サンシャワー展は本当に良かった!

明日(10/11)から月末までのインドネシア出張の前に、前々からどうしても観ておきたいと思っていた「サンシャワー:東南アジアの現代美術展」へようやく観に行けました。

この展覧会は、国立新美術館と森美術館の2館同時開催で、しかも展示数が多いので、どうしても2日掛かりになってしまいます。夜遅くまで開いている森美術館を10月8日に、国立新美術館を翌9日に訪れました。

東南アジアのアーティストが色々と面白い試みを行っていることは知っていましたが、これだけの数を集めるとさすがに圧巻でした。しかも、その一つ一つに、アーティストのゆるさや柔らかさや軽さを感じつつ、その裏に何とも言えない深い闇やもやもやとして晴れない奥行きが浮かび上がる、そんな作品が多かったと感じました。

彼らの共通の特徴は、社会に対して自分の思想をぶつけていること。それは忘れられた歴史やアイデンティティを取り戻すことであったり、イデオロギーとは異なる人々の身近な生活の中からの政治・社会批判や風刺であったり、常識と思っていることへの疑問であったり・・・。

適当に考えているように見えて、実は深く考えぬいたものを軽やかに表現する。それは、表面的にみれば明るい東南アジアの社会を反映したものなのかもしれません。

様々な意味で自由な表現を虐げられてきた中で、それをあざ笑うかのように、しなやかに自らの表現力を練成させ、常に新しい表現方法で自分の社会への問いかけを表そうとしていく彼らの作品を、今の日本社会の文脈からみると、とても新鮮なものに見えることでしょう。

映像を使った秀逸なアート作品が多く、しかもそれぞれがとても興味深いものでした。自分がもっと時間を2倍ぐらい余裕だったならば、これらの映像作品を心ゆくまで楽しめたであろうに、と少し後悔しました。

サンシャワー展は、とにかく文句なしに面白く、刺激的でした。日本のアーティストともどんどんコラボしていってほしいなあ。まだ観に行っていない方は、ぜひ、時間をゆっくりとって、五感を使って味わってきてほしいです。東京では10月23日まで開催、その後は福岡で開催されます。

近年、地域づくりとアートとの親和性が注目されていますが、9月に行った石巻を中心とするリボーン・アートフェスティバルにも連なる、様々なヒントを個人的に得ることができたのは大きな収穫でした。シンガポールやチェンマイのアーカイブ活動は大いに参考になりました。

ふと、アジアを含む世界中の面白いアーティストたちが福島市に集まって、街の至るところでアート作品を動的に作成し、それを市民がただ観るだけではなくて体験しながら楽しんでいる。すると、市民が即興で自分のアート作品をつくり始める・・・。

目をつぶったら、そんな光景を思い浮かべていました。

そんなの、やってみたい!!

Co-minkan 第1号を訪問しました

9月30日の夜に帰国して、翌10月1日の朝、Co-minkan 第1号のオープニングを見るために、横浜市保土ヶ谷区まで行ってきました。

Co-minkan 第1号になったのは、保土ヶ谷区役所の近くにある峰岡公園の向かいのカフェ「見晴らしのいい場所」という小さな場所です。元はスナックだったというこじんまりとした場所で、Co-minkanが始まったのでした。

Co-minkan というのは、もちろん公民館から来ているのですが、行政が運営する公民館ではなく、民間で作る「こうみんかん」を企図しています。

地元の人が気軽に立ち寄り、お茶でも飲みながら、いろいろおしゃべりをする。そこに行けば悩みや相談を聞いてくれる人がいる。わいわいやっている間に新しいアイディアが浮かんだり、面白いことを思いついたりする。なんだか楽しくなる。

そんな空間を、気軽にみんながあちこちで作り始めたら、もっと温かい人と人とのつながりを意識できる世界が広がっていくのではないか。

Co-minkan は、誰でもそんな空間を作れるようなノウハウを広げることを目的としているようです。どこに作るか、どんな内装デザインにするか、どれぐらいの頻度で開くか、誰を誘うか。いくつかの事例を想定しながら、空間のつくり方を一緒にゆるーく伝えていこうとしています。

Co-minkan 普及実行委員会共同代表の横山太郎さんは地元のお医者さんですが、最近、自分が患者さんに伝えてきたことが、実はよく理解されていなかったことに気づきました。それは自分の伝え方に問題があったのではないか、と自問し、もっとじっくりと肩肘張らずに対話のできる空間を作りたいと思い始めたそうです。そこへ、コミュニティ・デザインで地域づくりを支援してきたStudio-Lが関わって、この Co-minkan を始めてみようということになったのだそうです。

オープニングには、近所の皆さんも集まり、ゆるーくいろいろおしゃべり。

子供たちは、公園でシャボン玉飛ばしをして遊んでいます。カフェのスペースは狭いのですが、目の前の公園に飲み物を持ち込んで、実質的に公園もカフェの一部になってしまうような場所です。

この取り組みが興味深いのは、何か場所を作っておしまいなのではなく、こうした空間の作り方を興味深く伝えることで、「自分でもつくれそう」「つくってみようかな」と思わせ、そうした動きを日本各地、いや世界各地へ広げて行こうとしていることです。

そんな Co-minkan のつくり方のゆる〜い「マニュアル」を製作するために、クラウドファンディングを募っています。下記のページを参照のうえ、できれば是非ご協力ください。

 毎日を楽しくするために「こうみんかん」をあなたの地域に!

オープニングに参加しながら、いろんな Co-minkan のあり方に想像を巡らせていました。時限的なものもいいし、山間地域ならば移動式のもありうるし、毎月順繰りに地域の方の家の一角をそうしてもいいし・・・。

でも、一番大事なことは、「対話」ではないでしょうか。相談事だけなら、ネットに投げれば誰かが答えてくれます。でも、面と向かって対話をすることで、より一層の安心感と満足感が得られるのではないでしょうか。

対話の場を簡単にゆる〜くあちこちに作っていけたら、今よりも少しは温かい気持ちを広げていくことができるのではないかなあ。まずは自分の身近なところから。

私は、Co-minkan の取り組みに賛同し、自分もそんな空間をつくっていきます。そして、そんな仲間を日本各地に、世界各地に増やしていきたいと思います。

石巻から気仙沼まで乗ったBRT

今回、石巻から気仙沼へ移動する際、途中の前谷地から乗ったBRTというのは、Bus Rapid Transitの略で、鉄道で結ばれていた路線をバスで繋ぐものです。東日本大震災で普通となった気仙沼線は、鉄道による本格復旧を諦め、BRTで代替しました。JR東日本が運行しています。

上写真は前谷地駅前、下写真は気仙沼駅のBRTバスです。気仙沼駅では、ホームの脇で発着します。

BRTは途中、かつてあった気仙沼線の線路跡を舗装した道路を走ります。それは、バス専用道路となっています。

元鉄道トンネルへ入っていく様子は、なかなか珍しいものです。バス専用道路なので菅 祥行、一般道路と繋がる場所には遮断機があって、一般車両はバス専用道路を通行できないようになっています。

現在、BRT気仙沼線は、日中はおおよそ1時間に1本の割合で前谷地と気仙沼を結んでいますが、途中の本吉までの便も入れると、本数は意外に多いようでした。
基本的に、かつての鉄道駅でしか乗り降りできないのが難ですが、駅(バス停)の新設も行われているようで、地域の人々の足としての役割をしっかりと果たしている印象を受けました。
明らかに、鉄道を復旧させるよりも、BRTのほうがコストが低く、かつ利便性も高いと感じました。
BRTは、気仙沼からさらに陸前高田、大船渡を通って盛まで走る大船渡線もあり、盛からは、三陸鉄道南リアス線で釜石まで行くことができます。
鉄道廃線後、廃線跡をバス専用道路として活用した例としては、福島県の白河駅と磐城棚倉駅をJRバスで結ぶ白棚線というのがあります。東北本線の松川駅と川俣駅を結んでいた川俣線は、廃線後、その路線としては継承されず、福島駅から川俣高校前までをJRバスで結ぶという形へ変わりました。
BRTが地域の人々の足として、さらなる発展を続けていくことは、震災からの復興と生活を取り戻していく一助になる、ということを期待したいと思います。

インドネシアの大学の先生方を福島へ

8月1日、インドネシアのマラン・ムハマディヤ大学の先生方5人を福島市へお連れしました。朝、羽田に到着し、そのまま東京駅から新幹線で福島へ来ました。

今回の訪問は、今年4月に私が同大学でゲスト講義を行なった際に話が出ていたもので、福島をテーマとした新しいプログラムを立ち上げる可能性を探るための来訪です。

福島駅近くのホテルへ到着。でも午後3時までチェックできず、一息入れる間もなく、ホテルのカフェでそのままミーティングへ。でも、今回の福島訪問では、実は、このミーティングが一番重要だったのでした。

ミーティングの後、ようやくチェックインし、夜行便でできなかったマンディ(水浴)をした後、どうしても私のオフィスを見たい、ということで、飯坂電車に乗って、オフィスへ向かいました。

私のオフィスの敷地内にある古民家に感嘆し、オーナーの話にいちいち頷く面々でした。オーナーの実家の畑で採れた旬の桃を頬張って、「リンゴより美味しい!」と感嘆の声を上げています。

もちろん、私のオフィスにも来ていただきました。急に強い雨が降り出し、しばらくオフィスで雨が弱まるまで待機せざるを得ませんでした。

先生方の福島訪問は本当にわずかの時間ですが、福島をテーマとした新しいプログラムへのヒントはつかめたようです。うまくいけば、来年の今頃、そのプログラムが実現するかもしれません。私も、その準備に楽しく関わっていくことになりそうです。

佐伯の宝、カフェ・ド・ランブル

7月23日、24日の2日間、大分県佐伯市へ行っていましたが、その2日とも、知人に連れられてお邪魔したのが、カフェ・ド・ランブルという古い珈琲店でした。

市内のやや大きめの通りから狭い路地に入り、ちょっと行った先にある蔵造りの建物、気がつかなければ通り過ぎてしまう場所にその店はありました。

ガラガラっと木戸を開けて入ると、そこは、むっとして暑い外とは全く違う、薄暗いけれども何となく温かい空間が広がっていました。

もう40年も佐伯の地元の人々に愛されてきたコーヒーの名店でした。マスターが黙々とコーヒー豆を選り分け、グラインドしたコーヒー豆をネルドリップで丁寧に一杯一杯淹れてくれます。

少しでも悪い豆があればそれを除きます。淹れたコーヒーは必ず一口味見をし、もしも味が正しくなければ、それを捨てて、もう一度最初から作り直す、という徹底ぶりです。

圧巻は、アイスコーヒー。やはりネルドリップで丁寧に淹れたコーヒーを金属容器に入れ、それを氷の上に置いて、容器をぐるぐる回します。マスター曰く、これが一番早く冷えるのだとか。このアイスコーヒーの、例えようのない美味しさといったら・・・。

実は、この店のマスターは、東京・銀座八丁目にあるカフェ・ド・ランブルで学んだ方でした。東京での修行を終わる際、店の名前を使う許可を得て、故郷の佐伯へ戻って店を開いたのだそうです。

マスターによれば、珈琲店の系列には、例えば、カフェ・バッハで修行したバッハ系とここのようなランブル系、といったものがあるそうですが、時間と労力を惜しまないランブル系は、珈琲店ビジネスとしては利益重視にできない、ということです。

佐伯という場所であることから、価格も高く設定せず、常連さんを中心に、適度な人数の来客を相手に、細く長くやってきた、ということでした。

それにしても、本当に居心地の良い空間です。そして、丁寧に淹れられた極上のコーヒー。この店の存在を知っただけでも、佐伯に来た甲斐があった、といって過言ではありません。佐伯に来たばかりなのに、宝のような大事な場所を得たような気分になりました。

佐伯に来たら、またうかがいます。宝のような大事な場所。

日本のローカルのあちこちに、こんな場所を持てたら嬉しいなあ。

そうそう、佐伯での仕事の話も、もちろん有益に進みました。また何度も、佐伯へ足を運ぶことになりそうです。

音楽を愛する人々に満たされた佐伯での夜

7月23〜24日は,大分県佐伯市に来ています。23日の夕方から、佐伯の皆さんと音楽を楽しむイベントに参加しました。

場所は、市内のお医者さんのお宅に作られた音楽ホール。

そして、そのお医者さんの中学校時代からの同級生で、現在はドイツを拠点に活動している日野隆司氏のピアノコンサートでした。

プログラムは、モーツァルト、ベートーベン、シューマン、ショパンでした。一般のコンサートホールとは異なり、音だけではなく、わずか数メートルの距離にいる演奏者の息づかいさえ聞こえる、とてもいい空間を感じました。

集まった方々は、地元佐伯の音楽を愛する一般の方々でした。今年3月に立ち上がった、佐伯ミュージック・アート・クラブというグループの皆さんです。このフォーラムは、「おんせん県おおいた」にありながら温泉のない佐伯で、自分たちで楽しみながら音楽をもとにした地域おこしを進めていきたい、という趣旨で始まったものです。

すでに、佐伯出身の音楽家にコンタクトし、今回のように会員のお宅で開催したり、市民会館で開催したり、ホテルでディナーショーのような形で開催したりと、演奏会をかなり活発に計画しています。

日野隆司氏のコンサート、アンコールのシューマンの「子供の情景」が終わっても、しばらく残っていると、会場提供者のお医者さんと日野隆司氏との連弾が始まりました。

このお医者さん、実は日野隆司氏と一緒にピアノを学んだ仲だったのです。彼もまた玄人肌のピアノの腕前で、自分で楽しむために作った音楽ホールを、佐伯ミュージック・アート・クラブのイベントに提供したのでした。
とても楽しそうな連弾でした。きっと、何年かぶりの連弾だったのでしょう。こうした姿に、市民が自分たちで楽しみながら音楽を真ん中に置いた地域おこし、というものの一番大事なものを見たような気がしました。
ひょんな事から参加したイベントでしたが、自分にとっても色々と勉強になったひと時でした。この後の懇親会でも、日野隆司氏や会場提供者のお医者さん、ミュージック・アート・クラブの皆さんとの語らいも、とても楽しいものでした。

仙石線と仙石東北ライン

7月16日に、イモニウォークに参加するため宮城県東松島市へ行きましたが、その行き帰りに使ったのが、仙石線と仙石東北ラインです。

仙石線とは、仙台と石巻を結ぶJR線で、東日本大震災の際、野蒜駅付近で線路が津波の影響を受けて断線し、松島海岸=矢本間で代行バスが運行された後、線路を高台ルートに移転の上、2015年5月30日に全線が運転再開しました。

今回、乗ったのは、仙石東北ライン。仙台から塩釜までは東北本線を通り、塩釜から松島へ向かう途中で仙石線へ入り、高城町から先は仙石線で石巻や女川まで向かう「快速」です。女川まで行くということもあり、車両はハイブリッドのディーゼルカー(HB-E210系気動車)です。

ハイブリッドというのは、エンジンの動力として走行しながら発電し、その電気を蓄電池に溜めて、それを使って速度を制御したながら走る、ということのようです。ハイブリッドの様子が社内でもモニターできます。

ピカピカの新しい車両でした。次の機会には、この車両で石巻や女川まで行ってみたいものです。

わずかな距離でしたが、各駅停車の仙石線にも乗りました。各駅停車は仙台駅やあおば通駅から石巻駅まで仙石線を通ります。矢本駅で期待せずに待っていたら、次の写真のような車両がやってきました。

車体には、石ノ森章太郎の漫画のキャラクターが描かれています。車内にも・・・。

車両の天井にも、MANGATTAN STATEとかHero Worldといった大きなステッカーが貼られていました。

そして、至るところに、石巻に関するポスターがずらりと貼られていて、これを見ていると、本当に石巻に行きたくなる気分になってくるのでした。

2017年7月22日〜9月10日まで、石巻や牡鹿半島を舞台に、Reborn-Art Festival が開催されます。まだ開催前ですが、仙台駅の改札口前では、それに関するグッズ販売コーナーができていて、けっこうな賑わいでした。

行けるかなー? 仙石線か仙石東北ラインに乗って。

イモニウォーク奥松島2017は楽しかった!

昨日(7/15)の朝、ジャカルタから東京へ戻り、自宅でちょっと休憩してから、新幹線と仙石線を乗り継いで東松島市へ向かって、同市矢本の宿に宿泊(ここがとても居心地良かった!)。そして今日(7/16)は、イモニウォーク奥松島2017というイベントに参加してきました。

イモニウォークは、東松島市の野蒜駅を出発点として、宮戸島にある松島自然の家までの約10キロのコースを歩く「イモニウォーカー・ルート」と、自転車で宮戸島の名所8カ所をまわる「新宮戸八景ルート」のいずれかを選びます。各コースにはチェックポイントが設けられ、それぞれのポイントでスタンプを押して周り、完走して全部スタンプが押されたら、景品がもらえます。

また、途中では、インドネシア・アチェのコーヒーを飲めるスタンドや、アチェのカレーを食べられるスタンドがあり、かつ農産物直売所を兼ねた複合施設「あおみな」で地元の特産品を味わえるマルシェに立ち寄ります。

東松島市はJICAによる震災復興を通じた経験共有協力の事業を通じてインドネシアのアチェ州の州都バンダアチェ市と協力関係があり、ちょうど今、バンダアチェ市から2名の漁師さんが1カ月間の研修に来ています。彼らと東北大学のインドネシア人留学生が上記のスタンドでコーヒーやカレーを振る舞うほか、アチェのサマンダンスのパフォーマンスも披露してくれます。

そうそう、イモニの説明を忘れていました。これは芋煮のことで、南東北で秋の恒例行事である芋煮会で振舞われる食事です。ゴールした後、この芋煮が振舞われます。そこで、このイベントをイモニウォークと名付けたようです。

野蒜駅は真新しく変わっていました。仙石線が野蒜駅付近で津波で寸断されて再建できないため、住民移転を行った内陸側へ線路を付け替え、駅も新築して、2015年5月30日に復旧し、運転が再開されました。

ちなみに、昔の野蒜駅は、今は震災復興伝承館とコンビニが一緒の建物となっています。震災復興伝承館では、震災時の津波による被害とその後の復興の様子が映像も含めた資料として展示されています。

受付で、予想通り、私は外国人の参加者と一緒に歩くことになりました。全員が東北大学の留学生で、マレーシア2名、インドネシア、モロッコ、モザンビーク各1名、私を含む日本人3名の8名で、イモニウォーカー・ルートに参加しました。

スタンプを押すポイントになった場所は、上記の震災復興伝承館のほかは、まず鳴瀬二中跡地。校歌の碑の裏には、廃校に至るまでの軌跡が年表として綴られていました。

防災盛土。防災盛土の上から、海を見渡しながら歩きます。

アチェのカレーのスタンドの裏には、津波の犠牲となった子供たちを含む身元不明の方々を祀るたくさんのお地蔵さまがありました。

多目的施設のあおみな。

ここで食べたかき汁と東松島ドッグは、美味しかったですよ。

ルートのポイントがあるかと間違って皆んなを登らせてしまった、大高森山の山頂から見た奥松島の景色は、まさに絶景でした。

奥松島縄文村。好奇心旺盛なメンバーは、中の展示もしっかり見ていきました。イベント参加者は、スタンプを押すカードを見せれば、無料で見学できます。

観音寺の手前にある津波の碑。

結局、途中でなんだかんだと休みながら、また、ハーハー息を切らせながら大高森山を登るなど余計な行動も入ってしまい、午前9時に出発して、ゴールにたどり着いたのは、イベント終了の午後4時少し前でした。それでも、イモニウォーカー・ルートの10チェックポイントはすべてまわることができました。

何事もポジティブに明るく捉えてくれる楽しいメンバーと一緒に歩けたせいか、けっこう体力的に疲れているはずの私も、最後まで元気に過ごすことができました。というか、ずっと私が彼らをリードして連れていく役目を果たしたので、疲れてヘロヘロになるわけにはいかなかった、というほうが正しいのかもしれません。

すでに何度も実施されているためか、このイモニウォーク奥松島は、予想以上によく作られているイベントだと思いました。東松島市の人々が外から来た方々に見て欲しいと思う場所がうまく組み合わされ、結局は、いろいろ見ながら歩く、という形になるように組まれていました。また、東松島市がバンダアチェ市と協力しているということが、コーヒーやカレーやサマンダンスの形で組み込まれ、参加者へ自然に認知されるようになっていたのもうまいやり方だと思いました。

一部にはチェックポイント間の距離がかなりあって間延びしたところがあったり、間違って大高森山の山頂まで登ってしまわないような指示など、いくつか改善点は指摘しましたが、ともかく、楽しく過ごすことができました。

とはいえ、メンバーと別れ、一人になると、けっこう疲れを改めて感じるものです。そんな時は、と思って、夜は、エスパルの青葉亭でしっかりと牛タン定食をいただきました。評判通り、ここの牛タンはとても美味しく、大満足。柚子胡椒味にワサビを添えて食べる牛タンが特に秀逸でした。

さあ、明日は朝、福島へ移動します。おやすみなさい。

「復興」勉強会に出席して

6月16日、福島市で、NPO法人ふくしま30年プロジェクト主催の勉強会「復興」に出席しました。講師は、首都大学東京准教授の山下祐介氏と、NPO法人とみおか子ども未来ネットワークの市村高志氏でした。

勉強会では、復興という言葉とは裏腹に、現場では本質的な解決が一向になされていない現状があることを踏まえ、今後起こるであろう問題を指摘していました。

まず、なぜ避難者は故郷へ戻れないのか。その最大の要因は、トラウマです。もう一度あのような事態が起こるのではないか。もう二度とあんな避難をしたくない。最近、東電が福島第二原発の再稼働の可能性を匂わせていることも触れられ、不安が出されました。

帰還しようとしている人々は現状復旧を求めているのですが、その前提となる様々な検証が十分に行われていないことも指摘されました。

そして、すべてにおいて、責任の所在があいまいにされている現状が指摘されました。

たとえば、避難指示解除を決定したのは誰なのか、その根拠となった法規は何か、実は明確でないという指摘。また、賠償というのは、通常は、責任主体による償いであるはずなのに、責任主体は責任をとっているのか、という問題。責任をとらない主体が賠償をするということの論理矛盾。

次に、避難指示解除によって居住を促すということについて。実は、避難指示解除の前から、作業員はそこに住むことを促されて住んでいたのだから、避難指示解除がなければ住めないというのはおかしかったのではないか。解除前でも、戻りたいと言っていたお年寄りなどを戻してあげればよかったのではないか(彼らの中には戻れずに仮設で亡くなった方々も少なくない)。

故郷への帰還か避難先への移住かという問題。現実的には、そのどちらでも政府補助は出るのに、故郷自治体の住民票を避難先で持ち続けられないという状況(今は時限立法で認められている)が出てくると、帰還か移住かの選択を迫られるようになる。本来ならば、長期退避を続けながら状況に応じて順次帰還、という大前提で、様々な選択肢があってよいはず。

復興に続く地方創生で、福島イノベ構想などの新たな事業が出され、福島県には引き続き多額のプロジェクト資金が投下されていきます。その資金へ群がる福島県外の業者や政治家がすでに動いている様子があり、「福島へ行けばまだ事業がある」という話もあるとか。結局、それらの事業資金が福島県にもたらされることで、これまでと同様の国からの事業予算に依存する状況が続いていくことになるのでは、という懸念も出されました。

実際、統計上、避難指示解除対象自治体への転入者が増えても、それが全て元住民とは限らず、事業実施や原発再稼働などを見越した外部者であるかもしれないといううがった見方もありえて、そうなると、もともとの住民たちの自治とは違う形へ変容してしまうのではないか、という懸念さえ聞こえました。

そして、避難者自身が避難者であることを意識しないようになり、風化すると、そもそもの本質的な部分、すなわち彼らを避難者とせしめた責任の所在、がますます曖昧になり、原発事故の検証や賠償責任が忘れられてしまう。復興という掛け声が強くなればなるほど、そういう傾向が強まってくるのではないか、という話でした。

当事者である避難者が今後の生活をどうしていくかについての選択肢が十分にあり、それを自分たちで選んでいけること。長期にわたる複雑なプロセスを単純化せずに、丁寧に進めていくこと。そのために、彼ら自身が自由に話し合いのできる場を持てる必要があること。これらが重要だ、という結論でした。

これらの含意は、何も、原発事故による避難者だけに限るものではなく、現在のどの地域でも大事なこと、すなわち、分権と自治を地域の人々に取り戻すことが重要である、ということでした。しかし現実には、新規事業に伴う利権やそれに群がる有力者らの動きによって、従順と服従を暗に求められているかのような状況が現れているように思えます。

今回の勉強会を通じて、やはり、自分たちの暮らしから始めるほかはないと改めて思いました。そして、まっとうな官僚や専門家の存在を信じ、彼らと関係性を作りながら、現状に対抗できるような構造を作る方向を模索し、復興を遠くのものではなく、自分の暮らしに近いところへ取り戻すことを目指すことが、とくに福島県では重要だと感じました。

では何から始めるのか。このような時代だからこそ、地域の人々が互いに尊重しあいながら、自由かつ真摯に意見を述べ合える、議論やディベートではなく対話のできる場づくりを始めたいと思っています。

こんなひどい雑文でも、政府批判かどうかを監視されるような世の中になってしまうのでしょうか。スハルト時代のインドネシアを思い出します。

ゆるく書く、と言っておきながら、ちょっとかたく書いてしまいました・・・

FUKUSHIMARTを訪問、若手農業生産者と会う

今日は、友人のM氏の紹介で、彼がプロデュースに協力したFUKUSHIMARTを訪問してきました。

FUKUSHIMARTは、三春ハーブ花ガーデン(郡山駅からタクシーで約15分)の一角にあり、6月1日にオープンしたばかりの施設です。12人の農業生産者が自ら加工品を生産し、それをこの場所に陳列して、販売しています。12人でローテーションを組んで、生産者自らが売り場に立ち、来客者と直接コミュニケーションし、自分の作った商品の魅力を伝えています。

他には見かけない、ちょっと工夫した商品としては、瓶の中に果物やバラなどがあらかじめ入っていて、それに炭酸水やアルコール飲料を加えて冷やすと、美味しいサングリアや果実酒になる、といった商品(自家製サングリアの素、自家製果実酒の素)がありました。

また、福島県ではもう珍しくなってしまった、昔ながらの製法で作った醤油やそれをベースにした油醤油(にんにく味、唐辛子味、カツオ味)などもありました。

これらの他にも、君のためのマヨネーズ、僕のためのマヨネーズ、娘のためのたまご、妻のためのたまご、東和の桑のほうじ茶、蜜入り紅玉りんごジュース、あだたら山のミルクジャム・ジンジャーシロップ、奥川源流米、食べるバラ・コンフィチュール、カレーのお米、玄米コーヒー、食べる紅茶、もろみふりかけ、ヨーグルトシュガー、西洋野菜(カーボロネロ、黒大根。黄金カブなど)、創作麺(つるつる菜っ葉麺、ゴンボ麺、アカモクうどん)などが陳列されています。
FUKUSHIMARTに来れば、これらを作った農業生産者から直接、商品に関する説明を受けることができます。説明はとても丁寧なので、10分も15分も彼らと話し込んだりしてしまいます。
この場所は、モノを売る場所であると同時に、来客者とのつながりを作る場でもあるのです。12人の農業生産者は一つのチームとして組織されており、各人が自分の売上だけを考えているわけではありません。若い自分たちが先頭に立って、震災後の福島において、積極的に6次化に取り組み、農業の新しい方向性を作っていこうと前へ動き始めたように見えました。
彼らの商品の一部は、東京及びその周辺で開かれるマルシェに出品されるほか、福島県のアンテナショップである日本橋ふくしま館MIDETTEでも販売されています。
今日は、地元テレビ局の生放送が入るということで、残念ながら、彼らとゆっくり話をすることはできませんでしたが、また次回訪問したときには、改めてゆっくり話を聞けたらと思います。
とりあえず、創作麺は福島市で製造し、食べさせてくれるところがあるので、近いうちに、創作麺を食べに出向くことを生産者のS氏と約束しました。

名刺を作ろうと思ったのだけれども

今日の福島は、早朝に雷を伴った大雨が降ったらしく、その後も、晴れていたかと思うと急に曇って激しい雨が降る、というのが何回か繰り返されました。そして、だんだんに気温も下がり、肌寒いぐらいの涼しさになりました。

早朝に雷を伴った大雨が降ったらしく、というのは、私自身は全く気がつかずにグーグー寝ていたのでした。

いったん寝たら普通は起きない母でも起きたというのに、私が寝続けていたのは、よほど疲れていたのか、おニューの布団がとても寝心地がよかったからなのか、よくわかりませんが・・・。

そんな不安定な天候なので、出かけるタイミングを間違えると、ママチャリで動いているので、びしょ濡れになる可能性が高いのです。幸い、そうなることはありませんでした。

そろそろ名刺をきちんと印刷所に頼んで作ってもらおうと思い、ママチャリで何軒かまわってみました。

まず、オフィスからすぐの印刷所。閉まっていました。

次に、実家からすぐの印刷所。弟の会社の名刺を作っているということなのですが、閉まっていました。

これら2軒とも、印刷機が動いている音もしなければ、人の気配もありません。

雲行きが怪しそうなので、もう1軒、フランチャイズらしき店へ行きました。そこはやっていたのですが、値段を聞いて、そんなに安くなかったので、やめました。

これまで、自分の名刺は、自分で好きなようにデザインして、自分のプリンターで両面印刷したものを使っていました。正式にきちんと名刺を作る前の暫定のつもりだったのですが、店に持ち込むよりも、自分でプリントしたほうが効率的で、カラーならばコストもあまり変わらないかむしろ安い、と判断しました。

おそらく、今や、名刺もネットで手早く作ってしまうのが主流となっているのでしょう。

せっかく福島市で会社を立ち上げたのだから、できるだけ地元の昔からやっている企業とお付き合いしていきたいと思い、多少のコストアップは覚悟して、印刷所をまわってみたのですが、今日まわった2つの印刷所は閉まっていました。

福島市でも、業績好調な規模の大きな印刷所はいくつかあります。どうも、一握りの好調な印刷所のみが生き残っていき、小さな印刷所は淘汰されていく運命のようでした。

印刷所に限らず、福島市内の小さな店がどんどんなくなっている気がします。そして、残っていくのは、高級品や付加価値の高い製品を作る企業とフランチャイズ系の店。

この風潮に抗えるようなどんなまちづくりが可能なのか。たたかいはこれから、と少し力が湧いてきました。

昼下がりののどかな福島交通・飯坂電車の車内
(本文とは関係ありません)

福島=岐阜=東京の移動は疲れたが有意義だった

今日は、福島→岐阜→東京と移動の日でした。

福島から岐阜までは669キロあり、片道601キロ以上だと往復運賃割引(1割引)となるので、福島=岐阜間の往復乗車券を購入しました。有効期間は5日間の2倍なので、10日間、5月28日から6月6日まで有効です。6月1日からまた福島の予定なので、岐阜から戻る今日は、東京都区内で途中下車、という形にしてあります。

昨日は、福島で「風評被害」に関する勉強会に出ましたが、今日は、岐阜で、正会員になっている認定NPO法人ムラのミライの年次総会に出席してきました。

ムラのミライの年次総会に出席したのは初めてで、これまではいつも委任状で済ませていました。

今回、わざわざ岐阜まで来て総会に出席したのは、前から一度総会に出席したいと思ったこともありますが、ムラのミライの事務局メンバーでまだお会いしていない方に実際に会いたかったことと、今後の私の福島での活動との関連で、ムラのミライの活動や手法を地域づくりの現場に引きつけたい、と考えたためでした。

ムラのミライは、対話型のメタファシリテーションという手法を広める活動をしています(オンライン・コーチングオンライン・レッスン自主学習ブログもあります。興味のある方はぜひ、トライしてみてください)。

ただ、その手法を学ぶ前に、日本の地域づくりの現場の現実を理解し、手法を云々する前の状況把握をする必要があると思います。私自身は、それを実際に福島で試みてみたいと考えています。

その意味で、今回、ムラのミライの本拠地であった飛騨高山に根付いて、地域づくりの活動を地道に続けてきた、創設メンバーのYTさんとお会いでき、しかも、1対1で色々とゆっくりお話できたのはとてもラッキーでした。そして、YTさんも、コミュニティの直面する課題には、ユニバーサルな共通性があるという認識を持っていらっしゃることもわかり、個人的にはとても勇気づけられました。

行きの新幹線の中で、今、話題になっている、Facebook創始者ザッカーバーグ氏のハーバード大学卒業式でのスピーチをネットでじっくり聴いたのですが、そこでも、ローカル・レベルでのコミュニティ再生からの出発、誰もが目的を持てる世界の構築、世界レベルで繋がって課題を解決していく、といった内容が、これから自分がやりたいと思っている活動やYTさんの考えとも関わる面がかなりあると改めて思いました。

それにしても、今日の移動は、やはり体にこたえました。明日から3日間は東京です。

福島で「風評被害」の勉強会に出席

今日5月27日、福島市曽根田のアオウゼで、NPO法人ふくしま30年プロジェクトの主催する「風評被害」の勉強会に出席しました。講師は福島大学の小山良太氏で、とても納得できる話を聞くことができました。

風評被害については、つい最近、NHKのクローズアップ現代で取り上げられ、少し前の私のブログで、米の全量全袋検査のことを書きました。また同じ内容の番組をNHK東北版で放映したそうで、小山氏は東北版のコメンテーターを務めたとのことです。

小山氏によれば、風評被害の原因は消費者の買い控えではなく、流通における取引順位の低下(最下位になったこと)にある、という点です。

果樹のように、希少性や時限性の高い旬のある産品はあまり影響がない一方、米や肉のように、年間を通じて安定供給される産品において、福島産の取引順位、すなわち市場で取引される順番が最も後になってしまった点が原因である、という見解です。

米について言うと、福島の米はもともと品質が高いため、家庭用として売られてきましたが、震災後、市場での取引順位が最下位となってしまい、業務用として扱われるようになっていきました。現在、JAと民間とを合わせて、福島米の6割程度が業務用になっているようです。

福島米が最も流通しているのは首都圏ですが、その次に多いのが沖縄県です。その沖縄でも、福島米の取引順位は大きく下がり、価格が下がりました。それを受けて、ある沖縄のお弁当屋さんが米を福島産へ変えたところ、「弁当が急に美味しくなった」と評判になり、作る先から売れてしまうのだそうです。

牛肉でも、福島産の取引順位は最下位で、和牛枝肉価格でキロあたり全国平均よりも500円低い状態で推移しています。畜産農家のマージンはキロあたり500円と言われていて、全国平均より500円低い福島の畜産農家は損益分岐点、儲けが全く出ていない状態ですが、畜産を止めてしまうと肉の供給に支障をきたすため、生かさず殺さずの状態になっているという話でした。

福島産の米や牛肉の取引順位をどのように上げていくか。市場による評価を上げていくか。これが風評被害を克服するために重要だというお話でした。

そして、振り返ってみると、福島産の農産物は品質がよかったので、とくに取引順位をあげることを震災前まではほとんど考える必要がなかったということが想起されました。北海道や山形が、必死になって取引順位を上げるために懸命なマーケティングを行っていたのとは対照的に、福島はそんなことをしなくても売れたのでした。

震災前と比べて、福島産の農産物の品質が落ちたということはありません。それでも市場で売れないのは、消費者が買わないというよりも店頭で売られていない。それは、流通段階での取引順位が最低になっているためで、それは流通業者が消費者には売れないと勝手に忖度しているためなのでした。

他方、福島側は、消費者や流通業者へ「品質が良い」ことをアピールし、だから正当な価格で売って欲しいとお願いするのみで、自分たちが取引順位を上げるためにどのような戦略をとるのか、がまだ欠けているように見えるのです。

北海道の夕張メロンがどのように静岡のマスクメロンに勝っていったのか。山形のつや姫が取引順位を上げるために県がどのような政策をとったのか。

小山氏は、もしかすると、原発事故が仮になかったとしても、福島の農業は同様の問題に直面していたかもしれない、とも考えていたようです。すなわち、高品質という評判を受けて、従来通りのやり方を続けていくなかで、厳しい市場競争において取引順位を落とした可能性もあったのではないか。

風評被害というピンチだからこそ、それをチャンスと捉え、新しい戦略を考えなければならないのかもしれません。たとえば、業務用の米の需要が伸びていくなかで、これまで家庭用を前提に作ってきた米を業務用を前提に作るとした場合、どのような戦略をとるか。大手コンビニとの契約栽培もありではないか。

また、旧来のブランドに縛られるのではなく、むしろ、全く新しいブランドを立ち上げて、それも用途別・機能別のブランド化を考えるほうが効果的ではないか。

山形のように、つゆ姫のような高級ブランド米を作る地域と業務用米を作る地域とを明確に分ける戦略も考えられるのではないか。

小山氏は、風評被害を克服するためには、福島の農業自体が自ら変わる必要があるということを強調していました。食管制度に守られた農業の感覚からまだ抜けられていない、とも指摘しました。

他にも、福島市で初めて行なった米コンテストの効果が予想以上だった(農家どうしが競うことを嫌う風潮もあり、他の農家の米作りを学び合う機会がなかったようです)、という話も、若干の驚きをもって聞きました。

最後に、外国、とくにアジア諸国では、福島産農産物へのマイナスイメージが極めて高いという問題に触れられました。そして、状況説明を福島県が行っているものの、国家として政府が外国へ向けて、原発事故の影響を何も総括していない、総括報告書を出していない、という事実を指摘されました。

そう、そうなのです。外国政府から求められているのは、日本政府としての総括報告書なのです。ところが、日本では、福島県がその総括をやる立場になっています。その一方で、東京オリンピック招致の際には、国レベルで「東京は福島から270キロ離れているから安全だ」などとスピーチしてしまうのです。総括はしたのか?と言いたくなります。

産物の取引順位を上げるために、産地対策に力を入れ、きちんとした戦略を作る。国に原発事故後の農業の状況に関する外国向けの総括報告書を作らせる。そして、農家は、他の農家といい意味で競い合いながら、粛々と真面目に農業を行っていく。

福島の農業にとって必要なのは、良質な刺激と適切な戦略を作っていくためのしっかりした実態調査なのかもしれません。小山氏の講演から様々な学びを受けました。さらに、しっかりと見続けていきたいと思いました。

ふと思い出した農林21号のこと

福島から戻って、東京の自宅で家族とのんびり過ごしていた憲法記念日。

何気なくテレビを観ていたら、「ラブ米」というアニメをやっていました。米を題材とした作品で、農林水産省ともタイアップしているアニメらしいのですが、それを見ながら、ふと、農林21号のことを思い出しました。

昔、子どもの頃、「一番うまい米だぞ。寿司米には最高なんだ」と父に言われて、たまに食べさせてもらったのが農林21号でした。福島では当時、最上級の品質の米で、私はずっと、一番美味しい米は農林21号だと信じてきました。その後、コシヒカリやらササニシキやらがメジャーになり、いつしか、農林21号という名前を聞かなくなっていきました。

もう今やないのかと思って、グーグルで検索すると、石川県加賀市で今、農林21号の復活を試みていることを知りました。詳細は以下のページを参照してください。

 農林21号について

農林21号は手植え時代の品種で、田植え機の普及などにより機械化農業では扱いにくい品種となり、機械化に適した品種へと変わっていくなかで、農林21号の出番はなくなっていったようです。(コシヒカリに関する記述は誤っていましたので削除しました)

記事によると、私にとってはおなじみだった農林21号は北陸地方が原産で、今では「幻の米」。かつての主生産地はやはり福島県でした。そして、東日本大震災を契機に、福島県での農林21号の生産が途絶えて、「幻の米」になってしまったと言うことです。

震災の翌年、農林21号の種籾を求めて、加賀市は福島県の生産地を訪れましたが、かつての生産者のもとにも県の試験場にも種籾は残っていなかったそうです。最終的に、つくば市の農業生物資源研究所に残っていた種籾を一握り加賀市へ持ち帰り、種々の検討の結果、小学校の学習用圃場で無農薬の化学肥料不使用で栽培しました。

すると、それを聞きつけた福島県の農家が2016年、地域活性化の起爆剤として、もう一度農林21号を植えたいとして、何とか種籾を分けてもらえないかと、加賀市を訪ねてきたそうです。結局、田植え学習をする小学生たちから、福島県の農家へ苗が渡されたのだそうです。

果たしてまた、福島県で農林21号が復活するかどうか。コシヒカリに比べて収量が少なく、機械化にも適さない、肥料も多投しない農林21号は、うまくいけば、差別化された付加価値の高い、安全安心の高級米としてよみがえるかもしれません。

いったん絶えた種籾を復活させ、地域おこしにつなげた例としては、宮城県大崎市の「鳴子の米プロジェクト」の「ゆきむすび」があります。寒冷地である鳴子地方の特有種で、餅米のように粘りが強いのが特色でしたが、高齢化・後継者不足による耕作放棄などで途絶えてしまいました。

 鳴子の米プロジェクト

それを、生産者と消費者と結びつけながら、耕作放棄された田んぼで生産を復活させ、おにぎりなどの地域の食の振興を通じた地域おこしへつなげていきました。

農業機械化とともに失われていった日本各地の米の固有種のなかには、農林21号のような優れた品種が少なくなかったことと思います。安全安心とともに、他と違う美味しさが価値として求められる時代を迎え、昔ながらの手をかけた固有種の復活の機会が出てきているようにも思います。それは、既存の機械化農業とは一線を画し、むしろ希少性を価値として、その価値のわかる消費者とつなげることで生きてくるのではないでしょうか。

つい最近、農林水産省は主要農作物種子法の廃止法案を国会へ提出し、可決されてしまいました。農林21号やゆきむすびの復活は、種子に関する主権を生産者が自分の手に持ち続ける動きの一つと見なせるかもしれません。

大きな流れからすれば小さな動きではありますが、こうした動きを地道に続けていくことで、諦めない農業を生産者と消費者が一緒に育んでいくことがこれからますます重要になる気がしています。

それにしても、もう一度、あの農林21号で美味しいお寿司を食べたいものです。本当に美味しいんですから。

美しく寂しい長泥の桜

昨日、2人目の来客として私の福島のオフィスを訪問してくれたのは、ジャーナリストの友人でした。この友人が飯舘村へ行くというので、今日は、それに便乗して私も付いて行きました。

行先は、飯舘村長泥。飯舘村の中で唯一、まだ帰還困難区域に指定されたままの地区です。2013年11月27日と2014年3月10日の2回、「NHKニュースウォッチ9」で長泥地区の現状を伝える特集が組まれており、それをご覧になった方もいるかと思います。

ジャーナリストの友人の知人である長泥地区から福島市へ避難されている方と一緒に、長泥地区へ入りました。入ってすぐに、信じられない光景が目の前に広がりました。

誰もいない、静かな空間に、今を盛りと咲き誇る満開の桜でした。それはそれは、本当に見事な桜でした。

花の里・長泥。この街道沿いの桜は、長泥の人々が育て、育んできた大事な桜でした。そして、帰還困難区域となった今も、人々は避難先から集まって、ずっと手入れを続けてきました。その人々の桜に込めた気持ちと献身を思わずにはいられません。

この桜を見ながら、長泥の人々が集まって、みんなで一緒に飯舘牛の焼肉を食べるのが夢だ、と案内してくださったSさんがポツリとつぶやきました。

長泥地区には、そこに住んでいた住民の方のほか、線量を継続的に計測している大学の先生方、報道関係者、中央や県の役人、工事関係者など、許可を得た方々が訪れるといいます。そうした方々への長泥の人々の感情は、思いの外、複雑な様子です。

でも、長泥地区の除染を行うのか、行うならば除染の対象は地区全体なのか部分的なのか、いつ除染を始めるのか、現在に至るまでまだはっきりと決まっていないようです。

帰還困難区域の長泥地区の除染を本格的に開始すると、同じ帰還困難区域でもっと面積の広い浪江町や大熊町の除染も行わなければならなくなるのではないか、予算は確保できるのか、といった懸念があるのかもしれません。

その一方で、長泥地区の住民は除染をしたらここへ戻ってくるのだろうか、という問いもあります。効率性を第一にするなら、住民が戻らないところを除染する意味があるのか、という声も聞こえてきそうです。でも、住民からすれば、元に戻してもらうことが先決で、長泥へ戻るかどうかはそれから考えるというのが筋とも言えます。

飯舘村の大半の地区が住民帰還や復興事業の話へ傾斜していくなかで、帰還困難区域の長泥地区だけが取り残され、置いていかれるような感情を抱くのは当然のことのように思えます。でも、長泥が元どおりになることを、半ば諦めてしまうような気持ちも伺えます。

長泥地区の未来をどのように描くのか。いつまでに除染を行う、このような順番で除染を進める。それが本当時実現できるかどうかは別としても、未来への不確実性を少しでも減らす努力をしていかなければならないでしょう。

長泥の桜は、信じられないくらい美しく、そして寂しく咲いていました。

松井グローカル合同会社を設立

本日(2017年4月11日)、福島地方法務局に法人登記申請をいたしました。したがって、本日が松井グローカル合同会社の設立日となりました。

これまで、「松井グローカル」の名前で活動してきましたが、ステータスとしては個人事業主であり、「松井グローカル」は屋号でした。今後は「松井グローカル合同会社」という法人として活動してまいります。基本的には、これまで同様、私1人だけの会社(従業員なし)の形となります。

福島地方法務局によると、登記完了は4月20日午前ということで、実質的な活動はそれ以降となりますが、これから少しずつ、本格的な活動へ向けての準備を進めていきます。

定款の中で定めた事業の目的は以下のとおりです。

1.国内外での地域づくりに係る調査、アドバイス、コンサルティング
2.国内外でのビジネス支援に係る調査、アドバイス、コンサルティング
3.国内外での国際協力に係る調査、アドバイス、コンサルティング
4.国内外での地域づくり、ビジネス支援、国際協力に係る交流・連携支援
5.インドネシア等の政治・経済・社会等に関する調査・分析・情報提供
6.セミナー、ワークショップ、研修、会議等の実施運営、講演・ファシリテーション
7.前各号に付帯関連する一切の事業

「ローカルとローカルをつないで新しいモノやコトを創り出す触媒となる」という自分のミッションを掲げた以上、活動の軸足をローカルに置く必要があると考え、故郷の福島市で登記申請を行いました。これは、前々から考えてきたことでもあります。

今後は、福島市を主拠点とし、東京、マカッサル、ジャカルタなどを副拠点としつつ、これまで通り、日本や、インドネシアをはじめとする世界の必要とされている場所で必要とされる活動を行い続けていきたいと思います。

そして、福島を含めた個々のローカルが自らの力を高め、国境や宗教や種族を越えて互いに尊重し合い、学び合い、活動し合う関係を築けたら、もっと温かく、もっと楽しく、もっと面白い未来が開けてくるのではないかと思います。

まずは福島から始めます。松井グローカル合同会社を通して、そんな仲間を世界中に作り、一緒に未来を作っていく旅を始めます。

(上記は、松井グローカルのホームページに記載したものと同じ内容です。ご了承ください)

タニンバル絣を使ったファッションショー

今日は、在日インドネシア大使館で開催されたファッションショーに行ってきました。

今回のファッションは、インドネシア・マルク州西東南マルク県にあるタニンバル島のイカット(絣)を使い、服飾デザイナーのウィグニョ・ラハディ氏が制作した作品が紹介されました。

ウィグニョ氏は、日本の伝統的な着物に着想を得て、それをタニンバル絣と組み合わせた「メタモルホスイースト」(Metamorphoseast)というテーマで作品を制作。たしかに、着物や帯、袴といったものをイメージさせる作品が出されました。

昨日の会議で一緒だった西東南マルク県高官を含むマルク州訪問団の方々と再会しましたが、自分たちの伝統的な布がこのような形で日本で紹介されることを、とても喜んでいました。

最近の絣は、原料の木綿の糸が細いものを使い、薄い生地にして着やすくしてきているのだとか。あのゴワゴワの絣も味わい深いものがありますが、ファッションとして着こなすならば、薄い生地もありなのだろうなと思いました。

インドネシア大使館も、1階のロビーをこんな風に使って、こんな素敵な企画を催すなんて、いつの間にか随分とセンスがよくなっているなあと感心しました。

このファッションショーには、マルク州代表団からもらった招待状で出席しました。マルク州代表団から「どうしても出席して欲しい。招待状を出させるから」と言われていたものです。本当にありがたいご招待でした。

今回の絣の生産地であるタニンバル島へ日本から行くには、ジャカルタないしバリからマルク州の州都アンボンへ飛び、アンボンからタニンバル島のサウムラキへ飛びます。アンボンからサウムラキまでの飛行所要時間は1時間半、ウィングエアが1日1〜2便飛ばしています。

タニンバル島のある西東南マルク県は、日本企業も開発に関係するガス田・マセラ鉱区の近くで、今後のガス田開発の展開を踏まえても、なかなかセンシティブな場所でもあります。しかし、今回の訪問団からは、日本への親近感と期待が強く表明されていました。

今回の出会いを機に、単にガス田開発があるからという理由だけではなく、彼らとの関係を深め、西東南マルク県とも丁寧にしっかりとお付き合いしていきたいと改めて思いました。

友人とスラバヤ街歩き(2)

プネレ墓地周辺を歩いた後、スラバヤ街歩きの友人I氏のバイクにまたがって、スナン・アンペルへ行きました。ここは、アラブ人街として知られているところで、観光地としても人気があります。

まず、スナン・アンペル地区の地区長をすでに30年以上も務めている、町の顔とでもいうべきC氏にご挨拶。普通ならば地区長に型どおりの挨拶をして、すぐに歩き始めるのですが、C氏はとても話好きで、スナン・アンペルに関する話が止まりません。友人I氏ともとても親しい様子です。

しばらく歓談して、友人I氏と歩くのかと思ったら、C氏も一緒について来てくれることになりました。私はスナン・アンペルは2回目の訪問だったのですが、実際、スナン・アンペル地区の主ともいうべきC氏と一緒に歩くと、また違ったものが色々見えてとても面白かったです。

C氏の家がある通りは下の写真のようなのですが。

一つ向こう側の通りに入ると、店が並んで人通りが多くなります。

スナン・アンペル大モスクの裏にも行ってみました。前回は行かなかったところです。人で溢れています。参拝者は24時間訪れ、とくに休息日の金曜の夜はたくさんの参拝者で大にぎわいとなるようです。

モスクの敷地内にあった古い墓は、墓標のみを残して、柵の向こうに新たに移されました。

人々が「聖水」の入った壺に群がっています。でもC氏によると、その聖水たる所以は明らかではなく、飲用に適するのかどうかを計ったこともないので、その辺のただの水ではないか、それを有難がって飲んでいるのはよくわからん、と言っていました。

敷地の隅にチャオ氏の奥さんの家族の墓があります。チャオ氏は華人系でアンペル地区の地主の一人です。

アンペル地区の最大の地主だったのは、アラブ系のバスウェダン一族で、現在、ジャカルタ州知事選挙に出ているアニス氏はその子孫にあたります。

スナン・アンペル大モスクにつながる商店街とその入り口。

この入り口の門の欄干、AMPEL SUCIと書かれた両側を磨いたところ、ジャワ文字が彫られているのが最近発見されたそうです。でも、古代ジャワ文字なので、まだ解読されていないのだとか。

商店街の中にある小さな礼拝所。電光掲示板の数字もアラビア語表記です。ふと見ると、右側にあの人の来訪を告げるビラが貼ってありました。

スナン・アンペル地区も、古い建物が壊され、新しい建物に建て替えられていますが、古い建物もまだ残っています。その一つは、香辛料の販売と調合を行う店でした。香辛料を調合したマサラコーヒー(Kopi Rumpah)も売っています。

実は、私もよく行った、ジャカルタの某有名インド料理店で使うスパイスは、この店から供給されているのだそうです。先代がインド人からスパイスの調合の仕方をじかに習って習得したとのこと。

スナン・アンペル地区を歩いて、最後は、50年以上前からあるという、サルカムという小食堂で緑豆カレー(Gulai Kacang Hijau)。でも豆だけでなく、肉(おそらくマトン)も一緒に入っており、マリヤム・パンと一緒に食べました。C氏は、パンをちぎってカレーの中に入れてから食べよというので、そうしてみました。うーん、美味しい。

C氏にお礼を言い、I氏のバイクにまたがってホテルまで送ってもらい、今回の街歩きは終了しました。スラバヤには、まだまだ自分の知らない面白い場所がありそうで、今後も機会があれば、街歩きを続けたいと思います。

そして本日(4/2)夜、スラバヤまで迎えに来てくれた別の友人の車に乗せてもらって、マランへ到着しました。

友人とスラバヤ街歩き(1)

アパートの部屋の契約が終了し、マランへ行くまでスラバヤで過ごすのは今日土曜日と明日日曜の半日。そこで今日は、スラバヤ街歩きの友人I氏と一緒に、プネレ墓地周辺とスナン・アンペルの二箇所を歩きました。

ホテルに迎えに来てくれたI氏のバイクの後ろに乗って出発。最初に訪れたのは、プネレ墓地です。

この墓地は、オランダ植民地時代の墓地で、埋葬されているのはオランダ人が多いのですが、他にもドイツ人などの西欧人、アルメニア人なども埋葬されています。

すでに1920年代に埋葬は停止され、現在までに、亡骸のほとんどは別の場所へ移動されているとのことです。所有者が全て判明した後は、公園にする計画があるようです。広さ15ヘクタールもあります。

下の写真は、火葬場の跡。

1841〜1844年に蘭領東インド総督を務めたPieter Merkusの墓もありました。
そのすぐ近くに、墓標の朽ちた小さな墓があります。この墓は、蘭領東インド専属写真家のOhannes Kurkdjianというアルメニア人の墓で、蘭領東インドの今の残る写真のほとんどは彼の手によるものだそうです。
このプネレ墓地周辺には昔からバリ人が多く住んでいます。実は、初代大統領のスカルノもこの近くに住んでいました(厳密にはプネレ地区ではないようです)。スカルノはスラバヤのこの辺りで生まれ、母親はバリ人ですので、バリ人コミュニティの存在が安心感を与えたのかもしれません。
たしかに、ここからバリ島のシンガラジャやデンパサールへの直行バスが出ていますし、スラバヤで最も有名なバリ風のナシ・チャンプルの店もこのプネレ墓地のすぐそばにあります。
このプネレ地区は、墓地があるためか、以前から葬儀関係の仕事を行う人々が多い場所のようです。しかし、近年、プネレ地区から他所へ移っていく人が増え、バリ人集落としての一体感がなくなってきている様子です。
このプネレ地区で、I氏の友人のK氏がコーヒーとジャムゥ(ジャワの伝統薬用飲料)を出すカフェを1年ほど前から開設し、ちょっとしたコミュニティスペースになっていました。今回も、ちょうど、女性を対象にしたSNSに関する研修会が行われていました。
このカフェの建物は、植民地時代は植民地官吏の家だったそうです。
K氏はもともと地元紙の新聞記者だったのですが、スラバヤの伝統や歴史に造詣が深く、新聞記者を辞めて、カフェを運営するとともに、伝統や歴史を生かしたTシャツや雑貨を製造販売しています。カフェの裏に作業場があり、今はちょうど、政治団体向けのTシャツを作っているところでした。
ふと見ると、日本語で書かれたこんなものも。
I氏やK氏とスラバヤの都市としての発展の歴史や今後の課題などについて、いろいろと意見交換をしているうちに、気がつくと2時間近くもダベっていたことに気づきました。
一息ついたところで、再びI氏のバイクの後ろにまたがり、スナン・アンペルへ向かいました。この続きはまた次回。

聞き書き甲子園イベントでの出会い

昨日と今日は、東京大学弥生講堂で開催された「聞き書き甲子園15周年記念イベント」に出席しました。聞き書き甲子園については、以下のページをご参照ください。

 聞き書き甲子園

聞き書き甲子園を簡単に説明すると、聞き書きという手法を学んだ高校生が毎年100名、夏休みに森や川や海の名人に会いに行き、名人から聞き書きをし、それをテープ起こしして文章化し、名人の一人称の文章にまとめて作品に仕上げる、という事業です。

毎年3月に、名人を招いて、その作品の発表会を行うのですが、今年は15周年ということもあり、これまでの15年の軌跡を振り返り、新たな聞き書きの可能性を展望するための記念イベントが2日間行われました。

私はかなり初期の頃からこの聞き書き甲子園に興味を持ち、事業を運営するNPO法人共存の森ネットワークの会員にもなっています。また、インドネシアでの高校生を対象とする聞き書き甲子園インドネシア版の準備段階で間接的に少しお手伝いもしました。

聞き書きの効能については、また別途、論じてみたいと思いますが、森や川や海の名人の代々受け継いできた技や心を敬い、それを次世代へ受け継ぐ関係性を改めて認識する契機となるものだと思います。ただし、聞き書きが地域おこしの特効薬になるかというと、そうではなく、地域おこしを促していくもっと底流にある何かを掘り起こす役割を果たすような気がします。

今日も、幾つかの出会いがありました。このイベントで、前々からお会いしたいと願ってきたK先生とようやくお会いできました。大学ゼミの大先輩であり、敬愛する宮本常一氏に直接師事されたK先生との出会いは個人的にとても嬉しく、至福以外の何物でもありませんでした。立ち話で色々とお話することができ、話をすればするほど、もっとゆっくりお話をうかがいたくなりました。

K先生のほか、K氏との出会いも嬉しいものでした。聞き書きやNPO活動に関する共通の友人の名前が何人か挙がり、よそ者が地域づくりに関わる際の弊害などについて話が盛り上がりました。K氏からも色々と学びたいと思いました。

昨日も今日も暖かく穏やかな1日だったので、東京大学弥生講堂まで自転車で往復しました。イベントも終わって、主催者のNPO法人共存の森ネットワークの皆さんにお礼の挨拶をして、自転車に乗って、東大前の横断歩道を自転車で渡ったとき・・・。

その横断歩道に立っていたマスクをかけた女性を目が合いました。ええ〜っ!

15年前、東京外大の非常勤で「インドネシア経済論」を教えたときの教え子でした。彼女もびっくりしていました。早速、近くの喫茶店で小一時間、色々な話をしました。フェイスブックではつながっていましたが、どうしているかなあと思っていた教え子だったので、とても懐かしく、とても嬉しいひと時を過ごせました。

今日も、素晴らしい出会いに感謝。

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