原田正純先生の思い出
6月12日が原田正純先生の命日だった。原田先生とお会いしたのは一度だけ。それも、インドネシアでお会いしたのだった。
6月12日が原田正純先生の命日だった。原田先生とお会いしたのは一度だけ。それも、インドネシアでお会いしたのだった。
外出自粛でテレワーク、インターネットを利用したテレビ会議が花盛りとなっていますが、私も今日(5/16)、ようやく、遅ればせながら、東京の自宅でZOOMデビューしました。
5月13日、私の友人がマカッサル市長代行としての一年の任期を終えた。最後は、マカッサル市に大規模社会的制限(PSBB)と呼ばれるセミ・ロックダウン措置を発動し、新型コロナウィルス対策の陣頭指揮を採っていた。
8月23日、ダリケーのカカオツアーの最後は、参加者と一緒に、マカッサルで夕陽を見ました。この日はやや曇り気味で、水平線に落ちる夕陽は期待薄だったのですが・・・。
日が落ちる前、日が落ちる瞬間、そして日が落ちてしまった後、その移り変わりをじっくりと味わうことができました。
手前味噌で恐縮ですが、筆者が毎年コーディネーターとして関わっている、ダリケー主催のカカオツアーが単なるツアーではない理由について、説明したいと思います。
カカオの会社ということで、チョコレートを製造・販売することはもとより、他者とコラボして、カカオ油脂を活用したリップクリーム、カカオ茶などの商品を開発・販売するほか、カカオのさらなる可能性を探って、カカオから味噌を作る試みなども行ってきました。
インドネシアは、西アフリカのコートジボアール、ガーナに続く世界2~3位のカカオ生産国であるにもかかわらず、日本ではほとんど知られていません。その理由は、インドネシア産カカオの大半が未発酵カカオだからです。なぜそうなのかの話は今回は置いておいて、ダリケーは、スラウェシ島のカカオ農家グループと組んで、発酵カカオ生産の拡大を図り、それを自社の商品に生かしています。
毎年8月に実施されるカカオツアーは、そのカカオ農家グループを訪ね、交流するツアーなのです。ツアー参加者の多くは、カカオやチョコレートが好きな方々で、家族で参加される方、大学生、お菓子業界の方、新規ビジネスを考えている方など、様々な方が参加されます。今年は、8月18~25日の日程で、20名が参加されました。
ダリケーのカカオツアーは、ただのツアーではありません。その理由は、たとえば、以下のようなものが挙げられると思います。
チョコレートが大好きな方々も、その材料のカカオがどんなものなのか、すぐには想像できないのではないでしょうか。カカオ豆は、大きなカカオのなかに入っていて、それを割った、白い果肉のなかの種です。白い果肉はどんな味がするか、どうやってカカオを割るのか、そんなことを実際に経験してもらえます。
そのカカオ豆がどのようにして発酵されるのか、発酵するとどれぐらいの温度になるのか、発酵されたカカオはどのように乾燥され、最終的にチョコレート原料になるのか、そのプロセスを現場で見ることができます。
理由2.参加者はカカオの苗木を植える!
参加者はそれぞれ、1本ずつカカオの苗木を植えてもらいます。カカオは3~5年ぐらいで成長して実をつけます。自分の植えたマイ・カカオがどう育っているか、ずっと楽しみに待つことができます。
理由3.カカオ農家と直接対話できる!
実際に、ダリケー向けにカカオを作っているカカオ農家さんと直接会って、対話する機会があります。参加者からの質問に、カカオ農家さんが誠実にお答えしてくれます。逆に、カカオ農家さんからツアー参加者に質問が出ることもあります。
カカオ農家さんとチョコレート消費者が直接出会う、というのがこのツアーの醍醐味なのです。生産者と消費者がお互いの存在を確認し、相互に信頼と尊敬をし合うこと。消費者であるツアー参加者は、自分たちが大好きなダリケーのチョコレートの大本を担っているカカオ農家さんに感謝の意を示す。すると、カカオ農家さんは、自分たちの作っているカカオを認めてくれたツアー参加者に感謝して、さらにより良いカカオを作るモチベーションを上げる。そんな関係が生まれていくのです。
余談ですが、今回のツアーでは、そんな農家さんのなかに、ただカカオを作るだけでなく、他の農家へ発酵のしかたを技術指導したり、他の農家さんに代わって発酵を手伝ったりする農家さんと出会いました。その彼は、「ダリケーのTシャツを着ている農家は、高品質の発酵カカオを作れる農家と見なされるので、皆、ダリケーと取引をしたいと言ってくるんだ。ダリケーのTシャツを着ることは誇りなんだ」と何度も繰り返しました。
理由4.カカオツアーはカカオだけではない!
このツアーは、カカオだけではありません。カカオ以外にも、スラウェシの地域社会や人々との交流に重きが置かれています。
そのため、カカオ農園を訪問した後も、様々なアクティビティが詰まっています。カカオに詳しくなるだけでなく、その地域の人々とも存分に触れ合う内容になっています。
たとえば、地元の市場や小学校を訪問するのですが、ただ訪問するだけではありません。そこでは、ツアー参加者にとって忘れられない数々のアクティビティが行われます。また、地元の驚きの伝統芸能を体感する機会もあります。
そして、このツアーの隠れた評判は、実は食事です。この食事の美味しさは、歴代のツアー参加者も絶賛しているものです。ツアー参加者の全員がお代わりをするほどです。それはどんな食事なのでしょうか。どこで誰が作っているのでしょうか。
あんまり細かく書くとネタバレになってしまうので、この辺で留めておきますが、毎年参加していただいても、マンネリにならない工夫を常にしています。
なお、本ブログの過去記事でもこのカカオツアーの話を書きました。あえてリンクは載せませんが、そちらをさがして読んでいただければ、ツアー内容についてのヒントが分かるはずです。
マンネリを避けると同時に、時間に追い立てられることなく、参加者の皆さんに、ゆったりといい時間を過ごしていただくことも重視した、スケジュールを組んでいます。たとえば、フィールドへ出るのは、日中の日差しが強く暑い時間帯を避ける、といった点をもちろん考慮しています。
このツアーは、日本からの参加者以外に、インドネシアや外国在住の方々も、現地(マカッサルまたはジャカルタ)集合の形で参加することが可能です。
筆者も、今回で6回目のツアー引率を務めましたが、毎年、進化を遂げるツアーだと感じています。来年はどんなツアーになるのでしょうか。
今、このブログを読んでいらっしゃるあなたと、必ずや来年ツアーでお会いできることを楽しみにしております。
3月7~16日はインドネシアへ出張していました。
色々とバタバタしていたため、ブログの更新ができない状況でした。そのときの様子も、適宜バック・デイトしながら、少しずつ、ブログを更新していきます。
インドネシアから帰国後、すぐに宮城県塩釜へ行き、その後、福島で長時間の打合せとビジネスセミナーに出て、終電1本前の新幹線で東京の自宅へ戻ったので、3月19日の午前中はしばしゆっくり休もう、と思っていたら・・・。
携帯のSNSにインドネシア人の友人から「今日、午前10時に池袋で面会って約束したよね?」というメッセージ。あれ、21日夜の約束じゃなかったの?、と返したら、19日午前と21日夜の2回会うという約束だったはず、との返事。
二度寝して起きたのが午前9時半。まずい、と思って、「10時半に行くから」と返事をし、慌てて、池袋へ向かいました。
池袋に着くと、友人は、20人ぐらいの中学生を連れてきていました。マカッサルのボソワ国際中学校に通う中学生たちで、日本への研修旅行2日目でした。
サンシャインのポケモンセンターの前で、私から軽くあいさつした後、彼らはポケモンセンターのなかへ消えていきました。その後は、しばし、友人と引率の中学校の先生と懇談。熱の出た子がいたので、薬局へ熱さまシートを買いに行きました。
しばらくして、おそろいのポケモンの袋とともに、嬉しそうに出てきた中学生たち。アニメのことをもっと知りたい、という子が多いようでした。
サンシャインの前で記念写真を撮った後、次の目的地へ向かう彼らとお別れしました。
そして、私は、午後の用事へと向かいました。
インドネシア人の友人A氏がカナダの大学で博士号を取得しました。彼はとても嬉しくて、これまでお世話になった友人・知人・恩人にお礼のメッセージを送っていました。
彼とは2001年に初めて会いました。マカッサルで同世代の若者たちと一緒に、小さな図書館を作るなどの社会活動を行っていました。私ともかかわりの深い、後のマカッサルのイニンナワ・コミュニティにつながる、ささやかな活動をしていました。
そんな彼と彼の仲間たちと一緒に行動するきっかけは、2002~2003年に彼らと一緒に、南スラウェシ州の村で、日本の学生とインドネシアの学生とがともにフィールドワークを行うプログラムを実施したことでした。
このプログラムは、日イの学生が1週間程度村に入って、村の方々のお宅にホームステイしながら、村の方々と対話するなかでそこでの生活から様々なことを学びます。
当初、学生は「村の問題をどう解決するか」「村をどう発展させるか」を考えようとするのですが、現場での学びのなかから、村の方々が気づかないような村の生活の価値や良さを見い出します。そして、村での生活の最後に、彼らが学んだ事を村の方々に分かるような方法(寸劇など)で発表し、村での活動への協力に感謝を表します。
このプログラムを通じて、フィールドでの行動を共にした学生たちは真の友人となり、各方面で活躍する現在も、強いネットワークで結ばれています。
このプログラムの日本側オフィサーだったのがSさんで、今回、A氏は彼女にもお礼をしたくて、コンタクトをしようとしてきました。
ところが、連絡しても一向に反応がないというのです。Sさんのフェイスブックページは、昨年4月以降、更新されていないということでした。
A氏に頼まれ、関係者に訊ねていたところ、今朝になって、Sさんが昨年4月に、アフリカで亡くなられていたという情報を、プログラム参加者の一人だった友人から知らされました。その友人は、Sさんが亡くなる前日、夕食を共にしていたということでした。
Sさんは、上記のフィールドワーク・プログラムの仕事の後、長い闘病生活に入りました。同プログラムに関わった友人・知人たちは、Sさんに生きてほしい、生き延びてほしい、とずっと願い続けました。そして、幸運にも、Sさんは病に打ち勝ち、仕事に復帰しました。
復帰後は、英国の大学院で学んだ後、アフリカにわたり、国際協力活動により一層取り組んでいる様子でした。
1年近くもSさんが亡くなったことを知らずにいた自分を恥じました。
フィールドワーク・プログラムを一緒に手掛けた15年ほど前、インドネシアの村の現場で、これからの学生たち・若者たちが造っていく未来を共に語り合ったのを思い出します。そして、Sさんの存在がマカッサルの若者たちの活動を後押しし、イニンナワ・コミュニティに結実していくさまを、私はずっと見てきたのでした。
明日は何が起こるか分からない。だから今を懸命に生きるしかない。
Sさんと語り合った、目指すべき未来を、プログラムに関わった友人・知人とともに造り続けていくことを、改めて心に誓いました。
Sさん、もうずいぶんと時間が経ってしまいましたが、どうぞ安らかにお休みください。そして、ずっと見守っていてください。
福寿草がたくさん咲く季節になりました。
11月21~23日にスラウェシ中部地震被災地を訪問し、多くの友人の安否を確認し、現場で動いている様々な友人・知人と会い、意見交換しながら、次の支援プログラムを考え始めています。
現段階では、まだおぼろげな状況ですが、今週から来週にかけて、何人かの同志的仲間と会い、話し合い、より明確になった段階で、再び、皆さんに呼びかけを行いたいと考えています。
もう少し、お待ちください。
それにしても、という思いがあります。
2011年の東日本大震災の後、故郷・福島を含む東北地方は今もいろいろな意味で厳しい状況に置かれています。だからこそ、福島から、東北から、古きを敬いながらそれを踏まえた新しい動きを創っていきたい、という気持ちが、法人登記を福島市にさせた一つの要因でした。その後、福島で何が起こっていったか、プラスもマイナスも、私なりに観察し続けてきています。そして、福島の正負両方の経験を次に生かしていかなければならないと思っています。
そして、JICA長期専門家(地域政策アドバイザー)として過去に計7年以上関わり、今もその深い絆を意識し、たくさんの仲間が活躍しているスラウェシで、今回、地震・津波・液状化という災害が起こりました。
自分の人生のなかで、まさか、自分が最も大切に思っている福島とスラウェシの両方で、甚大な災害に見舞われ、そこからの立ち直りをどうしていったらよいか、考えることになるとは思いもよりませんでした。
自分の関わりの度合いの深さが、自分の行動を決定づけている面があります。福島以外の日本各地やスラウェシ以外のインドネシア各地の災害に対して、決して無関心であるわけではないのですが、どうしても、自分にとって思い入れの強いところに傾いてしまうのは、やむを得ないことです。すべて平等に、と、雲の上から鳥瞰的にみられる神様のような存在に自分はなることはできません。
ですから、「他はどうでもいいのか?」という批判は受けますが、もはや雲の上の立派な存在ではあり続けられないということを正直に吐露したいと思います。それは、私の能力不足なのかもしれませんが、自分が超越したすばらしい人間でなければならないとも思えませんので、正直に申し上げるしかない、というのが実状です。
きっと、他の地域には、そこへの思い入れのある方々が同じように動いていることでしょう。それでいいのだと思います。
私も関係している「スラウェシ研究会」という自主的な勉強会があります。この会には、かつて戦時中、マカッサルに置かれた日本軍政下の民生部で働いておられた90歳を超える方や、過去に在マカッサル日本総領事を務められた方、JICA専門家でマカッサルに派遣されたのをきっかけに太平洋戦争前後のスラウェシでの日本人の足跡を丹念に追い続けている方など、マカッサルやスラウェシに特段の思いをもって、自分の人生経験のなかの大事な場所と位置づけ、関わり続けている方がいらっしゃいます。
そうした方々も、今回のスラウェシ中部地震被災地支援では、何度も何度も、募金と温かい言葉をお送りくださいました。彼らの脳裏には、自分たちがかつて経験したスラウェシやマカッサルの具体的な人々の名前や出来事があり、スラウェシのために何としても役に立ちたい、という気持ちが込められていたのだと思います。もしかすると、それは、スラウェシへの恩返しをまだ十分にしていないという気持ちを含んだものなのかもしれません。
私は、実はそうなのです。これだけ関わってきたスラウェシに対して、恩返しをまだ全然行えていない、と。
スラウェシの人々への思いを生前に語ってくださった尊敬できる先輩方も多くいらっしゃいます。今回、支援活動を試みながら、そうした方々の声が再び聞こえてきたような気がしました。
長年スラウェシに関わってこられた方のスラウェシへの思い。それをちゃんと受けとめたうえで、しっかりと腰を据えた支援活動を行っていく責務がある。そんな気持ちが、11月に、たとえ自腹でも、被災地訪問を決意させた理由の一つでした。
こんなことを思いながら、スラウェシ中部地震被災地支援のネクストを考えていきます。引き続き、よろしくお願いいたします。
11月20日、マランからスラバヤ経由で昼過ぎにマカッサルに到着しました。
まずは、一年以上の音沙汰のなかった、昔マカッサルに住んでいたときのお手伝いさん夫婦にいきなり会いに行きました。彼らの携帯番号がたくさん記憶されていて、どの番号なのか分からなかったからです。携帯の支払いが途切れると、自動的に、番号が使えなくなるため、放置しておくと、そうなってしまうのです。
ちょうど1週間前の8月25日、インドネシア・マカッサルから来日した作家や詩人ら6名を福島へお連れしました。彼らは、マカッサル国際作家フェスティバルの主宰者やキュレーターです。
実はこの8月25日ですが、この日の朝、スラウェシ島でのカカオ農園ツアーを終えて帰国しました。参加者と解散して別れて、羽田空港でスーツケースを自宅へ送った後、マカッサルから来日中の彼らを迎えに行き、新幹線に乗って福島へ向かい、用務を終えた後は、最終1本前の新幹線で彼らと一緒に東京へ戻る、という、なかなか怒涛の一日でした。
今回の彼らの訪問は、国際交流基金の支援によるもので、今年5月、福島の詩人・和合亮一さんをマカッサル国際作家フェスティバルに招聘したプログラムの続きの意味がありました。彼らは今回、8月25日に、和合さんが主宰して、福島稲荷神社で毎年行われている「未来の祀りふくしま」の本祭を観に来たのでした。
福島に到着後、まだ時間があったので、彼らのリクエストに従って、筆者のオフィスを訪ねてもらいました。筆者のオフィスは、明治6年に建てられた古民家「佐藤家住宅」と同じ敷地内にあるプレハブ小屋です。彼らは古民家をとても興味深く感じたようでした。
私のオフィス内で記念のセルフィ―。
10年ほど前、筆者がマカッサルに滞在していたとき、家の敷地内に彼らの活動スペースを提供し、NGOのオフィスやら、映画上映会やら、セミナーやら、アート発表会やら、民間図書館やら、様々な形で使ってもらいました。彼らのなかには毎日寝泊まりしている者もいて、いつもマカッサルの地元の若者が活動している空間でした。その頃の仲間が今、こうして福島の我がオフィスに来てくれたというのは、なかなか感慨深いものがあります。
その頃からの付き合いで、筆者も、マカッサル国際作家フェスティバルには第1回からほとんど参加してきています。
震災後、マカッサル国際作家フェスティバルに集ったインドネシア国内外の作家たちがどんなに日本のことを思ってくれていたか。フェスティバルの現場で驚くほどの彼らの思いを目の当たりにし、何としてでもこのフェスティバルに東北から作家や詩人を連れて来なければと思い続け、ようやく、今年5月、高校の後輩でもある和合亮一さんを招くことができたのでした。
そして、今度は、彼らが和合さん主宰の「未来の祀りふくしま」へ。
福島稲荷神社に着き、前方のブルーシートのかかった席に彼らを通し、座ってすぐ、山木屋太鼓が始まりました。
震災後、川俣町で唯一避難を余儀なくされた山木屋地区。そこに代々伝わる山木屋太鼓を絶やさず、守ってきた(とくに若い)人々の真剣な演奏が心に沁みました。この太鼓がどんなに人々を元気づけてきたか。評判は聞いていましたが、やはりナマはすばらしい!
続いて、島根県益田市から来られた石見神楽。エンターテイメント精神にあふれた演目で、神楽って、こういうものもありなのか、と思うほど、圧巻でした。素晴らしくて言葉が出ません。
最初は、恵比寿天のコミカルな舞。観客を楽しく笑わせた後は・・・。
いかつい顔のスサノオノミコトが現れ、最後には・・・。
ヤマタノオロチの登場。口から煙を出し、火を噴き、グルグル巻きで暴れまわります。もちろん、最後は、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治して終わります。
日が落ちて、時雨れた通り雨が一通り上がった頃、6時45分から、いよいよ「未来の祀りふくしま」の本祭、新作神楽の奉納となりました。和合亮一さんの詩をもとに、福島の様々な人々が関わって、音楽や踊りを取り入れた、新作神楽を毎年8月、福島稲荷神社へ奉納してきました。今回で7作目になります。
新作神楽の目的は、死者への鎮魂と未来への祈りです。8月は旧盆もあり、死者がこの世にしばし戻ってきて家族と一緒に過ごし、再び向こうの世界へ戻っていく、そんなことを思うときです。新作神楽は、震災で犠牲になった方々の鎮魂とともに、犠牲になった方々に対して、よりよい未来を築いていくことを誓い、約束するものでもあります。
今回の演目は「呆然漠然巨人」。福島市にある信夫山にまつわる伝説をモチーフにしていましたが、和合さんの詩は、やはり鎮魂と未来への祈りに満ちた力強いものでした。
「万、千、百、十、一
万人の命 みな同じ命
一人の命 万人の命と同じ」
「夢を持ちなさい
夢を叶えなさい
明日が来るという保証はないのだから」
「風を待つのではない
風を作るのだ」
原文とは違っているかもしれませんが、新作神楽のなかで、何度も何度も、繰り返し、繰り返し、読まれた言葉でした。
新作神楽を演じた子どもたちも大人たちも、音楽を奏でた子どもたちも大人たちも、そして、真剣な面持ちで、きっと様々な人を想いながらこの舞台を見守っていた観客の皆さんも、一緒になって作っていたあの福島稲荷神社の空間が、とても神々しく、かつ素敵に感じました。
これまで、カカオ農園ツアーと日程が重なって観に来れなかった「未来の祀りふくしま」。今回初めて体験し、和合さんはじめ皆さんがどんな思いでこのイベントを続けているのか、改めて感じ入ることができたような気がします。
マカッサルから来た彼らとも感想を語り合いましたが、死者への鎮魂と未来への祈りというところから、彼らなりに深く理解していたことをありがたく思いました。
和合さんの計らいで、彼らを連れて、公演後の打ち上げの場にもお邪魔しました。この日のうちに東京へ戻らなければならないので、宴のはじめに、しばし時間を頂戴して、彼らから福島の皆さんに挨拶してもらいました。そして、和合さん自身が、どんなにマカッサル国際作家フェスティバルで感じることが多かったかを、改めて話してくださいました。
福島とマカッサルで、これからこのような交流を続けていけたら・・・。マカッサルから来た彼らも、和合さんも、互いにそう語りました。
新幹線の時間を気にしながら、打ち上げ会場を出た私たちに向けて、和合さんは、店の入っているビルの前で、いつまでもいつまでもずっと手を振っていました。マカッサルから来た友人たちは、その和合さんの姿をずっと心に焼き付けて、インドネシアへ戻っていきました。
福島とマカッサルをつなげる第1章を終え、次は、まだ中身は分からないものの、第2章へ移っていきます。
今年も、8月18〜25日、ダリケー社のカカオ農園ツアーに行ってきました。
同社アドバイザー及び引率スタッフとしてこのツアーに参加するのは毎年恒例行事で、今回で5回目になります。今回も、30人近い参加者と一緒に過ごしました。
8月18日にマカッサルに到着し、19日に、目的地の西スラウェシ州ポレワリへ向かいます。所要時間は約5時間、途中のパレパレで昼食をとりました。
ポレワリに到着後、自己紹介セッションの後、夜は、地元のポレワリ・マンダール県主催の夕食会。あいにく、主催の観光局と懇意にされていた県職員が急逝されたため、夕食会へ出席した県政府関係者はごく一部となりました。
20日は、午前中、ポレワリでのダリケー社の取り組みについて詳しく説明があり、いかにカカオ農家と信頼関係を作り、発酵カカオを生産する仕組みを築いてきたかを参加者に理解してもらいました。
午後、参加者は、実際にカカオ農園を訪問し、カカオについての説明を受け、カカオの実を収穫したり、カカオの苗を記念植樹したりしました。毎度のことですが、参加者の後を子供たちがたくさんついていきます。
農園で働く若者がカカオ農園内のヤシの木にスルスルと登って、上から落とされたヤシからココナッツジュースが参加者に振る舞われ、ココナッツジュースを飲み干すと、そのヤシガラを割り、おばさんが煮詰めていたヤシ砂糖を中の果肉と一緒に食べてもらいました。参加者は、ココナッツジュースのヤシとヤシ砂糖のヤシが別の種類であることなどを知りました。
記念写真の後、村の集落の中を歩いていきます。人々が集落できれいに住まわれていることが印象的な様子でした。その後、ダリケー社のワークショップで、カカオが発酵する様子や、天日乾燥や選別を行う様子を見学しました。発酵カカオの中に手を入れて、高熱を発生している様子も体験しました。
21日は、朝早く、ホテルの近くの市場を散策した後、小学校で、小学6年生とともに、カカオ豆からチョコレートを作るワークショップでした。ツアー参加者と小学生混合の5つのグループに分かれ、カカオ豆の皮むき競争や石臼でのカカオのすりつぶし競争などを行いました。
小学生の中にはカカオ農家の子供もいましたが、カカオ豆からチョコレートができるという体験はみんな初めてでした。このワークショップは昨年に引き続いてのものでしたが、大いに盛り上がりました。砂糖を入れる前のチョコレートの苦さとともに、自分たちで作ったことの嬉しさが伝わってきました。
21日の午後は、地元でビーン・トゥー・バーのチョコレートを作っている若者や自分の農園で栽培・処理したコーヒーを栽培する若者と出会いました。
22日は、イスラム教の犠牲祭「イドゥル・アドハ」で祝日でした。21日の夜は、松明を持った子供たちが道を練り歩いたり、キラキラした装飾をつけた車が行き交うタクビランを目の当たりにしました。
今回の初めての試みとして、ツアー参加者は、ダリケー社が用意した、地元ポレワリのカカオ豆などで作られた様々なチョコレートの味見比べ、テイスティングを楽しみました。そして、思いがけず、ポレワリ・マンダール県知事公邸での犠牲祭のオープンハウスに参加者全員が招かれ、県知事との歓談のひとときと食事を楽しみました。
午後は、ダリケー社のカカオマスとサゴ椰子デンプンを組み合わせたお菓子などを作っている地元のNGO「P4S」を訪問し、そのお菓子の実演を体験しました。
その後、参加者の中から若手女子4名、男子2名が、地元芸能の「踊る馬」に挑戦しました。地元マンダール風の化粧や髪型、衣装をまとい、楽団の音楽によって「踊る」馬の上にまたがって歩きます。彼らにとって、二度とない経験となりました。
23日は、朝、ポレワリを出発して一路マカッサルへ。マカッサルでは、幸運にも、世界3大夕陽の一つを堪能できました。
24日は、午前中、参加者によるツアーへの振り返りを行ってもらいました。様々な感想が述べられましたが、少なからぬ参加者が印象に残ったのは、ツアー中にいただいた、カカオ農家での食事の美味しさでした。
マカッサル市内のトアルコ・トラジャ・カフェで、自慢のコーヒーと日本風の洋食ランチを楽しみ、ショッピングセンターで土産物を購入した後、空港へ向かい、帰国の途につきました。
日本のダリケー社製品を含むチョコレート愛好者・消費者と、その原料であるカカオを生産するインドネシア・ポレワリのカカオ農家とが直接出会うこのツアーは、チョコレートを通じた消費者と生産者とをつなぐ旅でもありました。
ツアー参加者はカカオのことを知ると同時に、カカオ農家に対して感謝の気持ちを示しました。カカオ農家は、彼らからの感謝の気持ちを、より品質の良い、発酵カカオを生産する意欲につなげていました。
カカオ農家からは、気候変動で2050年にはカカオが生産できなくなるのではないかとの不安が示されました。すると、ツアー参加者からは、そうならないように、私たちが支える、カカオ農家がカカオを作れなくなったら本当に困る、という声が上がりました。
カカオ農家の幸せなしに美味しいチョコレートはありえない。そんな純粋な気持ちを共有できたなら嬉しいことです。生産者と消費者とをつなげるこのツアー、地道に続けていきたいと改めて思いました。
今回参加できなかった皆さま、このブログを読んで興味を持たれた皆さま、来年はぜひ参加をご検討ください!
「ふるさと」を狭義で「生まれた場所」とするなら、どんな人にも、それは一つ鹿ありません。しかし、自分の関わった場所、好きな場所を「ふるさと」と広義に捉えるならば、「ふるさと」が一つだけとは限らなくなります。
人は、様々な場所を動きながら生きていきます。たとえ、その場所に長く居住していなくとも、好きになってしまう、ということがあります。それは景色が美しかったり、出会った人々が温かかったり、美味しい食べ物と出会えたり、自分の人生を大きく変えるような出来事の起こった場所であったり・・・。
どんな人でも、自分の生まれた場所以外のお気に入りの場所や地域を持っているはずです。転校や転勤の多かった方は、特にそんな思いがあるはずです。そんな場所や地域の中には、広義の「ふるさと」と思えるような場所や地域があるはずです。
筆者自身、「ふるさと」と思える場所はいくつもあります。
筆者の生まれた場所であり、昨年法人登記した福島市。家族ともう30年近く暮らす東京都豊島区。地域振興の調査研究で長年お世話になっている大分県。音楽を通じた町おこしの仲間に入れてもらった佐伯市。留学中に馴染んだジャカルタ。かつて家族と5年以上住み、地元の仲間たちと新しい地域文化運動を試みたマカッサル。2年以上住んで馴染んだスラバヤ。
まだまだ色々あります。
今までに訪れた場所で、いやだった場所は記憶にありません。どこへ行っても、その場所や地域が思い出となって残り、好きという感情が湧いてきます。
単なる旅行者として気に入ったところも多々ありますが、そこの人々と実際に交わり、一緒に何かをした経験や記憶が、その場所や地域を特別のものとして認識させるのだと思います。
そんな「ふるさと」と思える場所が日本や世界にいくつもある、ということが、どんなに自分の励ましとなっていることか。
あー、マカッサルのワンタン麺が食べたい。家のことで困っている時に助けてくれたスラバヤのあの人はどうしているだろうか。佐伯へ行けば、いつまでも明るく笑っていられるような気がする。由布院の私の「師匠」たちは、まだ元気にまちづくりに関わっているだろうか。ウガンダのあの村のおじさんとおばさんは、今日作ったシアバターをいくら売ったのだろうか。
そんな気になる場所がいくつもある人生を、誰もが生きているような気がします。
地域よ、そんな人々の「ふるさと」になることを始めませんか。自分たちの地域を愛し、好きになってくれるよそ者を増やし、彼らを地域の応援団にしていきませんか。
筆者がそれを学んだのは、高知県馬路村です。人口1000人足らずの過疎に悩む村は、ゆず加工品の顧客すべての「ふるさと」になることを目指し、商品だけでなく、村のイメージを売りました。何となく落ち着く、ホッとするみんなの村になることで、村が村民1000人だけで生きているわけではない、村外の馬路村ファンによって励まされて生きている、という意識に基づいて、合併を拒否し、自信を持った村づくりを進めています。
もしも、地域の人口は1000人、でも地域を想う人々は世界中に10万人だと考えたとき、そこにおける地域づくりは、どのようなものになるでしょうか。
その地域が存在し、生き生きとしていくことが、世界中の10万人の「ふるさと」を守り続け、輝くものとしていくことになるのではないでしょうか。
私たちは、そんな広義の「ふるさと」をいくつも持って、それらの「ふるさと」一つ一つの応援団になっていけたら、と思います。
それは、モノを介した「ふるさと納税」を出発点にしても構わないのですが、カネやモノの切れ目が縁の切れ目にならないようにすることが求められるでしょう。
正式の住民票は一つしかありません。でも、「ふるさと」と思える場所はいくつあってもいいはずです。
いくつかの市町村は、正式の住民票のほかに、自らのファンに対してもう一つの「住民票」を発行し始めています。飯舘村の「ふるさと住民票」は、そのような例です。以下のリンクをご参照ください。
「ふるさと住民票」を10枚持っている、50枚持っている、100枚持っている・・・そんな人がたくさん増えたら、地域づくりはもっともっと面白いものへ変化していくことでしょう。地域はそうした「住民」から様々な新しいアイディアや具体的な関わりを得ることができ、さらに、その「住民」を通じて他の地域とつながっていくこともあり得ます。
こうした「住民」が、今、よく言われる関係人口の一端を担うことになります。それは緩いものでかまわないと思います。
世界中から日本へ来る旅行者についても、インバウンドで何人来たかを追求するよりも、彼らの何人が訪れたその場所を「ふるさと」と思ってくれたか、を重視した方が良いのではないか、と思います。
それがどこの誰で、いつでもコンタクトを取れる、そんな固有名詞の目に見えるファンを増やし、それを地域づくりの励みとし、生かしていくことが、新しい時代の地域づくりになっていくのではないか。
奥会津を訪れる台湾人観光客を見ながら、その台湾人の中に、もしかすると、台湾で地域づくりに関わっている人がいるかもしれない、と思うのです。そんな人と出会えたならば、その台湾人と一緒に奥会津の地域づくりを語り合い、その方の関わる台湾の地域づくりと双方向的につながって何かを起こす、ということを考えられるのではないか、と思うのです。
飯舘村の「ふるさと住民票」を登録申請しました。そして、私が関わっていく、日本中の、世界中の、すべての地域やローカルの味方になりたいと思っています。
「ふるさと」をいくつも持つ人生を楽しむ人が増え、地域のことを思う人々が増えていけば、前回のブログで触れた「日本に地域は必要なのですか」という愚問はおのずと消えていくはずだと信じています。
6月27日は、インドネシアでの統一地方首長選挙の投票日で、数日前に急遽、全国で休日となりました。今回は、17州、115県、39市の計171自治体で地方首長選挙があり、とくに大きな混乱もなく、投票日を終えることになりました。
早速、いくつもの民間調査会社がクイック・カウントと称する、選挙結果速報を出してきました。今回は、どの調査会社もおおよそ同じような結果を示しており、大勢はほぼ決まりつつあるように思われます。
そんな状況を見ながら、ツイッター(@daengkm)にて、以下のような連続ツイートで個人的な感想を書きましたので、まとめて掲載します。ご参考まで。
6/27投票の東ジャワ州知事選挙は、ナフダトゥール・ウラマ(NU)出身のコフィファ前社会大臣が当選。彼女と組んだ副知事候補で前トゥレンガレク県知事のエミル氏は立命館アジア太平洋大学にて博士号取得。
今後のインドネシアとの日本のアプローチは、中央政界だけでなく、日本と関わりを持つ地方首長をターゲットにしていくのが良い。ジョコウィ現大統領のように、一国一城の主を経験した地方首長から大統領へ登りつめるケースが出てくる。今注目されている有望政治家はみな地方首長なのである。
先週のマカッサル国際作家フェスティバルに出席した後、数日間帰国し、今また、インドネシアに来ています。ちょっと時間の空いた黄昏どきのジャカルタで、マカッサル国際作家フェスティバルを振り返っています。
声とノイズ、というテーマは、単なる意味どおりの声とノイズだけでなく、声がノイズに変わって無視されると同時に、ノイズが声に変わって世論を動かしていく、という両面性を意識する機会となりました。
我々が聞いていると思っている声は誰の声なのか、ノイズに埋もれさせてはいけない声とは何なのか、忘れ去られた声は全てノイズだったのか、色んなことを思います。ただ、確実にひとつ言えることは、声は決してひとつではない、という当たり前の事実であり、もし声が一つしか聞こえないとするならば、様々な声を聞こうとしない、聞こえないと思っている、聞いてはいけないと思っている、明らかに社会が自らを押し殺している状態に他ならないのではないか。
マカッサル国際作家フェスティバルでは、実にたくさんの参加者が即興で自作の詩を読みました。誰かのものではなく、自作の詩を。自作の詩を声を出して人々の前で読む、朗読するということは、自分の声を出していることに他ならず、それが朗読として成立しているのは、その声を聴く人々がちゃんと存在しているからです。
そして、その詩に社会への不満や不正への怒りが込められ、共感した聴衆が声を上げ、拍手をして反応する。それはまさに、声が出ている、届いている空間でした。
彼らの詩に込められているのは、まさに言葉の力。その言葉にそれぞれの詩を作った自分の魂が込められ、それが声として発せられ、聴衆に届いていく。マカッサル国際作家フェスティバルの空間は、そうした言葉の力をまだまだ信じられると確信できる空間でした。
福島から参加してくださった和合亮一さんは、そうしたなかで日本語で自作の詩を朗読しました。日本で最も朗読している詩人と自称する彼ですが、時として、自分を環境に合わせてしまっているのではないか、という気持ちがあったそうです。
自作の詩を誰もが読める空間に和合さんが遭遇したとき、何が起こるかは個人的にある程度想像していました。そして、和合さんには、思う存分朗読してほしい、爆発してくださってもいい、と申し上げました。
和合さんの日本語の詩を聴衆が理解できたとは思いません。でも、今回、言葉の力は意味の理解以上のものを含むのだということを、和合さんの眼前で理解しました。朗読の力は。想像以上のものでした。自分で声を出す者どうしの、言葉の力と力を投げ受けしあう同士の、生き生きした空間が生まれていました。
それは、ある意味、いい意味で、福島を理解してもらいたい、というレベルをいつのまにか超えていたように思います。和合さんの興奮する姿がとても新鮮に見えました。
日本における自作の詩の朗読の世界は、こんな空間を作れているでしょうか。
自分たちの声を出し、それを聴こうとする人々との相互反応が起こる社会は、何となく、まだまだ大丈夫、健全だと思ったのです。たしかに、マカッサル国際作家フェスティバルがそんな空間を作り続けることに一役買っている、と確信しました。
5月5日の夜、フェスティバルのフィナーレで、壇上に上がった主宰者のリリ・ユリアンティが「壇上からはライトで皆さんの姿が分からない。携帯電話を持っている人はそのライトをつけて、降ってほしい」と呼びかけました。そして、無数のライトが壇上のリリに向かって振られました。
その光景は、とても美しいものでした。
ノイズではない、一人一人の声が携帯電話の光となって、互いの存在を認め合っているかのように感じられたからです。
こんな光景を日本で、福島でつくりたい。恥ずかしがることなく、自分の思いを、自分の考えを、自作の詩を、声に出せる、そしてそれに耳を傾けてくれる人々のいる空間。和合さんを福島から招いたことで、そんなことを思い始めた、今回のマカッサル国際作家フェスティバルでした。
今回のマカッサル国際作家フェスティバル(5/2-5)には、日本から福島市在住の詩人である和合亮一さんにご参加いただきました。わずか3日間の滞在でしたが、3回も詩の朗読をされました。
和合さんは、5月3日にマカッサルに到着し、早速、夕方5時からの「コップ一杯の詩」と題する、コーヒーを飲みながら参加者が自由に詩を読みあう野外での催しに飛び入り参加しました。
和合さんの朗読は、いつもエネルギッシュなのですが、早速、全開、という感じでした。参加者たちは、初めて見る和合さんの詩の朗読スタイルに圧倒されていました。そして、歓声と大きな拍手。日本語で詠まれた詩の内容は理解できなくとも、何かが通じた瞬間が続きました。
翌4日は、国立ハサヌディン大学で、福島をテーマとしたセッションが行われ、私も和合さんとともに出席しました。
和合さんは、2011年3月から現在に至るまでに自分が見たこと、感じたことを中心に話を進め、現時点での「二度目の喪失」という現実をどう捉えるかが重要であることを強調しました。
「二度目の喪失」というのは、これまで帰還するために頑張ってきた人々、福島の復興のために貢献したいと意欲を燃やしてきた若者たち、こうした人々が、7年経って現実を見たときに、「やはり無理なのか」と諦めにも似た喪失感を深く感じ、傷つき、引きこもりや鬱になってしまうのを見てしまった現実でした。
避難した場所から自分のふるさとへ戻れるのか戻れないのか。原発事故後の処理・廃炉は本当に進めるのか進めないのか。政府の放つ「復興」という言葉によって、それが不明確なままの状態が続き、それが「二度目の喪失」を招いているのではないか、という問いでした。
我々にできることは何か。それは、そうした人々の胸の内をしっかりと聞いて受け止めることだ、と和合さんは言います。そして、それなしに前へ進むことはできないのではないか、と問いかけます。寄り添う、という言葉の重い意味を和合さんは真摯に受け止めている、と感じました。
和合さんは、そうした態度を詩という媒体を通じて、自分なりに世の中に対して発信していこうとしているのだと改めて思いました。本質を忘れてはならない。私自身の活動を振り返り、改めて思うことでした。
そして、この日も、和合さんは夕方から、「コップ一杯の詩」に参加しました。前日を上回るすごい数の観客が、どんなパフォーマンスをするのか、見守っています。そして、その観客の期待を上回る詩の朗読パフォーマンスを、和合さんは見せつけるのでした。
このときに読んだ「鬼」という詩を、たまたまインドネシア語に訳していたのですが、「コップ一杯の詩」の司会をしている若手詩人のイベさんが読みたいというので、読んでもらいました。
彼なりのパフォーマンスで観客を引き付け、和合さんの詩は、インドネシア語に訳してもやはり何かを伝えていると実感しました。
和合さんは、こんなに聴衆の反応がいい詩の朗読の機会はなかった、と興奮していました。詩が社会批判の一端を担うインドネシアの状況に驚き、詩を愛する若者が次々に自作の詩を読んでいく様子から、何かを感じていた様子でした。
4日の夜、和合さんは壇上に上がり、未来神楽第5番「狼」の一部を朗読しました。
和合さんがどんなパフォーマンスをするのか、観衆は興味津々で、びっくりするほどたくさんの人々が会場に集まっていました。そして、和合さんはまたも、観衆に強烈な印象を残す詩の朗読パフォーマンスを全力で行いました。
そう全力。和合さんのパフォーマンスは全力でした。そして、それは、マカッサル国際作家フェスティバルという「場」がそれを引き出していたと感じました。
すごいものを見てしまった・・・。
日本語で通した和合さんの詩が、正確に理解されたわけではありません。しかし、マカッサルの観衆に強烈な何かを残していました。マカッサルの地で、和合さんは、自分でも想像できないほど、パワーアップしていました。
「場」の力。それを改めて思い知った、という感が強いです。
5月2日、マカッサル国際作家フェスティバル2018が開幕しました。
今回のテーマは、「声とノイズ」。
1998年5月のスハルト政権崩壊から20年、そして2018年地方首長選挙、2019年大統領選挙という政治の季節を迎えましたが、それに伴う声とノイズが入り混じった状況が現れています。
オープニング・イベントで、主宰者のリリ・ユリアンティは、壇上の光の当たるところにいる自分を権力者に、その光の当たらない暗闇にいる観客を市民になぞらえ、光の当たる権力者の声のみが聞こえ、暗闇にいる市民の声はノイズとして無視されているのが現状だ、と演説を始めました。
過去20年のインドネシアでは、その市民が声を上げる存在としての力をつけてきたのであり、このマカッサル国際作家フェスティバルこそが、文学を通じてノイズではない声を上げる運動体となってきたのだ、としました。
そして、そうした市民が、権力者によって無視され、消されてきた歴史的事実にもう一度光を当て、真実を語っていくことが重要であると説きました。
権力者によって、無視され、忘れさせられてきた過去。その一例として、取り上げられたのが、インドネシア独立後、最初のマカッサル市長、女性市長となったサラスワティ・ダウドの話でした。本イベントにおいて、大学生が彼女の物語をショートフィルムにまとめたものが上映されました。
サラスワティ・ダウドが女性市長になったと言っても、当時の市長は現在のようなものとは違い、5人ぐらいがいつでも交代できるような性格の地位だったようです。しかし、現在、歴代のマカッサル市長の名前のなかに、聡明で優秀だったとされるサラスワティ・ダウドの名前は現れてこないのです。マカッサルではほとんど知られていない存在なのです。
それはなぜなのか。
端的に言えば、彼女はその後、インドネシア共産党の傘下組織であるインドネシア女性運動(GERWANI)に関わったことで、スハルト時代に敵視され、投獄され、釈放された後も監視される、という人生を送ったからでした。
マカッサル初の市長はの女性市長だった、という事実が覆い隠され、忘れ去られてしまっていた、ということを、改めてすくい上げたのは、市民による事実の探求でした。
リリは今回も、フツーの市民が声を上げること、それができるコミュニティを作っていくことの重要性を訴えました。たとえ権力が光の当たらぬ市民を無視しようとしても、フツーの市民が正しい事実を声をあげて主張していける社会を作るために、人間の心に訴えかける力を持つ文学の力を信じて、こうしたコミュニティを強くしていく、という決意を表明しました。
筆者がマカッサル国際作家フェスティバルに来る理由の一つは、こうした健全な批判精神を持ったフツーの市民のコミュニティが、ここではまだまだ力を保ち、声を上げていけているという実感を確認するためでもあります。
そして、マカッサルから、今の日本を振り返るのです。日本でそのようなフツーの市民のコミュニティが強くなっていけているのか、と。
さらに、今回のオープニング・イベントでは、声とノイズを象徴する、新しい視点に気づかされました。
第1に、手話通訳が配置されたことです(写真右下)。声をいう意味が、ろう者にとっては手話であること。手話を声として位置付けることに気づかされました。
そして第2に、手話による詩の朗読がありました。
とても美しい「朗読」でした。手話が理解できたなら、もっと深く理解できたことでしょう。それは紛れもなく、彼らの「声」でした。音を発することのない「声」。それは、権力者と同じように、我々が無視していたかもしれない「声」でした。
耳に聞こえる声だけでなく、手話による声をも声として捉えていく。フツーの市民の声のなかに、手話も含めていくことがフツーに意識されていくことも重要である、というメッセージが込められていました。
今回の「声とノイズ」というテーマ、なかなか深いものを感じた第1日目となりました。
インドネシア・スラウェシ島にある都市マカッサル。筆者ものべ8年半住んでいた、人口100万人のこの地方都市では、2011年から「マカッサル国際作家フェスティバル」(MIWF)が開催されています。
今年は8回目、5月2~5日、海に近いロッテルダム要塞公園をメイン会場とし、市内各所にサブ会場を設け、様々なセッションが繰り広げられます。下の写真は、昨年のフェスティバルの様子です。
マカッサルやその他のインドネシア国内のほか、オーストラリア、シンガポールなどの海外から様々な文学者が出席し、知的刺激に満ちた活発な活動が繰り広げられます。
筆者は、これまでほぼ毎年出席し、その様子は、ブログでこれまで紹介してきました。以下に、昨年のフェスティバルに関する記事のリンクを貼っておきます。
今年のテーマは、Voice and Noise、です。2018年の統一地方首長選挙、2019年の大統領選挙と、政治の騒がしい季節を迎える中で、市民社会が批判的かつ明確な声を上げ続けていくことが必要だ、という主張を出していきます。
そして、今年のフェスティバルには、福島の詩人・和合亮一氏に参加していただくことになりました。和合氏には、フェスティバルのなかで、震災後から現在に至る福島の声を伝えていただき、詩の朗読もお願いする予定です。
筆者が震災後、ずっと願っていた、和合氏のインドネシアへの招聘を実現できることになり、言葉に表せない喜びと、何が起こるかとワクワクする気持ちが湧いてきます。
もちろん、来週開催のマカッサル国際作家フェスティバルの様子は、本ブログでしっかりお伝えしていきます。乞うご期待。
先週は体調がすぐれず、昼間でも寝たり起きたりの毎日でしたが、何とかしのぎ、2月17日、フォーラム福島で開催された、第4回未来の祀りカフェ「めぐる春の祈り 〜熊本のいま、ふくしまのいま〜」に参加しました。
一連の「未来の祀りふくしま」の活動については、以下のページをご覧ください。
2016年4月14日に熊本で起こった連続地震。福島や東北からもたくさんのボランティアが駆けつけました。そして1年経った現地を、未来の祀りカフェを主宰する福島の詩人・和合亮一さんが訪れ、イベントで連帯を示したことが、今回の第4回カフェのきっかけとなったようです。
以下に、新聞記事が出ています。
福島民報:福島と熊本復興へ前進誓う 未来の祀りカフェ
福島民友:福島と熊本の復興願う 和合亮一さんら「未来の祈りカフェ」
熊本日日新聞:被災復興の「今」語る 南阿蘇村の観光業者ら福島でイベント出演
カフェには、映像などで熊本の復興を支援する西村元晴さん、南阿蘇観光復興プロジェクト交流協議会やつなぐ・つながる南阿蘇未来会議の皆さんが駆けつけたほか、地元・福島の土湯温泉の旅館若手経営者でつくる「ふくしま若旦那プロジェクト」の渡邉利生さんも出席、そして、シンガーソングライターの小室等さん・こむろゆいさんもいらっしゃいました。大御所の小室等さんを生で初めて見ることができました!
第1部では、南阿蘇での復興に関連したショートフィルムが3本上映され、それを基に、和合さんの司会で、出席者がトークを行いました。第2部では、熊本で和合さんが読んだ詩に小室さんが曲をつけた作品など、トークを交えながら3曲が歌われました。
会の趣旨としては、震災に見舞われた熊本と福島との間での連帯と交流をこれからも進めていくという面のほかに、両者が迎えているいろんな意味で同じような現状にある、という意識を持っていることの確認の意味がありました。
あの時のことを決して忘れないということ。それを基盤として、当事者意識を持ちながら、子供や孫により良い未来を残せるように、身近なところからできる範囲で活動していくこと。まだまだ苦しくとも、よろよろしながらも、一歩ずつ前へ進んでいくこと。
震災から時が経つにつれ、まだまだ日常を取り戻したとは言い切れないままではあっても、福島が福島のためだけでなく、熊本を含む他者へも思いを馳せ、つながっていこうとすること。もしかしたら、それは、福島がこれから積極的にやっていかなければならないことなのかもしれません。
イベントに参加しながら、私の熊本がらみの友人や知人の顔が思い浮かんできました。
そう、あの地震が起こる前、南阿蘇とインドネシアの東ロンボクとをつなげてみたいと、思っていました。阿蘇山に抱かれた南阿蘇、リンジャニ山に抱かれた東ロンボクの特にセンバルン地区。観光と農業に生きるこれら2つの地域を、いつかつなげて新しい動きを作ってみたい、と。今でもまだ、それを捨てずにいます。
今回のイベントには、マカッサル時代からの友人で、マカッサル国際作家フェスティバルを主宰しているリリ・ユリアンティさんも連れて行きました。彼女もまた、熊本と福島との連帯を深めるこのイベントをとても嬉しく感じていたようでした。
そして、今や、こうした連帯やつながりは、国家の枠を軽く越えて、どんどん進んでいくものなのだとも強く思うのでした。
リリさんは、今年5月2〜5日に開催するマカッサル国際作家フェスティバル(MIWF 2018)で福島に関する特別セッションを計画しており、もちろん、私もそれに関わります。様々な条件が叶えば、福島から和合亮一さんをマカッサルへ招聘することを計画しています。できれば、その後、マカッサルからも福島へ文学関係者を招聘したいと考えています。
次は、福島とマカッサルをつなげます。お楽しみに。
8月20〜27日、ダリケー株式会社主催のカカオツアー2017のお手伝いを終えて、27日朝、帰国しました。
ツアー中は、通訳兼コーディネーターとして、総勢55名のツアー参加者+スタッフと様々なアクティビティを行いました。
今回の参加者は、高校生や大学生のほか、チョコレート愛好家、会社役員、大学教授など、バラエティに飛んだメンバーでしたが、年齢や立場を超え、互いに自分を高め合う、素敵な仲間となることができました。
カカオの生産者とチョコレートの消費者とを結ぶこのツアー。生産者と消費者との信頼は、国境など軽く超えていくことができるのではないか、という確信を強くしました。
現場を見ることの重要性とともに、日本人とインドネシア人が信頼し合うとはどういうことなのかを全身で感じてもらえたのではないかと思います。
たとえば、地元の小学校で、参加者は、小学生と一緒に、カカオ豆からチョコレートを作る小さなワークショップを行いました。
地元のカカオで生まれて初めてチョコを作った小学生たちは、「また自分でチョコを作ってみたい」と目を輝かせました。そこには、これまでカカオ豆を作るだけだった生産地で何かが変わる兆しがありました。
一緒に、共に。これがキーワードだったと思います。
ツアーへの参加前と後とで、人生観が変わった、とまで言い切った参加者もいました。それはなぜなのでしょうか。
百聞は一見に如かず。ぜひ、来年、このツアーにご参加ください。カカオツアー、という枠を軽く超えてしまうかもしれません。