福島で久々にフレコンバッグを見た

1月27〜28日は福島市でした。雪を予想して、東京から雪靴を履いて行ったのですが、1ヶ月前に比べると大したことはありませんでした。

それでも、歩道の一部は残った雪が凍って歩きづらくなっていたし、オフィスのある古民家の周辺は、溶け始めた雪で土がドロドロになっていて、雪靴で良かったと思いました。
今回の用事の一つは、税務署に年末調整の書類を提出すること。一人会社とはいえ、一応、法人なので、内容はなくても、書類は1月末までに提出する必要があります。28日の朝に出向いて、すぐに終わりました。
税務署を出るときに、ふと前を見ると、黒いフレコンバッグの積まれた山が見えました。久々に見ました。
筆者の実家からはだいぶ前に撤去され、もうずいぶんとフレコンバッグは撤去されたと思っていたのですが、ここにはまだ残っていました。残っているのもあるのはあるのでしょうが、久々に見たので、ちょっと新鮮でした。
ここから歩いて5分ぐらいのところの仮設住宅は今は廃墟のようになっていて、住まわれている方はいない様子でした。
除染土はまだ、身近に残っていました。

あの出来事から今年でまもなく8年。まだ8年。まだまだ8年。

ふくしま光のしずくイルミネーション

1月8日、福島を発つ前に、パセオ通りの光のしずくイルミネーションをちょっと眺めました。

今や、全国どの地方都市でも、冬にこうしたイルミネーションをつけるのが流行っています。このときは、パセオ通りを歩く人影も少なく、青っぽい色の光だったこともあり、ちょっと寂しい感じがしました。

寂しい感じ・・・。それは、45年以上前のにぎやかなこの通りをどうしても思い出してしまうからです。

あの頃、私がまだ小学生だった頃、この通りは、すずらん通りという名の福島で最もにぎやかなアーケード商店街でした。

おもちゃを買うのはトイランド、運動用品はオノヤ、文房具はくさの、美味しい果物は阿部庄、音楽関係はあきたやか日野屋、といった名店が揃っていました。

トイランドもくさのも、とっくの昔になくなってしまいました。オノヤは別の場所へ移転しましたが、あとの店はまだパセオ通りに健在です。

子どもの頃、母親や弟たちとトイランドへ行くのがどんなに楽しみだったことか。くさので好きな文房具を選ぶのがどんなにうれしかったか。

私の子ども時代の思い出がすずらん通りにはいっぱいありました。

45年以上経って、再びあの頃を思い出しながら、その年月の長さと移ろいゆく街の景色をずっとかなたに眺めていました。

そこにきらめいていた光のしずくイルミネーション。

私には、どうしても、力がなくなって弱くなってしまった街の涙のように思えて仕方がありませんでした。

時代は変わったんだよ、と、パセオ通りという名になった元すずらん通りがポツリとつぶやいた気がしました。

ユーミンの「あの日に帰りたい」を口ずさんでしまいました。

古民家の囲炉裏を囲んで新年の宴

1月5日は福島へ戻り、囲炉裏を囲んで新年の宴をしました。

我がオフィスのある福島市泉の敷地内には、明治6年に建てられた茅葺屋根の古民家で国登録有形文化財である「佐藤家住宅」があります。

そして、「佐藤家住宅」の北側に、30部屋ほどのサービス付き高齢者向け住宅「しみずの里」を建設中です。「しみずの里」は本年4月オープン予定で、入居者を絶賛募集中です。詳しくは、以下のサイトをご覧ください。ご興味のある方は、私のメールアドレスまでご連絡ください。

 しみずの里ホームページ
 しみずの里ブログ
 しみずの里インスタグラム

「佐藤家住宅」全景。手前の池は泉という地名の基になった泉。
145年前に建てられた「佐藤家住宅」はもともと養蚕農家の茅葺きの家で、
佐藤家は元県知事も輩出した名家。(2017年4月撮影)

今回の新年の宴は、「佐藤家住宅」と「しみずの里」に関わる方々の新年会でした。

囲炉裏を囲んで餅を焼き、福島の正月料理を食べ、竹を切った特製お猪口でとっておきの日本酒を味わう、という催しでした。

何といっても、福島を代表する正月料理と言えば、いかにんじん。松前漬から昆布を抜いたようなものですが、両者には関係があるようです。

「時代は幕末。幕府が梁川藩(現伊達市梁川町)と松前藩(現北海道松前町)の領地を移し替える国替えを行った。その時、いかにんじんが北海道に渡ったのか、松前漬が本県にもたらされたのかは定かではない」(出所:【食物語・いかにんじん】ルーツ謎めく名脇役 素朴な味わいと食感

下の写真の左上がいかにんじんです。

日本酒も美味しく、正月料理もはずんで、いつもよりずいぶん飲んでしまいました。寒かったですが、囲炉裏の火を見ていると、本当に心が和んでくるのが分かります。

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今年は、サービス付き高齢者住宅「しみずの里」が4月にオープンするのに合わせて、国登録有形文化財「佐藤家住宅」を管理・運営するための法人化を含む組織づくりを行っていきます。

この「佐藤家住宅」をめぐる空間を、サービス付き高齢者住宅「しみずの里」の入居者だけでなく、地域住民の方々、外国の方を含む地域外の方々、子どもたちからお年寄りまで、誰もが楽しく、気持ちよく、生き生きと過ごせる空間にしていきたいと願っています。

よろしければ、「佐藤家住宅」を一度見にいらっしゃいませんか。また、この空間で何か催し物をしてみたい方、一緒に何かしてみたい方、古民家再生に関心のある方などいらっしゃいましたら、私のメールアドレスまでお気軽にご連絡ください。

勉強会、読書会、懇親会、ワークショップ、セミナー、お稽古ごとの練習、ゲートボール、子どもの遊び場、演奏会、映画上映会など、いろいろできると思います。

今年8月、ちょっと面白い企画がこの空間で行われるかもしれません。まだ構想段階ですが、どうぞお楽しみに。

スラウェシ中部地震被災地支援のネクストを検討中

11月21~23日にスラウェシ中部地震被災地を訪問し、多くの友人の安否を確認し、現場で動いている様々な友人・知人と会い、意見交換しながら、次の支援プログラムを考え始めています。

現段階では、まだおぼろげな状況ですが、今週から来週にかけて、何人かの同志的仲間と会い、話し合い、より明確になった段階で、再び、皆さんに呼びかけを行いたいと考えています。

もう少し、お待ちください。

それにしても、という思いがあります。

2011年の東日本大震災の後、故郷・福島を含む東北地方は今もいろいろな意味で厳しい状況に置かれています。だからこそ、福島から、東北から、古きを敬いながらそれを踏まえた新しい動きを創っていきたい、という気持ちが、法人登記を福島市にさせた一つの要因でした。その後、福島で何が起こっていったか、プラスもマイナスも、私なりに観察し続けてきています。そして、福島の正負両方の経験を次に生かしていかなければならないと思っています。

そして、JICA長期専門家(地域政策アドバイザー)として過去に計7年以上関わり、今もその深い絆を意識し、たくさんの仲間が活躍しているスラウェシで、今回、地震・津波・液状化という災害が起こりました。

自分の人生のなかで、まさか、自分が最も大切に思っている福島とスラウェシの両方で、甚大な災害に見舞われ、そこからの立ち直りをどうしていったらよいか、考えることになるとは思いもよりませんでした。

自分の関わりの度合いの深さが、自分の行動を決定づけている面があります。福島以外の日本各地やスラウェシ以外のインドネシア各地の災害に対して、決して無関心であるわけではないのですが、どうしても、自分にとって思い入れの強いところに傾いてしまうのは、やむを得ないことです。すべて平等に、と、雲の上から鳥瞰的にみられる神様のような存在に自分はなることはできません。

ですから、「他はどうでもいいのか?」という批判は受けますが、もはや雲の上の立派な存在ではあり続けられないということを正直に吐露したいと思います。それは、私の能力不足なのかもしれませんが、自分が超越したすばらしい人間でなければならないとも思えませんので、正直に申し上げるしかない、というのが実状です。

きっと、他の地域には、そこへの思い入れのある方々が同じように動いていることでしょう。それでいいのだと思います。

私も関係している「スラウェシ研究会」という自主的な勉強会があります。この会には、かつて戦時中、マカッサルに置かれた日本軍政下の民生部で働いておられた90歳を超える方や、過去に在マカッサル日本総領事を務められた方、JICA専門家でマカッサルに派遣されたのをきっかけに太平洋戦争前後のスラウェシでの日本人の足跡を丹念に追い続けている方など、マカッサルやスラウェシに特段の思いをもって、自分の人生経験のなかの大事な場所と位置づけ、関わり続けている方がいらっしゃいます。

そうした方々も、今回のスラウェシ中部地震被災地支援では、何度も何度も、募金と温かい言葉をお送りくださいました。彼らの脳裏には、自分たちがかつて経験したスラウェシやマカッサルの具体的な人々の名前や出来事があり、スラウェシのために何としても役に立ちたい、という気持ちが込められていたのだと思います。もしかすると、それは、スラウェシへの恩返しをまだ十分にしていないという気持ちを含んだものなのかもしれません。

私は、実はそうなのです。これだけ関わってきたスラウェシに対して、恩返しをまだ全然行えていない、と。

スラウェシの人々への思いを生前に語ってくださった尊敬できる先輩方も多くいらっしゃいます。今回、支援活動を試みながら、そうした方々の声が再び聞こえてきたような気がしました。

長年スラウェシに関わってこられた方のスラウェシへの思い。それをちゃんと受けとめたうえで、しっかりと腰を据えた支援活動を行っていく責務がある。そんな気持ちが、11月に、たとえ自腹でも、被災地訪問を決意させた理由の一つでした。

こんなことを思いながら、スラウェシ中部地震被災地支援のネクストを考えていきます。引き続き、よろしくお願いいたします。

しみずの里ブログも書いています

私の福島のオフィスは、明治6年に建てられた国重要有形文化財の古民家「佐藤家住宅」の敷地内にあります。この古民家は、庭も広くて、敷地面積は三千坪にもなります。

福島駅から車で10分足らず、飯坂電車の泉駅から徒歩3分、という街中に近いところに、こんな空間があるのは、奇跡と言えるかもしれません。

ここを何とかして守っていけないだろうか。そんな気持ちを持っています。

オーナーの佐藤さんは、この古民家の北側に今、サービス付き高齢者向け住宅「しみずの里」を建設中です。古民家と広い庭のある空間で、幸せを感じる暮らしをしてほしい。そんな願いからだと言います。

たしかに、この環境と空間でゆったりと老後の生活を送れるのは、すてきなことのような気がします。

そして、「しみずの里」の入居者だけでなく、近隣の地域の人々や古民家に興味を持つ人々、子どもたちや外国からのお客さんなど、様々な方々がここで交わり、幸せで楽しい気分ですごせるような、そんな場所になったらいいなあと思います。

そのような気持ちから、素人仕事ではありますが、しみずの里のホームページを立ち上げ、ブログを書き始めました。よろしければ、以下のサイトを覗いてみてください。

 しみずの里ホームページ(http://shimizunosato.com

また、ツイッターとインスタグラムも始めました。

 しみずの里(福島市)ツイッター(https://twitter.com/shimizunosato

 しみずの里インスタグラム(https://www.instagram.com/shimizunosato/

昨日は、地域の有志の方の「蕎麦と酒を楽しむ会」という催しが古民家「佐藤家住宅」であり、昼間から、美味しいお酒と打ち立ての蕎麦を楽しみました。

こんな雰囲気の味わえる、サービス付き高齢者向け住宅は、日本全国でも、あまりないのではないかと思います。

サービス付き高齢者向け住宅「しみずの里」は平成31年(2019年)4月のオープンを予定しており、現在、入居者を募集中です。

ご興味や関心のある方は、以下へご連絡ください。現地見学も承っています。

これからどんな空間になっていくか、していくか。とても楽しみです。

サービス付き高齢者向け住宅「しみずの里」開設準備室
福島市泉字清水内3
Tel. 024-563-1695

福島市で初めてのインドネシア・フェスティバル

10月21日は、福島市で初めて開かれたインドネシア・フェスティバルを見に行きました。

福島には、在留インドネシア人のネットワークである「コミュニタス福島」という任意団体があり、福島市、伊達市、二本松市、本宮市、郡山市などに居住する留学生や技能実習生がつながっています。

同じように、東北レベルでは、東北6県に住む在留インドネシア人のネットワークとして「東北家族」、インドネシア語では「クルアルガ東北」という団体があり、彼らの間での様々な連絡調整を行っています。「コミュニタス福島」はこの「東北家族」の一躍を担っています。

今回の初めての福島インドネシア・フェスティバルですが、「東北家族」のメンバーが、宮城県や岩手県からも駆けつけて、大いに盛り上げてくれました。とりわけ、塩釜市在住の皆さんによる踊りの数々には圧倒されました。

だって、午前11時から午後2時までの間に、踊りの出し物が8つもあったのです!

インドネシア・フェスティバルでこれだけたくさんの数の踊りの出し物があるのは、珍しいのではないでしょうか。

開始早々、皆が踊りだす、というノリ。壇上で、女性陣が踊りだすと、それに合わせて手を振り、踊りまくる男性たち。これって、スラウェシの田舎でよく見た、結婚パーティーの後、ダンドゥッドで踊りまくるあのノリではないですか・・・。

食べ物コーナーも長い列です。食券制なのですが、筆者は、食券を買いそびれて、結局、何も食べられませんでした。残念。

参加者の多くはインドネシア人たちで、久々に色んな友人たちに会えて、楽しかったようです。でも、日本人のお客さんもけっこう来ていました。福島市内にも、「片方の親がインドネシア人」という方が、実は何人もいらっしゃるような印象を持てました。

友人の話ですが、フェスティバルの会場の脇を通った通行人の方が、「いやー、ここだけなんか空気が違うのよねー」とおっしゃっていたそうです。たしかに、この会場には、開放的であっけらかんとした、楽しい!という素直な雰囲気に満ち満ちていました。

インドネシア・フェスティバルで感じたこのパワー。これがこの福島をもっと面白くすることにつながっていきそうな、何の根拠もないですが、そんな気にさせる力を持っていたように思います。

来年もやるよー!、と皆が口々に叫んでいました。

はい、来年も、コミュニタス福島、東北家族の皆さんと一緒に、無心で楽しめる、インドネシア・フェスティバルを福島市でやりましょう、ね。

毎月食べたくなる、椏久里のケーキ

10月も、いつもの間にか、もう終盤へ入ってきました。スラウェシ中部地震関連の情報収集を続けているうちに、悶々とした気分の日々になり、正直言って、ちょっと気持ちが鬱屈してしまいました。

そんななか、無性に、あのケーキが食べたくてしょうがなくて・・・。

福島で時間があれば、必ず食べに行く、それが椏久里のコーヒーとケーキです。毎月、ラインナップが変わるケーキは、食べに行かないと本当に損した気分になってしまうほどです。今回は、10月11日に行きました。

 椏久里のホームページ

10月のケーキは4種類ありましたが、11月になったら食べられないかもしれない2種類を味わってきました。

これは、モーゼルヴァイン・クレームトルテ。ドイツ・モーゼル産のシャープでフルーティーな白ワインのクリームと、みずみずしい福島産シャインマスカットを使用したドイツ菓子、というのが、椏久里のホームページでの説明です。

ドイツ菓子、というのは、そこの部分が硬くて薄い焼き菓子になっていて、サクッとしているのが特徴です。それがなんとも言えず、好きです。

続いては、秋のおなじみ、モンブラン。キャラメル化させたメレンゲに生クリームと和栗特有のやわらかい香りと甘さを引き出した自家製和栗甘煮をのせ、ラム酒のきいたマロンクリームで仕上げた、ということです。

口のなかでふわっととろけるメレンゲと生クリームの組み合わせが、なんとも言えず良いです。カウンター越しに、「和栗を剥くのは大変なのよー」「栗はね、こうやって剥くのよー」といった、ミユキさんとの掛け合いが、またいつものごとくとても楽しいひとときです。

今回のコーヒーは、マラウィ・ミスク。満ち足りたひとときを過ごすことができました。

閉店間近となり、お客さんも少なくなって、いつも今月のケーキ情報を送ってくださるSKさんと一緒に、マスターとその奥様のミユキさんと話が弾むうちに、スラウェシ中部地震の話になりました。

突然、マスターが走り出して、どこかへ行ってしまったかと思ったら、封筒を片手に戻ってきました。「ウチからも少しだけどよろしく」と。

今回の募金の呼びかけでは、全く見ず知らずの方々も含めて、たくさんの方にご信用いただけて、本当にありがたいものだと思っています。

募金とともに、皆さんのスラウェシを思う気持ちが、私の信頼できるマカッサルの友人たちと被災地の方々に届くようにと、願っています。

さて、11月も、また椏久里のケーキも食べに行けるといいのですけれど・・・。

本当に、オススメのケーキですよ。皆さんもぜひぜひ。

かなしさ、さびしさ、むなしさの2週間、求めていたのは「光」

今回は、ちょっと一息入れて、個人的なことを書いてみます。

このところ、本ブログでは、スラウェシ中部地震被災地支援への協力を呼び掛けていますが、これまでの2週間、実は、ずっと暗い気持ちのままでした。

先週初め、出張先のインドネシア・東ジャワ州バトゥで、空に浮かぶ中秋の名月の光があまりにもきれいで、だからこそ、悲しさの深みに嵌っていきました。
その日の朝、私の大学時代の恩師が亡くなったとの知らせが入ったのです。その恩師なくして、自分がアジアと関わる人生を送ることはなかったといっても過言でない、大きな存在でした。
その悲しみを抑えながら、出張を終えて28日朝に帰国し、一休みしようと思ったときに入ってきたのが、スラウェシ中部地震・津波の報道でした。
当初は、日本ではあまり報道されていませんでしたし、インドネシアでも津波警報がすぐに解除になったので大したことはない、嘘報道ではないか、という程度の扱いだったのです。
でも、これは大変な事態になる、という直感が私にはありました。パル湾は陸地へ深く入り込んでおり、湾の最も奥にあるパルは津波が来たら相当な被害が出ることが予想できたからです。
嘘かもしれないという津波の映像がSNSで流れ、その数時間後に、事実であることが判明し、BBCやNHKが盛んにその映像を流し始めました。
パルやドンガラは、私にとって大事な場所です。1996~2001年及び2008~2010年の在マカッサルJICA専門家(地域開発政策アドバイザー)時代、1~2ヵ月に1回はパルを訪問し、中スラウェシ州開発企画局(BAPPEDA)と定期会合を行い、地域開発政策について議論していました。国立タドゥラコ大学の先生方やパル・ドンガラのNGOにも知り合いが増えました。彼らの安否がすぐに心配になりました。
ドンガラ県のナビ・ビジャ県知事と一緒に村を訪問(2000年4月25日)
現在までも、まだまだ消息の分からない知り合いが大勢います。そして、ほかのスラウェシの私の友人たちが、パルやドンガラへ緊急支援に動き出しました。私がつなぐ形でパルやドンガラの友人・知人と知り合いになった者もいます。現段階でできる私たちの支援は、信頼できる彼らに託すことだけかもしれない。そんな気持ちで、募金を皆さんにお願いしているところです。

自分の出身地である福島も被った東日本大震災と、私にとってとても大事な「故郷」と言ってもいい場所であるスラウェシで起こった地震・津波がオーバーラップしてしまいます。そして、東日本大震災の前年に亡くなった父と恩師の姿とがオーバーラップしてしまいます。
よりによって、自分の人生の中でとても大事な場所のいずれにおいても、大災害が起こってしまうなんて・・・。そんな人生になるなんて・・・。
かなしさ、さびしさ、むなしさ。
もう、とっくの昔に、インドネシアやスラウェシを単なる研究対象としてみられなくなってしまった自分。固有名詞で呼べるたくさんの友人や知人が存在してしまうことになった場所。
東日本大震災のときと同じように、現場に駆け付けられない自分を責める自分。駆けつける時期ではないと自分を諭す自分。
そんな落ち着けない自分にとって、今、なにが必要なのか。
悶々とするなか、ふと、志村真介さんの写真展「感ずる光」のことを思い出し、会場の表参道ヒルズ・ギャラリー同潤会へ行ってみることにしました。
いったんは生死をさまよいながら、奇跡的に生還し、リハビリの日々を過ごしてきた志村真介さんの写真は、物体ではなく、そこの光を撮る作品でした。リハビリをしながら撮ったというその作品には、一瞬一瞬にみせる光、その光の温かさや柔らかさに加え、様々な生を感じさせる作品でした。志村真介さんにしか撮れない作品、だと思いました。
幸運にも、志村真介さんと志村季世恵さんに久々にお会いし、少しお話しすることもできました。なんだか、とてもホッとしました。
やはり、今の自分に必要だったのは、光なのでした。生の光、希望の光なのでした。それは、深い悲しみや寂しさやむなしさからこそ、生まれてくる深い光なのでしょうか。
日曜日の表参道は、たくさんの人でごった返していました。ふと見上げると、並木の上の青空から、今の自分には、やや強すぎる光が差し込んできました。でも、なんだか、そのやや強すぎる光に元気づけられたような気がしました。
その後、新宿で、ロンボク島から一時帰国中の岡本みどりさんのトークライブに顔を出しました。岡本さんには、私が月2回発行する情報マガジン「よりどりインドネシア」に毎月「ロンボクだより」を連載していただいています。
その岡本さんの話の芯は、ロンボクで起こった連続地震に対する地元の人々の強さと明るさでした。いやなことがあっても、落ち込むだけで終わることなく、人と人とのつながりを大事にして、少しずつ自分たちで解決していく能力のすごさ。前向きに明るく生きたほうがいい、という、いい意味での楽観主義が生きることに希望を作り出していく。
岡本さんの話も、今の私のとっての「光」になりました。
かなしさ、さびしさ、むなしさ。
でも、父や恩師、犠牲になった友人たちや知人たちは、自分たちのことを思ってくれるのはありがたいだろうけれども、ずっとそれに浸り続けてほしいとは、絶対に思わないだろう、ということにようやく気づけました。
東京の秋の空に輝く光を見上げながら、自分がやれること、やるべきことを自分なりにやるだけだ、と静かに思えました。

マカッサルの作家たちを福島へ

ちょうど1週間前の8月25日、インドネシア・マカッサルから来日した作家や詩人ら6名を福島へお連れしました。彼らは、マカッサル国際作家フェスティバルの主宰者やキュレーターです。

実はこの8月25日ですが、この日の朝、スラウェシ島でのカカオ農園ツアーを終えて帰国しました。参加者と解散して別れて、羽田空港でスーツケースを自宅へ送った後、マカッサルから来日中の彼らを迎えに行き、新幹線に乗って福島へ向かい、用務を終えた後は、最終1本前の新幹線で彼らと一緒に東京へ戻る、という、なかなか怒涛の一日でした。

今回の彼らの訪問は、国際交流基金の支援によるもので、今年5月、福島の詩人・和合亮一さんをマカッサル国際作家フェスティバルに招聘したプログラムの続きの意味がありました。彼らは今回、8月25日に、和合さんが主宰して、福島稲荷神社で毎年行われている「未来の祀りふくしま」の本祭を観に来たのでした。

福島に到着後、まだ時間があったので、彼らのリクエストに従って、筆者のオフィスを訪ねてもらいました。筆者のオフィスは、明治6年に建てられた古民家「佐藤家住宅」と同じ敷地内にあるプレハブ小屋です。彼らは古民家をとても興味深く感じたようでした。

私のオフィス内で記念のセルフィ―。

10年ほど前、筆者がマカッサルに滞在していたとき、家の敷地内に彼らの活動スペースを提供し、NGOのオフィスやら、映画上映会やら、セミナーやら、アート発表会やら、民間図書館やら、様々な形で使ってもらいました。彼らのなかには毎日寝泊まりしている者もいて、いつもマカッサルの地元の若者が活動している空間でした。その頃の仲間が今、こうして福島の我がオフィスに来てくれたというのは、なかなか感慨深いものがあります。

その頃からの付き合いで、筆者も、マカッサル国際作家フェスティバルには第1回からほとんど参加してきています。

震災後、マカッサル国際作家フェスティバルに集ったインドネシア国内外の作家たちがどんなに日本のことを思ってくれていたか。フェスティバルの現場で驚くほどの彼らの思いを目の当たりにし、何としてでもこのフェスティバルに東北から作家や詩人を連れて来なければと思い続け、ようやく、今年5月、高校の後輩でもある和合亮一さんを招くことができたのでした。

そして、今度は、彼らが和合さん主宰の「未来の祀りふくしま」へ。

福島稲荷神社に着き、前方のブルーシートのかかった席に彼らを通し、座ってすぐ、山木屋太鼓が始まりました。

震災後、川俣町で唯一避難を余儀なくされた山木屋地区。そこに代々伝わる山木屋太鼓を絶やさず、守ってきた(とくに若い)人々の真剣な演奏が心に沁みました。この太鼓がどんなに人々を元気づけてきたか。評判は聞いていましたが、やはりナマはすばらしい!

続いて、島根県益田市から来られた石見神楽。エンターテイメント精神にあふれた演目で、神楽って、こういうものもありなのか、と思うほど、圧巻でした。素晴らしくて言葉が出ません。

最初は、恵比寿天のコミカルな舞。観客を楽しく笑わせた後は・・・。

いかつい顔のスサノオノミコトが現れ、最後には・・・。

ヤマタノオロチの登場。口から煙を出し、火を噴き、グルグル巻きで暴れまわります。もちろん、最後は、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治して終わります。

日が落ちて、時雨れた通り雨が一通り上がった頃、6時45分から、いよいよ「未来の祀りふくしま」の本祭、新作神楽の奉納となりました。和合亮一さんの詩をもとに、福島の様々な人々が関わって、音楽や踊りを取り入れた、新作神楽を毎年8月、福島稲荷神社へ奉納してきました。今回で7作目になります。

新作神楽の目的は、死者への鎮魂と未来への祈りです。8月は旧盆もあり、死者がこの世にしばし戻ってきて家族と一緒に過ごし、再び向こうの世界へ戻っていく、そんなことを思うときです。新作神楽は、震災で犠牲になった方々の鎮魂とともに、犠牲になった方々に対して、よりよい未来を築いていくことを誓い、約束するものでもあります。

今回の演目は「呆然漠然巨人」。福島市にある信夫山にまつわる伝説をモチーフにしていましたが、和合さんの詩は、やはり鎮魂と未来への祈りに満ちた力強いものでした。

「万、千、百、十、一
 万人の命 みな同じ命
 一人の命 万人の命と同じ」

「夢を持ちなさい
 夢を叶えなさい
 明日が来るという保証はないのだから」

「風を待つのではない
 風を作るのだ」

原文とは違っているかもしれませんが、新作神楽のなかで、何度も何度も、繰り返し、繰り返し、読まれた言葉でした。

新作神楽を演じた子どもたちも大人たちも、音楽を奏でた子どもたちも大人たちも、そして、真剣な面持ちで、きっと様々な人を想いながらこの舞台を見守っていた観客の皆さんも、一緒になって作っていたあの福島稲荷神社の空間が、とても神々しく、かつ素敵に感じました。

これまで、カカオ農園ツアーと日程が重なって観に来れなかった「未来の祀りふくしま」。今回初めて体験し、和合さんはじめ皆さんがどんな思いでこのイベントを続けているのか、改めて感じ入ることができたような気がします。

マカッサルから来た彼らとも感想を語り合いましたが、死者への鎮魂と未来への祈りというところから、彼らなりに深く理解していたことをありがたく思いました。

和合さんの計らいで、彼らを連れて、公演後の打ち上げの場にもお邪魔しました。この日のうちに東京へ戻らなければならないので、宴のはじめに、しばし時間を頂戴して、彼らから福島の皆さんに挨拶してもらいました。そして、和合さん自身が、どんなにマカッサル国際作家フェスティバルで感じることが多かったかを、改めて話してくださいました。

福島とマカッサルで、これからこのような交流を続けていけたら・・・。マカッサルから来た彼らも、和合さんも、互いにそう語りました。

新幹線の時間を気にしながら、打ち上げ会場を出た私たちに向けて、和合さんは、店の入っているビルの前で、いつまでもいつまでもずっと手を振っていました。マカッサルから来た友人たちは、その和合さんの姿をずっと心に焼き付けて、インドネシアへ戻っていきました。

福島とマカッサルをつなげる第1章を終え、次は、まだ中身は分からないものの、第2章へ移っていきます。

「ふるさと」をいくつも持つ人生

「ふるさと」を狭義で「生まれた場所」とするなら、どんな人にも、それは一つ鹿ありません。しかし、自分の関わった場所、好きな場所を「ふるさと」と広義に捉えるならば、「ふるさと」が一つだけとは限らなくなります。

人は、様々な場所を動きながら生きていきます。たとえ、その場所に長く居住していなくとも、好きになってしまう、ということがあります。それは景色が美しかったり、出会った人々が温かかったり、美味しい食べ物と出会えたり、自分の人生を大きく変えるような出来事の起こった場所であったり・・・。

どんな人でも、自分の生まれた場所以外のお気に入りの場所や地域を持っているはずです。転校や転勤の多かった方は、特にそんな思いがあるはずです。そんな場所や地域の中には、広義の「ふるさと」と思えるような場所や地域があるはずです。

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筆者自身、「ふるさと」と思える場所はいくつもあります。

筆者の生まれた場所であり、昨年法人登記した福島市。家族ともう30年近く暮らす東京都豊島区。地域振興の調査研究で長年お世話になっている大分県。音楽を通じた町おこしの仲間に入れてもらった佐伯市。留学中に馴染んだジャカルタ。かつて家族と5年以上住み、地元の仲間たちと新しい地域文化運動を試みたマカッサル。2年以上住んで馴染んだスラバヤ。

まだまだ色々あります。

今までに訪れた場所で、いやだった場所は記憶にありません。どこへ行っても、その場所や地域が思い出となって残り、好きという感情が湧いてきます。

単なる旅行者として気に入ったところも多々ありますが、そこの人々と実際に交わり、一緒に何かをした経験や記憶が、その場所や地域を特別のものとして認識させるのだと思います。

そんな「ふるさと」と思える場所が日本や世界にいくつもある、ということが、どんなに自分の励ましとなっていることか。

あー、マカッサルのワンタン麺が食べたい。家のことで困っている時に助けてくれたスラバヤのあの人はどうしているだろうか。佐伯へ行けば、いつまでも明るく笑っていられるような気がする。由布院の私の「師匠」たちは、まだ元気にまちづくりに関わっているだろうか。ウガンダのあの村のおじさんとおばさんは、今日作ったシアバターをいくら売ったのだろうか。

そんな気になる場所がいくつもある人生を、誰もが生きているような気がします。

昔見たマカッサルの夕陽(2003年8月10日、筆者撮影)
マカッサルといえば思い出す「ふるさと」の光景の一つ
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地域よ、そんな人々の「ふるさと」になることを始めませんか。自分たちの地域を愛し、好きになってくれるよそ者を増やし、彼らを地域の応援団にしていきませんか。

筆者がそれを学んだのは、高知県馬路村です。人口1000人足らずの過疎に悩む村は、ゆず加工品の顧客すべての「ふるさと」になることを目指し、商品だけでなく、村のイメージを売りました。何となく落ち着く、ホッとするみんなの村になることで、村が村民1000人だけで生きているわけではない、村外の馬路村ファンによって励まされて生きている、という意識に基づいて、合併を拒否し、自信を持った村づくりを進めています。

もしも、地域の人口は1000人、でも地域を想う人々は世界中に10万人だと考えたとき、そこにおける地域づくりは、どのようなものになるでしょうか。

その地域が存在し、生き生きとしていくことが、世界中の10万人の「ふるさと」を守り続け、輝くものとしていくことになるのではないでしょうか。

私たちは、そんな広義の「ふるさと」をいくつも持って、それらの「ふるさと」一つ一つの応援団になっていけたら、と思います。

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それは、モノを介した「ふるさと納税」を出発点にしても構わないのですが、カネやモノの切れ目が縁の切れ目にならないようにすることが求められるでしょう。

正式の住民票は一つしかありません。でも、「ふるさと」と思える場所はいくつあってもいいはずです。

いくつかの市町村は、正式の住民票のほかに、自らのファンに対してもう一つの「住民票」を発行し始めています。飯舘村の「ふるさと住民票」は、そのような例です。以下のリンクをご参照ください。

 飯舘村ふるさと住民票について

「ふるさと住民票」を10枚持っている、50枚持っている、100枚持っている・・・そんな人がたくさん増えたら、地域づくりはもっともっと面白いものへ変化していくことでしょう。地域はそうした「住民」から様々な新しいアイディアや具体的な関わりを得ることができ、さらに、その「住民」を通じて他の地域とつながっていくこともあり得ます。

こうした「住民」が、今、よく言われる関係人口の一端を担うことになります。それは緩いものでかまわないと思います。

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世界中から日本へ来る旅行者についても、インバウンドで何人来たかを追求するよりも、彼らの何人が訪れたその場所を「ふるさと」と思ってくれたか、を重視した方が良いのではないか、と思います。

それがどこの誰で、いつでもコンタクトを取れる、そんな固有名詞の目に見えるファンを増やし、それを地域づくりの励みとし、生かしていくことが、新しい時代の地域づくりになっていくのではないか。

奥会津を訪れる台湾人観光客を見ながら、その台湾人の中に、もしかすると、台湾で地域づくりに関わっている人がいるかもしれない、と思うのです。そんな人と出会えたならば、その台湾人と一緒に奥会津の地域づくりを語り合い、その方の関わる台湾の地域づくりと双方向的につながって何かを起こす、ということを考えられるのではないか、と思うのです。

飯舘村の「ふるさと住民票」を登録申請しました。そして、私が関わっていく、日本中の、世界中の、すべての地域やローカルの味方になりたいと思っています。

「ふるさと」をいくつも持つ人生を楽しむ人が増え、地域のことを思う人々が増えていけば、前回のブログで触れた「日本に地域は必要なのですか」という愚問はおのずと消えていくはずだと信じています。

夕焼け空を母と見上げた

6月24~26日は、福島です。

先ほど、夕方、福島に着きました。今日の日中の福島は東京よりも熱かったようですが、夕方になると、さわやかな風が南から吹いて、歩いていて気持ちのいい陽気でした。

実家へ歩いて帰る途中、ふと西の空をみると、空が赤くなり始めていました。吾妻連峰のシルエットが映えています。福島製作所前の交差点で、空がパッと広くなり、上空を飛行機雲が通っていき、その線がぼやけていきました。

三河踏切を渡って、振り返ってみた線路(奥羽線)と高架(山形新幹線)を背にした夕焼けも、きれいでした。

自宅そばの小学校の校舎を包むような、やわらかな夕方の陽のひかり。

実家に着いて、すぐに母を呼びました。何事かとバタバタかけてきた母と、一緒に空を見上げました。

しばし、無言で、空を見上げ続ける母と私。

人間がおそらく絶対に創り出せない色合いや形状、そしてこのマジックアワーの何とも言えない雰囲気。

「まだ子供だった頃、毎夕、屋根の上から、一番星が出るまでずっと夕焼け空を眺めていたのよ」 ポツリと母がつぶやきました。

筆者も、今から20年以上前、家族3人で、マカッサル沖に沈む夕日を海岸から眺めていた日々を思い出しました。

世界のどこかで、おそらく必ず、今、この瞬間に、それぞれの夕日を眺めている人々がいることでしょう。そんなことを思います。

夕日を眺める豊かで美しい時間を、決して失いたくない、他の人のそれも決して失ってほしくない、と思いました。

夏至を過ぎたばかりの福島の夕焼けでした。

初めての法人税申告

昨年4月に福島市に合同会社を設立して、今回が初めての法人税申告となりました。締め切りの5月31日の1日前に終わらせることができて、ちょっとホッとしています。

個人事業主でやってきたのを、よりカチッと仕事をしていきたいと考え、一人会社にしましたが、振り返ってみれば、個人事業主のときと中身はあまり変わっていないかもしれません。自分のやりたいと思うことが、ことごとく利益とは関係のないものであるがため、いつまでも種まきをしているような、錯覚に陥りそうです。

とはいえ、法人としてのお務めの一つである、法人税申告。幸か不幸か赤字決算となったため、法人税はゼロとなり、福島県へ支払う法人県民税と福島市へ支払う法人市民税は、均等割という、法人ならば払わなければならない一律額の最低額を支払う、というシンプルな形となりました。

それでも、申告のための書類作りはけっこう難儀でした。とくに、国税用の様々な明細を用意しなければならないのと、記入のしかたがよく分からない部分がけっこうあり、本当にここで記入してしまっていいものかどうか、悩みました。

結局、分からないところをそのままにして、税務署で担当の方に相談に乗ってもらい、書類を見ながら、一つ一つ、記入のしかたを教えてもらいました。税務署の担当者は、きっと内心「こんなことも分からないのか」と思っていたかもしれませんが、懇切丁寧に教えてくださいました。そして記入が済むと、それのコピーを取っていただき、相談は終了。「次回から相談は予約を入れてください。3月決算は混むので」と言われ、少々恐縮。

あとは、受付で申告をし、受領印をもらって終了。法人設立の際にも、税務署には大変お世話になっており、今のご時世もあるのでしょうが、対応に対する私自身の満足度は今回も高かったのでした。

県税事務所も市税担当者も、対応はとてもよく、申告書の記入の不備をチェックしていただいた後、申告書をスムーズに提出することができました。

そして、後は、銀行の窓口で県税と市税の均等割分の支払いを済ませて、法人税申告は無事に終了しました。

今回は、税理士さんを介さずに自分でやったのですが、個人事業主のときと内容があまり変わらなかったので、記入すべき書類が少なかったのだろうと思います。今後、会社の規模をどうしていくか、考えながら、いずれ必要になれば、税理士さんのご指導も必要になるのだろうと思っています。

それにしても、きちんと法人税を払えるだけの売上というか所得をつくっていかなければならないな、とちょっと気を引き締めるのでした。

あー、椏久里で美味しいケーキと一緒にコーヒーが飲みたいな。マスター、近日中におうかがいしますー。

声とノイズ、言葉の力、詩の文化

先週のマカッサル国際作家フェスティバルに出席した後、数日間帰国し、今また、インドネシアに来ています。ちょっと時間の空いた黄昏どきのジャカルタで、マカッサル国際作家フェスティバルを振り返っています。

声とノイズ、というテーマは、単なる意味どおりの声とノイズだけでなく、声がノイズに変わって無視されると同時に、ノイズが声に変わって世論を動かしていく、という両面性を意識する機会となりました。

我々が聞いていると思っている声は誰の声なのか、ノイズに埋もれさせてはいけない声とは何なのか、忘れ去られた声は全てノイズだったのか、色んなことを思います。ただ、確実にひとつ言えることは、声は決してひとつではない、という当たり前の事実であり、もし声が一つしか聞こえないとするならば、様々な声を聞こうとしない、聞こえないと思っている、聞いてはいけないと思っている、明らかに社会が自らを押し殺している状態に他ならないのではないか。

マカッサル国際作家フェスティバルでは、実にたくさんの参加者が即興で自作の詩を読みました。誰かのものではなく、自作の詩を。自作の詩を声を出して人々の前で読む、朗読するということは、自分の声を出していることに他ならず、それが朗読として成立しているのは、その声を聴く人々がちゃんと存在しているからです。

そして、その詩に社会への不満や不正への怒りが込められ、共感した聴衆が声を上げ、拍手をして反応する。それはまさに、声が出ている、届いている空間でした。

彼らの詩に込められているのは、まさに言葉の力。その言葉にそれぞれの詩を作った自分の魂が込められ、それが声として発せられ、聴衆に届いていく。マカッサル国際作家フェスティバルの空間は、そうした言葉の力をまだまだ信じられると確信できる空間でした。

福島から参加してくださった和合亮一さんは、そうしたなかで日本語で自作の詩を朗読しました。日本で最も朗読している詩人と自称する彼ですが、時として、自分を環境に合わせてしまっているのではないか、という気持ちがあったそうです。

自作の詩を誰もが読める空間に和合さんが遭遇したとき、何が起こるかは個人的にある程度想像していました。そして、和合さんには、思う存分朗読してほしい、爆発してくださってもいい、と申し上げました。

和合さんの日本語の詩を聴衆が理解できたとは思いません。でも、今回、言葉の力は意味の理解以上のものを含むのだということを、和合さんの眼前で理解しました。朗読の力は。想像以上のものでした。自分で声を出す者どうしの、言葉の力と力を投げ受けしあう同士の、生き生きした空間が生まれていました。

それは、ある意味、いい意味で、福島を理解してもらいたい、というレベルをいつのまにか超えていたように思います。和合さんの興奮する姿がとても新鮮に見えました。

日本における自作の詩の朗読の世界は、こんな空間を作れているでしょうか。

自分たちの声を出し、それを聴こうとする人々との相互反応が起こる社会は、何となく、まだまだ大丈夫、健全だと思ったのです。たしかに、マカッサル国際作家フェスティバルがそんな空間を作り続けることに一役買っている、と確信しました。

5月5日の夜、フェスティバルのフィナーレで、壇上に上がった主宰者のリリ・ユリアンティが「壇上からはライトで皆さんの姿が分からない。携帯電話を持っている人はそのライトをつけて、降ってほしい」と呼びかけました。そして、無数のライトが壇上のリリに向かって振られました。

その光景は、とても美しいものでした。

ノイズではない、一人一人の声が携帯電話の光となって、互いの存在を認め合っているかのように感じられたからです。

こんな光景を日本で、福島でつくりたい。恥ずかしがることなく、自分の思いを、自分の考えを、自作の詩を、声に出せる、そしてそれに耳を傾けてくれる人々のいる空間。和合さんを福島から招いたことで、そんなことを思い始めた、今回のマカッサル国際作家フェスティバルでした。

予告:マカッサル国際作家フェスティバルに和合亮一氏が参加

インドネシア・スラウェシ島にある都市マカッサル。筆者ものべ8年半住んでいた、人口100万人のこの地方都市では、2011年から「マカッサル国際作家フェスティバル」(MIWF)が開催されています。

今年は8回目、5月2~5日、海に近いロッテルダム要塞公園をメイン会場とし、市内各所にサブ会場を設け、様々なセッションが繰り広げられます。下の写真は、昨年のフェスティバルの様子です。

マカッサルやその他のインドネシア国内のほか、オーストラリア、シンガポールなどの海外から様々な文学者が出席し、知的刺激に満ちた活発な活動が繰り広げられます。

筆者は、これまでほぼ毎年出席し、その様子は、ブログでこれまで紹介してきました。以下に、昨年のフェスティバルに関する記事のリンクを貼っておきます。

 国際作家フェスティバル、テーマは多様性

 2つのセッションでパネリスト

 動く動く移動図書館ほか

 国際作家フェスティバルのフィナーレ

今年のテーマは、Voice and Noise、です。2018年の統一地方首長選挙、2019年の大統領選挙と、政治の騒がしい季節を迎える中で、市民社会が批判的かつ明確な声を上げ続けていくことが必要だ、という主張を出していきます。

そして、今年のフェスティバルには、福島の詩人・和合亮一氏に参加していただくことになりました。和合氏には、フェスティバルのなかで、震災後から現在に至る福島の声を伝えていただき、詩の朗読もお願いする予定です。

上の写真は今年2月、マカッサル国際作家フェスティバルの主宰者であるリリ・ユリアンティさんを福島にお連れし、和合氏と面会したときのものです。
ちなみに、和合氏については、『現代詩手帖』2018年4月号で特集が組まれています。
福島とインドネシアをつなぐ・・・。今回はマカッサルですが。これが第1弾です。
併せて、実は、今年、マカッサルから文学者を福島へ招聘する計画もあります。
今回、和合氏が伝える福島がマカッサルでどう受け止められるか、そして和合氏はマカッサルから何を感じて福島へ何を持ち帰るのか。

筆者が震災後、ずっと願っていた、和合氏のインドネシアへの招聘を実現できることになり、言葉に表せない喜びと、何が起こるかとワクワクする気持ちが湧いてきます。

もちろん、来週開催のマカッサル国際作家フェスティバルの様子は、本ブログでしっかりお伝えしていきます。乞うご期待。

ふくしま百年基金設立発起人になりました

少し前の話ですが、4月7日、郡山市民文化センターの会議室で開催された、ふくしま百年基金設立発起人会に出席しました。

ふくしま百年基金の話は、3月7日にふくしま連携復興センターの山崎氏と斎藤さんに出会い、設立発起人となることを強く勧められました。そして、趣旨に賛同し、その場で登録用紙に必要事項を記入し、ささやかな額の出資金を払って、簡単に設立発起人になったのでした。

ふくしま百年基金とは何か。ホームページはこちらです。

 ふくしま百年基金

簡単に言えば、コミュニティ財団というか市民ファンドというか、市民の寄付によって集めた資金を市民のために使うための基金、ということになります。

ふつう、財団とかファンドとかいうと、企業のフィランソロピーやCSRの一環として、企業が収益の一部を基金とし、それを市民活動などへ使ってもらう、という形が一般的ですよね。

このふくしま百年基金は、企業の収益金を基にするのではなく、これからの福島の未来に役立ててほしいという志を持った市民の浄財を広く集め、それを福島のために貢献したい市民や団体などが活用できるしくみづくりなのです。

自分のお金を福島のために使ってもらいたいけれど、どこに託していいか分からない。他方、今後の福島のためになる活動をしたいけれども、どこから資金を調達できるか分からない。そんな両者をつなぐ仕組み、といってもいいかもしれません。

この仕組みだと、誰かが上に立って自分の思うとおりに仕切る、ということは起こらず、設立発起人の誰もが平等な同じ立場で、この基金をどのように運営していくか、率直に知恵を出し合えます。特定の誰かが牛耳ることもできない、ということも、筆者が心惹かれた要因でもあります。

なぜ百年なのか。これは、この基金が目の前のことだけではなく、自分の子どもや孫の世代にとってよりよい福島になっていくための役目を果たし続けてほしい、という願いから出たものです。

と同時に、浪江町出身の発起人の方がおっしゃっていましたが、原発事故で避難を強いられた地域が本当に復興するには残念ながら百年はかかるのではないか、という思いもそこに含まれていることを改めて思いました。

私自身は、この基金が「福島のためだけ」「福島さえよければいい」というようなものになってほしくはありません。この基金を活用した様々な市民活動が、日本の、そして世界のためにもユニークかつ有益な活動事例となり、福島発の様々な貢献につながるものになることを期待します。そして、新しいコミュニティ財団の在り方を世界に向けて提案できるような役目も果たしていければとも思います。

この基金への賛同者を増やし、規模を大きくして、様々な市民活動を促していけるように、ふくしま百年基金をじっくりと育てていかなければならないと思っています。

福島で百年の単位で有益な新たな何かを生み出したい、創っていきたい、そんなモノやコトが起こることを期待して自分もその仲間に加わりたい、と思われる方は、是非、ご賛同いただき、仲間に加わってほしいです。

4月7日現在、設立発起人は174名、寄付総額はまだ720万円にすぎません。そして、4月11日、一般財団法人ふくしま百年基金として正式に登記されました。くしくも、弊社松井グローカル合同会社と同じ設立日となり、何かの縁を感じます。

まだ設立したばかりで、どこへどのように寄付をするのがよいのか、まだインターネット上でははっきりしていないようですので、分かり次第、お知らせするようにいたします。引き続き、ふくしま百年基金にご注目ください。

会社設立1周年を迎えました

2018年4月11日、福島市に松井グローカル合同会社という名の一人会社を設立して1年が経ちました。個人事業主は廃業し、今はこの法人1本です。会社を設立したものの、活動自体は、個人事業主時代とあまり変わらないまま、1年が経ったというのが実状です。

福島市の弊社オフィス前で咲く満開の八重桜

法人を設立して、法務局、税務署、県庁、市役所のほか、健康保険や厚生年金の手続も行い、一人会社とはいえ、法人として必要な手続を曲がりなりにも進めてきました。

まだまだ収入基盤が固まらず、企業としての安定性を作っていくのはこれからです。しかも、自分がやりたいと思っている活動は、どれもが利益第一ではないものばかりで、どのように収入基盤を固めていくのか、まだしばらくは試行錯誤を続けていくことになりそうです。

営業活動をほとんどしてこなかったことも反省材料です。でも、これは、意義のある仕事を求めながら、少しずつ増やしていきたいと考えています。

そうは言うものの、4月になって、今まで仕込んできたものが動き始めたように思えます。

まず、念願の、福島とインドネシアとをつなげる事業が、今年、少なくとも3本、動かせそうです。分野としては、それぞれ農業、教育、文化に関係します。40年ぶりの福島出戻り組として、福島の外の世界への窓としての役割を自覚し、福島に新しい価値を付加できるように活動していきたいと思います。

インドネシア人技能実習生の活用に関するコンサルティングも開始します。幸運にも、福島や東北に所在するインドネシア人技能実習生ネットワークやインドネシア人の方々と知り合い始めており、より有意義な活動を展開していく基礎ができ始めました。

インドネシア人技能実習生の関連では、ほかにも、ある日系企業と組んで、活動する計画があります。詳細が固まっていくなかで、またお知らせできると思います。

地域づくりや地域おこしに関する活動にも、関わっていきます。地域の方々自身が自分たちの足元を見つめ、主体的に地域に関わっていけるような気づきを促す、教えないコンサルティングに磨きをかけていきます。

そのほか、福島以外の日本の地方とインドネシアの地方とをつなげる事業にも関わります。ただ単につなげるだけではなく、そのつながりから創り出されるモノやコトの価値を意識しながら、つなげた後も、しっかりとサポートしていきたいと思っています。

当面は一人で活動していきますが、状況次第では、社員を雇用することも考えていく必要が出てくるかもしれません。また、日本、インドネシア、その他世界の他社と組んで、事業を行っていくことも、考えていきたいです。

なお、福島の弊社と同じ敷地内にある古民家の活用について、様々な人々が安心して活用できる、福島市のパブリック・スペースとして、整えていく考えです。私自身も、いくつかイベントを考えていますが、皆さんのなかで、古民家を使ったイベントや活動をご希望の方は、お気軽にお問い合わせください。

そんなわけで、1年前よりも、色々わくわくするような展開になりそうな予感があります。まだまだヨチヨチ歩きではありますが、皆様からのご指導・ご鞭撻、そして協働のほどをよろしくお願い申し上げます。

面白いこと、楽しいことをしていきたい、です!

奥会津にはまり始めたかも

3月20日に会津柳津の花ホテルで講演する前に、同じ奥会津の只見町、金山町をまわっています。主催者から、講演のテーマに只見線のことを入れてほしいと言われており、まずは、只見線に乗らなければ、と思った次第です。

そこで、3月18日、まず、小出から只見まで、只見線に乗りました。今回の車両は2両編成、1両は「縁結び」をテーマとしたラッピング車両でした。

この日は東京から新幹線を使わず、在来線乗継で小出まで来たのですが、水上あたりから雪が見え始め、清水トンネルを過ぎたら、本当に雪国でした。小出駅でも、除雪した雪が高く残っていました。

小出=只見間は、1日に3本しか走っていません。その2本目に乗車。車内は、4人掛け椅子の進行方向窓側に一人ずつ、明らかに乗り鉄または撮り鉄の人たちが座っています。その多くは、青春18きっぷで乗車している様子でした。

途中、越後須原と入広瀬で、高校生ぐらいの若者が一人ずつ下りたほかは、車内は鉄道マニアの世界でした。

車内から撮ったのでピンボケですが、1階部分は雪に埋まっても、2階部分で出入りや生活ができるようになっているように見える家。雪の量を見て納得です。

大白川からは、いよいよ山越えです。六十里越という名のかつての厳しい難所は、六十里越トンネルで通過。トンネルに入ってから出るまで約9分もかかりました。

うっかりして、旧田子倉駅を通過したときに写真をうまく撮れませんでした。只見線を語るうえで、この田子倉のことを忘れてはなりません。只見線の敷設は、只見川電源開発における田子倉ダムとそのダム湖である田子倉湖のためでもあったからです。

そうこうしているうちに、只見に到着。

只見町の面積(747.5 km2)は東京23区よりも広い(東京23区は619 km2)のです!この只見町は、「自然首都・只見」を宣言し、ユネスコエコパークに登録されました。国内最大級の面積のブナの原生林があり、自然を生かしたまちづくりで、只見のブランド化を図っています。

只見町ブナセンターという組織があり、「ただみブナと川のミュージアム」や「ふるさと館田子倉」を運営しています。

ミュージアムの展示は、なかなかしっかりしたもので、とくにブナに関する学術的な展示のほか、動植物や昆虫に関するもの、そして民具や道具(とくに熊狩りなどの狩猟用具)と人々の生活に関する民俗的な展示にも見るべきものが多々ありました。調査研究成果が紀要として定期的に刊行されており、それが、只見町が発行する「只見おもしろ学ガイドブック」などにも反映されていました。

ふるさと館田子倉には、田子倉ダムの建設で湖底に沈んだ旧田子倉集落の生活・文化に関する記録や、田子倉ダム建設への反対運動や交渉に関する資料、田子倉ダム問題を題材にした文学作品等の展示がありました。

只見を含む奥会津では、かなり前から、子どもを含めた聞き書き運動が盛んに行われてきており、聞き書きを基にしたたくさんの出版物が残されてきました。その中心的役割を果たしたのが、三島町にある奥会津書房という小さな地方出版社ですが、行政も聞き書きに対する理解を示していたようです。

3月19日は、只見町からお隣の金山町へ移動しました。ここは、地中から炭酸水や炭酸泉が湧く場所で、大塩地区で取れた炭酸水を商品化して販売しています。甘くない微炭酸の炭酸水を味わいました。

今夜泊まっている玉梨温泉では、玉梨温泉の源泉のほかに、炭酸泉の源泉があり、町立のせせらぎ荘という施設でその炭酸泉に長い間浸かってきました。

炭酸泉と言えば、大分県の長湯温泉が有名ですが、東日本では、ここの炭酸泉(八町温泉)が有名なのだそうです。長湯ほど炭酸がバチバチ出てくる感じはありませんでしたが、温度が40度とわりに高い炭酸泉で、体中に粒々の炭酸の泡がたくさんついてきます。炭酸泉の源泉かけ流し、というのは初めて経験しました。

会津川口駅前では、有名な地元ソウルフードのカツカレーミックスラーメンを食べました。これは、ラーメンの上にカツカレーライスが乗っかっている、というものでした。福島県内の地元メディアがたくさん取材に来たということです。

これを出す「おふくろ食堂」の女将さんとは、なんだか色々話しこんでしまいました。20日の講演内容を考えるうえで、参考になる話を聞くことができました。

こうやって、実際に、短時間でも只見や金山を歩いただけで、具体的なイメージが少しずつ現れてきたような気がしています。明日20日は、柳津へ着く前に三島町を訪問しますが、さらに何か有益なインプットがあるのではないかと思っています。

何となくですが、奥会津にもはまり始めたような気配を自分自身に感じています。

福島~浜通り~宮城県南部をまわる(2)

3月8日。朝、福島市を出発し、飯館村に新たにオープンした道の駅いいたてに立ち寄りました。ここで、岩手県、宮城県から南下してきたもう1台のグループと合流しました。

道の駅いいたては、木材をふんだんに使った新しい建物で、入口に掲げられた村の人々一人一人の大きな笑顔の写真が印象的でした。

道の駅いいたてを出発し、南相馬から常磐自動車道を経由して、浪江町へ。メディアからすれば、浪江町で避難指示解除があった今年は「浪江の年」になりそうです。

浪江町役場に到着。立派な建物です。役場の方によると、現時点での町民は約500人、300世帯程度ということです。

浪江町役場の脇には、いくつかの小さな仮設店舗が集まった「まち・なみ・まるしぇ」がありました。

ここでランチ。食べたのは、もちろん、なみえ焼きそば。特徴の太いうどんのような麺をこってりソースで炒め、麺の上に大ぶりの豚肉が3切れのっています。

浪江町役場からそう遠くないところに、災害復興公営住宅が建てられていました。

4月から再開される小中学校は、小学校8人、中学校2人で開校、ということでした。元々の中学校の場所に、小学校と中学校を(一貫ではなく)併設する形で開校するそうです。

浪江町の青田荘にも立ち寄りました。簡易宿泊施設である青田荘は、避難されている町民と帰還した町民、浪江町民と外部者、といったつながりを自然に生む一時滞在施設としての役割が期待されています。

浪江町の後は、南相馬市小高区へ。

以前、2012年8月、誰もいない小高へ行きました。誰もいない、野良猫しかいない場所に、なぜか商店街の音楽だけが流れていました。以下の2枚は当時、小高で撮った写真です。

今回行ったら、小高は、人の気配のある町になっていました。「なぜ、人のいない町で音楽が流れていたのか」と聞いたところ、音のない街は死んでしまうと思った小高の商工会長さんの意向で、あえて流していた、ということが今回の訪問で分かりました。

最初に訪問したのは、小高復興デザインセンター。南相馬市と東京大学が運営する復興のための協働拠点です。

小高復興デザインセンターで、最近の小高での取り組みについてうかがった後、近くにある小高ぷらっとほーむ(小高工房)を訪問しました。

ここは、誰でもふらっとやってきて、お茶を飲んだり歓談したりできる、どんな人にとってもの居場所という役目を果たしています。ガヤガヤと押し寄せた我々も、ゆるっとした雰囲気で受け入れてもらえました。

しばらくすると、代表の廣畑裕子さんが我々を別室へ招き、活動内容をお話ししてくださいました。別室へ招かれたのは、その時に訪れていた方々のなかには、いろいろな方がいらして、ふとした瞬間にトラウマや悲しみの感情が溢れてしまうこともある、という理由でした。誰にとっても、その存在を否定せずに受け入れる、どんな人にとっても居場所となることが大事なのでした。

廣畑さんは、10分ぐらいとおっしゃっていたのに、30分近く、7年目を迎えるにあたっての思いを真剣に話してくださいました。喜怒哀楽をもった普通の人間が生きている。でも、よそ者のメディアは、7年経っても悲しみにくれる映像を求めてくる。被災地の人間は笑ったり、楽しくしていたりしてはいけないのか。廣畑さんは、ときに怒りを込めながらも、自分たちの気持ちをなかなか分かってもらえない虚しさやもどかしさを訴えていました。

廣畑さんは、この7年間の思いを文字の形で映像にしています。でも、それは英語版のみです。日本語で書いて英訳したものなのですが、英語版のみをユーチューブにのせています。いかにそのサイトを上げておきますので、ご覧になってみてください。

 I will live my life fully today. 311 minamisoma odaka

建物の壁面には、来訪した若者たちによる描画がありました。

小高には、小高ワーカーズベースや柳美里さんが準備中の本屋「フルハウス」(私もささやかながらクラウドファンディングに協力しました)など、訪れたい場所が他にもいろいろあります。小高にはそうした新しいよそ者がまちづくりにも関わっている雰囲気があり、まだまだ面白くなりそうな気配がありました。

小高を後にして、相馬へ向かいました。相馬では、早川医院の早川先生のお話をうかがいました。早川先生は、死体の検案を行う医師でもあり、7年前の震災の際には、たくさんの検案を行いました。

早川先生は、その時から全ての記録を克明にとってきました。死体の発見場所、時間、発見された時の状況、本当の死因、その他、彼の関わった震災に関連する記録を克明にとっていたのです。そのデータから、彼なりの幾つかの疑問が提示されました。

たとえば、個人情報という観点から、3・11の際、災害時要支援者情報を支援者団体へ提供した自治体は岩手県(県単位)と南相馬市の2つのみで、他は提供しなかったということです。個人よりも個人情報保護が重要なのか、という問いかけがありました。

そして、たくさんの他県の医療関係者による支援があり、それに対する深い感謝の気持ちが改めて示されていました。

そして、夜は、早川先生の主宰で、賑やかな夕食の宴が催されたのでした。

浜通りを1日駆け足でまわって、日常を取り戻そうとする様々な動きを知るとともに、それが、よそ者の考えるような単純な復興ではなく、まだまだ、ぐだぐだと、よそ者から見れば焦ったく見えるような、少しずつの歩みが続くのであり、同時に、誰もが存在を認められる環境・場づくりが大事であることを感じました。

浜通りの現場としっかり向き合ってじっくり付き合っていくことが、必要になってくると思いました。

(つづく)

福島~浜通り~宮城県南部をまわる(1)

先週、3月7~9日は、友人である神戸・まちコミュニケーション専務理事の宮定章さんとその仲間たちと一緒に、福島市、飯舘村、浪江町、南相馬市小高区、相馬市、山元町、名取市閖上、仙台市荒浜と、駆け足でまわりました。

福島県福島市出身で1年前にあえて福島市に一人会社を登記し、自分では、遅ればせながらの出戻りと思っていますが、福島市のある中通りの人間にとっては、同じ福島県でありながら、浜通りや会津は違う世界、という感覚があります。

福島県は、山々に隔てられる形で、会津地方、中通り、浜通りの大きく3地方に分かれていますが、それもあってか、福島県として一体感を感じることは、正直、あまりなかったように思います。

7年前の震災・原発事故と、それに伴う大規模な強制・自主避難のなかで、浜通りの方々を中通りや会津地方の方々が受け入れる、という事態が起こりました。もちろん、全国すべての都道府県が避難された方々を受け入れてくださっているのですが、福島県内でそのような事態が起こったのはもちろん初めてでした。

それに加えて、福島という言葉にまつわる様々な誹謗中傷、偏見や差別が起こるなかで、福島という同じ名前を背負った会津地方、中通り、浜通りは、「自分は違う」として他の二つの地方を見捨てるようなことはできなくなりました。そうした境遇が、おそらく初めて、三地方が福島県としてまとまりを意識する契機を作り出したのではないか、という気がします。

そんなことを思いながら、宮定さんの「ツアー」に同行しました。

3月7日は、まず、三春町にある福島県環境創造センター交流棟(コミュタン福島)を見学しました。

この施設では、震災後に起きた原発事故と現在に至るまでの取り組みを開設するほか、放射線・放射能・放射性物質に関する正しい科学的な知識を説明するコーナーがあり、東京の国立科学博物館以外ではここにしかない360度シアターでの迫力ある映像番組を観ることができました。

次に、郡山市のNPO法人原発事故災害者復興タウン鬼生田開発プロジェクトを訪ねました。ここでは、地権者と話をつけ、原発事故で避難を余儀なくされている方々で農業で生計を立てたい方々に農地と宅地を提供し、そうした方々をコミュニティの新たな一員として受け入れる準備を進める活動をしています。

この鬼生田地区は、遠く安達太良連峰を望む風光明媚な場所で、できる限り有機農業で米や野菜を作っているところです。おそらく、他の地域と同じように、人口流出や高齢化が課題となっているようで、原発事故で避難された方々がここで安心して暮らすことが鬼生田地区にとっても大きなメリットになる、という意味があるようでした。

鬼生田地区の後は、福島市へ戻り、飯舘村から移った、私の行きつけの珈琲店・椏久里で、浪江町津島地区から福島市へ避難したご夫妻からお話をうかがいました。お二人は、私の友人のご両親です。店内が混んでいたので、席が離れざるを得ず、私以外の参加者を優先して話を聞いてもらいました。

津島地区は浪江町の内陸部にあり、原発事故当初、浪江町の海岸部の町民たちの避難先となっていました。ところが、海岸部から津島地区への谷道は風の通り道であり、かつ、南東の風が吹き込んだため、津島地区は放射能汚染で高い放射線量を記録する場所となり、さらに中通り方面へ避難することになりました。

その避難の際の混乱とどのように動いて最終的に福島市へ落ち着いたのか、友人曰く話下手のご夫妻が、ポツリポツリとではありましたが、事細かく話してくださいました。息子である友人自身も初めて聞く話だった、と言います。

夜は、市内で、福島大学名誉教授の鈴木浩氏と福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任教授の真野博氏のお話を聞く、宮定さん主宰の勉強会に出席しました。真野氏からは、2017年6月30日に出された福島復興再生基本方針に、国の決意表明のような、以下のような記載があることが紹介されました。

「福島の復興及び再生を国政の最重要課題と受け止め、原子力災害によって福島にもたらされた深刻な事態の記憶と教訓を決して風化させることなく、これからも、原子力災害に対する福島の住民の怒りや悲しみに共感し、福島の住民に寄り添いながら、誇りと自信を持てるふるさとを取り戻すことができるまで、その責務を真摯に、かつ、国の威信をかけてあらゆる知恵と力を結集し、総力で実行していくものである」

この言葉通りの実行がなされることが求められるのですが、現実の動きを見ると、果たして国は本気で共感し、寄り添う意思があるのか、疑問を持たざるを得ない面もあります。

また、住民の生活再建と行政の政策の位相にずれがあり、行政が何をしたらいいのか把握しきれていない様子もあります。国から下りてくる事業で精いっぱいで、住民参加をむしろ避ける傾向すら見られるといいます。行政と住民とをどのようにつなぐのか、住民参加を政策へ反映させるための方策は何か、それらを支えるサポート人材を大学などが育ててはいるのですが、需要があまりにも多く、まだまだ人材が不足しているということです。

自分が福島でこれから取り組みたいことの一つが、こうした「つなげる」人材を育てていくこと。単につなげるだけでなく、つなげ方やつなげる目的を理解し、どのような未来を作っていくのかを意識できる「つなぎ屋」を育ててみたい、と思っています。

(つづく)

福島市のホッとするブックカフェ・コトー

先週、インドネシア人作家のリリ・ユリアンティさんを連れて福島を案内したのですが、前々から気になっていたブックカフェ・コトーへ行ってきました。

コトーの場所は、新浜公園のすぐ近く。筆者が小4~高1まで住んでいた場所(今や当時の家の面影も何も全くない)から歩いて5分もかからないところにありました。そう、子どもの頃の私にとっては庭みたいな場所です。

ちょっと古ぼけた二階建ての建物の2階に、コトーはひっそりとありました。

階段を上がって中へ入ると、子ども向けの本から美術書まで、面白そうな本が並んでいます。選者のセンスの良さを感じさせるラインアップでした。

寒い外からストーブで温かな空間、とても居心地のよい空間でした。リリさんとコーヒーを飲みながら、しばし読書談義をしているうちに、いつしか、店主の小島さんも話に加わり、誰も他にお客さんがいないのをいいことに、色々な話をしました。

ここの本はみんな買取で、すべて販売している本です。言ってみれば、古本屋さん。小島さんに言われて気づいたのですが、福島市内には古本屋が見当たりません。人口30万人の街にある唯一の古本屋なのかもしれません。

もっとも、今や、古本はブックオフやアマゾンで売買すればよいから、古本屋は必要ないと割り切る向きが多いのかもしれません。それもまた、全国の地方都市で地元の本屋がどんどんなくなっている現象と軌を一にするものでしょう。

本屋はただ単に本が置いてあるのではなく、そこに様々な本がある偶然、自分には思いもしなかった本と出会う偶然、そんな偶然が起こる場所であり、そんな偶然が自分では思いもしなかった新しい自分や何かを生み出していたのかもしれません。

地方都市にとっての文化って、いったい何なのだろうか?

効率や損得が第一のような風潮のなかで、敢えて、古本屋という媒体を通じて急く時間を止め、様々な偶然が生まれて浸み込んでいく時間と空間を提供している場所。そんな場所を求めている人々がこの福島にもいるということに、自分勝手ではありますが、ものすごく救われた気分になりました。

そして、こんな場所が福島市内のあちこちに生まれたら、もっと素敵な町になっていくなあ、と思いました。

小島さん、またお邪魔します。自分も、そんな場所を作ってみようかな?

文化をつくるって、きっと、こういうことから、じわじわ、ゆるゆると始まっていくのかもしれません。

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