草間彌生展へようやく行けました

今日は、午前中にアポイントメントが1本あった後、夕方から、妻と一緒に、国立新美術館で草間彌生展を観てきました。

明日からインドネシアで、帰国したときにはもう終わってしまっているので、どうしても今日を外したら観に行けないという状況でした。でも、年齢のせいか、昨日の福島日帰りの後遺症なのか、今日は疲れからか、ちょっと体がきつく感じたので、草間彌生展へ出掛ける前に、駅で栄養ドリンクを1本飲みました。

それが聞いたかどうかはわかりませんが、草間彌生展を観ている間、なぜか軽い興奮状態になり、眠気も吹き飛び、しっかり観ることができました。彼女自身の声が入っている音声解説は、彼女の詩の朗読や歌も入っており、一聴の価値があります。

金曜の夜ということでしたが、混雑ぶりは予想の範囲内。それでも、夜遅くなるにつれて、人の数がむしろ増えたように感じました。

色使いや抽象的な形象から、可愛らしさや明るさを感じる人もいるかと思いますが、音声ガイドでの草間彌生自身の話では、そんなものは一切なく、彼女の頭の中に浮かんだイメージや湧いてきたものを一心不乱に制作するという、むしろ彼女自身の様々な苦しみの成果であるということがとても印象に残りました。

そして、彼女が今に至るまでに辿った様々な経験、精神的な葛藤、生と死を見る真剣な眼差しなどが背景となり、彼女の中の思いが唸りを上げながらカンバスに描かれていく、2〜3時間で一つの作品を描いていく、その集中力と瞬間技のような表現の凄みが作品から迫ってくるのでした。

おそらく、掲げられているタイトルは後付けのものでしょう。2011年を境に、作品の描き方が大きく変わった印象を受けました。戦争や平和、心の奥底からの悲しみが表出しているような作品が多くなり、同時に、閉塞感を感じさせる現代のなかで、若者たちへの期待とともに、制作活動を通じて、草間彌生が闘い続けることを高らかに宣言しているかのように感じました。

真剣に生きるとはどういうことなのか。本当に闘うとはいかにして言えるのだろうか。私自身の人生への本気度や闘争心をもう一度思い起こさせる、真剣な時間を過ごすことができて、大変満足しました。

明日5月13日から23日朝帰国まで、インドネシアへ行ってきます。17〜20日は、私の大事な仲間が大きく育んできたイベント、マカッサル国際作家フェスティバル(MIWF)に参加してきます。

急遽日帰りで福島へ、その理由は

今日5月11日は、急遽、東京から福島へ日帰りしました。昨晩、事務所の件でお世話になっているオーナーから電話があり、福島地方法務局に出向いて確かめなければならない用事が出来たためです。

オーナーによると、その電話は「定款が提出されていない」という内容でした。まさか、登記手続を終えて、国税庁から法人番号も通知されて、銀行法人口座の開設を進めるなど、事業開始の準備を進めているのに、その根本たる定款が未提出とは、一体どうなっているのか、最初は見当がつきませんでした。

3つの可能性が考えられました。第1に、電子定款で申請したのに、法務局が「紙の定款がない」と勘違いした可能性。第2に、電子定款で申請した際のCD-Rに私がファイルをきちんと焼き付けていなかったのでファイルが見当たらないという可能性。第3に、これは大変失礼なのですが、オーナーが何か聞き間違えた可能性。

そこで、昨晩は、もう一度きちんとCD-Rに焼き付けるとともに、それをプリントアウトした「紙の定款」を用意しました。CD-Rに焼き付けたファイルをMacでもWindowsでも読めることを確認しました。

それらを持参して、今朝、東京の自宅を出発。山手線に乗ったら、「新橋駅と浜松町駅の間で人が線路に立ち入った」という理由で電車が15分以上動かず、予定よりも30分以上遅い新幹線で福島へ向かいました。

東京は夏のような暑さになったということですが、今日の福島は最高気温が20度に届かず、小雨もぱらつく肌寒い1日でした。

福島地方法務局へ直行し、事情を説明しました。係員は当社の登記関連資料を精査し、「電子定款できちんと申請され受理されており、登記上の不備は全くなく、そのような状況で法務局から電話をすることはありえない」と答えました。焼き付け直したCD-Rも「紙の定款」も全く不要でした。狐につままれたような気分になりましたが、登記上の問題が何もないことを確認できてホッとしました。

もしかして、法務局の方が勘違いしたのかもしれません。それならいいのですが、仮に、誰かが法務局を名乗って何かを企てようとしたのなら、ちょっと怖いです。真相は藪の中となりました。

今回の日帰りは、この法務局での確認が主目的だったのですが、それ以外に、オーナーに預かってもらっていた、国税庁からの法人番号通知書や、T銀行の法人口座キャッシュカードや法人インターネットバンキングの開始手続案内などを受け取ることも目的の一つでした。

それらを受け取って、T銀行のインターネットバンキング開始手続をしました。まず、個人口座のインターネットバンキングの開始手続はすぐに終わりました。

面倒だったのは、法人口座のインターネットバンキングの開始手続です。どうしても分からないので、電話をかけてやり方を聞きました。この電話での担当者(女性)の説明が懇切丁寧でわかりやすく、ずっと順を追ってやり方をガイドしてくれました。途中、私のMacBookでは使えない機能などがあり、最初から戻って根気よく手続きをし直す際にも、ずっとお付き合いいただけました。

正直言って、地方銀行ということで、T銀行を都市銀行ほどサービスはよくないと勝手に思っていたのですが、この法人口座のインターネットバンキングのガイダンスはとても素晴らしいものでした。おかげで、何とか法人口座でもインターネットバンキングが使えるようになりました。

さらに、嬉しいラッキーは、3月末にスラバヤ中央郵便局から船便で送った荷物が今日届いたことでした。ただし、5箱送ったうちの3箱だけでした。税関検査などがあるので6月末ぐらいに届くかと思ったのが、1カ月半かからずに届きました。後は、残りの2箱が届くのを祈るのみです。

そして、今日のランチは、前々から行きたいと思っていた福島駅東口のサイトウ洋食店にいくことができました。これまで3度試みましたが、定休日だったり、貸切だったりで、行けてなかったのです。今日は11時半に一番乗りで店内へ入り、牛タンのカレーライスセットをいただきました。新鮮な地元野菜をふんだんに使っていて、なかなか美味しいカレーでした。この店には、これからもよく来るような予感がします。

というわけで、急な日帰りの割には、満足できるものもいろいろあって、新幹線代はかかったけれども、まあ、良かったのかな、という感じです。

法人口座開設の顛末

事業の準備として、これまで3つの銀行(T銀行、M銀行、R銀行)で法人口座の開設を進めてきました。今回は、その顛末について、少しお知らせしたいと思います。これから会社設立を考えている方の参考になれば幸いです。

まず、会社を登記した福島市に1つ開設しました。事務所から歩いて2分のところにあるT銀行の支店です。福島県ではナンバーワンの地方銀行です。

この支店は、私がお世話になっている古民家のオーナーが懇意にしており、オーナーには今回ずいぶんと助けていただきました。

口座開設の開設を申し込んだのが4月21日でした。翌週、本社住所の状況をみて、口座開設の可否を判断する、ということで、実際に事務所へ来られたのは4月26日朝でした。なんと、支店長と次長が二人でお出ましになり、びっくりしました。

事務所の様子を確認し、古民家のオーナーを交えて色々話をした後、再度、支店へ出向いて書類を整え、翌4月27日に無事法人口座を開設できました。

古民家のオーナーのおかげに加えて、次長が高校の後輩というつながり、支店長も交えて自分たちの中学・高校時代の話題で盛り上がれる、あの親近感は他ではなかなか味わえないものでしょう。

その後、先方のミスで書類の誤りを1箇所訂正するために捺印する必要が生じたのですが、担当者の指示通り、営業時間外だったので支店の裏口から中に入らせてもらいました。地域密着というのは、まさにこういうことを言うのだととても嬉しい気持ちになりました。

2つ目は、東京の自宅近くの都市銀行であるM銀行に法人口座を開設しました。4月21日にオンラインで法人口座開設を申し込み、連休を挟んで、本日5月9日に支店へ出向き、開設手続を行いました。
前もってメールで指示された書類を持参し、いくつかの表記ミスを訂正する作業などをした後、しばらく待たされましたが、「事業内容について少し詳しく教えてください」と言われたので、定款のコピーも提出してお話ししたら、あっさりと了解されました。

そして、そのまましばらく待った後、法人口座が無事に開設されました。きっと、また後日出向く必要があるのだろうと思っていたので、今日の午前中で開設できたのはちょっとびっくりでした。

なお、T銀行でもM銀行でも、法人向けのインターネットバンキングを申し込んだのですが、こちらの手続は、後日、キャッシュカードやトークン(乱数表を発生させる小さな道具)が届いてからインターネット上で手続きをする、ということで、まだしばらくお預けです。M銀行は、オンライン申込だと通帳が発行されないので、しばらく何も取引ができない状態です。

最後の3つ目は、インターネットバンキングで有名なR銀行です。4月28日に法人口座申込書類を送付しましたが、連休中のせいか、「受け取った」というメールの後に「まだ申込されていない」というメールが来るなど、ちょっと混乱しました。

そしてようやく本日(5月9日)、先方から電話があり、いくつか事業内容等について質問がありました。一つ一つ誠実に答えていたのですが、ちょっとカチンとくることがありました。

それは、事業実施状況の分かる資料(契約書など)を送ってほしい、というのです。こちらは設立してまだ1カ月弱で、銀行口座も整えている段階で、法人としての事業などまだ実施できる状況ではないのに、事業実施状況の分かる資料などはあるはずがないのです。それでも、先方は、「それがないと手続ができない」の一点張り。

R銀行は、法人口座の新規開設がしやすい銀行として、ネット上では推奨されていますが、実は、事業実施状況の資料がないと法人口座を作れないようなのです。つまり、全く初めて事業を始めるスタートアップの起業家、ビジネスは初めて、という方々は、R銀行での法人口座開設は難しいと思ったほうが良さそうです。

この点について、電話をかけてきたR銀行の担当者には何度も確認しましたが、答えは「法人口座開設はできない」でした。

初めてビジネスに挑戦される方で法人口座を開設したい方々には、ネット上の「開設しやすい」という評判や情報とは裏腹に、実はR銀行では難しい、R銀行に法人口座を作りたいならば設立後1年程度たってからのほうが良い、ということをお知らせしたいです。

私の場合は、個人事業主のときの事業での契約書1つを送ってくれれば良い、ということになりました。

でも、さらに驚いたのは、その追加資料を「ファックスで送ってほしい」と言われたことでした。店舗を持たない、インターネットバンキングのR銀行が、まさか前時代的なファックスでの送付を求めてくるとは。

R銀行にはこれまで個人口座等でずっとお世話になり、使い勝手の良さを認識してきましたが、今回のやりとりで、ちょっとガッカリな気分になりました。この銀行は、自分たちのグループで派手にEC事業を行っている一方で、新規スタートアップや初めてのビジネスを行う方々を応援してはいない、と認識しました。残念です。

R銀行へ追加資料を送ったからといって、口座開設が進むかどうかは分かりません。電話をかけてきた担当者は、1ヶ月ぐらいかかるときっぱり言いました。R銀行の法人口座が開設しやすい、というネット情報は嘘のような気がしてなりません。

というわけで、今のところ、サービスでは最もクラシックに見える福島のT銀行に一番の親近感を覚えてしまいます。また、都市銀行のM銀行にも法人口座を持てたのはありがたいです。残りのR銀行がどうなるかわかりませんが、とりあえずの法人口座開設の顛末でした。

2020年について改めて思う

今から4年近く前の2013年9月5日、私は以前のブログで、東京オリンピックへの立候補プレゼンテーションに関連して、少し書きました。よろしければ、以下のリンクをご覧になってください。

 「東京は福島から250キロ離れており、安全だ」発言

私の東京オリンピックへの感じ方は、あのときからあまり変わっていません。心から歓迎する気持ちには今でもどうしてもなれません。

その後、ロゴの剽窃疑惑やら、国立競技場の建て替え問題やら、テニス会場を巡る都市間での諍いやら、オリンピックというビッグ利権に群がるハイエナたちの様子が感じられます。

オリンピックとは直接関係なくとも、オリンピックを理由にした様々な思惑もどんどん出てきています。築地市場の移転問題も、オリンピックに間に合うように環状2号線の建設を進めたいということも事の一端だったと思います。

オリンピックが開催される2020年を新しい日本の門出の年にしたい、と勝手に思う野心的な政治家たちが正々堂々と現れ出しました。

最も驚いたのは、5月3日、日本のメディアがこぞって、安倍首相の「2020年の憲法改正を目指す」という発言を一大事としてトップで取り上げたことです。

この発言は、改憲を目指すグループの集会へのビデオレターの中でなされたもので、素直に考えれば、国民全体へ向けたものではなく、自分のお仲間の仲良しさん向けに話したものと思われます。

しかし、必然的にそれは、国民全体へ向けたものになることは明らかでしたし、その効果を狙っていたはずです。そろそろ「空気」を作ってもいい頃だ、メディアも国民も「忖度」し始める頃だろう、というタイミングでしょう。たとえそれが自民党総裁としてでも首相としてでもなく、一改憲論者の個人として話したものだったと言い訳しても、それは通らないことは明らかです。

実際、自民党の憲法改正の議論の結果として出てきた内容ではなく、今後の政治運営上の政党間連立として他政党を取り込むための便宜的な内容でした。たとえば、自民党は民主党政権時代に高校教育無償化には批判的だったのに、今回の発言では、高校教育無償化をするために憲法改正をするかのような、よく訳の分からない話になっています。

そもそも、憲法を遵守すべき首相です。その首相が、自分が総裁を務める政党内での議論を踏まえず、自分で勝手に、憲法改正を目指すことにとどまらず、そのスケジュールまで明言するというのは、明らかにやりすぎではないかと思うのです。

メディアは、共謀罪の話をチラつかせながら、何となくこれから言いたいことも言えなくなってきそうだ、という「空気」を世間に振りまき、自分の首をどんどん閉め始めて自分で苦しくなっています。何となく自分の意見を言いづらいような、誰かに監視されるという恐怖をこれから感じるようになるのか、といった不安を掻き立てています。

たくさんの、ときには国家や組織ぐるみの嘘が巧妙に組み込まれ、嘘と分かっていてもそれを受け入れざるをえない、そうしなければ国家がいつ自分を犯罪者扱いしないとも限らない、という空気。一握りの人間が自分だけを守るために嘘をつき、その嘘を守るためにさらなる嘘をつく。

東日本大震災のあと、原発事故が起こったとき、権力者や大企業はそこに住む人々に嘘をつき、守ってくれませんでした。その後、取ってつけたように、国民を守るフリをしました。あのとき本当は何があったのか、その真実を明らかにしてしまったら、今までの全てが無意味になってしまう。そう思った一握りの人間が嘘をつき、その嘘を守るためにさらなる嘘をつく。

あのときの福島が、今では日本になってしまったのでしょうか。嘘だと分かっても仕方ないと割り切って従順になることが大人になることなのでしょうか。私たちはそのように子供たちを教育していくのでしょうか。

そんな教育を受ける子どもが自分の夢を語れますか? 嘘をついてはいけないよ、と子どもに言えますか?

そのように嘘の連続ををつかれてきたということでは、沖縄も、水俣も、他の国家権力に立ち向かわなければならなかったところも同じだと思います。

2020年の東京オリンピックで日本が変わるのではありません。私たちが子供たちの夢を叶えさせてあげたい、正直で真面目に生きたものが報われるような社会にしていきたい、そういう思いが否定されない世の中。それを大人が子供の鏡となって子供に見せられる世の中を作っていく。そうした日々の積み重ねが社会をより良い方向へ変えていくはずです。

そんなのはもう無理なんだ、諦めてくれ、と子供に言いたくはありません。

ダイアローグ・イン・ザ・ダークを初体験

前々から絶対に参加したいと思っていたダイアローグ・イン・ザ・ダーク(DID)。視覚障害者のアテンダントの声を頼りに、何人かのグループで、視覚以外の全感覚を使いながら、真っ暗な暗闇空間で一緒に過ごすイベントです。

 ダイアローグ・イン・ザ・ダークのホームページ

これまで、タイミングがなかなか合わず、参加できていなかったのですが、比較的時間のあるゴールデンウィーク中の今日、お一人さまで参加できるプログラム「一期一会」に参加してきました。下の写真は、DIDの会場への入口です。

定員8名に対して、参加者は7名。全くの見ず知らずの参加者どうし、本名も名乗らず、ニックネームで呼び合い、そのニックネームもなかなか覚えられない、という状態でスタートしました。

まず、薄暗い部屋に入って、参加者は自分の使う白杖を選び、アテンダントから白杖の使い方を学びます。そして、すぐに真っ暗な空間へ入っていきます。

アテンダントの声のする方向や場所を推しはかり、自分の持つ白杖と近くにいる参加者の存在を頼りにしながら、少しずつ前へ進んでいきます。周りは真っ暗で本当に何も見えません。アテンダントの励ましの声、音や匂い、参加者の人間の体のあたたかさを感じながら、徐々に暗闇に放り出された不安が少なくなっていきます。

暗闇の中で、参加者どうしでいくつかのゲームというか遊びのようなことをやり、それが意外に盛り上がったのですが、何をやったかはここではあえて書きません。コースや季節によっても中身が色々変わるようですので、興味のある方は、ぜひ、ご自分でDIDに参加して、体験してみてください。

個人的に、DIDにはずいぶん前から興味を持っていましたし、彼らの活動やそれについて書かれた書物から様々な学びを得てきました。

そうした予備知識が前もって色々入っていたせいか、今回のDID初体験でも、私自身の人生観が変わるほどのインパクトを得たようには感じませんでした。ただ、このDIDのエッセンスをどのように自分の今後の活動に生かせるか、ということを考えていました。

私の福島市のオフィスのある敷地内には、中がほぼ真っ暗になる蔵があります。そこを使って何かできそうな予感がしています。

DIDを行うには物理的な広さや建物の構造、アテンダントの育成など、様々な条件があるでしょうから、そう簡単にどこでもやれるわけではありません。DIDのための適切な場所を探すのも簡単ではないと思われます。

でも、このDIDは一度はすべての人が体験したら良いのではないかと思いました。ささやかな時間ではあっても、日頃、人間としての自分が忘れかけていた何かをきっと思い出すことができるひとときになり、それをふとした機会に思い出すのではないかと思います。

そして、もうすでに取り組まれているのかもしれませんが、外国人留学生とかインバウンドで外国から来る観光客の方も、気軽に体験できるといいなと思いました(たとえば、東京観光ツアーの中にオプショナルとして組み入れるとか)。そんな参加者のなかから、自分たちの国でもやってみたいと思う人が出てこないとも限りません。彼らと一緒に外国語プログラムを検討してみることもできるかもしれません。たとえば、今、宗教的なものを見た目で判断しがちなインドネシアに導入できないかな、とも思いました。

DIDは進化し続けます。今年になって、高齢者をアテンダントとした対話プログラム「ダイアローグ・ウィズ・タイム」、聴覚障害者をアテンダントとした対話プログラム「ダイアローグ・イン・サイレンス」を開始しています。こちらの今後の展開も大いに注目されます。

大事なことは「ダイアローグ」です。勝ち負けを重視するディベートではなく、勝ち負けにつながりがちなディスカッション(議論)でもなく、すべての話者が互いを尊重して気づきやインスピレーションが促されるダイアローグ(対話)こそが、これから益々重要になってくると確信します。私の活動でも、このダイアローグを最重視していきます。

ともかく、今日、DIDを初めて体験できて、ようやく本当にDIDのサポーターになれたような気分です。ぜひ、皆さんもご自分で体験されて、ダイアローグの力を感じ取っていただければと思います。

飲めないのに飲んでしまった福島の日本酒の美味しさ

5月1日の夜、福島のオフィスを訪れた2人目の来客であるジャーナリストの友人と夜、義妹が勧めてくれた福島市内の店「はりまや」にて、美味しい料理とともに、日本酒をゆったりと飲みました。

私はアルコールが苦手で、ビールをコップ1杯飲むだけで、顔がすっかり真っ赤になってしまいます。家でも晩酌をしたことはおろか、クリスマスの時のワインなどを除いて、アルコール類を飲むこともありません。

これまでは、アルコールを飲むと、持病の気管支炎のせいか呼吸が苦しくなることが多く、友人たちと飲むときも、ビール1杯程度で抑えるようにしていました。

しかし2月に、インドネシアのスラバヤへ出張した際、ご一緒した大阪の中小企業の社長さんがお酒が大好きで、毎日お付き合いすることになり、なんだかんだと飲まされてしまいました。その多くは日本酒で、しかも一升瓶を5本も机の上に並べ、スラバヤのウワバミのような華人の傍に無理やり座らされ、相手をさせられたのですからたまりませんでした。

でも、今回の日本酒は、本当に美味しいと思いました。福島の日本酒3本の飲み比べ、しかも頒布会のときだけに出された珍しい貴重なものとのことでした。

上写真の左から「写楽」純米吟醸短稈渡船、「天明」純米瑞穂黄金の生、「風が吹く」純米吟醸中取りの生、です。「写楽」はフルーティーな味わい、「天明」はスキッとした味わい、そして「風が吹く」はまろやかな味わいでした。いずれも、会津の歴史ある酒蔵で造られたものとのことでした。

ジャーナリストの友人も大の酒好きですが、食事も美味しく、話題も興味深かったせいか、頭がクラクラするような酔いにはならず、美味しい日本酒をいただいた満足感でいっぱいになりました。

そして、調子に乗って、もう一つの飲み比べもしてしまいました。こちらは、山形の酒2本と新潟の酒1本の、日本海側の酒蔵シリーズでした。これらの日本海の酒は、先に飲んだ福島の酒に比べると、キリッとした味わいが強いように感じました。

震災前から、福島では酒蔵同士がお互いに切磋琢磨しながら、時代に合った質の高い日本酒を造ってきました。その結果、国内外の日本酒コンクールでは最高位を連続してとるなど、自他共に認める日本酒の実力県として認知されており、風評被害を乗り越えるのに大きな役割を果たしています。関係者の苦労と努力はこれからも続いていくことでしょう。

今回、福島の日本酒は美味しいと素直に思えました。飲めないのに飲んでしまった自分ですが、福島の日本酒の美味しさを伝える役目も少しは果たせそうです。

ふと思い出した農林21号のこと

福島から戻って、東京の自宅で家族とのんびり過ごしていた憲法記念日。

何気なくテレビを観ていたら、「ラブ米」というアニメをやっていました。米を題材とした作品で、農林水産省ともタイアップしているアニメらしいのですが、それを見ながら、ふと、農林21号のことを思い出しました。

昔、子どもの頃、「一番うまい米だぞ。寿司米には最高なんだ」と父に言われて、たまに食べさせてもらったのが農林21号でした。福島では当時、最上級の品質の米で、私はずっと、一番美味しい米は農林21号だと信じてきました。その後、コシヒカリやらササニシキやらがメジャーになり、いつしか、農林21号という名前を聞かなくなっていきました。

もう今やないのかと思って、グーグルで検索すると、石川県加賀市で今、農林21号の復活を試みていることを知りました。詳細は以下のページを参照してください。

 農林21号について

農林21号は手植え時代の品種で、田植え機の普及などにより機械化農業では扱いにくい品種となり、機械化に適した品種へと変わっていくなかで、農林21号の出番はなくなっていったようです。(コシヒカリに関する記述は誤っていましたので削除しました)

記事によると、私にとってはおなじみだった農林21号は北陸地方が原産で、今では「幻の米」。かつての主生産地はやはり福島県でした。そして、東日本大震災を契機に、福島県での農林21号の生産が途絶えて、「幻の米」になってしまったと言うことです。

震災の翌年、農林21号の種籾を求めて、加賀市は福島県の生産地を訪れましたが、かつての生産者のもとにも県の試験場にも種籾は残っていなかったそうです。最終的に、つくば市の農業生物資源研究所に残っていた種籾を一握り加賀市へ持ち帰り、種々の検討の結果、小学校の学習用圃場で無農薬の化学肥料不使用で栽培しました。

すると、それを聞きつけた福島県の農家が2016年、地域活性化の起爆剤として、もう一度農林21号を植えたいとして、何とか種籾を分けてもらえないかと、加賀市を訪ねてきたそうです。結局、田植え学習をする小学生たちから、福島県の農家へ苗が渡されたのだそうです。

果たしてまた、福島県で農林21号が復活するかどうか。コシヒカリに比べて収量が少なく、機械化にも適さない、肥料も多投しない農林21号は、うまくいけば、差別化された付加価値の高い、安全安心の高級米としてよみがえるかもしれません。

いったん絶えた種籾を復活させ、地域おこしにつなげた例としては、宮城県大崎市の「鳴子の米プロジェクト」の「ゆきむすび」があります。寒冷地である鳴子地方の特有種で、餅米のように粘りが強いのが特色でしたが、高齢化・後継者不足による耕作放棄などで途絶えてしまいました。

 鳴子の米プロジェクト

それを、生産者と消費者と結びつけながら、耕作放棄された田んぼで生産を復活させ、おにぎりなどの地域の食の振興を通じた地域おこしへつなげていきました。

農業機械化とともに失われていった日本各地の米の固有種のなかには、農林21号のような優れた品種が少なくなかったことと思います。安全安心とともに、他と違う美味しさが価値として求められる時代を迎え、昔ながらの手をかけた固有種の復活の機会が出てきているようにも思います。それは、既存の機械化農業とは一線を画し、むしろ希少性を価値として、その価値のわかる消費者とつなげることで生きてくるのではないでしょうか。

つい最近、農林水産省は主要農作物種子法の廃止法案を国会へ提出し、可決されてしまいました。農林21号やゆきむすびの復活は、種子に関する主権を生産者が自分の手に持ち続ける動きの一つと見なせるかもしれません。

大きな流れからすれば小さな動きではありますが、こうした動きを地道に続けていくことで、諦めない農業を生産者と消費者が一緒に育んでいくことがこれからますます重要になる気がしています。

それにしても、もう一度、あの農林21号で美味しいお寿司を食べたいものです。本当に美味しいんですから。

美しく寂しい長泥の桜

昨日、2人目の来客として私の福島のオフィスを訪問してくれたのは、ジャーナリストの友人でした。この友人が飯舘村へ行くというので、今日は、それに便乗して私も付いて行きました。

行先は、飯舘村長泥。飯舘村の中で唯一、まだ帰還困難区域に指定されたままの地区です。2013年11月27日と2014年3月10日の2回、「NHKニュースウォッチ9」で長泥地区の現状を伝える特集が組まれており、それをご覧になった方もいるかと思います。

ジャーナリストの友人の知人である長泥地区から福島市へ避難されている方と一緒に、長泥地区へ入りました。入ってすぐに、信じられない光景が目の前に広がりました。

誰もいない、静かな空間に、今を盛りと咲き誇る満開の桜でした。それはそれは、本当に見事な桜でした。

花の里・長泥。この街道沿いの桜は、長泥の人々が育て、育んできた大事な桜でした。そして、帰還困難区域となった今も、人々は避難先から集まって、ずっと手入れを続けてきました。その人々の桜に込めた気持ちと献身を思わずにはいられません。

この桜を見ながら、長泥の人々が集まって、みんなで一緒に飯舘牛の焼肉を食べるのが夢だ、と案内してくださったSさんがポツリとつぶやきました。

長泥地区には、そこに住んでいた住民の方のほか、線量を継続的に計測している大学の先生方、報道関係者、中央や県の役人、工事関係者など、許可を得た方々が訪れるといいます。そうした方々への長泥の人々の感情は、思いの外、複雑な様子です。

でも、長泥地区の除染を行うのか、行うならば除染の対象は地区全体なのか部分的なのか、いつ除染を始めるのか、現在に至るまでまだはっきりと決まっていないようです。

帰還困難区域の長泥地区の除染を本格的に開始すると、同じ帰還困難区域でもっと面積の広い浪江町や大熊町の除染も行わなければならなくなるのではないか、予算は確保できるのか、といった懸念があるのかもしれません。

その一方で、長泥地区の住民は除染をしたらここへ戻ってくるのだろうか、という問いもあります。効率性を第一にするなら、住民が戻らないところを除染する意味があるのか、という声も聞こえてきそうです。でも、住民からすれば、元に戻してもらうことが先決で、長泥へ戻るかどうかはそれから考えるというのが筋とも言えます。

飯舘村の大半の地区が住民帰還や復興事業の話へ傾斜していくなかで、帰還困難区域の長泥地区だけが取り残され、置いていかれるような感情を抱くのは当然のことのように思えます。でも、長泥が元どおりになることを、半ば諦めてしまうような気持ちも伺えます。

長泥地区の未来をどのように描くのか。いつまでに除染を行う、このような順番で除染を進める。それが本当時実現できるかどうかは別としても、未来への不確実性を少しでも減らす努力をしていかなければならないでしょう。

長泥の桜は、信じられないくらい美しく、そして寂しく咲いていました。

<急募>主任日本語教師求む

私の友人がインドネシア人向けの主任日本語教師を探しています。

条件は日本国内の日本語学校で3年以上勤務経験あり。国籍問わず。勤務地は大分県佐伯市。待遇はかなり良いようです。勤務開始は2017年5月中。

興味のある方、心当たりのある方は、私までFBメッセージまたはメール( matsui@matsui-glocal.com )にて早めにご連絡ください。

福島の当社への最初の来客はマカッサルの親友

松井グローカル合同会社を立ち上げて、福島のマイ・オフィスへの最初の訪問客が今日4月30日にありました。その客は、私のマカッサル時代からの親友であるリリ・ユリアンティ(Lily Yulianti)さんでした。

彼女は現在、オーストラリアのメルボルンに住んでいますが、もともとはインドネシアのマカッサルの出身で、新聞記者、NHKラジオジャパンのインドネシア語アナウンサーなどを経て、小説家、エッセイスト、ジャーナリストとして活躍しています。

彼女は、若い世代への質の高い執筆に関する指導も続けてきました。2011年からは、インドネシアの著名な映画監督であるリリ・レザ氏と一緒にマカッサルで立ち上げた「ルマタ文化スペース」を母体に、マカッサル国際作家フェスティバル(Makassar International Writers Festival: MIWF)を主宰してきています。

今年のMIWF2017は、マカッサルで5月17〜20日に開催されますが、私もフルで参加する予定です。「ルマタ文化スペース」の設立には私も協力し、MIWFでも5年前からささやかながら1セッションのスポンサーを務めています。

福島に着いて、すぐに詩人の和合亮一さんと面会しました。東日本大震災後の日本現代文学の動向に関心を寄せるリリ・ユリアンティさんが福島へ来ると聞いて、どうしても会って欲しかったのが和合さんでした。幸い、今回の面会は大変有意義なひとときとなり、今後の双方の活動にとっても多くの示唆を得ることができました。

和合さんとの面会の後、福島在住でインドネシア語の先生を務めるレニーさんと弟のチェジェさんと一緒に、昼食の後、私のオフィスと敷地内の古民家を見学してもらいました。ちょうど古民家のオーナーもいらっしゃったので、古民家の内部も丁寧にご案内いただきました。

リリ・ユリアンティさんが「どこかで桜を見たい」ということで、私のオフィスを見学した後、一路、米沢へ向かい、上杉神社で桜を眺めました。上杉神社の桜は、屋台の出ている表側はもうずいぶん散ってしまっていましたが、裏側へ行くと、まだけっこう残っていました。

リリ・ユリアンティさんらと一緒に、気持ちの良い風が桜の花を散らし、花吹雪となって舞い散るさまを、静かにゆっくりと眺めていました。

駆け足ではありましたが、震災後からずっと「福島へ行きたい」「東北へ行きたい」といっていたリリ・ユリアンティさんの夢は、叶うことができました。そして、これから新しい何かが始まる予感をたしかに感じるのでした。

爽やかな季節、皇居東御苑を初めて散歩

法人登記関連でバタバタしていた昨今ですが、今日は久々にオフの1日。気持ちのいい風を感じながら、妻と一緒にツツジの花を求めて散歩に出ました。

行先は、皇居東御苑。ずっと東京に住んでいながら、訪れたのは今回が初めてです。東京メトロ東西線の竹橋駅で降りて、北桔橋門から入り、江戸城跡の天守台へのぼりました。

天守台から見下ろすと、広い緑の広場が見渡せます。

西側の堀沿いにある富士見多聞にも行きました。多聞というのは見張り台の意味ですが、倉庫や他の目的でも使われていたそうです。御休息所前多聞という別名があります。なお、この富士見多聞は4月から新たに公開されたばかりでした(午後4時15分で閉館)。

様々な植物が植えられているだけでなく、いろんな種類の竹の植えられた竹林や、マルチの敷かれた茶園(下写真)もありました。

うっそうと生い茂るレンゲ。

そして、ツツジは本丸公園よりも二の丸公園が見事でした。

東京のど真ん中で、様々な植物を見ながら、静かにゆったりと過ごせる空間でした。サツキや菖蒲はまだこれからで、いつ来ても何かが咲いていることでしょう。

外国人の皆さんにも、気軽にジャパンを味わえる空間なのかもしれません。大手門の前では、たくさんの人々が写真を撮っていました。

明日(4/30)から火曜まで、再び福島です。

法人口座開設と「吾妻の雪うさぎ」

本日、無事に法人銀行口座を開設することができました。

一般に、法人口座開設には2〜3週間かかると言われておりますが、今回は、申請してから1週間で開設できました。

これは、古民家のオーナーがこの銀行支店のお得意さんで、全面的にバックアップしてくれたためだと思います。また、この銀行支店で対応してくれた次長が高校の後輩、といった地方ならではの人的関係もものを言っているのかもしれません。

この銀行支店は、私のオフィスから歩いて2分、この近さは得難いものです。私の中学・高校の友人たちは、すでにこの銀行の理事や支店長になっている者が多数いますが、今回は彼らの助けは求めませんでした。

とにかく、今回の法人口座開設にあたっては、この銀行の支店の皆さんに本当によくしていただいて、深く感謝しています。

オフィスを出て、西のほうを見ると、吾妻連峰がいつもと同じようにそびえ立っています。吾妻連峰は私の中に焼き付けられた風景で、東京で暮らし始めた若い頃、近くに山が見えないことをとても寂しく思ったものでした。

吾妻連峰のなかに、小さな富士山型の吾妻小富士という山があります。磐梯吾妻スカイラインでドライブすると、浄土平というところがあり、そこから吾妻小富士へ徒歩で簡単に登ることができます。

この季節だと、吾妻小富士の山すその残雪の姿がうさぎに似ていることから、地元ではこれを「吾妻の雪うさぎ」と呼んで親しまれています。

この雪うさぎがはっきり見えてくるようになると、それが農作物の種まきを始めるサインとなります。

私の活動も、この吾妻の雪うさぎの頃に始まるのだなあ、とちょっと感慨を覚えました。

先ほど、東京の自宅へ戻りました。明日は東京で用事があるためです。

連休中は東京でゆっくりするつもりだったのですが、4月30日〜5月2日に福島へ戻ることになりました。さっそく、インドネシアから、群馬から、福島へ行くという友人からの連絡があったためです。

読者の皆さんも、ぜひ、福島へどんどんいらしてください。本物の福島をご案内します。

法人番号、12桁か13桁か

地元銀行での法人口座開設の目処が立ち、明日には口座開設ができそうです。

この法人口座開設のプロセスで、いくつか気になることがありました。そのうちの一つは、法人番号についてです。ちょっと細かい話になりますが、ご容赦ください。
4月20日に福島地方法務局で法人登記手続を完了した際、履歴事項全部証明書に記載された会社法人等番号は12桁でした。この後、すぐに税務署、県税事務所、市役所へ設立届を提出しに行ったのですが、「法人番号は13桁ではないのか」と言われました。実際、届出用紙を見ると、番号のマスは13個あり、一つ余ってしまいます。
また、インターネット上で某銀行の法人口座開設に必要な書類のところにも、法人番号通知書というものがあり、そこでの法人番号は13桁と記されていました。
福島地方法務局で出された番号は12桁なのに、法人番号は13桁、というのは一体どういうことなのか、戸惑いを覚えます。
そこで、福島地方法務局へ電話をし、法人番号は12桁なのか13桁なのか、問い合わせました。

回答は以下のようなものでした。

福島地方法務局から出される番号(会社法人等番号)は12桁。この番号は国税庁へ送られ、国税庁で先頭に数字が一つ書き加えられて13桁の法人番号になる、ということでした。
法人番号は国税庁のホームページで会社名を入れれば確認できる、と言われたので、何度も確認したのですが、「該当なし」と表示されてしまいます。
そしてようやく、今日4月26日の午後3時にアクセスすると、松井グローカル合同会社が登録され、先頭に9が付いて後ろは福島地方法務局から出されたのと同じ、という13桁の法人番号が確認できました。
国税庁の13桁の法人番号は、法人版のマイナンバーのようなものです。これで晴れて、正式に法人として国税庁に登録され、法人税をしっかり納めることになります。
今回の教訓としては、地方法務局から会社法人等番号が国税庁へ送られて法人番号となるまでに約1週間のタイムラグがあるので、この間に手続きを進めてもあまり意味はなかった、と思われます。国税庁の13桁の法人番号が出てから、税務署、県税事務所、市役所、銀行と動いたほうがよかったようです。
税務署等への届出は設立後1ヶ月以内とされ、銀行の法人口座開設には2週間程度かかる、とされるのは、上記を含んだ日程だと理解しました。
なお、銀行の法人口座開設にあたって、国税庁の13桁の法人番号が必要となるのは、定期預金や海外送金を申し込むときであり、普通口座の開設のみならば、とくに必要はないようでした(ただし履歴事項全部証明書には地方法務局から出された会社法人等番号は記載されています)。
地方法務局から出された番号がそのまま国税庁の法人番号になるわけではなく、しかも12桁から13桁になるのに1週間程度時間がかかる、ということを今回知りました。税務署などへの法人設立届の提出や銀行法人口座開設は、国税庁の法人番号が出てから動いたほうが良いかもしれません。

福島の本社オフィス環境が整いました

昨日、義妹に手伝ってもらって、福島のオフィスで使う備品を買い出しし、今日、ようやくオフィス環境が整いました。

松井グローカル合同会社の本社の所在地は、福島市泉字清水内3番地です。ここには、明治6年に建てられた大きな古民家があります。しみずの里、という名前です。

(2015年1月4日撮影)

(2016年6月22日撮影)
この古民家の隣に古民家のオーナーの家がありますが、そのオーナーの家の傍に独立した小さなプレハブの小屋(下の写真の右側の建物)があり、そこを、松井グローカル合同会社の本社オフィスとして使わせてもらうことになりました。

プレハブ小屋にある既存の机や棚などを使わせていただけるほか、今日は、昨日買い出した椅子やら電気スタンドやらを搬入しました。部屋の中は、下のような感じになりました。
何となく、ちょっとオフィスっぽくなったような気がします。でも、周りにある木々や草花の緑に囲まれ、窓を開けると、風が三方から出入りして、今の季節ということもあって、気持ちがよいです。散り始めた桜の花びらが風に乗って部屋の中へ入ってくるのは、なかなか趣きがあります。夏は暑く、冬は寒いかもしれませんが。
当初、古民家に隣接した屋敷蔵をオフィスとして使わせてもらう計画だったのですが、まだそこが使える状態になっていないのと、母屋から独立していたほうが気楽ではないかというオーナーの配慮もあって、とりあえずこのような形で整えることになりました。
来客がある場合には、母屋の古民家でゆっくりと応対してもよいし、作業する場合には、このオフィスで一緒に作業してもよいかなと思います。
この古民家をどのように活用していくか、オーナーや関係者と一緒に考え、活用していくことも、ここに本社所在地を定めた大事な理由です。個人的に色々なアイディアを考えています。読者の皆さんも、機会があれば是非、この古民家と私のオフィスを訪ねてください。福島駅から飯坂電車に乗り、泉駅から徒歩5分です。
とはいえ、私の活動は、この福島を主拠点としつつ、東京、インドネシア、日本・世界のローカルを動き回ることになると思います。ですから、このオフィスにずーっと留まることにはならず、基本的に、モバイルで動いていくことになるでしょう。

福島銘菓「さぼうる」の復活?

福島駅西口のコンコースには、地元のお菓子を売るコーナーがあります。そこに「松月堂」という名前のお菓子屋が出ていたので、思わず立ち止まりました。

松月堂ということで探したのは「さぼうる」。この「さぼうる」は、東京のナボナに似たお菓子で、ふんわりしたカステラ生地の間に様々な果物のジャム餡が挟んであるお菓子です。そうしたら、ありました!

なぜ「さぼうる」を探したかというと、実はこれは、私が子どもの頃には有名な福島銘菓だったからです。そして、しばらくずっと姿を消していたお菓子だったからです。

私が子どもの頃、福島市にはいろいろなお菓子屋がありました。当然、いろいろな地元のお菓子がありました。そんなお菓子屋の一つが「松月堂高木」です。

松月堂高木の本店は昔、福島市本町、ちょうど今の中国料理「石林」の入っているビルの隣あたり、日本蕎麦の老舗の喜多屋の並びにありました。和菓子と洋菓子を売っていて、商店街には、松月堂高木のCMソング(「ケーキの松月堂たーかーぎー」というサビの部分は今も覚えています)が流れていました。

その松月堂高木の看板となるお菓子が「さぼうる」だったのです。その時から、餡には果樹王国・福島の自慢の果物のジャム餡を使っていて、子どもの頃はよく食べたものでした。

時が経ち、福島市の中心街が寂しくなっていき、いつの間にか、本町の松月堂高木の店は消えてしまいました。有名な日本蕎麦屋だった喜多屋も5年ぐらい前になくなりました。櫛の歯がボロボロと欠けていくように、福島市中心街の老舗が姿を消していきました。

その「さぼうる」を今回見つけたのです。製造販売しているのは、「松月堂高木」ではなく「松月堂」。福島市の西部に本社があり、菓子だけでなく、食肉やレストランなど、食に関する幅広い展開をしている企業です。おそらく、何らかの形で「松月堂高木」と「松月堂」はつながっているのでしょうが、その詳細はまだ分かりません。

実家に帰って、さぼうるを食べてみました。懐かしい味がしましたが、ずいぶん前に食べたせいか、ちょっと味が変わったようにも感じました。中のジャム餡はもっと多かったような気がします。

福島特産の果物を生かしたお菓子として、さぼうるはもっと有名になっていいお菓子だと思います。

よろしくね、仙台

今日は、私の勝手に師匠Nさんと友人Sさんにお会いするため、福島から仙台へ日帰りで行ってきました。そして、面会の前に、せっかくなので、少し仙台の街中を歩きました。

福島から仙台までは、おおよそ30分おきに高速バスが走っていて、片道1100円、JRの普通運賃と同額ですが、往復だと割引が入って1900円となります。所要時間は1時間余で、JRの普通電車よりもやや短いです。便数の多さと安さで、高速バスのほうがずっと便利に見えます。

往復のチケット(回数券)は上記のような2枚綴りで、福島駅東口の高速バス乗り場で販売しています。

仙台まで福島から往復1900円ならば、福島から仙台へ気軽に買い物に行けますよね。福島市内の商店街が廃れていく原因の一つのように思えます。

実は山形に行った時、宮城県出身の大学生は山形市内に下宿せず、毎日、高速バスで通うのだと聞きました。地理的に遠い福島県出身の大学生は山形市内に下宿するのですが。

今日の仙台は、街中のあちこちでイベントが行われていました。

一番町アーケードでは、みやぎ総文2017と南東北総体2017という、高校生の全国イベント開催100日前のイベントが行われていました。仙台二華高校(宮城二女高の後継、今は男女共学・中高一貫らしい)の合唱は、とっても楽しそうでした。

アーケードでは、高校生が道行く人に「創造の短冊」への記入を勧めていました。七夕のときに短冊を飾るのだそうです。

定禅寺通りの中央分離帯通路では、東北コーヒーフェスティバルと題して、様々なコーヒースタンドが自慢のコーヒーを通行客に振舞っていました。

勾当台公園では、東北ワインフェスというのをやっていました。

錦町公園では、アースデイの催し物が行われていました。

仙台市内の桜(ソメイヨシノ)はもう終わっていて、花の小さい八重桜が少し咲いていました。

街を歩いていても、あまり人とは会わなかったのですが、一番町などのアーケードと定禅寺通り中央分離帯通路は結構すごい人出で、そのコントラストを強く感じました。とくに、アーケードではたくさんの若者たちが歩いていたのには驚きました。

晴れてはいるものの、風の冷たい一日でしたが、楽しく歩き回ることができました。明らかに、ちょっと垢抜けた雰囲気があり、趣向を凝らしたカフェなどがいろいろ見られました。きっと、福島市から遊びに来ると、仙台の街を新鮮に感じるだろうなと思いました。

東北における仙台の役割、仙台と山形や福島の関係、仙台に集まる若者たちのエネルギーをどう活用するか、など、勝手に色々なことを考えていきそうな気配です。

でも、個人的には、もうちょっと仙台にも馴染みたいと思いました。近々、きっとまた来ることでしょう。よろしくね、仙台。

少しずつ進めている活動環境整備

福島市に松井グローカル合同会社を設立して、少しずつ、身の回りの環境整備を進めています。

昨日(4/22)に地元銀行の支店に法人口座開設を申請したのですが、最近は、法人口座を使った詐欺などの犯罪が横行しているため、すんなりとは認めてもらえません。必要な書類は整っているのですが、銀行曰く、まずは本社住所で事業が行われているという実態を確認する必要があるということで、申請の可否は持ち越しとなりました。

というわけで、来週、担当者が本社住所を尋ねてくるので、来週早々にも、オフィススペースを整えることになりました。

オフィススペースは、当初、今回お世話になる古民家の中の大家の会社の事務所の一角、というか机を借りて始める予定だったのですが、大家からの提案で、大家の住宅(古民家とは別棟)の隣にあるプレハブ小屋を使わせてもらえることになり、文字通り、1軒のオフィスを構える形になりそうです。法人口座開設にこれはプラス!

来週はオフィススペースの整備に充てるとして、この土日は、寝泊まりする実家の居住スペースの整備に努めました。勤務先が休みだった弟に車を出してもらい、ハンガーラックや机や椅子や、プリンターなどを購入することができました。

実家では、以前、客間として使っていた部屋を私の部屋として使っていいことになり、上の写真のように、シンプルにレイアウトしてみました。

基本的に、福島の実家は寝泊まりする場所なので、いろいろ物を置く必要はないのですが、急に処理しなければならない作業(例えば、書類をスキャンしてPDFにして送る、など)が最低限できる状態にはしておきたいと思い、多機能プリンターなどを揃えました。

母にハンガーがあるかどうか聞いたら、私が子どもの頃に使っていたカラフルなハンガーがまだ捨てられずにたくさん残っているというので、使わせてもらうことにしました。こういうのは、今ではあまり見かけないような気がします。

こうして、弟の協力のおかげで、実家で滞在する部屋の様子が整いました。

福島へ来るのに先立って、どこでもインターネットが使える環境を作るため、改めてインターネット・ルーターを用意しました。ちょうど、古いWiMAXがあったので、新しいWiMAX 2+に機種変更して、これを使うことにしました。

新しいルーターのW04は、WiMAX 2+に加えて、電波の悪いところではau LTEも使える(但し、最大7GBで1ヶ月に約1000円追加で支払う)ので、電池の持ちさえ注意すれば、けっこう快適に使えそうです。

福島市に会社を設立しても、ずっと福島から出ないわけではなく、日本中、あるいはインドネシアをはじめとする世界中のローカルを相手に、モバイルで活動していくつもりです。とりあえず、日本中、いつでもどこでもインターネットにアクセスできる環境で仕事をしていければと思います。

ママチャリでまわる福島市での法人登記関連手続

今日は午前中、1時間遅れの東北新幹線で東京の自宅から福島に着き、4月11日に行なった松井グローカル合同会社の法人登記申請の続きを進めました。

とりあえず、福島駅構内の蕎麦屋でソースカツ丼セットの早めの昼食。

その後、いったん、実家に寄って、コーヒーを飲んで一服した後、実家のママチャリで出発です。

まず向かったのは、福島地方法務局。昨日の法務局からの電話で指摘された部分を修正した書類を持参し、4月11日にすでに提出した申請書類の一部と差し替えました。

15分ぐらい待った後、申請書類にOKが出て、事前に申請していた(法人の)印鑑カードを受け取りました。

そのまま、別室へ移り、登記事項証明書(履歴事項全部証明書)と印鑑証明書を多めに発行してもらいました。申請の前に、必要額の印紙を買って、申請書に貼り付けて提出します。10分もかからずに、登記事項証明書(履歴事項全部証明書)と印鑑証明書が発行されました。

これで、晴れて正式に、松井グローカル合同会社の法人登記が完了しました。設立日は、法人登記登録を申請した2017年4月11日となりました。

福島地方法務局で発行された証明書類を持って、関係機関への届出に移ります。

ママチャリに乗って、福島税務署へ出向きました。福島税務署では、法人設立届出書、青色申告の申請承認書、給与支払事務所等の開設届出書などの書類を提出しました。なお、この4月から、税務署への届出には法務局で発行された登記事項証明書(履歴事項全部証明書)の提出は必要なくなったとのことです。ただ、今回は念のためということで、コピーを取られました。

福島税務署の次は、東北福島年金事務所へ行きました。法人化すると、国民年金から厚生年金へ、国民健康保険から健康保険へ切り替わるのですが、そのための手続をするのです。ものの本には「設立後5日以内に」と書かれていたので、焦って行ったのですが・・・。

「役員報酬の支払は6月から」というと、報酬支払がない間は厚生年金料や健康保険料を徴収することはできないので、6月になってから改めて手続に来て欲しい、という回答でした。

役員報酬の額は設立後3カ月以内に決定して税務署へ報告する必要があるので、現段階ではまだ決めていなかったのです。今回の税務署への届出書に支払開始日を記入する必要があったので、6月30日と記載したのです。

年金事務所からは、法人設立した際の必要書類や説明書類の一式が入った「新規適用届」という1セットをいただいたので、じっくり読みながら、6月までに検討することにし、今回は手続をしませんでした。

年金事務所の後は、すぐそばにある福島市役所へ。市民税課で法人設立届を提出しました。

その後は、福島市役所から福島県庁へ、ママチャリで20分ぐらいかけて行きました。福島県庁内の県税事務所を目指したのですが、ここでは、県北地方振興局のなかの県税部へ出向いて、法人設立届を提出しました。

なお、これらの法人設立届出の捺印は、法人代表社員の印(丸印)となります。

というわけで、今日の午後だけで、法人登記後に行なう関係機関への届出は、つつがなく終えることができました。

インドネシアで経験したこの種の手続に費やす時間と労力に比べると、今回の手続がいかに楽で効率的か、行政側からの説明が懇切丁寧に的を得たものか、ということを実感します。

そして、福島市の旧市街は、ママチャリで簡単にまわることができるぐらい、コンパクトなのだなと改めて思いました。風はやや冷たいものの、穏やかな春の日和で、ママチャリで動くのがとても気持ちのいい1日でした。

日本人のインドネシア情報、インドネシア人の日本情報

今日、インドネシア人の友人と会って、いろいろ話をしながら、改めて思ったことがあります。それは、日本人に広まっているインドネシア情報、インドネシア人に広まっている日本情報。それらの情報は誰から伝わっているのか、ということです。

日本人に広まっているインドネシア情報の多くは日本語によるもので、その情報の送り手は日本人であることが多いのではないか。また、インドネシア人に広まっている日本情報の送り手はインドネシア人であることが多いのではないか。そんなことを思いました。

別の言い方をすると、インドネシア人から日本人へ伝えられるインドネシア情報や、日本人からインドネシア人へ伝えられる日本情報は、実は少ないのではないか、と思うのです。

私も仕事柄、これまでに何度も日本人に対してインドネシアに関する情報提供を行ってきました。でもそれは、私の知っているインドネシア情報であって、外国人である私がインドネシアの人々よりもインドネシアのことを深く知っているなどということは、絶対にありえません。それに若干の引け目を感じながら、インドネシアに関する情報提供を行ってきたというのが正直なところです。

逆に、インドネシア人の持つ日本情報に接しながら、「ちょっと違うのではないだろうか」とか「解釈が間違っている」とか「大事なのはそこじゃないんだよな」とか思ったりすることもしばしばです。

きっと、同じことを、私を含む日本人の発するインドネシア情報に対して、インドネシアの人々が感じているに違いありません。

言葉の壁があるにせよ、インドネシア人から日本人へインドネシア情報が伝わる、日本人からインドネシア人へ日本情報が伝わる、という状況を作っていかないと、本当の意味でのインドネシア理解、日本理解にはつながらないように感じます。

同時に、日本人の発するインドネシア情報をインドネシア人に評価してもらう、インドネシア人の発する日本情報を日本人に評価してもらう、ということも必要になるはずです。

そんなことを思いながら、日本人とインドネシア人とが一緒になって、インドネシア人の発信するインドネシア情報が日本語に翻訳されて日本人に伝わり、日本人の発信する日本情報がインドネシア語に翻訳されてインドネシア人に伝わる、そんなメディア媒体を作ってみたいと考えるようになりました。

日本人だけでなくインドネシア人も一緒になって発信するインドネシア情報媒体(日本語)、及び、インドネシア人だけでなく日本人も一緒になって発信する日本情報媒体(インドネシア語)、これら2媒体を何らかの形で初めてみたいと考えています。

まだ構想段階ですが、この趣旨に賛同し、仲間になってもいいと思われる方は、是非、ご連絡ください。

インドネシア語の堪能な日本人、日本語の堪能なインドネシア人、あるいはそれらのバイリンガルの方、日本人とインドネシア人とのダブルの方、こういった方はもちろん大歓迎です。

でもそれ以上に、たとえ言葉ができなくとも、インドネシアの人々に私の知っている日本を伝えたい日本の方とか、日本の人々に自分の知っているインドネシアをもっと知ってもらいたいインドネシアの方とか、あるいは、インドネシアの人々が日本のことを本当はどう思っているのか知りたい日本の方とか、日本の人々がインドネシアのことを本当はどう思っているのか理解したいインドネシアの方とか、そういう方々も大歓迎です。

趣旨に賛同される仲間を大募集します。よろしくお願いします。

なお、近日中に、このブログと同様の呼びかけを、インドネシア語でインドネシアの友人たちにも呼びかける予定です。

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