川俣と飯野のおひなさま

2月18日は、弟に車を出してもらい、リリさんを連れて、福島から川俣と飯野(いいの)へ出かけました。前日の雪が心配でしたが、幹線道路の雪はきれいに除雪してありました。

まず、道の駅川俣に着いて、2階にある蕎麦屋で鶏南蛮そばをいただきました。そばは手打ち、おつゆの中に小切りの川俣シャモが数切れ入っていました。

川俣の名物といえば、川俣シャモ、シルク、コスキン・エン・ハポネス。

最後のコスキン・エン・ハポネスは、日本国内最大のフォルクローレ・フェスティバルで、毎年10月に開催されています。

というわけで、道の駅でそばを食べ、桑粉入りのソフトクリームを堪能した後、お隣のおりもの展示館を見学。

世界一薄い絹織物「フェアリー・フェザー」は、本当になめらかで薄くて軽いシルクでした。マレーシアのジミー・チュウが、震災後、川俣シルクを素材に作った靴ももちろん展示してありました。

でも、この日の展示のメインは、おひなさまでした。

道の駅では、川俣町の公民館の主事をしているインドネシア人のイェティさんとお友達のエカさんと初めてお会いし、生活のことや技能実習生のことなど、色々なお話を聞きました。イェティさんとは、フェイスブックで友達になっていたのですが、実際に会うのは初めてでした。ただ、なぜかそんな気がしない出会いでした。

イェティさんの案内で、川俣から飯野へ移動。川俣は町として存続しましたが、飯野は合併を選び、福島市に吸収されました。

飯野では、ちょうど、名物の吊るしびな祭りが行われていました。飯野のメインストリートの焦点が、思い思いに、小さな雛人形や色々な飾りを上から吊るし、それをお客さんが見て回る、というお祭りです。

ポイントは、店に入らないとじっくり見られないこと。そして、朝10時から夕方4時までしかやっていないこと。我々が着いたのは午後3時半で、結局、30分しか見て回ることができませんでした。

しかも、途中で入った洋品店で、お店のおばさんと話し込んでしまいました。
飯野も前日の晩は雪がたくさん降ったこと、それを商工会の役員の方々が朝懸命に雪かきをしてくれたこと、でも寒いからか訪問客がほとんどいないこと。
日曜だけどお祭りだから夕方まで開けてくれと言われて店を開けていること、飯野はどう頑張ったって皆んなよそへ出て行って寂しくなっていくこと。
おばさんの話は止まず、でも、飯野の今の状況を察することができるような話で、こうした話の延長線上で、お祭りをやっても意味があるのだろうか、というおばさんの気持ちが溢れているのでした。きっと、あと1時間2時間、お話を聞いているのがよかったかもしれません。

少しでも、飯野によその人が関心を持ってくれたら、という気持ちで、吊るしびな祭りが行われているのでしょう。でも、きっと、このお祭りはもっと面白くなるような気がしました。きっと面白く楽しくなります。
リリさんやイェティさんに置いていかれそうになったので、おばさんとの話は終わらせ、時計を見ると、午後4時まであと5分。

筆者が幼い頃、国鉄・東北線の松川駅から川俣線という国鉄ローカル線が出ていました。松川、岩代飯野、岩代川俣のわずか3駅で、全国有数の赤字路線となり、1972年に廃止されました。

福島市に住んでいたとはいえ、飯野に行ったのは今回が初めてでした。この吊るしびな祭りは3月4日まで、飯野の30以上の店で行われています。行って実際に見ると、なかなか圧巻です。

飯野は、UFOでの町おこしも試みており、UFOの里という施設もあります。また、近いうちに飯野へ行き、おばさんの話の続きを聞きたい、面白いことやものを探したいと思います。

未来の祀りカフェで熊本と福島を結ぶ

先週は体調がすぐれず、昼間でも寝たり起きたりの毎日でしたが、何とかしのぎ、2月17日、フォーラム福島で開催された、第4回未来の祀りカフェ「めぐる春の祈り 〜熊本のいま、ふくしまのいま〜」に参加しました。

一連の「未来の祀りふくしま」の活動については、以下のページをご覧ください。

 未来の祀り ふくしま 2017

2016年4月14日に熊本で起こった連続地震。福島や東北からもたくさんのボランティアが駆けつけました。そして1年経った現地を、未来の祀りカフェを主宰する福島の詩人・和合亮一さんが訪れ、イベントで連帯を示したことが、今回の第4回カフェのきっかけとなったようです。

以下に、新聞記事が出ています。

 福島民報:福島と熊本復興へ前進誓う 未来の祀りカフェ
 福島民友:福島と熊本の復興願う 和合亮一さんら「未来の祈りカフェ」
 熊本日日新聞:被災復興の「今」語る 南阿蘇村の観光業者ら福島でイベント出演

カフェには、映像などで熊本の復興を支援する西村元晴さん、南阿蘇観光復興プロジェクト交流協議会やつなぐ・つながる南阿蘇未来会議の皆さんが駆けつけたほか、地元・福島の土湯温泉の旅館若手経営者でつくる「ふくしま若旦那プロジェクト」の渡邉利生さんも出席、そして、シンガーソングライターの小室等さん・こむろゆいさんもいらっしゃいました。大御所の小室等さんを生で初めて見ることができました!

第1部では、南阿蘇での復興に関連したショートフィルムが3本上映され、それを基に、和合さんの司会で、出席者がトークを行いました。第2部では、熊本で和合さんが読んだ詩に小室さんが曲をつけた作品など、トークを交えながら3曲が歌われました。

会の趣旨としては、震災に見舞われた熊本と福島との間での連帯と交流をこれからも進めていくという面のほかに、両者が迎えているいろんな意味で同じような現状にある、という意識を持っていることの確認の意味がありました。

あの時のことを決して忘れないということ。それを基盤として、当事者意識を持ちながら、子供や孫により良い未来を残せるように、身近なところからできる範囲で活動していくこと。まだまだ苦しくとも、よろよろしながらも、一歩ずつ前へ進んでいくこと。

震災から時が経つにつれ、まだまだ日常を取り戻したとは言い切れないままではあっても、福島が福島のためだけでなく、熊本を含む他者へも思いを馳せ、つながっていこうとすること。もしかしたら、それは、福島がこれから積極的にやっていかなければならないことなのかもしれません。

イベントに参加しながら、私の熊本がらみの友人や知人の顔が思い浮かんできました。

そう、あの地震が起こる前、南阿蘇とインドネシアの東ロンボクとをつなげてみたいと、思っていました。阿蘇山に抱かれた南阿蘇、リンジャニ山に抱かれた東ロンボクの特にセンバルン地区。観光と農業に生きるこれら2つの地域を、いつかつなげて新しい動きを作ってみたい、と。今でもまだ、それを捨てずにいます。

今回のイベントには、マカッサル時代からの友人で、マカッサル国際作家フェスティバルを主宰しているリリ・ユリアンティさんも連れて行きました。彼女もまた、熊本と福島との連帯を深めるこのイベントをとても嬉しく感じていたようでした。

そして、今や、こうした連帯やつながりは、国家の枠を軽く越えて、どんどん進んでいくものなのだとも強く思うのでした。

左から筆者、リリさん、和合さん、落合さん、森さん。

リリさんは、今年5月2〜5日に開催するマカッサル国際作家フェスティバル(MIWF 2018)で福島に関する特別セッションを計画しており、もちろん、私もそれに関わります。様々な条件が叶えば、福島から和合亮一さんをマカッサルへ招聘することを計画しています。できれば、その後、マカッサルからも福島へ文学関係者を招聘したいと考えています。

次は、福島とマカッサルをつなげます。お楽しみに。

会津坂下の奇祭・大俵引きを見に行く

1月14日は、会津坂下町へ坂下初市と大俵引きを見にいきました。

会津坂下では、年の初めの4の付く日が初めて市の立つ日ということで、毎年、1月14日に「初市」が開催されます。この初市と合わせて行われるのが、大俵引きです。

会津坂下町が自ら「奇祭」と名付ける大俵引きですが、重さ5トンの大俵を真ん中に置き、東方と西方に分かれて、綱引きのように大俵を引き合うものです。

まずは、前座として、子どもが参加する俵引きが行われます。俵の大きさは1トン、男の子は上半身裸です。

子供の部が終わると、いよいよ大人の部です。

まず、5トンの大俵のお祓いをします。

続いて、東方(赤)と西方(白)のふんどしを絞めた裸の引き手計147人が登場、引き手もお祓いを受けます。引き手は地元の人だけでなく、全国、そして外国から参加した人もいました(例年、11月頃にネット上で一般参加者の登録ができるそうです)。
でも、小雪が舞い散る氷点下のなか、多くの引き手はすでにアルコールを飲んで体を温めてきている様子で、なかにはもう、顔が真っ赤で、目が血走り、ベロンベロンに酔っぱらっている者も。
大俵を動かして、道の真ん中に据えます。大俵の上には、東方に町長が、西方に商工会長が乗り、その間に軍配を持った行司が立ちます。
いよいよ、「引き方、始め~!」の声で、大俵引きが始まります。そして、「引き方、止め~!」で終了です。

1回目は東方の勝ち。2回目は西方の勝ち。そして、3回目に移る前に、参加した引き手の名前をズラズラと一人ずつ読み上げます。
そして、3回目。1分以上もかかる熱戦の末、西方の勝ち。これで、2勝1敗の西方が今年の大俵引きの勝者となりました。
この大俵引きでは、東方が勝つと米の値段が上がり、西方が勝つと米が豊作になる、といわれるため、今年は米が豊作となるという予想になりました。
この後、見物人を含めた誰でも参加できる大俵引きがありました。この大俵を引くということは、福や幸運を引き寄せることになる、ということで、大勢の人々が参加しました。
毎年、この坂下の大俵引きは、新年の恒例行事として、福島県内のテレビや新聞で必ず報道されます。
寒いなか、裸にふんどし一丁で参加した引き手たちは、厳寒のなか、写真撮影などしばらく現場に残された後、町内の温泉施設へ移動して体を温め、夜は盛大な懇親会で再びアルコールに浸る、ということです。
今回は、この奇祭を見に来たわけですが、それに合わせて、雪の会津坂下の街中を少し歩いてみました。わずかの時間でしたが、なかなか堪能できました。素敵なところでした。その内容はまた、明日以降のブログでお伝えすることにします。

柳津の「小さな宿の勉強会」は今回でなんと第484回

1月12日は会津坂下で用務を済ませ、さて次はどこへ行こうかと思っていたところ、今回案内してくれる友人が、柳津(やないづ)へ行くというので、付いて行きました。

友人が連れて行ったのは、柳津温泉の「花ホテル滝のや」という宿でした。なんでも、友人は私をこの宿のご主人に会わせたい、というのです。まあ、私自身、特別な予定もなかったので、そこまで言うならお会いしてみよう、ということで同行したのでした。

着いてしばらくすると、行政関係の別の来客があり、成り行き上、事情も分からないまま、私も同席することになりました。皆さんの話の内容は分かりましたが、これまでの経緯や中身については全く関知しないので、ともかく、じっと黙っていることにしました。

このときの私以外の方々の議論について、ここでは触れませんが、地域の現場でよく見かける様々なものの一端がここにもありました。

この宿に私を連れてきた友人は、夜、会津坂下で用事があるということで、私は急遽、この宿に1泊するということになりました。そして、たまたま、その夜はイベントがあるので、それにもぜひ顔を出してほしい、と言われました。

そのイベント、というのが、「小さな宿の勉強会」花ホテル講演会、というものでした。今回で第484回。えーっ、484回も続いている勉強会って、いったい、どんなものなのだろうか。しかも、柳津という小さな町の小さな宿でそれが続いているとは・・・。

急に興味がわいてきたので、この会に参加することにしました。

宿のご主人から渡された資料によると、この会の第1回は2001年2月2日に開催されて、毎月3~4回ぐらいのペースで、ずーっと継続されています。

今回の第484回は、いなわしろ民話の会に所属する鈴木清孝さんという方が「会津の民話:親父の冬がたり(冬だからこそ、語りのおもてなし)」と題する講演でした。

福島県内の会津地方より面積の狭い都府県が全国で21あることや、冬の雪多き気候が豊かな水を作り出す場所として会津の「津」という意味があることなど、会津に関する豆知識をお話しいただいた後、いくつかの冬に関係する唱歌を皆で歌い、冬に関するいくつかの民話を会津弁で語ってくださいました。

参加された方々は高齢の方が多かったのですが、皆さん、民話が好きで、語り部をやっていらっしゃる方々でした。全会津民話の会という名前の下に、18団体、200人が会員となり、500~600話(基本は150話程度)の民話の語りを行っている、というのにも、軽く驚きました。会津ではまだまだ民話が愛されているように感じました。

鈴木さんの講演が終了すると、参加者が集って、オードブルや鍋を囲みながら懇親会へ移ります。今回は、県立会津大学の副学長を務めていらっしゃる程先生も参加されていて、とても熱心に皆さんのお話を聞いていましたし、私も個人的に色々とお話をすることができてとても有益でした。

間もなく500回を迎えようというこの「小さな宿の勉強会」を主宰している花ホテル滝のやのご主人である塩田恵介さん。まさに、地域な中で様々な人々をつなげ、それを地域に生かす種まきをずっと地道にされていることに深い感銘を受けました。それは、決してすぐに芽を出すものでも、成果主義に即した即効性のあるものでもないかもしれませんが、こうした営みが続いているということ自体に大きな意味があると感じました。

塩田さんはまた、柳津という一つの町に留まらず、奥会津地方の地域づくりに関わる方々のまとめ役も果たされていて、とくに、災害で一部不通となっているJR只見線の復旧に関して、沿線市町村と連携して動いていらっしゃる姿には、本当に脱帽です。まさに、奥会津、いや会津の地域づくりのキーマンの一人なのでした。

私の友人がなぜ、私を塩田さんに会わせたいと思ったのかがようやく理解できました。

そして、わずか数時間前にお会いしたばかりの私に、塩田さんはこの「小さな宿の勉強会」での講演を依頼するのでした。これは、快諾しないわけにはいきません。この3月に「グローカルな視点からみた地域づくり」(仮題)でお話しすることを約束しました。そして、塩田さんからは、只見線復旧と絡めて話してほしいとの注文も受けました。

宿の24時間かけ流しの快適な温泉に浸かりながら、この日の柳津での出会いの偶然と講演を含むこれからの柳津や奥会津との関わりのことをぼーっと考えていました。そして、やっぱり、現場に即すると、次から次へと色々なアイディアが湧き出てくることに改めて気づきました。

外は雪、マイナス13度の柳津で、温泉のせいもあるでしょうが、とても温かな、そしてしっかりやらなきゃ、という気持ちにさせてくれた一日でした。

柳津に連れて来てくれた友人と塩田さんはじめ、「勉強会」でお会いできた皆さんに感謝申し上げます。

会津バスの粋な計らい

昨日、1月11日から福島県会津に来ています。

同じ福島県といっても、福島市出身の自分にとって、会津はあまりよく知らない世界です。これまで、何度か来たことはありますが、土地勘が全くない場所です。

今回は、東京から会津バスの高速バスで会津若松駅前まで乗車しました。快適なバス旅で、所要時間は4時間弱。郡山まで雪はほとんどなく、車窓から見える枯れ木林が夕日に映えてとてもきれいでした。

郡山からいくつものトンネルを経て山を越え、猪苗代に入ると、そこはもう一面の銀世界。かなりの雪が積もっていました。会津若松市内は猪苗代ほどではないにせよ、それでもまだ道には雪がけっこう残っていました。

道中、会津バスの運転手から、乗継タクシーの割引券をもらいました。系列の会津タクシー限定ですが、会津バスで到着後、会津タクシーに乗り継ぐと、タクシー料金から500円割引となる券です。

途中のサービスエリアで、会津タクシーに電話をし、迎えに来るように頼むと、ちゃんと会津若松駅前で待っていてくれました。市内のホテルまで780円でしたので、280円の支払いで済んでしまいました。

タクシー以外に、喜多方方面などへの会津バスの路線バスに乗り継ぐ場合にも、割引券が提供されます。

会津観光には、2,670円で、2日間、指定域内の鉄道・バスが乗り放題となる「会津ぐるっとカード」というのもあり、利用しない手はありません。

もっとも、今回は、会津坂下の友人が案内してくれているので、私はまだ使っていませんが。

巷では「明治維新150年」とか言っていますが、会津では「戊辰戦争150年」という言葉をよく聞きます。あまり知られていませんが、会津は今、地域活性化の面白い取り組みが色々行われているところです。今回は、その一端に触れることができそうです。

40年前までの福島市民が今また戻ってきた訳

今週は金曜日まで福島市です。おこもりでしていた原稿執筆が、終わってはいないけれども、今日でようやく目途がついたので、少し気持ちに余裕ができました。

福島市で法人登記してから、ちょうど今日で8ヵ月が経ちました。法人登記したのは4月11日、東日本大震災の月命日にあたります。本当は3月11日に登記したかったのだけれど、今年は土曜日だったので、無理でした。

あの震災がなかったら、自分は故郷の福島市に活動拠点をかまえようとは、きっと思わなかったでしょう。

震災の前年に亡くなった父が、私がまだ福島市で中学・高校に通っていたころによく言っていた言葉を思い出します。

父は、「福島に居るな。外に出ろ。できれば、日本の外へ出ろ」と何度も言いました。「世界のどこにいても、元気にしているならそれでよい」とも言いました。

私は、父のように、地元・福島で学校の先生になりたいと思っていました。何かを教えることが好きだったし、たくさんの教え子に囲まれる人生が素敵に見えたものです。でも、父は、私が自分と同じ職業に就くことを望んでいませんでした。そして、大人になってから、その理由がはっきりと分かりました。

父が満足していたかどうかは別として、高校を卒業した後、東京で一浪して東京の大学に入り、縁あって就職した職場では、インドネシアと付き合うことになりました。

そして、頻繁に日本とインドネシアを行き来し、ときにはインドネシアに長期滞在し、30年以上経った今でも、インドネシアとの付き合いは切れるどころか、ますます深みにはまっていく感じがするほどです。

福島がどんどん遠くなっていきました。インドネシアがどんどん近づいてきました。

一身上の都合で23年お世話になった職場を離れ、今度は一人で挑戦しようと動き始めてほどなく、父が亡くなり、震災が起こりました。

震災後の様々な社会の動揺や変化を見ながら、自分の人生にとって何か大きなパラダイム転換が起きたように感じました。豊かになることが幸せなのか。他人に勝つことが人生の目的なのか。生きるって何なのか。依存するって何なのか。自立って何なのか。

震災後の福島が、世の中の様々なものに翻弄され、ときには差別され、排除され、無視され、ズタズタにされていく様子を見ていました。ただただ、それに対して無力な自分を攻め続け、自分で自分を罵倒していました。

個人としては原発には反対だけれども、原発に長年真面目に関わってきた高校・大学時代の友人たちや、原発のおかげで幸せな生活が送れるようになった人たちのことを思いました。白黒なんて簡単に線は引けない。きれいな結論を出せなくなりました。

自分が今できることは何なのだろう。福島から出ていった自分は、福島にとってはよそ者です。でも完全なよそ者ではなく、出戻りです。そうした出戻りが、これまでの日本の地域づくりのなかで重要な役割を果たした事例をたくさん学んではきましたが、では、自分はどうなのか。

まずは、自分の立ち位置を定めること。福島市に法人登記したからといって、福島市から一歩も外に出てはいけないわけではないし、日本中、いや世界中、どこで活動してもかまわない訳です。でも、その出発点を福島市に定めた、という意味を法人登記に込めたいと思いました。

福島市を出発点として、福島市はもちろんのこと、日本中、世界中の必要とされている場所で活動し、その成果のエッセンスを何らかの形で福島へ返していく。逆に、福島での活動の成果やエッセンスを外の世界へ流していく。

そんな、福島と外とを行き来しつつ、福島と外の世界をつなげたり、外からヒトやモノやコトを福島へ取り込んだりしながら、その過程で新しい何かが生まれる触媒の役割を果たす。それが、今考える、自分なりの立ち位置ではないか、と思っています。

これをやるんだ、というものをギラギラさせているわけではありません。今の福島市にとって必要なモノやコトは何か、といつも考えています。もちろん、やりたいと思っていることは色々あります。

でも、すでにいろんな方がいろんなことをされていて、まずはそれを学ぶことから始めているつもりです。じっくりと、慌てずに、しかし本物の活動をしたり、促したりしていけるように、研鑚を積んでいきたいと思っています。

40年前まで福島市民だった自分の、根っこの部分とよそ者の部分のハイブリッドで、自分が一体何をしていけるか。動いていきます。

昔から、大好きな福島のリンゴを毎日、実家で食べられる幸せ・・・

福島のインドネシア人コミュニティとつながる

昨晩(11/18)、友人を通じて、福島のインドネシア人コミュニティとつながり、焼肉パーティーに招かれました。

今後の活動の一翼として、インドネシア人技能実習生に対する相談窓口の役割を果たしたいと考えていますが、これまで、なかなかつながる機会がありませんでした。これからの展開がとても楽しみです。

噂では、福島にも少なからぬインドネシア人技能実習生がいるようなのですが、街中で出会うことはまずないし、福島県も福島市も、むしろベトナムへの関心が高く、インドネシアのイの字も聞こえてこないような状況に見えました。

でも、福島市をはじめ、二本松市、本宮市、川俣町など、けっこうな数のインドネシア人技能実習生がおり、彼らは「コミュニタス福島」というゆるやかな組織を通じて、つながっているのでした。今回お会いした方々も、この「コミュニタス福島」のメンバーです。

彼らは、コンクリートの型枠を作って据え付ける作業をする実習生でした。受け入れてくれた会社の社長が一軒家を用意してくれて、そこに5人で住んでいました。現場は県内のあちこちにあり、けっこう広い範囲を移動しているようでした。

最初のころは、習ってきた日本語が役に立たなかったと言います。現場の言葉は福島弁、その違いになかなか慣れなかったようです。私が連発する福島弁が大受けでした。

また、初めのころはよく怒られていたそうですが、最近では「いいがら、それ、俺やっとっから」(もういいよ、それは私がやっておくよ)、と言われることが多く、怒鳴られたり怒られたりすることはあまりなくなったそうです。というか、悪くとれば、諦められてしまったのかもしれませんが。

ともかく、彼らにとって、今の社長はとてもいい人で、自分たちは恵まれていると感じているようでした。

それでも、いくつかのケースを聞くと、明らかに、それらはミス・コミュニケーションによる誤解でした。

たとえば、休日なのに働かされる、という話。「きっとそれは、得意先からの納入期限まで時間がないので休日出勤させるということで、日本人でも同じだよ」と話してあげると、彼らはみんな納得します。でも、それを、会社側から彼らにうまく説明できていないようなのです。

また、別のケースでは、実習生は一人で6台の機械を見ているのに、日本人はそれを2人で見ているのは不公平だ、という話。「きっとそれは、実習生のほうが技能的に日本人よりもできるから任せているんだよ」と話してあげると、彼らはまた納得。暗黙の裡に、日本人のほうがインドネシア人よりできるのに、と思い込んでいるのでした。今の企業に、インドネシア人をいじめている余裕などないと思います。

彼らと話をしながら、こんなミス・コミュニケーションを初期段階で一つずつ解きほぐしてあげるだけで、ずいぶんとお互いが気持ちよく活動できるはずだと確信しました。実際には、それが分からないまま、相互に不信感を募らせ、ある日突然、感情が爆発する、といったケースが少なくないと思うのです。

そうした意味で、インドネシア人技能実習生だけでなく、彼らを受け入れている企業や農家の皆さんにとっても、相談窓口にもなりたいと思っています。

このブログを読んでいる方で、関心のある方は、メールmatsui@matsui-glocal.com)または電話(090-3217-5845)、FAX(024-505-4294)にて、お気軽にご連絡ください。

福島、晩秋、オフィスと同じ敷地内にて

昨日(11/15)、福島に着きました。

秋はすっかり深まり、今日(11/16)は寒い一日でした。暖房のない冷えきったオフィスで、寒さに耐えきれず・・・。ともかく暖房対策を急がなければ。

私のオフィスのある敷地内の古民家と庭の景色も、すっかり晩秋の装い。どの季節も、この場所で見る美しさが、何とも落ち着くのです。

11月、12月。締め切り迫る原稿に向かいつつ、福島から自分が始めるモノやコトをじっくり仕込み始めたいと思っています。

遊志庵を訪ねる

今回の大分・佐伯訪問の一つの目的が、佐伯にある遊志庵を訪ねることでした。

この遊志庵は、研究者である岩佐礼子さんという方がご親族の実家の古民家を改修し、地域の人々の憩いの場、よそから来た人たちとの交流の場にしようと運営されている場所です。詳しくは、以下の遊志庵のページをご覧ください。

 遊志庵

ゆったりとくつろげる雰囲気の空間で、しばし、岩佐さんと語り合いました。よそ者、古民家、地元学など、様々な共通用語が出てきました。

語り合いのなかで、地域と交わるといっても、それぞれの地域によって交わりやすさの温度差があり、こうした場所が必要だという認識がどう生まれてくるのか、といったことを考えていました。

急がず焦らず、自分自身も土の人の地域社会になじませつつ、風の人でもある自分の特性を生かしながら、土の人とともに、そこの風土自体と日常生活の中にある価値を認識していけるような活動になるといいなあ、と、私自身の今後の活動のことも含めて、思いました。

福島市の私の事務所と同じ敷地内にある古民家を、どのように地元の公共の場として生かしていくか。それが今後の私の活動の課題の一つだからです。

ともかく、皆さんも是非、遊志庵を訪れてみてください。ここから何かが始まるような気がしてくる場所です。

それにしても、JR代行バスで着いた海崎駅前から遊志庵までの道は、青空が映え、秋の深まりを感じさせる、とても素敵な風景が広がっていました。

福島税務署で残りの諸手続

今日は福島市です。今週は東京で色々と予定が入ってしまったので、福島市にいるのは今日と明日の1泊2日。しかも、明日の夕方5時に東京で予定が入っているので、それに間に合うように、東京へ向かいます。

今回の用事は、税務署です。松井グローカル合同会社を4月に福島市で登記し、色々と手続を済ませてきたのですが、9月分の役員報酬の支払いに伴う源泉徴収所得税納付書を10月10日までに福島税務署へ提出しなければならなかったのでした。

通常、源泉徴収所得税は金融機関の窓口か税務署で期日までに支払うのですが、私の場合は、税務署へ行かなければならないのです。なぜかというと、実は源泉徴収所得税がゼロだからです。

役員報酬額が低いので、ゼロになっているのです。しかし、たとえ源泉徴収所得税がゼロであっても、ゼロであるということを明記した源泉徴収所得税納付書を提出しなければならず、それは金融機関ではなく、税務署へ行く必要があるのです。

もっとも、毎月「ゼロ」の納付書を税務署へ提出に行くのも面倒なので、すでに6ヵ月に1度まとめて提出できるようにするための手続を9月中に終えました。でも、9月分だけは10月10日までに提出する必要があるので、今日、提出してきたという次第です。

次回は来年1月20日までに2017年10~12月の3ヵ月分の「ゼロ」の納付書を提出することになり、その後は、6ヵ月分ずつまとめて、7月と1月の年2回、提出です。

福島税務署で担当してくださった職員の方が、とても懇切丁寧に対応してくださり、すっかり気分の良い一日となりました。「早くきちんと納税できるようにならなきゃ!」と私に思わせるかのような対応でした。

今日の福島市は、晴れているのに時々小雨が降る時雨模様の肌寒い一日でした。お昼に食べた鴨のつけそばがけっこう美味しかったのも収穫でした。

今週は福島、来週はスラウェシ

久々の投稿となってしまいました。

8月15〜17日は、妻と一緒に福島へ行っていました。

まずは、実家の母や弟たちと一緒に、亡き父の墓参りへ行きました。

翌日は、盆休み中の弟と妻と一緒に私のオフィスへ行きましたが、床が汚れていると言って、さっそく掃除。ホームセンターで必要な備品を買い物した後、オフィス入口の床板が腐食していたので、応急措置をしました。

オフィスと同じ敷地内にある、雨上がりの古民家。古民家のオーナーに挨拶し、妻を紹介して、しばし歓談しました。
8月15〜16日は盆休みの弟が、そして17日は弟の嫁が我々の相手をしてくれました。
実家に帰る途中で、季節も終わりかけの桃「あかつき」を箱買いして、実家で食べました。もちろん、硬くて甘い桃でした。
福島から東京へ戻り、18日は都内でなかなか有意義な会議を終え、明日20日からは、ダリケー株式会社による、インドネシア・スラウェシへのカカオ農園ツアーのお手伝いに行ってきます。
帰国は27日。今年はどんなツアーになるか、どんな面白い方々とお会いできるか、楽しみです。

インドネシアの大学の先生方を福島へ

8月1日、インドネシアのマラン・ムハマディヤ大学の先生方5人を福島市へお連れしました。朝、羽田に到着し、そのまま東京駅から新幹線で福島へ来ました。

今回の訪問は、今年4月に私が同大学でゲスト講義を行なった際に話が出ていたもので、福島をテーマとした新しいプログラムを立ち上げる可能性を探るための来訪です。

福島駅近くのホテルへ到着。でも午後3時までチェックできず、一息入れる間もなく、ホテルのカフェでそのままミーティングへ。でも、今回の福島訪問では、実は、このミーティングが一番重要だったのでした。

ミーティングの後、ようやくチェックインし、夜行便でできなかったマンディ(水浴)をした後、どうしても私のオフィスを見たい、ということで、飯坂電車に乗って、オフィスへ向かいました。

私のオフィスの敷地内にある古民家に感嘆し、オーナーの話にいちいち頷く面々でした。オーナーの実家の畑で採れた旬の桃を頬張って、「リンゴより美味しい!」と感嘆の声を上げています。

もちろん、私のオフィスにも来ていただきました。急に強い雨が降り出し、しばらくオフィスで雨が弱まるまで待機せざるを得ませんでした。

先生方の福島訪問は本当にわずかの時間ですが、福島をテーマとした新しいプログラムへのヒントはつかめたようです。うまくいけば、来年の今頃、そのプログラムが実現するかもしれません。私も、その準備に楽しく関わっていくことになりそうです。

福島高校合唱団第60回定期演奏会を聴いて

昨晩は仙台に1泊し、イモニウォークの疲れをとって(?)、朝、JR普通電車で福島へ移動しました。実家で昼食をとって少し休憩した後、ママチャリに乗って向かった先は、福島市音楽堂。

今日は、ここで、福島県立福島高等学校合唱団第60回定期演奏会を聴きに行きました。私の母校であるだけでなく、実は、私もかつて、所属していました。当時の福島高校は男子校でしたので、所属していたのは、もちろん男声合唱団。そう、当時は福島高等学校男声合唱団でした。
今は男女共学となったため、男声がとれて、福島高校合唱団となっている様子。実際、現在の団員は、圧倒的に女性のほうが多く、福島高校といえば男声合唱団だった自分としては、正直言って、最初からちょっと違和感を感じる雰囲気がありました。
今回は、合唱団創団70周年記念演奏会も兼ねており、OB(共学後のOGも含む)がかつて演奏した曲目を現役団員も入って歌う特別ステージがあり、それを聴くのも目的の一つでした。

私が所属していた時の高麗先生に学んだ団員たちは今も「梅声会」という親睦組織を作っており、そのメーリングリストで、今回のステージに参加するメンバーの募集や練習日程などが案内されていました。
私も同期の友人たちから参加を勧められたのですが、長年歌わなかった間に声がもう本当に出なくなってしまい、かつ、直前までインドネシア出張が入っていて練習に出られそうもなかったため、参加しませんでした。でも、節目の演奏会ということで、演奏会だけは聞きに行こうとは思っていたのです。
現役団員のステージは、混声ということで、最初はちょっと面食らったのですが、徐々に慣れ、彼らの一生懸命で若々しい様子を微笑ましく聴けるようになりました。
続いて、OB(OG)を交えたステージが3本。まず、男声合唱ではおなじみの「月光とピエロ」はさすがに年齢の高さを感じさせる演奏でした。次は、10〜20年前の混声になってからの後輩メンバーによるモンテベルディ「マドリガル」から3曲。相当練習したのでしょう、予想以上に素晴らしい演奏で、とても良かったです。
そして、我々の世代を含む男声時代のメンバーによるケルビーニ「レクイエム」からの「ディエス・イレ」と「オフェルトリウム」の2曲。これは福島高校管弦楽団のオケ付きでの演奏で、指揮はかつて指導を受けた高麗先生。
写真がちょっとピンボケですが、雰囲気は伝わるでしょう。私が団員だったとき、先輩は「オフィルトリウム」で合唱コンクール全国大会金賞を取り、我々は高校1年のとき、「ディエス・イレ」で先輩とともに2年連続金賞受賞を狙ったのですが、東北大会で金賞を取ったものの、1点差で全国大会へ行けなかったのでした。
当時と比べれば、合唱もオケもまだまだという感じではありましたが、コーラスの厚みの部分に往年の輝きが随所に感じられ、あっという間に、高校時代の自分にタイムスリップし、いろんな記憶が瞬時に蘇ってきました。
演奏後、ステージに乗った同期から「歌いたかっただろ?」と聞かれたのですが、なぜか歌いたかったとは思えませんでした。物理的にあんな声はもう出ないのもありますが、合唱って、自分にとっては大事な宝物のようなものだけど、今の自分の現実世界とは別の世界にある、という気がしてしまったのです。
振り返ってみると、私が団員だった頃の男声合唱団は、文化系というよりも体育会系に近い組織だったような気がします。目標は合唱コンクールで金賞をとること。そのために、部活では毎日校内をランニングし、腹筋を鍛え、週5日練習し、夏には鬼のような合宿を1週間続け、コンクールが全てに優先する日々でした。
我々のときだって、定期演奏会ももちろん開催しましたが、コンクール優先なので、楽しかったという思い出があまり浮かんできません(でも、女子高校の女声合唱団とのジョイントコンサートを何回か開いたのは楽しかったかな)。
今日の後輩たちの定期演奏会を見ていると、団員たちが色々と工夫をしながら、自分たちも楽しみつつ、お客さんに楽しんでもらおうという姿勢がよく伝わってきました。高校生らしい、と言ってしまえばそうなのですが、ポップス・ステージなんて、私の頃にはまずありえないステージだったけれど、なんだかとても楽しそうで、本当に微笑ましかったです。これも、男女共学になったからなのかもしれません。
真面目で一生懸命な様子がうかがえた現役団員の姿が、私にとっては最大の収穫でした。我々の時代とは違う、新しい時代の君たちの合唱団を作っていってほしいと思いました。
それはそうと、きっと、今日の観客の中には、私と同じ頃に合唱をやっていた方々、もしかすると私の知っている方々が、もちろんシニア世代として、来ていたのではないか、という気がしました。でも、何十年ぶりかで再会するといったサプライズはありませんでした。
長い間、福島から、そして合唱から遠ざかっていた私を知っている人など、おそらくいないはずなのに、もしかしたらいるのではないか、なんて余計なことを思ってしまうのは、やはりここが福島だからなのかもしれません。
さて、人恋しさや郷愁はそこへ置いて、私は前へ進むことにしよう。そう決めて、ママチャリに乗って、さっと実家へ戻りました。

日本橋ふくしま館MIDETTEでビックリな出会い

先日、福島県三春町のFUKUSHIMARTで知り合ったSさんから、「今、東京です」という電話をもらいました。

Sさんは、福島市でゴボウやモロヘイヤなどを練りこんだうどんを製造している方なのですが、東京の日本橋ふくしま館MIDETTEで、その自慢のうどんを出しているので、食べに来てほしい、ということでした。

正午に用事があったので、午後1時過ぎに行くと返事をしたら、「大丈夫ですよー」という答え。あんまり人が入っていないのかなあ、と思いながら、行ってみました。

日本橋ふくしま館MIDETTEというのは、神田と日本橋のちょうど中間あたりにある、福島県のアンテナショップです。

MIDETTEというのは、外国語ではなく、実は福島弁で、「見ていって(ね)」という意味です。

さっそく、Sさんご自慢のゴボウうどんセットをいただきます。

ゴボウうどんの真ん中に、何か、ワカメのようなものが載っています。よく見えないので、ご飯の上に載せたら、分かりました。

レーザーで切断したのだそうです。そりゃあ、ずいぶんコストがかかったね、と言うと、「そうなんですよー。でもうどんの値段には転嫁できないです」と嬉しそうに答えてくれました。
うどんにゴボウが練りこまれていて、それにさらにゴボウが載り、ゴボウの和え物とゴボウのかりんとうが付く、というまさにゴボウづくし、でした。ゴボウの香りを感じながら、うどんを美味しくいただきました。
Sさんは、むろうどん製麺所を経営していますが、福島市の公設地方卸売市場の敷地内で、「お福さんのひっぱりうどん」というお店も出しています。ただし、昼過ぎには営業終了となるので、早めのお昼を食べに行くことになります。
さあ、うどんを食べ終えたので、店を出ようとしたら、どこかで見かけたものが売られていました。
郡山市の西北にある石筵地区の蜂蜜でした。数年前、私は友人たちと一緒に、石筵地区を訪れたことがあります。石筵地区は、コミュニティによる共有林管理をずっと続けてきた集落で、そのときは、水田に水を入れる前に水路の清掃を集落成員総出で行う「堰上げ」の様子を見に行ったのでした。つい最近、NHKの番組でも全国放送されたので、ご覧になった方もいると思います。
今回は、そのときにお世話になったGさんの奥様がMIDETTEに来られていて、蜂蜜を売っていました。その時の話をしばらくして、Gさんがお元気でいらっしゃる様子をお聞きした後、あの時にお土産でいただいたのと同じ大きさの蜂蜜を1瓶購入しました。
とてもおいしい高品質の蜂蜜なのですが、残念ながら、福島市の街中ではお目にかかったことがありません。郡山市では売っているのでしょうか。福島の地元で買えないのがちょっと残念です。いしむしろ養蜂園のリンクはこちらです(https://www.fukulabo.net/shop/shop.shtml?s=6334)。
さらには、高校時代の親友で今は福島県庁の高官として地域復興の先頭に立っている友人Nさんにも、店内で偶然に会い、お互いにビックリでした。
ただ単にSさんのうどんを食べに行っただけだったのに、こんなビックリな出会いがあるとは、思いませんでした。うーん、やっぱり、動くと出会いますねえ。
おいしい福島に出会いに、皆さんも是非、MIDETTEにいらしてみてください。楽しい気分になること、間違いなしです。福島県は、知られざる美味しいモノの宝庫なのです。

紫陽花の花を眺めていたい

福島から東京の自宅へ戻りました。大雨に合わずにすみました。

福島のオフィスのすぐ前で咲いていた紫陽花の花の写真を、ただただ、眺めていたい。そんな気分の日もあります。

色々なことを思いながら。あの人のことを想いながら。紫陽花の花に何かを託しつつ。

生まれて初めて行った床屋を再訪

今日は、この世に生まれて初めて行った床屋さんを再訪しました。実に50年ぶり、福島市天神町の理容アサヒです。

たしか、生まれて初めて床屋へ行ったのは2歳か3歳のころ。室内はピンクっぽい色の内装で、椅子が4つか5つあり、5~6人ぐらいの女性従業員がいました。一番端の椅子に座らされて、ものすごく泣いて、女性従業員になだめられた記憶があります。

店はまだありました。今は、81歳になるおじさんが一人で経営しています。

おじさん曰く、3人の客を続けてやると体がかなりきついそうですが、客が一人も来ない日もあるとのこと。一日に5人ぐらい来てくれるといいんだけどな、とおっしゃっていました。

私の記憶はけっこう正しかったようです。周辺の居住人口が減り、客が減ったので、従業員はみんな辞めてもらい、奥様と一緒に店をやってきたのですが、数年前、奥様が体を悪くしてからは、一人で店をやっているそうです。

すぐ近所にあった銭湯、時計屋、スーパーなど、今はもうなくなった店々の話に花が咲き、おじさんも話が止まらなくなってきます。

おじさんで3代目なのですが、おじさん夫婦には子供がおらず、おじさんの代で店を閉めることになるそうです。

髪の毛を切っていても、かつての若い時のようには体が動かず、同じことをするにも時間がかかるようになったのが悔しいと言っていました。でも、まだしばらく、おじさんの体が動くうちは働いて、利益を光熱費などの支払いに充てるのだそうです。

店には、平成18年の近所の商店会加盟店のすごろくが貼ってありました。私の知っている懐かしい店がまだたくさん残っていました。でも、その商店会の中心メンバーだった店はすでになくなり、今や、商店会は解散状態となってしまったそうです。

私が小学校の時に通っていた英語学校のポスターも。こちらはまだあるみたいです。

店にはおじさんがたった一人しかいないはずなのですが、私には、お姉さんたちが私をあやす声をふっと聞こえてくるような気がしてならないのでした。昭和30年代後半のあの頃にタイムスリップしてしまいそうな・・・。

おじさん、また来ますね。

摺上川ダムを訪問

昨日(6月22日)、福島市を流れる摺上川(すりかみがわ)の上流にある摺上川ダムを見てきました。このダムは、中・下流の飯坂温泉や福島市での洪水対策として、2005年に完成したロックフィル・ダムです。

摺上川ダムの建設構想は1960年代に遡り、1973年に国が予備調査を行いました。1992年に工事が開始され、2005年9月に完成しました。

摺上川は水質の良い川として名高く、この川を源水とする福島市の水は、モンドセレクションで2017年も3年連続で金賞を受賞しました。とくに、2017年は最高金賞を受賞したとのことです。

でも、私の子どもの頃、1970年代には、摺上川ダム建設に関する強い反対運動があったように記憶しています。連日、ダム建設反対運動が新聞を賑わせていて、ダムが本当に建設されるのかどうか、不確かな状況だったように覚えています。
その印象が強く残っていたので、摺上川ダムが完成したのは知っていたものの、本当にどうなっているのか、見に行こうという気にはなれませんでした。
実際、茂庭地区の奥の名号集落や梨平集落がほぼ全てダムに沈んでいました。私の子どもの頃、名号行きや梨平行きの福島交通のバスをよく見かけたものでした。茂庭へ行く道路は狭く、茂庭というと山奥というイメージがありました。
現在の国道399号線は、片側1〜2車線で道幅は十分広く、快適なドライブでダム湖まで行くことができました。
この辺は、猿や熊がよく出てくるようです。
風が強く、また同行者の時間があまりなかったので、今回はさっと見ただけでしたが、次回は、ダム湖のすぐ近くにある茂庭生活歴史館をぜひ訪問したいと思います。

高速バスでの移動に慣れたけれど

昨日今日と、1泊2日、東京から福島へ高速バスで往復しました。

昨日の東京→福島は、初めてウィラー・エクスプレスを使ってみました。例のピンクのバスです。

バスタ新宿を午前10時半に出発。福島と山形を経由し、天童温泉が終着でした。運転手さんは、キビキビした素敵な女性でした。
首都高速が渋滞で15分程度遅れましたが、「遅れは挽回しませんのでご容赦ください」とのアナウンス。安全運転を堅持するという姿勢に好感が持てました。

500円プラスで隣の席もキープできるので、そうしました。これで福島駅西口まで3200円。今回はしかも、楽天ポイントで全額支払ったので、タダで乗りました。

席はちょっと幅が狭いですが、座り心地はなかなかよく、快適でした。
途中休憩は、佐野サービスエリアと安達太良サービスエリアの2箇所で、佐野では30分、安達太良では15分の休憩でした。
佐野サービスエリアに着いたのは12時で、30分あるので、昼食をとりました。佐野と言えば、やはり佐野ラーメン、です。
うーん、まずくはありませんが、普通のラーメンでした。
安達太良サービスエリアでは、見つけました、酪王カフェオレ・ソフトクリーム。
食べているうちに気がつきました。酪王カフェオレ・ソフトクリームは、下り線でしか食べられない、のだそうです。
こうして、雨の降りしきる福島駅西口(駅からちょっと離れた東邦銀行の脇)に定刻より15分遅れで到着しました。
今日の福島から東京への帰りは、JRバス東北の「あぶくま号」。夕方5時過ぎに福島駅東口を出発し、夜10時過ぎに池袋駅東口に着きます。6月に入って、乗るのは3回目です。
こちらは、那須高原サービスエリアと羽生サービスエリアで15分ずつ休憩。食事をとるという感じではないし、時間が遅いので、店も閉まっていて、見るべきものはほとんどない、と学習しました。
6月はけっこう頻繁に東京と福島を往復したので、交通費を抑えるために高速バスを使ってみたのですが、意外に快適で、退屈もしませんでした。だいぶ慣れた気がします。時間的に余裕があるときには、高速バスを使う機会が増えそうです。
でも、今回は、昨晩、知人と深酒をしてしまい、今日は、けっこうつらい一日になってしまい、バスの中では、ひたすら寝ていました。くたびれました。

「復興」勉強会に出席して

6月16日、福島市で、NPO法人ふくしま30年プロジェクト主催の勉強会「復興」に出席しました。講師は、首都大学東京准教授の山下祐介氏と、NPO法人とみおか子ども未来ネットワークの市村高志氏でした。

勉強会では、復興という言葉とは裏腹に、現場では本質的な解決が一向になされていない現状があることを踏まえ、今後起こるであろう問題を指摘していました。

まず、なぜ避難者は故郷へ戻れないのか。その最大の要因は、トラウマです。もう一度あのような事態が起こるのではないか。もう二度とあんな避難をしたくない。最近、東電が福島第二原発の再稼働の可能性を匂わせていることも触れられ、不安が出されました。

帰還しようとしている人々は現状復旧を求めているのですが、その前提となる様々な検証が十分に行われていないことも指摘されました。

そして、すべてにおいて、責任の所在があいまいにされている現状が指摘されました。

たとえば、避難指示解除を決定したのは誰なのか、その根拠となった法規は何か、実は明確でないという指摘。また、賠償というのは、通常は、責任主体による償いであるはずなのに、責任主体は責任をとっているのか、という問題。責任をとらない主体が賠償をするということの論理矛盾。

次に、避難指示解除によって居住を促すということについて。実は、避難指示解除の前から、作業員はそこに住むことを促されて住んでいたのだから、避難指示解除がなければ住めないというのはおかしかったのではないか。解除前でも、戻りたいと言っていたお年寄りなどを戻してあげればよかったのではないか(彼らの中には戻れずに仮設で亡くなった方々も少なくない)。

故郷への帰還か避難先への移住かという問題。現実的には、そのどちらでも政府補助は出るのに、故郷自治体の住民票を避難先で持ち続けられないという状況(今は時限立法で認められている)が出てくると、帰還か移住かの選択を迫られるようになる。本来ならば、長期退避を続けながら状況に応じて順次帰還、という大前提で、様々な選択肢があってよいはず。

復興に続く地方創生で、福島イノベ構想などの新たな事業が出され、福島県には引き続き多額のプロジェクト資金が投下されていきます。その資金へ群がる福島県外の業者や政治家がすでに動いている様子があり、「福島へ行けばまだ事業がある」という話もあるとか。結局、それらの事業資金が福島県にもたらされることで、これまでと同様の国からの事業予算に依存する状況が続いていくことになるのでは、という懸念も出されました。

実際、統計上、避難指示解除対象自治体への転入者が増えても、それが全て元住民とは限らず、事業実施や原発再稼働などを見越した外部者であるかもしれないといううがった見方もありえて、そうなると、もともとの住民たちの自治とは違う形へ変容してしまうのではないか、という懸念さえ聞こえました。

そして、避難者自身が避難者であることを意識しないようになり、風化すると、そもそもの本質的な部分、すなわち彼らを避難者とせしめた責任の所在、がますます曖昧になり、原発事故の検証や賠償責任が忘れられてしまう。復興という掛け声が強くなればなるほど、そういう傾向が強まってくるのではないか、という話でした。

当事者である避難者が今後の生活をどうしていくかについての選択肢が十分にあり、それを自分たちで選んでいけること。長期にわたる複雑なプロセスを単純化せずに、丁寧に進めていくこと。そのために、彼ら自身が自由に話し合いのできる場を持てる必要があること。これらが重要だ、という結論でした。

これらの含意は、何も、原発事故による避難者だけに限るものではなく、現在のどの地域でも大事なこと、すなわち、分権と自治を地域の人々に取り戻すことが重要である、ということでした。しかし現実には、新規事業に伴う利権やそれに群がる有力者らの動きによって、従順と服従を暗に求められているかのような状況が現れているように思えます。

今回の勉強会を通じて、やはり、自分たちの暮らしから始めるほかはないと改めて思いました。そして、まっとうな官僚や専門家の存在を信じ、彼らと関係性を作りながら、現状に対抗できるような構造を作る方向を模索し、復興を遠くのものではなく、自分の暮らしに近いところへ取り戻すことを目指すことが、とくに福島県では重要だと感じました。

では何から始めるのか。このような時代だからこそ、地域の人々が互いに尊重しあいながら、自由かつ真摯に意見を述べ合える、議論やディベートではなく対話のできる場づくりを始めたいと思っています。

こんなひどい雑文でも、政府批判かどうかを監視されるような世の中になってしまうのでしょうか。スハルト時代のインドネシアを思い出します。

ゆるく書く、と言っておきながら、ちょっとかたく書いてしまいました・・・

英語とインドネシア語でも発信中

6月1日から、Glocal from Fukushima という題の個人ブログを書いています。使用言語は英語とインドネシア語で、1日ごとに2つの言葉で交互に書いています。

福島市に個人会社を設立した後、外国語での福島に関する発信がまだまだ少なく、もっと等身大の福島を外国の方々にも知ってもらいたいと強く感じました。そして、自分ができるのは、福島についての記事を英語とインドネシア語で発信することだと思い当たり、拙いながらも、始めてみたところです。

一つの記事を英語とインドネシア語で書いても良かったのですが、書いている私が新鮮な気持ちになりにくいので、あえて、違う話題を交互に書き連ねています。また、福島の何について書くか、ネタを探す契機にもなり、いい意味で福島のことをもっと知らなければ、という気持ちにもなります。

今はまだ、一般的な内容が多いのですが、今後は、自分が福島であった人々のことや、遭遇した事件や、いろいろなエピソードを織り交ぜていきます。

Glocal from Fukushimaも、この「ぐろーかる日記」と同様、目標は毎日更新です。こちらもまた、ご愛読のほど、よろしくお願いいたします。

 Glocal from Fukushima

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