場所と捉えるか、元の場所での生活を断念して新しい生活の場所と捉えるか、それは人によって、世代によって、場合によっては同じ家族の中でも、異なることでしょう。

でも、一時的な滞在にせよ、定住にせよ、今、生活している場所を「故郷」と思えるならば、そのほうが楽しいだろうし、気持ちも楽になるのではないか、という気がします。第二の故郷、第三の故郷、第四の故郷、と、日本中、世界中にたくさんの故郷があるような人生も楽しいのではないか、と。

状況や立場は異なりますが、サラリーマン転勤族も、自分の意思とは必ずしも関係なく、あちこちへ移動します。彼らもまた、第二の故郷、第三の故郷、第四の故郷、と、日本中、世界中にたくさんの故郷があるような人生になれば楽しいのではないか、と思います。

自分にとっての「故郷」がたくさんあればあるほど、自分の関わった人々が増え、自分のことを思ってくれる人々が増えていく。そんな場所が世界中いたるところにあれば、どこへ行くにも安心した気持ちになれるような気がします。

戸籍や住民票といった公式書類ではなく、そこを故郷と思ってくれる人を増やすような、ファンクラブのような試みを、日本中、世界中でやってみたら面白いかもしれません。それは、ふるさと納税の豪華賞品を介在させるようなものではなく、言葉にできないような、個々人にとっての愛おしさや思い出を大切にする、多くの人々に「故郷」と思ってもらえるような場所になる、ということです。

故郷を愛おしむのは同じ日本人に限ったことではありません。アニメやポップカルチャーの愛好者とは別に、日本に住んだことがあり、日本のために何かをしたいと思っている外国の方々は少なくありません。そんな方々のための「故郷」に日本が、日本の地方がなる、ということはできないでしょうか。

逆に私のように、インドネシアとの関係が切れなくなって、インドネシアのあちこちの地方を愛おしく思い、そこのために何かを一生懸命やりたい、と思ってしまう外国好きの日本人も多いことでしょう。

高知県馬路村は、ユニークな手法で村のマーケティングに成功した場所ですが、そこには、日本人全員の「故郷」になりたい、という彼らの願いが込められているのでした。

自分の「故郷」を増やすのは、ふるさと納税で興味を持った市町村から始めてもいいかもしれません。商品だけでなく、実際にその市町村へ行き、人々と出会う中で、本当の「故郷」になるかもしれません。物理的に人口が減っても、「故郷」と思う人が増えていくのは、それが新しい何かを生み出すきっかけになるかもしれないと思うのです。

私の「故郷」は、これからまだまだ増えていくことでしょう。というか、増やしていきたいです。

あなたの「故郷」はいくつありますか。そして、「故郷」の数をこれから増やしていきませんか。

My Hope in this 2017

I has started my work today (January 4) in 2017. I hope this 2017 would be happier and more peaceful year than before.

At the start-point of this year, I had set seven targets to be realized during this 2017. One of them are at least once a week posting to this my homepage. Others are secret.

I want to start my work extension not only from mostly Indonesia-Japan but also to multi-country network of local to local. I need to know and learn a lot of cases of local community and/or business development challenge in many countries. I believe we need a kind of mutual learning network among local communities, as an alternative network from nation-to-nation network.

From my experiences in Japan and Indoensia, every local community has faced to the same deep crisis and problem. That is the crisis of local identity caused by penetration of commercialization from outside. In other words, it is globalization. Every local community in universal crisis and problem.

Localization is regarded as the solution to overcome such globalization. But localization is not same as isolation with cutting the connection with outside. It is not possible to survive the local community.

I think we need a kind of global network among local communities in the world. Glocal is this meaning. This network cannot force to unify in one direction. There are many and many local communities in the world. So, without accepting and assuming those difference of local communities, such network cannot be realized.

This network is just for mutual learning and for avoiding loneliness feeling of each local community. Local communities are different, but their source of problem may be universal. Human beings should not feel loneliness. Local community may be the same.

I do not know how many persons agree with this thought in the world. If you are the person, I want to contact and meet you, and discuss and take action more.

I will start to extend my idea from visiting Malaysia and Indonesia in 12-17 January 2017.

2017 has just started.

近所の天神様で紅梅が咲き始め

妻と神社へ初詣した後、前から気になっていた天神様へもお参りに行ってみました。

この天神様は、いつもの散歩コースにあって気にはなっていたのですが、なんか小さな神社があるな、ぐらいにしか思わず、もう25年以上住んでいるのに、天神様だとも気付かずにいました。

名前は子安天満宮。あるいは菅原神社。れっきとした天神様で、もちろん菅原道真公を祀っています。

建立されたのは16世紀半ばで、江戸時代には、湯島天神、亀戸天神などと並ぶ有力な天神であったようです。

我が家の近くにこんな天神様があるとは。やはり、自分の足元をしっかり見つめていかなければなりませんね。

行くと、賽銭箱はなく、本殿の入り口のサッシ戸に小銭の入れ口があり、賽銭を入れられるようになっていました。賽銭を入れると、チャリーンという音が響きます。

本殿の両側には梅の木がありましたが、本殿に向かって右側の梅がもう咲き始めていました。紅梅でした。

春の訪れはまだ先ですが、今年一年、よい年となる希望を感じるような紅梅でした。もちろん、しっかりお参りし、お祈りいたしました。

改めて、皆さんにとって、素晴らしい年となりますよう、お祈り申し上げます。

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