前言撤回、個人ツイッター継続します

1月6日に「個人ツイッター、止める」宣言をしましたが、撤回します。

自分が救われる言葉、前向きになれるつぶやきが、まだまだ溢れていました。

他人に読んでもらうことを期待せず、自分の気持ちを短く、吐き出せる媒体がないと、悶々としてしまい、けっこう苦しいことも実感しました。

たとえ実際に面識はなくとも、未来に対して、まだ前向きに動こうとされている方々と関わっていきたいという願いも、かえって強くなりました。

意味のない誹謗・中傷は、努めて見ないようにします。

結果的に、嘘をついてしまいました。ごめんなさい。

植樹ツアーの説明会でモンゴル料理を堪能

1月18日は、昼間、知人が関わっているイベントに出かけた。彼らは、4月18~22日に「内モンゴルの植樹と砂漠、食文化を訪ねる旅」というのを企画しており、その説明会があったのである。

これは、植樹に携わる団体「地球緑化クラブ」と、乾物を通じて世界平和に貢献することを目指す団体「DRY and PEACE」が、ピース・イン・ツアーと一緒に実施するツアーである。植樹だけでなく、食文化の探求にも力を入れており、このツアーに来ないとまずお目にかかれないような、内モンゴル料理が目白押しの様子である。

ツアーの紹介と申込みは、以下のサイトを参照して欲しい。
https://www.pitt.jp/study/tour/detail.php?tour_code=STP-59

もっとも、私自身は、ツアーの説明よりも、説明会の会場であるモンゴル料理店「シリンゴル」での料理のほうに大いなる興味があった。そして、次から次へと出される料理に、その興味は十分満たされたのである。

肉、肉、肉、のっけから、羊肉づくし。この羊肉は臭みがなく、歯ごたえも柔らかい。肉本来の味を十分に楽しめた。

続いて、水餃子と羊肉の蒸し饅頭。豚肉とはまた違った、羊肉の味わいを堪能した。

締めは、やはり麺。羊肉のダシの効いたスープが、肌寒い日の体を芯から温めてくれる。

デザートは、羊の油で揚げた饅頭。真ん中に置かれたコンデンスミルクをたっぷりつけて食べた。

そして、極めつけは、馬頭琴の生演奏。厨房で料理を作っていた料理人の方が、実は日本でもう30年以上プロの馬頭琴奏者として活躍されている方だった。馬頭琴の生演奏は、「シリンゴル」の売り物の一つ。4曲演奏していただいたが、圧巻の生演奏だった。

実は数年前、DRY and PEACEの主宰者である知人から、この同じ内モンゴルでの植樹ツアーに誘われたことがあった。ともかく、まだ行ったことがないところなので、単純に行ってみたいと思ったのだが、もう一つ、惹かれる理由があった。

それは、亡き父の活動との関係でである。父は生前、教職を定年より数年早く辞めてから、福島で民間ユネスコ活動に関わっていた。その活動の一つの成果が、内モンゴルに学校を作ったことだった。好奇心からでしかないのだが、その学校を、学校のあるところ、父が行ったことがあって私がまだ行ったことのない内モンゴルへ行ってみたいと思ったのである。

今から思えば、学校を作ることがどれほど本当にその場所の人々にとって重要だったのか分からないし、もしかしたら、世界の人々の役に立ちたいと思っていた父たちの自己満足に近い部分もあったかもしれない。でも、それでも良かったと思いたいし、今、そこがどうなっているのか、興味津々なのである。

結局、前回誘われたときは、人が集まらずに、ツアーは中止せざるかったと記憶している。今回は、この説明会に20人ぐらいが集まったことからして、おそらく実施されることだろう。

ただ、ちょうどツアーが実施される4月半ばには、ほかにもいくつか予定が入る可能性があり、まだ参加するどうかを決められない。植樹もそうだが、やはり内モンゴル料理の誘引力が半端ではない。たぶん、それなりに難しい決断を迫られることになる。

阪神淡路大震災から25年

2020年1月17日、阪神淡路大震災が起こってしまってから25年が経った。25年、四半世紀という区切りがつけやすいこともあってか、メディアの取り上げ方が、例年に比べて多いように感じる。

いまを生きていらっしゃる被災された方、大事な人やものを失われた方にとって、25年目といっても、その365倍の毎日の積み重ねでしかない一日であろう。

ごく普通の変わらない、あたりまえの明日が来ることが、あたりまえではなく奇跡かもしれないことを教えてくれたあの日。そしてあの後、東日本大震災をはじめ、あたりまえの日がやって来なかった経験が幾度も繰り返されてきた。

いまをまだ生きていることへの感謝。たとえ求められていなくとも、他者の悲しみを少しでも和らげてあげたいという気持ち。様々な思いを持った様々な人々がいるということの理解。忘れてしまいたいことと忘れてほしくない気持ちとの葛藤。それらをすべてまるく包含できるやわらかな世の中をつくっていくこと。

1月17日は、自分にとって、3月11日とともに、それらを忘れてはならない、と肝に命じ、改めて自覚させる日。生きている者、生きたかった者、生きることに希望を失いかけている者、なんとかして生きたいと願う者、そうした人々への想像力をより鋭敏に高めることを、改めて自覚させる日。

初めての小湊鐵道、味のあるローカル線

1月11日に市原湖畔美術館での「宮本常一から学ぶ」のイベントに参加するため、五井から高滝まで、初めて小湊鉄道に乗った。市原湖畔美術館への最寄駅は高滝で、高滝駅から市原湖畔美術館までは徒歩で約20分だった。

JR内房線で五井駅につき、跨線橋上で、JRの改札を出ることなく、そのまま真っすぐ進むと小湊鐵道の乗換口。世話好きな小湊鐵道のおばさんが案内してくれる。

自動販売機で切符を買う。今回買ったのは、五井~高滝間の往復割引券。上総鶴舞と高滝の間が乗り降り自由の切符で、往復1420円。通常運賃は片道930円なので、往復で400円程度お得になる。

きっぷを買って跨線橋を降りると、小湊鐵道のプラットフォームだ。列車はすでにプラットフォームに待機、気動車だ。

車体にはKTKの文字。Kominato Tetsudo Kabushikigaishaの略なのか。キハ207。

台風19号の影響で、この日は五井から上総中野までは行かず、養老渓谷での往復運転だった。五井駅のプラットフォームには、なぜかイノシシの像が。その言われについて書かれたものは見当たらなかった。

五井駅の小湊鐵道の車庫には、少なくとも3編成が待機していた。

列車は定刻通りに発車。2両編成で、後部車両に車掌が乗っている。

車両内の天井には扇風機があり、中央部に排気筒、その脇に冷房用のエアコンが設置されていた。つり革は丸い輪がストレートにぶら下がっている。乗降口は一車両に前後2ヵ所のみである。

列車は、40~50キロ前後のゆっくりした速度で、左右にけっこう揺れながら、単線を走っていく。

車窓の外は、冬の農業地帯。水田はもちろんのこと、野菜畑なども広がる。現時点で耕作中のところはほとんどなく、枯れた草が放置されたままのところが多かったが、一部で耕作へ向けての準備をしているところも見られた。

途中の上総牛久周辺は商業・住宅地区となっていて、この沿線では最もにぎやかな地域だった。

他方、台風19号などの影響で、光風台駅前など、数ヵ所に倒壊したままの建物が残されていたほか、瓦屋根の一部が飛ばされた部分を青色のビニールシートで覆い、その上に土嚢などを置いて、風で屋根が飛ばないようにしている住宅も点々と見受けられた。

そうした家々は、五井から上総牛久までの間により多く見られたが、内陸の高滝の周辺でも見られた。それらの家の方々は、この正月をどんな気持ちで迎えられたことだろうか。

五井を出て40分ほど揺られながら、高滝に到着。高滝駅は小さな駅だった。

ちょうど、市原高滝湖マラソンが行われていて、高滝駅の手前の加茂公民館にたくさんのジャージ姿の老若男女の姿が車内から見えた。思ったよりもにぎやかな印象だったが、それはこのときだけだった。

イベントが終了し、市原湖畔美術館を後にした午後5時半頃には、もうすっかり辺りは暗くなっていた。昼食を食べる時間がなかったので、途中の寿司屋で空腹を満たした後、高滝駅へたどり着いたのは午後6時半過ぎ。駅には誰もいなかった。

プラットフォームへ出ると、線路にいた野良犬がギャンギャン吠えてくる。近寄ってくるでもなく、遠巻きにしながら、いつまでも吠え続けていた。

定刻通りに五井行の列車が到着。乗客は私一人だった。2両目の車両の唯一人の乗客。

乗客がいないせいなのか、列車の揺れが来たときよりもずいぶん大きく感じる。途中の上総山田駅から1人乗り、2両目の乗客は2人になって、そのまま五井に着いた。

小湊鐵道は、実に味のあるローカル線だった。乗降客数は年々減少しており、歌声列車やトロッコ列車など、ユニークなイベントも試みているが、間違いなく、存続の是非も問われてくる。

小湊鐵道をめぐる沿線の様々な物語をどのように様々な人々から手繰り出し、また新しい物語を作っていけるか、注目していきたい。

市原湖畔美術館のイベント「宮本常一から学ぶこと」

2020年1月11日、市原湖畔美術館で開催されたトークイベント「いま、宮本常一から学ぶこと~つくり手たちの視点から~」に出席した。合わせて、開催中の企画展「サイトスペシフィック・アート~民俗学者・宮本常一に学ぶ~」も見てきた。

市原湖側から見た市原湖畔美術館

このイベントの知らせを知ったのが2019年12月下旬で、その情報を見てすぐに申し込んだ。その後、市原湖畔美術館の場所を探して、小湊鐵道に乗らないと行けないと知り、それなら、ますます行かなければならないと思った。

私自身は、これまでに、地域研究者(フィールドワーカー)とファシリテーターの両方を併せ持つ存在としての宮本常一から学ぶことが多く、インドネシアや日本の地域を歩きながら、彼の実践にほんの僅かでも近づきたい(でも、できていない)と思いながら過ごしてきた。

今回のイベントは、映像や写真を含めたアートの観点に立って、宮本常一から何を学ぶのか、というテーマだった。近年、地域づくりにおけるアートの役割を意識するようになったこともあり、個人的にとても興味のあるテーマとなった。

しかも、イベントのスピーカーとして、数々の芸術祭を創り上げてきた北川フラム氏(会場の市原湖畔美術館の館長だと初めて知った)、宮本常一の足跡を丹念に追い続けてきた歴史民俗学者の木村哲也氏、戦中までの宮本常一を題材とする戯曲「地を渡る舟」を上演したてがみ座主宰の長田育恵氏、そして、開催中の企画展を監修した多摩美術大学の中村寛氏が出席したことも魅力的だった。

北川フラム氏については彼の著作を何冊か読み、そのなかから宮本常一との関連性を意識していたこともあり、一度お会いしたいと願っていた。また、木村哲也氏は、2006年3月に周防大島の宮本常一記念館を訪問した際にお会いして、色々な示唆を受けた方だった。長田育恵氏の「地を渡る舟」は、実際に東京芸術劇場で観ていて、ご本人に是非お会いしたいと思っていた。

その意味では、宮本常一つながりでの私のややミーハーな希望は、今回のイベントに参加することで満たされたことになる。

トークイベントは、北川フラム氏の挨拶から始まった。越後妻有での「大地の芸術祭」を始めたいきさつ、現代の宮本常一としてのヤドカリのような活動の村上慧氏の紹介、アートを箱物のホワイト・キューブから解き放つ必要性、そのための自然文明と人間との関係が重要であり、その先駆を宮本常一に見出していること、などが語られた。

そして、時代はアートが地方(田舎)との結びつきへ向かっていること、世銀UNESCOが国家から(競争力と持続性を兼ね備えた)創造都市の形成へ関心が移ってきていることを指摘し、アーティストが地方へ入り地方に希望を見出しているとし、地方、農業、非先進国の3つが重要なキーワードになる、と締められた。

地方、農業、非先進国。それらは、まさに、私が何年も前から意識して活動してきたテーマ。私はこの北川フラム氏の挨拶に大いに勇気づけられた。

続いて、中村寛氏の司会で、長田育恵氏と木村哲也氏のトークが行われた。長田育恵氏が「地を渡る舟」を書いた背景の説明があり、もともとサンカをテーマにした作品を書く予定だったのが、そのために読んだ宮本常一の『山に生きる人びと』から影響を受け、三田にあったアチックミュージアムに通いつつ、民俗学の視点から戦争を見るために、戦時中までの宮本常一をテーマとする作品を書くに至った、ということだった。

木村哲也氏は、高校生のとき、岩波文庫60周年を記念した『図書』で司馬遼太郎が「私の3冊」の一つに宮本常一『忘れられた日本人』が挙げられていたのに興味を持ち、大学入学前の春、故郷の宿毛へ帰省する前に、『土佐源氏』の舞台となった梼原に立ち寄るなどした。大学入学後、宮本常一全集を全部熟読し、宮本常一が出会った人々あるいはその子孫に会いに行った。当時はまだ宮本常一に関する評伝がなかったので、自分で彼の足跡を確かめたいと考えたということである。その成果が『「忘れられた日本人」の舞台を旅する—-宮本常一の軌跡』や『宮本常一を旅する』に結実した。

二人とも、宮本常一の持っていた原風景は周防大島の白木山からみた、本州、四国、九州がすべて島として見え、それらを海が道として結んでいる風景だった、と語っていた。それは実際にお二人とも白木山に登って確認したということである。宮本常一の視線は、移動する個人への視線であり、それが故に、比較の眼を持っていたと評していた。

話題は、宮本常一の写真の撮り方(芸術性を捨象して目の前にあるものを好奇心に基づいて撮る、しかし連続して撮った何枚もの写真からあたかも絵巻物のようにその土地の様々な個々の具体的な情報が全体として読み取れるように写真を撮っている手法)、誰も真似できそうでできない宮本常一の平易で対象への優しい眼差しを感じられる文体、抽象化も一般化もしない態度(学問的でないとの批判を受けつつも)、そして宮本常一が文学者やアーティストなど民俗学以外へ及ぼした影響(谷川雁、荒木経惟、石牟礼道子、安丸良夫、本多勝一、鶴見俊輔、網野善彦、宮崎駿、草野マサムネなど)についても話が進んだ。

それらのなかで、やはり心にじ~んと来たのは、木村哲也氏が引用した、司馬遼太郎の宮本常一を評した際の次の言葉だ。

人の世には、まず住民がいた。…国家はあとからきた。忍び足で、あるいは軍鼓とともにやってきた。国家には興亡があったが、住民の暮らしのしんは変わらなかった。…そのレベルの「日本」だけが、世界中にどの一角にいるひとびととも、じかに心を結びうるものであった。

あれだけの大量の記録を残した宮本常一だが、長田育恵氏によれば、彼は「国のために」とは一切書かなかった。宮本常一が見ていたのは人間だった。長田育恵氏の言葉を借りると、「人間は会って数秒でこの人が信頼できるかどうか決めてしまう」「宮本常一はこの出会いの一発勝負に勝つ突破力を持っていた」と宮本常一の微笑みの秘密を読み解いた。

なぜ宮本常一は市中の人々から、行政や公式発表に現れない、あれだけの情報を読み取れたのか。パネリストはその不思議について語ったが、この分野こそが、私の学んできたファシリテーションの技法が有効で、少しでもそれに近づけることを目指すべきではないかと思った。

木村哲也氏は、晩年の宮本常一について、故郷の周防大島へ戻って私塾を起こし、既存の枠にとらわれない、自分たちで企画する新たな知を生み出すことを目指していた、と指摘された。宮本常一の姿勢で最も学ぶべきことは、人々を信じ、人々の主体性を何よりも重視したことだった。

私は今、地域の人々が主体的に自分たちの地域について学び、足元から新たな知を自ら生み出せるような働きかけをしていきたいと考えていた。その意味でも、移動に移動を重ねてきた末の、晩年の宮本常一の私塾への思いからも、大いなる勇気を与えられた気がしている。

ローカルとローカルが繋がって、そのなかから新しい価値を生み出す。移動する良質のよそ者が他のローカルの事例を伝えて比較の眼を与え、その地の人々に主体的な知の創造を自ずと促していく。抽象化や一般化ではなく、そこにある事実をしっかりと記録し、記憶し、その事実からすべてが始まる。

偉大なる人物としての宮本常一を崇拝することを、本人は絶対に望んでいないと思う。そうではなく、地域に生きる本人が意識するとしないとに関わらず、宮本常一が願った主体的な地域づくりをたくさんの無名の「宮本常一」が担っていくことなのではないかと思う。

自分の役割は、自分がローカルとローカルをつなげるだけではなく、そうした仲間を増やし、無名の「宮本常一」をしっかりと地域に根づかせていくことなのではないか。

学び、ということを意識した自分にとって、その方向性が決して誤ったものではない、宮本常一が願った未来へ向けて動くために自分が担う次のステップなのだ、ということを、今回のトークイベントを通じて改めて理解した。

併せて、その文脈で、アートや写真の役割についても、これまで以上に、十分な注意と理解を進められるように、少しでも努めていきたいと思った。

わずか1時間半のトークイベントだったが、出席して本当に良かった。

福島市の冬の風物詩「光のしずくイルミネーション」

福島市の冬の風物詩といえば、「光のしずくイルミネーション」である。1月31日まで、福島駅東口広場とパセオ通り及びその周辺で、総電球数20万個が夜を光で彩っている。

今回の福島滞在でも、パセオ通りで眺めることができた。

今や、日本中のあちらでもこちらでも、LED電球を使ったイルミネーションが花盛りで、他と比較して際立たせるには、ただ光らせるだけではない、何らかのプラスアルファが必要である。それも、ポジティブなプラスアルファが・・・。

この福島市の冬の風物詩は、東日本大震災の後に始まったと記憶している。パセオ通りに植えられ、電飾を施された木の一つ一つに、福島に少しでも希望をもたせようとするかのような詩が一つ一つ掲げられていた。その詩に私も勇気づけられたものだった。

今は、それはない。電飾を施された木々だけが立っている。

人々は今、このイルミネーションに何を思うのだろうか。

一人ひとりの状況は違うだろうが、希望は取り戻せたのだろうか。新たな希望は生まれたのだろうか。

夕方5時過ぎ、イルミネーションの光るパセオ通りを行き交う人々の姿はほとんど見られなかった。

光のしずくは、どこか寂しげだった。

よりどりインドネシア第61号発行

本日(1/8)、月2回発行のウェブ情報マガジン『よりどりインドネシア』第61号を発行しました。今回は3本、内容は以下の通りです。

▼コナウェ県の架空村騒動と村落資金(松井和久)
2019年末、各村均等に資金を配分する村落資金を受け取るための架空村の問題が明らかにされました。東南スラウェシ州コナウェ県の架空村の事例について、少し詳しく見てみました。
▼ロンボクだより(27):ゴミ銀行を始めた青年との対話(岡本みどり)
岡本さんの好評連載、今回はゴミ銀行を始めた青年との対話です。この青年に岡本さんがどうしても訊きたかったこととは、何だったのでしょうか。
▼南スラウェシの木造船、現状と課題~タナベル、ガレソン、パンダラ、パオテレ港を廻って~(脇田清之)
脇田さんは2019年末、南スラウェシの伝統帆船ピニシの現状と課題を探るために、いくつもの現場を訪問しました。今回はその時の様子を書いていただきました。

2003年8月にお会いしたジョグジャカルタ郊外で編みバッグを製造しているご夫婦

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以上、よろしくお願いいたします。

嫌な言葉をたくさん目にした日、日本語個人ツイッターを止めます

今日1月6日、官公庁や企業などは仕事始め。新しい2020年を迎え、スタートの日。今年は・・・との決意や希望を表明し、成就を祈る日でもある。

そんな日なのに。いや、そんな日だからこそなのか。

今日は本当に、嫌な言葉をたくさん目にした日になった。そんな日であって欲しくなかったのに。

その1。新宿駅南口で自殺を図った人がいたというツイート。幸い、自殺未遂だったようだが、その人のことを、場所を選べ、とか、みんなの迷惑だ、とか、非難するツイート。そして、その自殺を図った人に向けてその場にいたたくさんの人々がスマホで写真を撮っていたというツイート。何なんだろう、いったいこれは。

その2。ある元政治家が入水自殺したという記事。この方のツイートはフォローしていたのだが、たしかに言われているように、執拗な嫌がらせや誹謗中傷を受けていらした。そして、自殺だったと報道された後も、相変わらず誹謗中傷し続けるツイートが止まらない。何なんだろう、いったいこれは。

その3。朝日新聞で読んだ「津久井やまゆり園」事件の被告の言葉。「障害者は不幸の源だ。ベストを尽くした」「テレビで真実を語るのを見たんです」「『意思疎通ができない重度障害者は要らない』と言えない社会になっている。でも真実を言っていいんだと思った」「人生で一度も一番になったことがない。事件を起こし、かっこいい、役に立つ人になりたかった」「役に立てば金になると思った」

人の迷惑だ。役に立たない。生きている意味がない。

誰に言われなくとも、自分自身でそう思って自分の命を絶つ人。常に人からそう言われて、自分の命を絶つ人。匿名の生身の人間の集団がみんなで殺しているのではないか。でも、誰も殺人罪に問われない。そして、自分の命を絶つ人を「弱い人」といって糾弾し、捨てる。

誰かが勝手にレッテルを貼る。それに匿名の大勢が加勢する。世論を作るのは簡単だと豪語する奴がいる。そして誰も責任を取らない。匿名だから。

私たちは、こんな世の中を作るために生きてきたのか。

こんな病んだ社会を作るために、先達者たちは必死になって働いてきたのか。子供を育ててきたのか。がんばってきたのか。

社会を駄目にしているのは・・・私たち自身なのだ。

日本語の個人ツイッターは止めよう。これまで私は実名で投稿してきた。別に嫌がらせを受けているわけではない。でも、もう加担したくない。

自分がツイッターを始めたのは、その頃はやっていたミクシーが陰湿になっていて、それとは違う、ポジティブな言葉がたくさんあったから。でも、今や、昔のミクシー以上にツイッターは醜くなった。

ポジティブな言葉がまだ生きている非日本語ツイッターは、まだしばらく継続してみる。松井グローカルの法人ツイッター(日本語)は継続する。

自分がこの世を去るまでに、少しでも世の中が温かさ取り戻せるよう、身の回りから努めてみる。

Want to learn local development cases in Korea, China, Taiwan and others

I want to know and learn current local community development activities especially in Korea, China, Taiwan, and other countries. I believe there are co-current and same phenomena happened in those activities as in Japan. If possible, I want to visit there to learn them directly.

初詣に行って、初耳の「夏詣」

正月は1日、2日は家でゴロゴロしていたが、3日は近くの天祖神社へ初詣に出かけた。正月三が日を過ぎると、今年の破魔矢を得られなくなるかもしれないからだ。

我が家は、一応、天祖神社の氏子。初詣の際に、去年の破魔矢を神社に持っていって、新しく今年の破魔矢をいただいてくるのが、毎年の恒例行事。予想通り、初詣の人々で、天祖神社の前は行列ができていた。4列に並んで順番に拝礼する。

初詣に来た人のなかには、ご朱印をもらうために社務所に並んでいる人もけっこういた。へーっと思っていると、ご朱印をもらうためのご朱印帳も販売している。

拝礼してすぐ、ふと下を見ると、「都電神社めぐり」という冊子が置かれているのに気がついた。

ほおーっ、都電沿いの神社をスタンプラリーのようにまわるのか、と思ったら、飛鳥山の七社神社、雑司が谷の大鳥神社、そしてここ大塚の天祖神社の3社しか載っていない。

なぜこの3社、と思ったら、共通点があった。夏詣を行っているのである。

夏詣、とは初耳だが、神道の世界ではなにかそんなものがあったっけ?

「都電神社めぐり」には以下のように記されていた。

我々日本人は大晦日に「年越しの大祓」で一年の罪穢れを祓い清め、翌日の元日は新しい年の始まりとして、その都市の平穏を願い神社・仏閣に詣でる「初詣」を行います。その始まりから6ヵ月、同じく罪穢れを祓い清める「夏越しの大祓」を経て、過ぎし半年の無事を感謝し、来る半年の更なる平穏を願うべく、年の半分の節目として、7月1日以降に神社・仏閣に詣でます。

ほおーっ、そうなんですかと思っていると、すぐ次に次のように書かれていた。

この新たな習慣を「夏詣」と称して、我が国の守り伝えるべき風習となるよう、共に育てていきたいと思います。(夏詣実行委員会)

夏詣って、新しいものなのだった。もっと人々に神社へ来てもらうために、新しく作ったイベントのことだったのである。ちなみに、夏詣期間中(7月1~7日)は、限定のご朱印がもらえるとのこと。ご朱印をもらうのも一種のスタンプラリーだった。

あと10年もすると、夏詣するのが普通だって思うような世の中になっているのだろうか。この手のものは、結構たくさんあるような気がする。こうして、知らない間に、「伝統」とか「風習」とかが、場合によっては、何らかの意図を持って作られていくのかもしれない。そう考えると、どうしても敏感にならざるを得ない。

2020年、新年のご挨拶

あけましておめでとうございます

 旧年中は大変お世話になりました。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

日本と海外(インドネシアなど)の地域づくりをパラレルに見ていると、その同時代性を強く感じます。ローカルとローカルがつながり、新しい価値と深い学びが持続的に生み出される。そんな世界を目指して、微力ながら精進したいと思います。

インドネシア・東ジャワ州バトゥ市の若き農業者たちと一緒に。
生産者と消費者を結ぶ動きはここでも試みられている。 [2019年5月]

2020年、新年のご挨拶

あけましておめでとうございます

旧年中は大変お世話になりました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

日本と海外(インドネシアなど)の地域づくりをパラレルに見ていると、その同時代性を強く感じます。ローカルとローカルがつながり、新しい価値と深い学びが持続的に生み出される。そんな世界を目指して、微力ながら精進したいと思います。

写真:インドネシア・東ジャワ州バトゥ市の若き農業者たちと一緒に。生産者と消費者を結ぶ動きはここでも試みられている。 [2019年5月]

Ucapan Tahun Baru 2020

Selamat Tahun Baru 2020 !

Terima kasih banyak atas bantuan yang diberikan pada tahun 2019. Semoga kehidupan dan kerja Bapak/Ibu penuh cinta dan damai pada tahun 2020.

Melihat pengembangan lokal Jepang dan luar negeri (Indonesia dll.), kami merasa ada kesamaan zaman dalam upaya-upayanya. Terhubung lokal dan lokal, muncullah nilai-nilai baru dan pembelajaran dalam secara berkelanjutan. Kami berusaha sebaik mungkin untuk menuju dunia seperti itu.

Foto: Bersama petani muda di Kota Batu, Provinsi Jawa Timur, Indonesia. Gerakan untuk menghubungkan antara produsen dan konsumen juga teruji di sini. [Mei 2019]

New Year Greetings 2020

A Happy New Year 2020 !

Thank you very much for your kind support in 2019.
We wish you love and peace for your life and work in 2020.

Looking at the local development of Japan and overseas (Indonesia etc.), we feel those actions cocurrently happen. Local and local connect, and new values and deep learning are created sustainably. We would like to do our best to realize such world.

Photo: With young farmers in Batu City, East Java, Indonesia. The movement to connect producers and consumers is also tried here. [May 2019]

2019年大晦日、でも世界は常に動いている

2019年がもうすぐ終わる。

大晦日に紅白を視なくなって久しいが、今年は、TV5 Mondeでフランスのアニメ映画を視た後、BBCを視ている。昨年は、ネットで見つけた、ロシアの大晦日番組を家族で視ていた(今年やっていたかどうかは確認できなかった。残念)。

トップニュースは、米国によるイラクの親イラン組織への爆撃に抗議する、イラクの米国大使館への激しいデモの様子だった。そして、カルロス・ゴーンのレバノンへの逃走、オーストラリアの制御できない大規模な火災。香港では、年末年始、依然として大規模なデモが続いている。

世界は常に動いている。

そして、年末年始を厳しい状況で迎えなければならない、様々な境遇の人々がいる。

そんなことを思いながら、東京の自宅で、妻と一緒に、ナマスを作っていることが、ささやかではあるが、恵まれていることなのだと改めて感じ、それに感謝する。

想像力。他者への想像力をさらにさらに研ぎ澄ませていきたい。

1年の終わり。それは新たな始まり。

門松を立てる?

もうすぐ新年。我が家では、毎年、門松を立てる。長年知り合いの方が御用聞きにやってきて、塀の前の穴に門松を立ててくれるのが、年末の恒例行事の一つである。

門松といっても、大きな竹が3本立っている、よく絵にあるものではなく、このへんでは、細い松の木を立てるのが普通である。

我が家の近所の門松については、2019年1月に次のブログ記事を書いたので、参照してみて欲しい。

 我が家の近所の一風変わった「門松」

我が家の従来の門松は、上のブログ記事で説明したものよりもずいぶん小ぶりなものだ。でも、今回は、ちょっと様相が違った。知り合いが御用聞きに来なかったのである。

その理由は、今、自宅を建てていて、門や塀がない状態だから、のようである。

それでも、門松は立てたいよね、ということになり、毎年、正月飾りを買う屋台(御用聞きに来る知り合いがやっている)で小さい松の木を一緒に買って、自分たちで付けてみた。

小さい門松に輪飾りを付けた。まあ、とりあえずの門松。

自宅は2020年1~2月頃に完成の予定。来年は、通常通りの門松を立てられそうだ。

自由大学の講義を受け始める

東京の表参道に「自由大学」という場所がある。大学という名はついているが、文科省認可の大学ではない。

 自由大学

教えてみたい人が講座をつくり、学びたい人が集う。カルチャーセンターとも違う。5~6回程度の連続講義で、けっこうしっかり学べる。

でも、入学試験や資格試験に合格するために学ぶのでもない。就職を考えて受ける講義ではない。

自由大学」の受講生には、年齢も性別も、何の制限もない。学びたい人なら誰でも集えるのである。

教えてみたい人は、講義計画を作って、「自由大学」のなかでのレクチャー・プラン・コンテストでプレゼンし、その審査を経て、講義として魅力的であれば採用され、「自由大学」で教えることが可能になる。

ユニークな講義がたくさんある。昆虫食学、穴学、未来の仕事、20年履ける靴を育てる、自分の本をつくる方法、などなど、実にユニークだ。

教わる人にとって、魅力的な講義とはなんだろう。

こうしたことを考えて、実際に講義計画を作ってみる、という目的をもった、Lecture Planning学というのを今回受講している。

一般の大学だと、講義計画は大学の教師が作る。それもOKだろう。だが、この自由大学では、こんな講義をしたいという発想はむしろキュレーターから生まれ、その発想に合う教師を見つけてくる、という感じである。講義を作るにあたっては、キュレーターの役割がずっと重要なのだ。

そういえば、昔、研究会を組織したときに、誰を研究会の委員にしてみたいか、それはなぜか、なんていうことを考えたものだ。自分が主査の研究会で、自分の人選した委員と一緒に研究会を進め、成果物を一緒に出す、といった作業は、とてもやりがいのある、楽しい仕事だった。

自分は、その意味で、教師よりもキュレーターのほうが向いているのかもしれない。

そして、自分が講義を作るだけでなく、講義を作るノウハウをより確実に身につけたうえで、日本中・世界中のどこででも、そうした学びの場が生まれるような、お手伝いができるようになるのではないか、と思い始めた。

社会教育というのともちょっと違うかもしれないが、それを包含できる。フリースクールというのともちょっと違うかもしれないが、それも包含できる。とくにローカルな場でこそ、そんな学びの場づくりを促していけるのではないか。

コミュニティ再生の場として、従来の公民館はどのような役目を果たすようになるのだろうか、といったことも頭に浮かぶ。友人のなかには、もっとゆるい市民による場づくりにCO-MINKANという名をつけて、広げていこうとしている動きもあり、自分も個人的に賛同している。

来年以降の方向性が少し見えてきた。中世のボローニャで、学びたい者が集まって自然に生まれていったのが、「大学」の源泉の一つだとするなら、損得や利害とは無縁な、小さな学びの場づくりを少しずつ広げていくことに意味があるのではないか。

いろいろなことを考えながら、2月初めまで、表参道でLecture Planning学の講義を5回受けてみる。そして、その先も構想している。

面白くなってきた。

今年のクリスマスは福島で用務

12月23~25日、世の中ではクリスマスの時期だったが、今年は福島で用務だった。

落ち着いて考えてみると、自分がしなければならない用務だったのかどうかは、少々疑問だが、ともかく、やってほしいと依頼された用務だった。

組織から離れ、一匹狼的に動いている自分のやるべきことは何か。やるべきことではないがやってあげたほうがよいことは何か。色々と考えている。

よりどりインドネシア第60号発行、これで2年半継続、新たな展開へ

試行錯誤で始めたウェブ情報マガジン「よりどりインドネシア」。

月2回発行で、今回が第60号、つまり、初めて発行してから2年半が経過したことになる。内容は、以下のサイトを参照してほしい。

 よりどりインドネシア

よりどりインドネシア第60号のカバー写真

おかげさまで、2019年12月23日現在、会員は83名(ウェブ登録会員74名、PDF版購読会員9名)。少しずつ、少しずつ、読んでくださる方の数が増えてきた。

「よりどり」の特徴の一つは、現地に在住する方々が連載を続けてくださっていること。

ロンボク島在住の岡本みどりさんは、「ロンボクだより」を毎月前半の号に連載してくださっている。

中ジャワ州ウォノソボ在住の神道有子さんは、「ウォノソボライフ」を毎月後半の号に連載してくださっている。

いずれも、筆者の日々の生活に根ざした、在住者だからこそ書けるバラエティに富んだ内容で、本当に貴重な連載だと思う。いずれ、それぞれまとめて、合冊本として出版してみたいという個人的な希望もある。

お二人に加えて、インドネシアをこよなく愛するジャカルタ在住の横山裕一さんが、彼ならではの筆致で「いんどねしあ風土記」を連載している。横山さんの連載を読んでいると、あたかも彼と一緒にインドネシア各地を旅しているかのような錯覚に陥りそうだ。

また、インドネシア在住ではないが、歴史研究家の脇田清之さんは、第二次世界大戦前後のインドネシアに在住していた日本人の記録を丹念に追いかけており、その成果をいくつも「よりどり」のなかで披露していただいている。

「よりどりインドネシア」は、いくつものインドネシアを伝えていく場である。さらにたくさんの書き手が、もっともっと私たちの知らない、いくつものインドネシアを伝える仲間として、加わってもらえたらと思っている。

あなたのインドネシアを「よりどり」に書いてみませんか。書き手の仲間に加わってみませんか。

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読み手の仲間に加わっていただける方、誠に恐れ入りますが、有料マガジンとなっております。月2本で毎月750円+税。

ウェブ上で登録すると、1ヵ月の無料お試し期間の後、毎月、クレジットカードから購読料が引き落とされます。ウェブ上での登録はこちらから→「よりどりインドネシア

ウェブ登録のほか、PDF版での購読も可能です。この場合、毎回、PDF版を指定のメールアドレスへお送りします。料金の支払いは、6ヵ月分または12ヵ月分まとめての銀行口座振込となります。ご希望の方は、メールにてお知らせください(matsui@matsui-glocal.com)。支払いは日本円またはインドネシア・ルピアでお願いします。

ウェブ登録された方でも、PDF版も欲しい方は、毎回お送りいたしますので、遠慮なくお知らせください。

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2020年からは、「よりどりインドネシア」講演・交流会をもっと頻繁に開催したいと思っています。

場所は東京でも、大阪でも、名古屋でも、福岡でも、ジャカルタでも、スラバヤでも、シンガポールでも、ニューヨークでも、どこでも。

自分のところでやりたい!という方がいらっしゃれば、ぜひご相談ください。

いくつものインドネシアを伝え合い、語り合い、学び合い、楽しみ合える場をつくり、日本人とかインドネシア人とかを超えた、面白いつながりをゆるくしなやかに作っていければと思っています。

長くなりましたが、以上です!

久々の新宿中央公園

昨日と今日は、所用で妻と新宿へ。用事を済ませた後、新宿中央公園へ久しぶりに行ってみた。

大学生だった頃はよく来た新宿中央公園だが、それからずっと長い間、訪れることはなかった。昔のイメージとはずいぶんと変わった気がした。

それでも、まだ秋の名残が感じられる景色に彩られていた。

イチョウ以外の木々の葉は、ほとんどがもう落ちていた。ちょうどお昼時で、南側からの陽の光がいい具合にイチョウを照らしていた。

少しだけだが、まだ紅葉も。

新宿中央公園の入口って、昔もこんなだったのだろうか。記憶が定かではない。

学生の頃に比べると、イチョウの色づきが2週間程度遅くなっている印象だ。

久々の新宿中央公園は、イチョウの色づきを楽しめた、のどかで穏やかな昼下がりだった。

昨晩、ベルリンの壁崩壊後の東欧諸国で、為政者が情報統制に精を出し、独裁色を強めていることを伝えるドキュメンタリーを視た。そこで起こっていたことは、まさにこの国でも起こっていること、そのものだった。

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