ウソがまことか、まことがウソか

最近の様々な情報を見ていると、本当に、「ウソがまことか、まことがウソか」という気分になります。

日本でもインドネシアでもアメリカでもどこでも、誰かが何らかの目的や意図をもって、端からは生の情報のように見えながら、実は加工された情報が流されるようになっています。情報操作のための手段として、メディアの情報が流れるようになってきました。

特に、映像情報では、映像を傍目にはわからないように加工して、誰かを貶めるための手段として使われています。また、貶めたい人の過去を目を皿のようにして調べて、ちょっとでも貶められそうなネタがあれば、それをことさらに強調する者もいます。

そうした情報が正しくないことが証明されたとしても、そうした情報を流した者がそれを認めることはなかなかありません。

なぜなら、そうした情報が量的に拡大し、たくさんの人々に知られるようになれば、そのウソの情報が力を持ち、権力と結びついたりすると、それが本当の情報として認知されてしまったりするからです。

そうなると、地道に事実を積み上げて客観的な情報を提供しようと努める真摯な人々が、反動的だとか権力迎合だとか体制的だとか、いわれのないレッテルが貼られ、その声がメディアを通じて大きくなればなるほど、真摯な人々を誰も守ることができなくなってしまいます。

最近、とみに、こうした「ウソがまことか、まことがウソか」という状況が強まっていて、その一端をSNSがになっていることは否定できないような気がします。

こうした情報に振り回されて、自分が自分であることを見失ってしまう、いや、失ってしまっていることに気づかないような場面が出てくる恐れがあります。

自分を見失わないためには、他人が言うことではなく、自分の五感をまず信じることが大事でしょう。本を読み、旅をし、様々な人と交わることで、借り物ではない自分自身の思想を作っていく作業を続けていくことが肝要かなと思います。

そのためにも、自分の生活の場である地元、ローカルの現実に自分なりの根を張り、五感で得た現実の事実から思想の根を生やし始めることだと思います。そして、飛び交うメディアなどの情報を、自分の思想に基づいて取捨選択し、白か黒かではない、情報に応じた是々非々の態度をとることが求められるような気がします。

さらに、白か黒かをはっきりさせるような議論はレッテル貼りの亜流であり、そうした動きには関わらないこと、レッテル貼りの対象になるようなことがあってもひるまないこと、が大事になるかもしれません。

ウソがまことでまことがウソ、という状況を笑って済ませられる時代は、もう終わりつつあるのかもしれません。様々な疑問をしっかり持ち、常に批判的に情報に接する態度を養いたいものです。

30代のご夫婦の遺志をどう継いでいけるか

昨日のNHKスペシャルでは、村の再生のために頑張っていた30代のご夫婦が自ら命を絶つという選択をしたという話が、まだ心に刺さったままの状態です。

彼らのところへは、当初、震災ボランティアがたくさんやってきて、一緒に汗を流し、米づくりを始めたという話でした。しかし、時が経つにつれて、ボランティアは少なくなり、ほとんど来ないような状態になったということでした。

その話を見ながら、よそ者が寄り添うというのはどういうことなのか、どこまで寄り添えばよいのか、私自身も関わることの多い外国援助の現場のことと重ね合わせて考えていました。

30代のご夫婦にとって、ボランティアの方々が来てくださるのは、本当に嬉しかったのだと思います。と同時に、いつまでもボランティアの方々が来続けるわけではないこともわかっていたと思います。むしろ、いつまでもボランティアに来てもらっている間はまだ本当の復興ではない、と思っていたかもしれません。

でも、徐々にボランティアの来訪数が減るにつれて、自分たちの支持者が減っていくような、寂しさも感じていたことでしょう。でも、きっと、それでも頑張らなければ、と頑張ったのだと思います。

ボランティアで来ていた方の中には、昨日の放送をご覧になった方もいたことでしょう。そして、ずっと30代のご夫婦のところへ行き続けなかったご自分を責めていらっしゃる方もいるかもしれません。自分がもしそのボランティアだったら、きっとそうするだろうなと思います。

ボランティアなんだから気にする必要はない、という考え方もあるでしょう。でも、そうやって本当に割り切れる人はいないと思います。

かわいそうだから行ってあげるボランティアから、好きで面白いから行くボランティアへの転換が進まなかった、ということでしょうか。

でも、亡くなられた30代のご夫婦にとって、一番辛かったのは、自分たちの同世代の仲間で、一緒に村へ戻って、ともに農業で再生を果たそうとする仲間が、ほとんどいなかった、増えなかったということではないかという気がします。

かつて村で農業を生業としていた人々が村へ戻らない、戻れない中で、よそ者のボランティアに定住して一緒に農業をするように促すこと、お願いすることは現実的ではなかった、のでしょう。

日本中、一部を除いて、ほとんどの山村で人口が減少し、若者の多くが都会へ行ってしまっています。一部では、都会の若者が山村へ移住し、新しい生き方を始めているケースもあります。

それに加えて、原発事故による風評の消えないところへ、わざわざ行く、移住するというのは、とても勇気のあることです。そんな動きが少しでも現れれば、30代のご夫婦の遺志も生かされるのではないか。希望はほんの少しでも、そんな動きが起こるきっかけを作ることに自分も微力ながら関わっていきたい。そんな風に思います。

そんななか、この30代のご夫婦が生きてきた川内村に、昨年11月、タイ最大の珈琲店チェーンである「カフェ・アマゾン」の日本1号店が開店したというニュースを聞きました。このことが、これから川内村の風評イメージを反転させ、どんな変化を創り出していくのか、興味を惹かれます。

全村避難となった飯舘村には、椏久里(あぐり)というスペシャリティ・コーヒーの名店がありましたが、震災後に閉店を余儀なくされ、福島市で開店、再出発しました。

福島でのコーヒーをめぐる動きが、新しい福島を創り出すストーリーの一つになれば、と祈っています。

よそ者の自分が軽々しく言うべきではないとは思いますが、コーヒーがきっかけとなって、小さな希望が生まれ、それが少しずつ膨らんでいくことを願いつつ、それを膨らませる一人に自分もなれれば、と思います。

それでも生きて欲しいー原発事故から5年の福島を観て

9日夜、NHKスペシャル「それでも、生きようとしたー原発事故から5年・福島からの報告」を観ました。重く、つらく、簡単に言葉を紡げません。それでも、少しは書かなければならない、という気がします。

人間は、何か自分の打ち込めるものがあったり、将来こうしたいという希望を持ち続けたり、誰かのためになっていると思えたり、そんな感情を生きるエンジンにしているように思います。それを生きがいと言ってもいいかもしれません。

その生きがいが、たとえば東電原発事故のような、何らかの理由で断たれてしまうと、その原因を作った対象をいかに憎み、恨み、糾弾し、裁判に訴えようとも、それ自体が生きがいになっているうちはいいのですが、たとえ裁判に勝ったとしても、その後の生きるエンジンにはなれないかもしれません。生きがい自体が喪失し、それに変わる短期的な生きがいも終焉し、新たな生きがいが生まれていないからです。

それに追い打ちをかけるような、相手のことを気にかけない誹謗、中傷。誹謗、中傷を行っている本人には、それで相手が傷つくということを理解できないばかりか、そう言い続けることが彼らの生きがいになっているかのような、そんな状況も加わります。

自分の土地のほぼ近くにおびただしい数の除染廃棄物のプレコンバッグがあるのを見たら、故郷へ戻る夢が断たれたと絶望的な気持ちになるのは理解できます。その土地はただの土地ではなく、かつて、農産物を育てただけでなく、その人にとって様々な思い出の積み重なった土地に違いないからです。

村に戻って、自分たちが頑張って農業で村を元気に復興させたいと、本当に頑張っていた30代のご夫婦。放送されたことだけが原因なのかどうかは分かりませんが、米価低落や外からの関心の低下、同じ若い世代が戻ってこないという現実などを前に、自分たちの頑張りって一体何だったのだろうか、という疑問が深く湧いてきてしまったと察します。

こんな状態で、自分は何のために生きているのだろうか、という気持ちが現れる。一人で頑張っていればいるほど、自分が惨めになる。意味があるんだろうか、生きていたって。面白いことなんか何もない。分かってくれる人なんてこの世の中にはいない。そんな気持ちが湧いていたのではないかと思うのです。

人様の迷惑にならない。これは、亡き父から私が生前よく聞かされました。NPO「なごみ」の方が訪問しても、構わないでほしい、もう来ないでほしい、と言ったお年寄りの気持ちが何となくわかるような気がします。自分が生きていることで、人様に迷惑をかけたくない、と思っているのではないかと思うのです。

長生きしてごめんね、と心の中で思っているお年寄りは少なくないのではないか。最近、そんなことをよく思います。

そして、年金や介護保険の世代間負担の格差が拡大するにつれ、なんとはなしに、そうしたお年寄りを内心では迷惑がる風潮も感じられる気がします。

福島の自殺が増えているという問題もそうですが、日本全国どこでも、自殺の問題は、こうした気持ちや状況がその背景に横たわっていると感じます。

自分が生きていることになんの意味があるのだろうか、という人たちが欲しいものは、生きていることに意味がこんなにある、ということをなんらかの形で示してあげること、それ以外にないと思います。

人様に迷惑をかけられない、といって面会を拒否する方には、いかにお節介を焼いたり、迷惑をかけてもらいたいと思っているかを他人が態度で示すことから始めるしかないでしょう。そして、その方の話を、一切否定せずに、ひたすら聞く。ずっとずっと聞く。一人でも心を開く相手がいるだけで、その他人に話を聞いてもらうことが生きがいのようになってくる、というのでもよいのではないでしょうか。

7日のNHKスペシャルの「ばっちゃん」も、そうやって若者たちに居場所を何十年も提供している方の話でした。

人の話を否定せずにじっくり聞いてあげる。そんなことを、自分の身の回りの人から始めてみてはどうでしょうか。

ツイッターでこの番組が話題になっていたのですが、それは福島の話として特別視したり、悪いのは東電・政府だ、だから原発再稼働反対と言ったり、どことなく、遠い他人の可哀想な話として受け止めているような印象を持ちました。

でも、状況背景や環境は違っても、自殺するのは、自分がこの世の中で必要のない、意味のない人間だと思うのが原因のような気がします。だとするならば、自分が苦しいときに話を聞いてくれる人間が存在し、また他人が苦しいときに自分が話を聞いてあげる存在になることから始めるしかないのではないかと思うのです。

福島の自殺者が増えているという現状は、もちろん重大です。たとえ他の地域よりも件数や率が低いからといって、「大したことはない」と軽視できるものではありません。自殺する人にとって、地域ごとに多いか少ないかは、関係ないからです。

自分の身の回りから話を聞く、聞いてもらう関係を作り始めること。それがたとえ昔のようなコミュニティの復活につながらなかったとしても、今よりはもう少し生きていてよかったと思えるような世の中へ近づいていくのではないかと思います。

色々と思うことはあるのですが、今はこの程度のことしか書けません。ご容赦のほど。

右ならえの自己アピール

昨日のブログを私のFacebookで紹介したところ、友人たちが色々なコメントを寄せてくれました。そのなかで、興味深かったのは、自己アピールについてのコメントでした。

マレーシア在住の友人から、日本の外へ出ると自己アピールの強い人ばかりで、しかもそのやり方がうまい、という話が寄せられました。たしかにその通りで、私が長年付き合っているインドネシアでも、同じように感じます。

それはアジアに限ったことではなく、欧米などでも同じで、「イエス・ノーをはっきりしなさい」とか、「自分の意見をはっきり言いなさい」といったアドバイスをよく聞いたものでした。そうしないと世界で通用する人間にはなれないような気分になるものです。

日本は、組織でうまく渡っていくには、その場その場の雰囲気(今の言葉でいえば空気)をうまく読んで、イエスともノーとも取れるような対応で、生き残っていく、そんな処世術がベースになっているような気がします。いったん組織に入ってしまえば、オレがオレがの自己アピールはむしろマイナス、とだんだんに学習するようです。

もしそうだとすると、大学生などの就活での自己アピールとは一体何なのでしょうか。学生の就活指導を行っている別の友人は、私のFacebookに「就活する多くの学生が自己PRに戸惑っている」とコメントを寄せられました。

極言すれば、企業側にいい印象を持ってもらって採用してもらうための自己PR、自己アピールなのでしょう。私は知りませんが、おそらく、自己アピールのハウツーを教える講座や教材もあるのかもしれません。それも仕方ない面があるとはいえ、手段としての自己アピールはちょっとつらいなあと感じます。

自己PRや自己アピールを考えることは、自分自身は何者かを振り返って知るためのよい機会とも考えられます。でも、そこから導かれる自分像が果たして企業側に受け入れてもらえるようなものなのか、企業側の希望やニーズに沿った自分像になっているかどうか、そういったことが気になって仕方ないのではないかと察します。

そうすると、他人がどんな自己PRをしてその企業に就職したかが気になり、採用してもらうためには同じような自己PRや自己アピールをしたほうがよい、という判断になりかねません。何だか、自己PRや自己アピールも受験テクニックのようになってしまうようです。

本当の自分はこうだけれども、それとは別に、就職のための自己アピール用の自分を作ってしまえ、と割り切ってしまうのも一つのやり方かもしれません。でも、それができる人は、おそらく自己PRに戸惑うことはないでしょう。

多くの学生は、就活をする大勢の同類が自己PR、自己アピールするという状況のなかで、自分だけ、それをしないで済ますことはできない、という感覚に支配されているのではないでしょうか。彼らのは、みんながそうだから自分もするという、右ならえの自己PR、自己アピールと言えなくもないでしょう。

それは、私が日本の外で感じたインドネシアなどでの自己アピールとはずいぶん違うように思います。

自分はどうしても将来これをやりたい、これを自分がやることにはこんな意味がある、だから組織もこのように変わらなければならない、自分はそれを実現するためにこの組織に加わりたいんだ・・・。日本の外で感じた自己アピールには、そんな要素がたくさん含まれていたような気がします(印象なので人によって感じ方は異なると思いますが)。

右ならえの自己アピールは、こうした自己アピールとは違うものだと思うのです。

自己アピールは、アピールしておしまい、というものではないはずです。本来、その自己アピールがマルかバツか、白か黒か、決めるものではなく、そこから何かが始まるもののはずです。では、何が始まるのか。

対話です。対話というコミュニケーションが始まるのです。

他者との対話。自己との対話。

物事の結論は、マークシートのようにすぐに決まりません。対話のプロセスの中で、様々な思いもよらないモノやコトに気づき、それを新たに含めながら論理を組み直し、もう一度深く考え、新しい考えを生み出し、対話し、様々な思いもよらないモノやコトに気づき、というプロセスを何度も経ながら、結論らしきものが遠くにおぼろげに見えてくる、というものではないでしょうか。

対話のためには、自分が何者かを深く考える時間と経験が必要でしょう。読書や旅、そこでの人との出会いが、自分が何者かを考える機会となるはずです。本来、比較的時間に恵まれた大学時代に、そういったことをしっかりしておく必要があるのだと思います。

就活のための右ならえではない、しっかり対話のできる自分を作るための機会として、自己PR、自己アピールを考えることが大切なのではないかなと思います。

それにしても、今の若者にとって、素顔の自分をさらけ出してもいい場所、自分の意見や気持ちをそのまま吐き出してもかまわない安心できる場所、自分という存在をその考え方とともに認めてくれる場所、そんな場所が本当に必要なのではないかという気がします。

それが大学やアルバイト先にあるのか、いや家庭にあるのか、状況は個々人によって様々だと思いますが、右ならえの自己アピールに悩む学生たちが安心して悩み、そんな彼らを認めてくれる場所を作るのは、作らなければならないのは、我々、シニア世代なのだと思います。なぜなら、もしかすると、我々が彼らをそういう状態に追いやったのかもしれない、という気さえするからです。

「日本はすごい」の裏側

「日本はすごい」という言葉をよく耳にします。そして、その言葉を聞いて、日本は本当にすごいと素直に感動する人もいれば、なんだかそういう言葉を胡散臭く感じる人もいることでしょう。

私は後者です。大体において、日本人が自分で「日本はすごい」という、あるいは外国人に「日本はすごい」と言わせて、日本人が喜ぶのはいいのですが、で、それで? と思ってしまうのです。

なんだか、「ねえねえ、私はすごいのよ」と自分で自分を慰めているような気になってくるのです。

そういえば、昔、ある時点から、就職のときの面接試験が変わったという印象があります。

私が面接を受けるときに先輩たちから言われたのは、「自分が自分が・・・」と自己中心的な態度で前面に出るな、分からないことは恥ずかしがらず正直に「分からない」と言え、聞かれたことにだけ答えなさい、というようなものでした。新入社員の自己紹介は、奥ゆかしい、自分は未熟者である、といった内容が多かったと記憶しています。

ところが、ある時期からそれが変わりました。面接では、「自分はこんなことができます」「自分はこんな素晴らしい人間です」と自己アピールすることが大事だという風潮になり、みんなそうし始めました。それは今も続いています。新入社員の自己紹介も、いかに自分は優れた人間であるか、いかに組織に貢献できる能力のある人間であるか、という内容へ変わっていました。

今や、採用する側も、自分が自己アピールして企業や組織に入った人間なので、そうした自己アピールは自明のこととなっているかのようです。

奥ゆかしい時代に社会人になった私から見ると、自己アピールで自分が優れた人間であると堂々と言える人々は、なんだか本当に優れた人間で、私の時代の人間の能力をはるかに超えて、素晴らしい世の中を作っていくのだろうな、と思ってしまうほどでした。

でも、現実を見ると、そんな「すごい」人たちを採用した企業や組織が厳しい状況に置かれていて、そこで働く「すごい」人たちの能力を発揮させていないように感じるのです。

何となくフツーであることが蔑まれるような、そんな雰囲気の中で、もしかしたら、自分自身を「すごい」と形容した人々が、実際の自分とのギャップに悩み、その形容どおりに演じることに疲れてしまっているのかも知れません。

そして、そういう人は、自分を「すごい」と思ってくれる人、そう言ってくれる人をどこかで探し続けているのでしょう。そう思ってくれる人、そう言ってくれる人がいてはじめて、自分の存在に安心できるのではないでしょうか。

今の日本は、もしかしたらそんな状況なのかなと思います。日本は「すごい」と誰かに言って欲しい、共感して欲しい。そして、自分は捨てたものではないと日本は自分で思いたいのではないでしょうか。

私は、本当にすごい人は自分を「すごい」などとは言わないと思っています。誰かに評価してもらいたいとも思っていないし、誰かと比べて自分のほうが優れているという思考にもならないのだと思います。それは、自分にとってはごくフツーのことであり、無理して背伸びをしたり、役職や立場に合わせて演じたりする必要もないのです。

だから、「日本はすごい」の裏側にあるのは、日本の自信のなさなのではないかと思うのです。自分に自信がないから、自分より弱そうな誰かをいじめたり、他人を侮蔑したりして、自分が彼らよりも上であると思い込みたいのです。

そんなことにかかわらずに、我々はフツーに生きて、自分を大きく見せて無理やり演じることもなく、楽しく過ごしていけばいいのではないか。そんなふうに思います。

本当にすごいならば、それは自分で「すごい」と言わなくとも、他人から「すごい」と言われなくとも、すごいのではないでしょうか。

地域づくりの勉強をしていて、私の勝手に師匠の一人から学んだことがあります。世界で一番すごい料理人は誰か、と。それは、家族のために毎日食事を作ってくれる母親や父親です。

それは、実にフツーのことです。1日3食、1年365日、毎年1095回、家族の健康を思いながら食事を作り続ける彼らこそ、世界で一番すごい料理人だと。

フツーであることが実はすごいことである、当たり前の中にあるすごさ、というのを私は学びました。

どうせなら、「日本はすごい」などという必要のない日本を目指したいものです。当たり前のすごさをきちんと認識しながら。

あなたの「故郷」はいくつありますか

ずっと前から、故郷は一つでなければならないのだろうか、と考え続けています。

生まれた場所は一つしかないので、生まれ故郷は一つだけです。でも、「故郷」と呼べるような場所は、生まれ故郷と同じ場所である、とは限りません。

私にとっては、生まれ故郷は福島県福島市、その後、父の仕事の関係で福島県二本松市原瀬に2年、二本松市内に1年住んで、また福島市へ戻りました。

高校卒業まで福島市にいて、大学浪人中は埼玉県川口市、大学入学後は東京都東村山市、国立市、就職後は再び川口市、小金井市、そして、東京都区内に移りました。

さらに、インドネシアのジャカルタに2年、東京に戻った後、マカッサルに5年、また東京に戻った後、マカッサルに1年半、1ヶ月おいて再びマカッサルに2年、ジャカルタに3年、スラバヤに2年、そして今は東京に・・・、というふうに、点々としてきました。

これまでに挙げた場所はどこも、自分にとって、懐かしく愛おしい大事な場所になっています。何度か再訪するたび、そこで生きていた、生活していた自分(たち)を臨場感を感じながら思い出します。就職前までに住んだ家は、全てが跡形もなく無くなっており、自分(たち)がそこに居たという物理的な証は、もはや見つけることはできません。それでも、そこに行けば、いや、行かなくとも、行けなくとも、その場所とそこに居た自分(たち)を思い出すのです。

東日本大震災後に訪れた母校・
二本松市立原瀬小学校(2012年3月)

危険建築物として取り壊された
二本松市立原瀬小学校跡(2013年8月)

長く住んだ場所以外に、出張などでたくさんの場所を訪れ、色々な人々に会い、色々な思い出を作ってきたのですが、なぜか、それらの場所で思い出したくもない、嫌いになった場所を一つも思い出せないのです。

そんななかで、故郷は一つじゃなくていいのではないか、と強く思うようになりました。そのきっかけは、東日本大震災に伴う原発事故で突如故郷を失った人々の存在でした。自分の意思ではなく、ある日突然に、自分の居場所を去らなければならない、それも自然災害ではなく人災によって、というのは本当に理不尽なものです。それに加えて、自らの判断で自主的に避難した人々もいました。そんな様子を見ながら、自分の故郷でもある福島のことを思っていました。

強制的にせよ、自発的にせよ、避難した方々は、自分の生活の場である故郷を離れたわけです。新しい生活の場所をいずれ戻るための一時的な滞在場所と捉えるか、元の場所での生活を断念して新しい生活の場所と捉えるか、それは人によって、世代によって、場合によっては同じ家族の中でも、異なることでしょう。

でも、一時的な滞在にせよ、定住にせよ、今、生活している場所を「故郷」と思えるならば、そのほうが楽しいだろうし、気持ちも楽になるのではないか、という気がします。第二の故郷、第三の故郷、第四の故郷、と、日本中、世界中にたくさんの故郷があるような人生も楽しいのではないか、と。

状況や立場は異なりますが、サラリーマン転勤族も、自分の意思とは必ずしも関係なく、あちこちへ移動します。彼らもまた、第二の故郷、第三の故郷、第四の故郷、と、日本中、世界中にたくさんの故郷があるような人生になれば楽しいのではないか、と思います。

自分にとっての「故郷」がたくさんあればあるほど、自分の関わった人々が増え、自分のことを思ってくれる人々が増えていく。そんな場所が世界中いたるところにあれば、どこへ行くにも安心した気持ちになれるような気がします。

戸籍や住民票といった公式書類ではなく、そこを故郷と思ってくれる人を増やすような、ファンクラブのような試みを、日本中、世界中でやってみたら面白いかもしれません。それは、ふるさと納税の豪華賞品を介在させるようなものではなく、言葉にできないような、個々人にとっての愛おしさや思い出を大切にする、多くの人々に「故郷」と思ってもらえるような場所になる、ということです。

故郷を愛おしむのは同じ日本人に限ったことではありません。アニメやポップカルチャーの愛好者とは別に、日本に住んだことがあり、日本のために何かをしたいと思っている外国の方々は少なくありません。そんな方々のための「故郷」に日本が、日本の地方がなる、ということはできないでしょうか。

逆に私のように、インドネシアとの関係が切れなくなって、インドネシアのあちこちの地方を愛おしく思い、そこのために何かを一生懸命やりたい、と思ってしまう外国好きの日本人も多いことでしょう。

高知県馬路村は、ユニークな手法で村のマーケティングに成功した場所ですが、そこには、日本人全員の「故郷」になりたい、という彼らの願いが込められているのでした。

自分の「故郷」を増やすのは、ふるさと納税で興味を持った市町村から始めてもいいかもしれません。商品だけでなく、実際にその市町村へ行き、人々と出会う中で、本当の「故郷」になるかもしれません。物理的に人口が減っても、「故郷」と思う人が増えていくのは、それが新しい何かを生み出すきっかけになるかもしれないと思うのです。

私の「故郷」は、これからまだまだ増えていくことでしょう。というか、増やしていきたいです。

あなたの「故郷」はいくつありますか。そして、「故郷」の数をこれから増やしていきませんか。

近所の天神様で紅梅が咲き始め

妻と神社へ初詣した後、前から気になっていた天神様へもお参りに行ってみました。

この天神様は、いつもの散歩コースにあって気にはなっていたのですが、なんか小さな神社があるな、ぐらいにしか思わず、もう25年以上住んでいるのに、天神様だとも気付かずにいました。

名前は子安天満宮。あるいは菅原神社。れっきとした天神様で、もちろん菅原道真公を祀っています。

建立されたのは16世紀半ばで、江戸時代には、湯島天神、亀戸天神などと並ぶ有力な天神であったようです。

我が家の近くにこんな天神様があるとは。やはり、自分の足元をしっかり見つめていかなければなりませんね。

行くと、賽銭箱はなく、本殿の入り口のサッシ戸に小銭の入れ口があり、賽銭を入れられるようになっていました。賽銭を入れると、チャリーンという音が響きます。

本殿の両側には梅の木がありましたが、本殿に向かって右側の梅がもう咲き始めていました。紅梅でした。

春の訪れはまだ先ですが、今年一年、よい年となる希望を感じるような紅梅でした。もちろん、しっかりお参りし、お祈りいたしました。

改めて、皆さんにとって、素晴らしい年となりますよう、お祈り申し上げます。

今必要なのは「縮充」という考え方

人口が減少し始めた日本。老齢人口がますます増加する反面、若年人口がどんどん減っていきます。働ける人口の絶対数が減り続けていく日本で、今も、経済成長の必要性を強調する議論が強いように感じます。

今の日本の経済成長は、農林水産業や製造業のような、モノを作ることで果たせる状況ではありません。生産性を高め続け、技術上の工夫に工夫を重ねた末に、農業者や林業者や漁業者の後継者が少なくなり、中小企業者が子供に継がせられない状況が増えています。
一部の高付加価値製造業やソフト分野を中心としたサービス業が日本の経済成長を支えていくといいますが、その一方で、今後成長するアジアからのインプットなしに経済成長は難しいという側面も指摘されています。
そこまでして、我々は経済成長を必死で追い求めなければならないのでしょうか。経済成長しなければ、我々は生きていけないのでしょうか。経済成長しなければならない、という強迫観念のようなものさえ感じてしまいます。
今、我々に必要なのは、身の丈を知ること、かもしれません。
人口が減少する中で、我々が生きていくうえで必須なものとそうではないものとを峻別し、必須でないものを追い求めない生活を心がける必要があるのではないでしょうか。
たとえば、新しい携帯電話や自動車が販売されるたびに買い換える、新しいキャラクターが現れるたびにゲームを購入する、といった行為は、生存に必須とは必ずしも言えないでしょう。家電製品の人間の声でお知らせする機能は本当に必要なのでしょうか。
モノを売る側は、何とかして消費者の購買欲を喚起し、新しいものを買ってもらおうとします。それによって需要を作り、そのモノを生産することで企業としての存続と成長を図ろうとします。
3回着たらボロボロになるシャツしかなければ、人はそれを買わざるをえなくなります。一度買ったら10年もつようなシャツばかり作っていたのでは、生産設備の稼働率が上がらず、生産し続けられません。
また、最近の家電製品は、自前で修理することができないことが多いようです。肝心の制御部分がブラックボックスとなっており、修理屋が立ち入れなくなっていて、多くの場合、修理する費用も高いので、新しく製品を買わざるをえなくなります。製品もどんどん生産・販売終了となり、古い部品はすぐにない状態になります。
今の日本では、インドネシアに見られるような家電製品や機械の修理屋さんをあまり見かけないような気がします。頑丈で長持ちする良質の製品というのが日本製の特徴だったはずですが、そのような製品では、消費需要を喚起し続けられなくなったということなのでしょう。
そのような、生産者側からの需要喚起に踊らされているのが我々消費者で、政府からも、もっと物を買え、と促されています。でも、ほとんどの必需品は揃い、もうそんなに新しく物を買わなくてもいいような気がします。
人口が減少し、人々が物を買わなくなるのは、ある意味、自然なことであって、それを問題視するのではなく、そのような状況に合わせた経済のあり方を考えていかなければならないのではないでしょうか。
実際、東日本大震災のとき、これで日本が終わる、と思いました。いつ何時、自分たちの享受する反映した社会が終わるかもしれない、と思ったがゆえに、1日1日の生活を大事にし、物質的な豊かさよりも他者とのつながりや自分を含めたみんなの幸せを大切にしよう、と心に誓って、生き方を変えようとした人々が多数いたはずです。
でも、世の中は何も変わっていなかったように見えます。相変わらず、政府は「経済を成長させる」の一点張り。要らない需要を無理やり創って消費者を煽るよりも、今あるものの本質的な中身を充実させることに注力すべきではないでしょうか。
山崎亮氏の最新刊「縮充する日本:「参加」が創り出す人口減少社会の希望」を読みました。今、日本に必要なのは、この「縮充」という考え方ではないか、と思います。
我々も、自分の身の丈にあった形で、自分たちの生活をどう充実させていくか、他人ではなく、自分の足元を見ながら考えていく時が来ているのだと思います。

元旦に銀座〜丸の内を歩く

2017年、新しい年が始まりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

早速、今年中に自分が実現したいことを7つ書き出しました。そのうちの1つは、このブログ「ぐろーかる日記」を毎日更新すること、です。

どうでもよいような、たわいのない内容もあるかと思いますが、お付き合いいただければありがたいです。

ところで、今日は夕方から、元旦の銀座から丸の内を家族3人で歩いてみました。年末からのイルミネーションで残っているところはどこか、と検討し、まず、汐留カレッタへ行ってみたら、あいにく、1月1・2日は全館休館のため、イルミネーションも休みでした。

でも、旧新橋停車場の周りでは、木々につけられたイルミネーションが下からLEDライトで照らされて、流れる音楽に合わせて色が変わる、という演出がありました。

そのまま銀座へ行くと、中央通りにはイルミネーションが輝いていました。

人通りの少ない、静かな銀座中央通りでしたが、聞こえてくる声のほとんどは、日本語ではありません。開いているH&Mの前にバスが乗り付けていました。

赤ん坊の泣き声が聞こえてきます。どうやら、観光客が買い物を終えたのに、バスがなかなか迎えに来ない様子でした。

銀座から有楽町を通って、丸の内へ向かいます。この通りも人はほとんどいません。静かな通りでイルミネーションが輝いています。

通りには路上駐車中の車が何台か並んでいます。そのなかに、日の丸や菊の紋章をつけた車やバイクがあり、その周辺では、黒服を着た男性たちがお辞儀やらしている様子が見えました。

通りを車が通らないので、車道の真ん中で写真を撮っている人々がいます。その多くは、やはり観光客のようでした。

最後は、東京駅。

元旦なので、店のほとんどは閉まっていて、人通りもほとんどなく、とても静かな町並みでした。そして、出会う人々のほとんどは、日本語以外の言葉を話す人々でした。

そんな東京も、明日からは、徐々に日常の賑わいを取り戻していくことでしょう。こんなふうに、ちょっと非日常を感じられる元旦の東京もいいものです。

ただし、歩きながらちょっと小腹が空いても、飲食店も皆閉まっているので、自宅へ戻るまでは我慢せざるをえなかったのが少々辛く感じました。

立教大学のクリスマスツリー

12月16日は、友人からの依頼で、東京・池袋の立教大学にてゲスト講義を行ってきました。

スーパーグローバル人材育成を目的としている科目らしく、講義は英語で行います。私の講義テーマは「コミュニティ・エンパワーメントと村落開発」、私自身の経歴や活動を踏まえて、自由に講義をしてください、ということでした。

出席者は9名、うち4名は留学生で、ほぼ全員、英語が堪能な様子でした。

私はといえば、色々と詰め込みすぎて、1時間弱ではちょっと足りなくなってしまいました。出席者の自己紹介を聴きながら、立教大学で教えている友人も改めて気づくことが多かったようです。

講義を終えて、キャンパスの出口のほうへ歩いていくと、電飾が施された見事なクリスマスツリーが2本立っていたので、思わず写真を撮りました。

残念ながら、2本一緒は写真に収まらず、1本のみの写真となりました。

この立教大学のクリスマスツリーは有名らしく、外国人観光客もわざわざ見に来るのだそうです。

高さ25メートルの2本のヒマラヤ杉に1150個の色電球が灯っているとのことです。

今流行りの点滅したり、色が変化したりするような電飾ではなく、幾つかの色の明かりが灯っているだけのシンプルなツリーです。そのシンプルさがかえって、見ている自分をホッとさせてくれる、温かな気分にさせてくれるような気がしました。

晩秋の東京で遅ればせながら紅葉狩り

バタバタしているうちに、秋はどんどん遠ざかっていきました。

今年は無理かなと思いつつ、12月1日に某シンクタンクでインドネシア経済についてブリーフィングを行った後、翌2日、妻と一緒に東京の神代植物公園へ行きました。

東京なので、まだ紅葉は残っていて、なんとか間に合いました。

神代植物公園といえば、バラ園も有名ですよね。季節が晩秋ということもあり、咲き誇るという感じではありませんでしたが、バラも色々と咲いていました。ついつい、写真を撮ってしまいます。

これから冬を迎えるこの晩秋という季節に、はかなさというか、寂しさというか、しかし、心が満たされている、言葉にならない不思議な気持ちをいつも抱いてしまいます。

今年ももうすぐ終わっていくのだな。しみじみと、そしてぽつんと、そう思うのです。

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晩秋に出会えて一段落。12月7日から、急に入った今年最後のインドネシア出張(3泊5日)でスラバヤへ行ってきます。

本邦研修が無事終了

JICA案件で、インドネシアの地方政府からの参加者を招いて行ってきた本邦研修が昨日、無事に終了しました。

この案件は、インドネシアの地方政府と日本の地方自治体とが農業・畜産業分野で連携できるかどうかをサーベイすることを目的にしています。

9月11〜13日は福島市を訪問しました。福島市民家園では、福島で盛んだった養蚕業が実は6次産業(1次+2次+3次)だったことを改めて確認できました。

福島市役所では、急遽、小林香・福島市長を表敬することができ、インドネシアからの参加者はとても感激した様子でした。

JAふくしま未来では、直売所、資材センター、JAバンク支店、共選場などを見学し、インドネシアと日本の農業協同組合の違いなどを学びました。

最後に訪れたあづま農園では、福島のリンゴとインドネシア(バトゥ)のリンゴとの違いを比較するとともに、農業者による観光農園の運営の様子を学びました。

研修の合間には、飯坂の旧堀切邸で足湯も堪能。

親切で優しい福島の人々と触れ合って、福島の印象がとても良いものになりました。宿泊したホテルでは、インドネシア人の女性従業員と会い、楽しそうにインドネシア語で話が弾んでいました。

最後の夜は、東京・目黒のインドネシアレストラン「チャベ」で、久方ぶりにインドネシア料理を堪能し、とても嬉しそうでした。

ともかく、1週間にわたった本邦研修は無事に終了。でも早速、週末までに仕上げなければならない急な仕事が入り、ゆっくり休む気分になれないままです。

13年ぶりに馬路村を訪ねて思ったこと

9月8日から、本邦研修の一環として、インドネシアから招聘した地方政府の役人の方々と一緒に、高知県に来ています。

9月8日は、高知龍馬空港に着いてすぐ、馬路村へ向かいました。私自身、馬路村を訪れるのは、2003年以来、13年ぶりのことでした。

当時、2004年にJICA短期専門家として、日本の地域おこしの事例をインドネシアで紹介するために、馬路村を訪れ、馬路村農協でヒアリングを行い、馬路温泉に1泊しました。ゆず関連商品を2万円ほど買い込み、それをかついで、インドネシアのポンティアナク、マカッサル、メダン、ジャカルタでのJICAセミナーで、馬路村の話をしたのでした。

農地に恵まれない馬路村は、1970年代に主要産業の林業が衰退し、米も野菜もほとんど生産できない状況の中で、地域資源として活用できそうなのは自生のゆずしかなく、ゆずの加工に村の将来を賭ける選択をしたのでした。自生のゆずは不格好で商品価値を見出せないものでしたが、見方を変えれば、無農薬で化学肥料も使っておらず、加工原料として安心安全のものでした。マイナスをプラスに変える発想の転換で、馬路村はゆずの加工を進め、多種多様な加工品を作り上げていきました。

人口わずか1200人の山村がどうやって地域おこしを進めていったのか。馬路村の話は、日本でも、インドネシアでも、多くの村々に希望と勇気を与えるものでした。

今回、13年ぶりに訪問した馬路村は、さらなる発展を遂げていました。前回、1箇所だったゆずの加工工場は5箇所に増え、そのうちの1つは見学コースも備えた立派な施設となっていました。営林署の跡地は「ゆずの森」と呼ばれる素敵な森として整備されていました。13年前、始まったばかりのパン屋はまだあり、より素敵な店になっていました。

しかし、13年経って、村の人口は930人に減っていました。人口は減っているのに、馬路村農協の生産規模・多角化はさらに進んだ様子で、機械化はもちろんのこと、村外からの労働力の受け入れも必要な状態になっているようでした。

馬路村のゆずグッズのファンは日本中に広がり、その評判は揺るぎないものとなっています。その一方で、馬路村がブランド化され、そのファンが増え、需要が拡大すると、馬路村農協の生産体制は、それへの対応を益々進めなければならなくなっているように見えました。村の人口減の中で、機械化を究極まで高め、従業員の生産性も上げていかなければならない、効率性をもっと追求しなければならない・・・。

そんなことを思いながら、ちょっと無理をしているのではないか、と思ってしまいました。通りすがりのよそ者の無責任な感想にすぎないですし、懸命に活動されている方々を決して批判するつもりはないのですが、そんなことを思ってしまったのです。そして、馬路村にそれを強いているのは、マーケットであり、我々消費者の行動なのではないか、と思うに至りました。

村の人口が減り、村の生き残りをかけて、市場需要に呼応して懸命に生産をしているうちに、自分たちのできる能力の限界にまで至ってしまってはいないか。市場の圧力は、それでもまだ馬路村に生産増を強いていくのではないかと危惧します。

「日本全国の心のふるさと」になろうとしてきた馬路村の人々が、市場からのプレッシャーでストレスを感じ、生活の幸福感を味わえないようになってしまったら、やはりまずいのではないか。ワーク・ライフ・バランスは、人間だけでなく、地域にも当てはまるのではないか。

地域おこしの成功事例として取り上げられてきたからこそ、その潮流からはずれてしまうことへの恐怖もあるかもしれません。でも、大好きな馬路村には、あまり頑張り過ぎて欲しくはありません。

村のキャパシティに見合った適正な規模で、市場に踊らされることなく、持続性を最大限に重視しながら、人々が幸せを感じられる悠々とした経済活動を主体的に行っていってほしいのです。

こんなことを言っても、それは、通りすがりのよそ者の、馬路村の現実をおそらく踏まえていない、勝手な感想に過ぎません。何か誤ったことを述べてしまったとすれば、深くお詫び申し上げます。

ニュー南池袋公園へ散歩

夕方、自宅から池袋へ散歩に出かけました。最初の目的地は南池袋公園。最近、リニューアルしたというので、見に行くことにしました。

南池袋公園といえば、その周辺はカラオケ屋や飲食店が集まる歓楽街で、ちょっと偏見かもしれませんが、夜、女性や子供が一人で歩くにはちょっとふさわしくないような場所、というイメージを持っていました。

それが、行って見てイメージがガラッと変わりました。この変わり様は一体、何なのでしょう。

広々とした芝生。そこに横たわるカップルや家族連れ。端には実にモダンな形の卓球台が二つ。脇の緩やかな壁は子供たちの滑り台に。隅には、鶏の照り焼きをグルグル回しながら炙る機械も備えたオシャレなカフェ。その周りを、サンシャイン・ビルなどが取り囲んでいます。

公園が開いているのは午前8時から午後10時まで。さすがに、夜は警備員のおじさんが何人か配置されるそうです。

それにしても、南池袋の従来のイメージはどこへ行ってしまったのでしょうか。公園ひとつで街のイメージは大きく変わりうるのかもしれない、と思いました。

まちづくりのなかで、公園の果たす役割というのは意外に無視できないものかもしれません。日本のまちづくりのなかで、住民と公園とのもっとゆるやかな関係づくりを模索しながら、自分たちの居心地のよい+防災等の機能を果たせる公園を、行政と住民が一緒につくっていけたらいいなあと思いました。

インドネシアでは、どんなまち、どんな村へ行っても、中心部に大きな公園があり、そこを中心にまちが作られています。しかし、その公園の多くはただの広場、というか野原に過ぎませんでした。最近になって、スラバヤ市のように、公園に様々な機能を持たせる試みが行われ始めました。

様々な要素を検討していないので、ニュー南池袋公園のあり方が理想的かどうかを判断する能力はまだ持ち合わせませんが、これからのまちづくりのなかで、住民にとっての公園、あるいは公園的な空間の機能や役割をじっくり考えていきたいと思いました。

銀座・東急プラザのアイスクリームに注目

今日(8/11)は、夕方から、妻と一緒に銀座へ。買い物と散歩、冷やし中華を食べに行ったのですが、絶品の冷し中華を食べた後、急にアイスクリームが食べたくなりました。

選択肢は二つ。不二家へ行くか、新しいアイスクリーム屋を探すか。

もう半年も銀座へ来ていなかった妻が行ってみたいというので、東急プラザを探検しに行ってみました。アイスクリーム屋があるかもしれない、という希望を持って。

そうしたら、地下に1軒ありました。

店の名前は「ハンデルスベーゲン」。名前から、これはきっとドイツから来たアイスクリーム屋だ、などと勝手に思い込んで、行ってみました。

注文したのは、好きなアイスクリーム2種類(通常の半分の量ずつ)を入れたサンデー。サンデーはもちろん、アイスクリームもなかなかの美味しさでした。

新しいお店を開拓できて、今日はラッキーだった、と二人で話しながら、帰宅して確かめたら、ハンデルベーゲンは、京都発のアイスクリーム屋さんでした。しかも、アイスクリームと和食の共通点を「素材と旬を生かす」とした、京都プレミアムのアイスクリームを提供しているのでした。

 ハンデルベーゲンのホームページ

また一つ、ユニークなお店に出会えました。

自宅でオリンピック観賞

ちょうど私が帰国した8月6日から、リオデジャネイロ・オリンピックが始まりました。

このところ、ずっとインドネシアにいたせいもありますが、もう10年以上、オリンピックというものをほとんどテレビで観ていませんでした。日本のテレビでは、日本選手の活躍が中心の番組構成になっていて、それが繰り返されるので、ちょっと辟易してしまったこともあります。

今回は、自宅で家族一緒にオリンピックを観ているのですが、我が家の場合、日本選手の活躍云々はあまり興味がなく、「こんな種目があるんだ」とややマイナーな種目を楽しむ傾向があります。

たとえば、エアピストルとか、カヌーカヤックとか、アーチェリーとか。重量挙げもなかなか面白いものでした。

重量挙げ女子48キロ級は、タイのSopita Tanasan選手が金、インドネシアのSri Wahyuni Agustiani選手が銀、日本の三宅宏実選手が銅でしたが、日本のテレビでは三宅選手しかスポットが当てられません。他の選手はどうだったのか。

実は、インターネットで、オリンピックのすべての試合を観ることができるサービスをNHKがやっていて、我が家ではそれに、はまり始めています。これを使えば、タイやインドネシアの選手の様子も観ることができます。

それだけでなく、重量挙げだと、選手の体力を見せつけられるだけでなく、舞台袖で選手を見守るコーチの喜怒哀楽や舞台裏での選手とコーチの様子、何キロのバーベルに挑戦するかのチーム間の駆け引き、といったものも観ることができます。重量挙げが実は心理戦であることを初めて知ったりもしました。

エアピストルでのベトナムの選手とブラジルの選手との駆け引きも、なかなか見ごたえのあるものでした。

テレビ以外に、パソコンでインターネットをつけながら、あまり知らない種目を観る、という楽しみが、オリンピックを通じたスポーツの新たな面白さを感じさせてくれるような気がします。

「皆んな同じ」の日本、「皆んな違う」のインドネシア

一緒に活動していたチームメンバーが皆んな帰国し、私だけがインドネシアに残っています。そして残っていたために、明日明後日、急遽、ロンボクへ行くことになりました。

ロンボク島のリンジャニ山の一部が数日前に噴火し、ロンボク空港が閉鎖されましたが、2日朝に再開、ちょっと心配ではあります。そういえば、北マルク州のテルナテでも、火山の噴火で空港が閉鎖中です。地球はまさに活動中なのでしょう。

このところ、インドネシアでの内閣改造、東京都知事選挙、日本での内閣改造、と政治のニュースが目白押しです。とくに、日本での政治の動きについては、色々と思うところはあるのですが、それを言葉にすると軽くなってしまう気がして躊躇してしまいます。

でも、言葉にしていかないと、人間の存在がどんどん軽くなって、ふわふわと世の中の流れに乗り、一定方向へ飛んで行ってしまいそうな気もします。必要なのは、自分を自分たらしめている根っこをしっかりと地面に下ろし、強く這わせていくことなのでしょう。物事を批判的に見ていくための思索を止めてはならない、と自分に言い聞かせています。

そんなことを色々考えていたら、日本とインドネシアでは社会の基本が全く違うということに思い当たりました。すなわち、日本では同じこと、「皆んな同じ」ことが基本であるのに対して、インドネシアは違うこと、「皆んな違う」ことが基本なのではないか、とふと思いました。まあ、当たり前といって仕舞えば、それまでなのですが。

でも、「皆んな同じ」という感覚で日本(人)はインドネシア(人)を見ているのではないか、言い換えれば、「インドネシア人は皆んな同じ」というふうに見て、「日本人とは違う」という言い方がよく聞こえてきます。ともすると、「日本人のようにならなければならない」というニュアンスさえ感じられる対応もあります。

これに対して、多様性の中の統一を国是とするインドネシアは、違うのが当たり前、だから違う人々の存在を尊重するのは当たり前、という感覚があるように思います。そこには「いい」とか「悪い」とかの価値判断はなく、存在自体を否定しない、という態度です。「そういう人もいるよね」という感覚です。

相模原の事件を通じて、「役に立たない人間は存在価値がない」という感覚が日本社会の中に相当あることが改めて浮き彫りになりました。一体、「役に立つ人間」とはどのような人間なのでしょうか。あるいは、「自分は役に立っている人間だ」と胸を張れる人とは、どのような人なのでしょうか。

すべての人間が役に立たなければならない、という考えが「一億総活躍社会」といった言葉の裏に透けて見えます。でも、役に立つかどうかを判断するのは、国家なのでしょうか。政府なのでしょうか。誰が判断するかで、「役に立つ」ということが大きく変わってきます。そして、その価値判断基準を「皆んな同じ」にしたい、あるいは勝手に、場合によっては自発的に「皆んな同じ」になっていく、日本がそんな方向へ向かっているような気がしてしまいます。

インドネシアにいると、「たとえ歓迎されてはいないかもしれないけれども、存在は認めてもらっている」という実感があります。人間の存在は神によるもので、自らの手で存在を否定することは許されない、という考えは広く共有され、他人に危害を与えない限り、存在は放置されます。「皆んな違う」のが当たり前なのです。

世界を見渡すと、「皆んな同じ」の日本と「皆んな違う」のインドネシアとでは、どちらが適応しやすいか、一目瞭然ではないでしょうか。個々の人間は皆んな違うのに、「皆んな同じ」に合わせないといけないと思わせてしまう日本社会に馴染むことは、世界の違う人々と付き合うのにプラスでしょうか。

日本は特別、日本はすごい、世界は日本を見習うべき、といった言説は、「世界が日本を認めてくれなくなったのではないか」という自信喪失の裏返しに見えます。世界が日本を認めなくなったら、日本人は世界から忘れ去られるのでしょうか。でもそう思ってしまう日本人が、実は少なくないのではないかという気もします。

「皆んな同じ」の日本の人々が「皆んな違う」のインドネシアで様々な人々と触れ合うだけでも、自分自身を何かに合わせることなく、自分自身として生きていっていいのだという感覚をずいぶん取り戻せるように思います。その当たり前の感覚を取り戻せば、世界のどこへ行っても、「ここでは自分が異質なのだ」「でもその存在は否定されない」という安心感を感じ、自分と違う存在を当たり前と受け止められるようになるのではないかと思います。

日本が好きな人々は世界中にたくさんいて、日本で暮らしてみたい、日本で働いてみたい、という人も少なくないと思われます。そんな人たちを「皆んな違う」という感覚で日本は受け入れられる場所になっていけるのでしょうか。でも、そうならなかったら、「皆んな違う」世界の中で日本は生きていけなくなるような気がします。

「皆んな違う」のが当たり前の新しい日本になることが、社会をもっと面白く、楽しく、創造的にする活力になる・・・、違うからこそ力になる、そんな風になったらいいなあと思う私は、「皆んな同じ」の日本ではおかしいと思われるのでしょうか。

「皆んな違う」のが当たり前の世の中へ、と考えることは、自分が、国家ではなくローカルにこだわる一つの理由でもあります。

バトゥ市の若き農業後継者との出会い

7月27日、東ジャワ州バトゥ市での訪問の最後に、有機農業を進める若い農民に出会いました。彼は農民グループの中心人物で、見せてもらった約0.5haの畑で、様々な工夫をした有機農業を行っていました。

この畑はデモンストレーションと種苗用の畑で、様々な野菜やハーブが植えられていました。野菜のなかで、何種類ものケールが植えられていて、それらは一般用に出荷するのですが、それ以外の野菜やハーブは種苗用で、この畑以外の場所にある12カ所の別の畑で生産しているということです。

ケールや野菜の脇には害虫駆除用の植物が細かく植えられているほか、いくつかの野菜が注意深く組み合わされながら植えられていました。

ハーブなどの苗は、ヨーロッパなどから得られたものを色々と試験的に植えているようです。以前、日本から人参の苗を入手して植えてみたが、うまくいかなかったと言っていました。

この若き農民の父親は、バトゥ市にある農業高校の元校長先生で、退職後、地元に残って有機農業の実践を続けてきました。息子であるこの若き農民は、国営クラカタウ製鉄で機械エンジニアとして働いていましたが、それを辞めて故郷へ戻り、農業後継者として、父とともに、有機農業に取り組んでいます。

そんな彼を見ながら、日本でも優秀な若者たちの一部が地方へ移住して農業に取り組み始めていることを思い出しました。インドネシアでも、同じように、都会や有名企業から地方へ移り、農業を始める若者たちがいました。

これまでインドネシア、とくにジャワ島の農村部を歩きながら、どこでも農業後継者不足という話を聞いてきました。農業は儲からない。未来のない農業を子どもに継がせたくない。そんな声を聞いてきました。

また、ジャワのある地方政府では、後継者がいないので、中国からの大規模ライス・ファーミングの投資を歓迎する、といった話さえ聞こえました。目に言えないところで、インドネシアの農業が壊れていくのではないかという危機感さえ感じてきました。

今回、バトゥ市で出会った若き農業後継者の姿は、そんななかで、とても頼もしく見えました。単に儲けるためではなく、地域のための農業をしていこうという姿勢が鮮明だったからです。そして、自分の農民グループを通じて、その理念を実践する、地に足のついた態度がしっかりしていました。

もしかしたら、バトゥ市からもう一度インドネシアの農業を立て直せるのではないか。

私が福島市の皆さんをお連れしたとき、バトゥ市の農業局長は「農民と地域を守り、一緒にグローバリゼーションの荒波に対抗する農業を進めたい」と語りかけました。そのときの彼の真摯な潤んだ目を忘れることはできません。

バトゥ市の若き農業後継者をいつか日本の若き農業後継者たちとつなげ、お互いに意識し合わせながら、農民と地域を守る、安全安心の農業の未来をつくっていけたら・・・と思わずにいられませんでした。

「さよなら皆様」、お別れを終えて

今回の急な一時帰国は、家族の大事な一人とのお別れのためでした。故人を偲び、お通夜と告別式を無事に終えました。

今回のお別れで、「さよなら皆様」という曲をもう一つ知りました。もう一つというのは、中学生の卒業式のときに歌った「さよなら皆様」とは違う曲だったからです。

私の知っている「さよなら皆様」(岡田陽作詞・柳沢昭作曲)の歌詞は、以下のようなものでした。歌ったことのある方も少なくないと思います。

 さようなら皆様 またいつか会う日まで
 懐かしい思い出を いつまでも胸に
 さよなら 皆様

 さようなら皆様 またいつか会う日まで
 声合わせ歌おうよ 歌に思い込めて
 さよなら 皆様

今回、故人を偲んで、棺にお花を入れてお送りするときに流してもらったのが、次のもう一つの「さよなら皆様」でした。

 さよなら皆様
 さようなら ご機嫌よう

 楽しい思い出 心に秘めて

 お別れいたしましょう。
 また会うその日まで

 さよなら皆様
 さようなら ご機嫌よう

 お別れいたしましょう。
 また会うその日まで

 さよなら皆様
 さようなら ご機嫌よう
 さようなら ご機嫌よう

宝塚歌劇の公演終了後に場内にかかる音楽でした。亡くなるまで、ずっと宝塚歌劇が大好きで、ちょっと自分勝手だけれども、いつも前向きで、元気に生きていった故人をお送りするには、本当にピッタリの曲でした。
さあ、気を取り戻して、7月21日に再びジャカルタへ戻ります。

多様性、まずは存在を認めることから

日本へ一時帰国して、いやーな感じの内容を取り上げたブログを読みました。ちなみに、このブログの執筆者の姿勢には強く共感しており、このようなことが起こってほしくないという気持ちです。

個人のあなたを集団でイジメるばかりで助けない社会

このブログでは、参院選の際に、安倍総理の選挙演説の周辺で、「アベ政治を許さない」というプラカードを掲げた一人の女性が、大勢の人々によってその場から排除される様子が描かれています。おそらく、相当に度胸のある女性の覚悟を決めた行為なのでしょう。少しも怯まぬこの女性に対して、ちょっとびっくりするような言葉さえも投げつけられています。

おそらく、逆の場面、すなわち、安倍政権を批判する人々が大勢の場で、一人で政権を支持するプラカードを掲げる人がいたら、やはり同じように取り囲まれ、排除されるのだろうな、と思いました。

こうした選挙演説の場は一般に開放された場所であり、政権を支持する人も批判する人もいることは容易に想定できます。でも、演説している人の気分を害さないようにするためなのか、主張の異なる人を排除することが行われています。

「アベ政治を許さない」というプラカードを掲げた一人の女性に対して、なだめるように「あなたのためだから」という声が聞こえましたが、それはどういう意味なのでしょうか。放置すると暴力を振るわれるかもしれないから、お引き取りいただいたほうがよい、という意味なのでしょうか。その女性はきっと、それをも覚悟して、自分の主張を示し続けたのかもしれません。

こうした同調圧力は、選挙演説に限りません。日々の生活の中で、他と違うことをしようとしたときに、「悪いことは言わないから、やめておいたほうがあなたのためだよ」と親切に忠告されることは、珍しいことではないと思います。

あなたのため、とは何でしょうか。(あなたが)いじめられたり、差別を受けたり、場合によっては暴力を振るわれたりしないように、でしょうか。(あなたの)進学や就職に不利になる、という理由でしょうか。と同時に、騒ぎを起こされて波風立ったら困る、という自分の立場を守るため、でもあるのではないでしょうか。「そのへんのこと、わかってくれよ」というのが本音だったりするかもしれません。

日本では、警察がイスラム教徒を監視しているという話を聞きますが、真面目に暮らしているイスラム教徒がそれを心底支持するとは思えません。それは、今も「外国人監視部」(POA: Pengawasan Orang Asing)が警察にあるインドネシアで暮らした経験のある自分には、よく分かります。

「多様性の中の統一」をモットーとするインドネシアでは、通常、他人に危害を加えない限りは、その人の存在を認め、放置します。しかし、いったん危害を加えたならば、徹底的に摘発します。

そうした姿勢は、日本から見ると生ぬるく見えるかもしれません。でも、様々な宗教や種族からなる人々がいるインドネシアでは、そうしなければ国としての統一は維持できないのです。

自分と意見の異なる人がいるのは当たり前です。「そういう人もいるよね」とまずは存在を認め、たとえ目障りであっても、温かく見守り、拡声器などで騒いで演説の妨害をするような行為に至れば、しかるべき措置をとればよいと思うのです。

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