インドネシアの新首都候補地はどんな土地?

インドネシアでは、渋滞して非効率な現在のジャカルタから首都を移転するという計画が立てられ、8月下旬、新首都候補地として、東カリマンタン州に場所が決定された。

新首都候補地付近の風景

東カリマンタン州といえば、東西に長いインドネシアのちょうど真ん中付近。近くには、よそ者が集まって大きくなった街・バリクパパンがある。

この新首都候補地がどんな土地か調べてみた。もちろん、国有地なのだが、何もない土地ではなかった。そこは、森林使用権(HPH)が設定されている土地で、その森林使用権を持っているのは、ある有名な華人実業家だった。

国有地なので、国はいつでも華人実業家から取り上げられるのだが、当然、何らかの取引がありうる。最低でも、代替の森林使用権が設定できる土地を国が用意することになるだろう。

でも、おそらくそれでは終わらないだろう。この華人実業家、只者ではないのだ。問題発言を起こして、メディアやイスラム勢力に叩かれた過去がある。でも、今の政権とは相当に密接な関係を持っており、政権側がむしろ守らなければならない相手なのだ。

そしてさらに、新首都候補地には、意外な人物の関わりもあった。大統領選挙をジョコウィと戦ったプラボウォである。ジョコウィとプラボウォとの和解の裏に、新首都利権もあったのかどうか。

そこらへんの話を、11月22日発行の『よりどりインドネシア』第58号に書いてみた。興味のある方は、ぜひお読みいただきたい。なお、購読登録月は1ヵ月無料となります。

 新首都候補地はどのような土地なのか

Noteにも同じ内容を掲載しました。こちらは11月27日23時59分まで無料掲載します。

 Note版:新首都候補地はどのような土地か

よりどりインドネシア親睦交流会開催(2019年8月3日)

2019年8月3日、ジャカルタのBatik Kuring Restaurantにて、よりどりインドネシア親睦交流会を開催しました。出席者は5名でしたが、イスラム、LGBT、ジャカルタ暴動、ジョコウィとプラボウォ和解の背景と今後など、様々な話題を自由に語り合う機会となりました。

今後は、日本人とインドネシア人の両方が一緒に共通話題を話し合える、新たな親睦交流会も企画・開催したいと考えています。

真の技能実習を目指す教育訓練機関と協力したい

このブログでもたびたび書いてきましたが、日本の現在の技能実習プログラムを本物にしたいという願いを共有できる、インドネシアの教育訓練機関(LPK)を見つけ出し、協力関係を作り始めています。

これらのLPKは、何年も経験のある機関ではなく、割と新しく始めた機関で、従来の常識や慣習にまだ染まっていない、理想を語り合える相手でもあります。

日本へ技能実習生を送り出すためには、LPKは送り出し機関(SO: Sending Organizaiton)の認可を受けなければなりません。今、お付き合いを始めているLPKは、まだ新しく、実績を作るのはこれからです。SOになるには、日本の監理団体との間でMoUを結ばなければならないのですが、既存の監理団体との間では、なかなか関係を作れないのが現状です。

まあ、まだ実績がないわけですから、いきなりMoUというのも、難しいのはもちろんのことです。

パダンで協議したLPKのチームメンバー(2019年6月25日)

今回、パダンで協議したLPKは、日本で実習を受けた技能が帰国後にインドネシアで生かされていないことをとても残念に思っていました。何とかして、その技能をインドネシアで生かせる人材育成を実現したいと強く願っています。

そこで、今回、彼らから、ある面白い考えが出されました。

そのLPKは、別にもう一つLPKを作り、そのLPKは「溶接」に特化させるというのです。

溶接に特化させたLPKを傘下に置く民間企業を作り、溶接工場を備えて、溶接をビジネスとして行いながら、そこで実習生候補者の事前研修を行う。溶接に技能自体は様々に応用が利くので、独立することも可能と考えています。

今回、国立パダン職業訓練校(BLK Industri Padang)も訪問しましたが、ここで力を入れている技能の一つが溶接でした。もっとも、まだそのレベルは高くなく、国家予算上は3G溶接工レベルまでと想定されていました。高度な溶接技能者の育成は、バンドンにある職業訓練校がそれに特化して行っている、ということです。

溶接といっても、アーク溶接、ガス溶接、ステンレス鋼溶接など、様々な種類があり、日本ではその資格認定基準も細かく定められています。これらを吟味して、現在、そして今後、インドネシアでどの種類の溶接が必要になってくるかを検討し、それを担える人材を作っていくことが求められてくるでしょう。

インドネシアのLPKも、それぞれの特色が求められる段階に入りつつあるかもしれません。パダンのこのLPKは、まずは溶接技能者の育成に傾注し、それがある程度軌道に乗ったら、さらにべつの技能者の育成へ向かいたいと考えています。

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パダンのこのLPKとは別に、ジャカルタのLPKで、パダンのある西スマトラ州のパヤクンブ市に支所を持つLPKは、自らのLPK修了者の日本語能力の標準をN-3にすることを目標に定めました。独自のノウハウを蓄積し、教科書も自前で編纂する予定です。

このジャカルタのLPKも活動を開始してまだ間もないのですが、日本語教育にはかなりの自信を持っており、他のLPKの日本語教育部分を請け負うことも検討しています。得意分野を活かした、LPKどうしの横の連携もこれから大事になってくると思いました。

今後、こうした特色のあるインドネシアのLPKと協力関係を保ち、真の技能実習を目指す仲間との関係を少しずつ増やしていきたいと考えています。

ジャカルタは歩ける街へ?

今回、インドネシアへ出張して、久々にジャカルタに滞在しました。このところ、ジャカルタを経由せず、直接、地方都市へ行くことが多かったので、ジャカルタに滞在するのは、本当に久しぶりでした。

ジャカルタでは、念願の地下鉄(MRT)が4月1日に営業を開始するという話がようやく決まったようです。MRTが下を通るメインストリートのスディルマン通りは、歩道がとても広くなり、しかもバイクが侵入できないようになっていました。

MRTの駅の入口もできつつあります。

スディルマン通り自体もすっきりした感じになりました。

通りを渡る歩道橋も、一部は新しく、歩きやすくなっていました。

ジャカルタの渋滞の一因は、車の多さであり、どのようにして公共交通機関への移行を進めるかが課題でした。しかし、公共交通機関をいくら増やしても、移行が進むとは限りません。公共交通機関に乗ったり下りたりするためには、バス停や駅まで歩けることが重要なのでした。

安心して歩ける街になれば、人々は多少の距離も歩いて公共交通機関を乗り換え、目的の場所まで少し歩くようになります。

MRTやトランスジャカルタが注目されるジャカルタですが、歩ける街になることがとても重要なのだと思っていましたから、広い歩道はとても素晴らしい改善だと思いました。

ただ、それはスディルマン通りやタムリン通りのような、海外からのお客さんに見せる目抜き通りだけのものではないか、とも思っていました。

実際は、どうも、そうでもなさそうなのです。

外国人があまり住んでいない私のアジトのある東ジャカルタの地区では、歩道は広くなっていませんでしたが、大きな変化が見られました。

歩道に黄色い、目の不自由な方向けの点字ブロックが埋め込まれていました。これは今回、初めて見ました。

どぶ川はそのままで臭いですが、脇の歩道には点字ブロックが埋め込まれています。

もっとも・・・

点字ブロックの上にバイクが停められています。夜になると、ここに机や椅子が出されて、屋台が拡大営業していました。

それでも、点字ブロックが敷かれたことは、ここを目の見えない方を含めて人が歩くことを想定している、ということを表しています。

ジャカルタ中央部のワヒッドハシム通りは、歩道が拡張され、東から西への一方通行へ変わっていました。

その結果、サバン通りとの交差点付近の渋滞は、相当にひどいものとなっていました。

ジャカルタは、目抜き通りだけでなく歩ける街へと動き始めましたが、個別の地域をみれば、まだまだ改善が必要なことは言うまでもありません。

のろのろと、しかし前へ進む、というところでしょうか。前に進んでいることに意味がある、と思いたいです。

【お知らせ】よりどりインドネシアのオフ会+交流会を検討中

ちょっと更新が途切れました。三連休も終わり、私は今週末まで福島です。

毎月2回発行している情報ウェブマガジン「よりどりインドネシア」は、2月7日発行分で第39号となりました。購読者数も70名ほどとなり、少しずつ増えてきています。バックナンバーは以下のリンクからご覧ください。

 よりどりインドネシアのバックナンバー

一般のメディアではなかなか伝えられない、いくつものインドネシアを伝える日本語媒体にしていきたい、と願って発行してきましたが、そろそろ、購読会員のオフ会+交流会を行いたいと考えています。

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会のスタイルをとくにかっちり決める必要はないと思いますが、一般の講演会スタイルではなく、もう少し参加者同士の距離が近い、トーク+自由討論(意見交換)に食事または飲物付き、という感じで考えています。参加された方の誰もが自由に発言し、それをもとに対話するという形を採りつつ、内容は易しくかつ正しいものにしていきたいと思います。

もちろん、購読会員に限定せず、よりどりインドネシアに興味のある方や、そのときのテーマに関心のある一限さんも歓迎、という緩やかな会になればと思います。この会を通じて、新たに購読者になってくださるならば、それはもちろん、存外の喜びです。

会の頻度ですが、できれば毎月、難しければ2~3ヵ月の1回ぐらい、と考えています。毎回、ゲストをお招きしたいと思っていますので、「話題提供者になってみたい」という方は遠慮なくお知らせください。また、こちらからも一本釣りで、話題提供者になっていただけるよう、お願いしていく予定ですので、よろしくお願いいたします。

インドネシア在住の方で、たまたまその頃一時帰国するよ、という方、是非、話題提供者になっていただきたいので、お知らせください。

東京、ジャカルタ以外でも、開催できればと思いますので、ご希望の方はお知らせください。スケジュール調整をいたします。費用面の相談は後ほど、ということで。

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とりあえず、まずは3月半ばにジャカルタで、3月後半または4月初めに東京で、私が話題提供者として、「2019年大統領選挙・総選挙とその後のインドネシア」という話をしようかなと思っています。できれば、ゲストもお招きして、トークの形で話をしたいとも思っています。

日程が確定しましたら、改めて告知いたします。よろしくお願いいたします。

メダンのインド人街出口(2019.1.20)

ジャカルタの「父」を見舞う

9月3日、ジャカルタに到着後、そのまま、ジャカルタの「父」を見舞いに行きました。

筆者には、インドネシアに複数の「父」「母」がいるのですが、そのなかでも、最も高齢で、最も世話になった「父」を見舞いに行きました。

見舞い、というのは、一週間ほど前、それまで家族と散歩するなど元気だった「父」の容態が突然変化して入院、集中治療室に入ったという連絡があったためです。意識も衰え、大量出血したそうです。「父」は87歳、家族もいったんは覚悟しました。

その後、病院側の献身もあって、奇跡的に「父」の容態は回復し、出血も止まり、意識も回復して、集中治療室から通常の病室へ移り、「なぜこんなところにいるのだ」「カプチーノが飲みたい」などと言うようになり、ほどなく、退院することになったのでした。

「父」は娘夫婦の家で受け入れ、静かに療養中でした。姪によれば、「ガドガド(茹で野菜をピリ辛のピーナッツソースであえたもの)が食べたい」などと繰り返していたそうです。

空港から「父」のいる娘夫婦の家に到着、休んでいた「父」が現れて、会うことができました。退院したばかりで、ちょっと疲れが出ている様子でしたが、娘夫婦や、さらにかけつけた姪夫婦らと一緒に、夕飯の食卓を囲みました。

「父」はまだ普通の食事は制限されていて、やわらかいご飯に辛くない薄味の柔らかくした野菜などをまぜた別メニューを「母」が食べさせてあげました。

一週間前に聞いた情報からすると、こうして一緒に食卓を囲んでいることがなんだか本当に奇跡のように思えました。「父」と「母」と記念の写真を撮ってもらいました。

思い返せば、「父」と初めて出会ったのは、最初の勤務先である研究所に入所した33年前でした。その頃、「父」はインドネシア中央政府の某官庁で次官を務める高級官僚。歴代の研究所の先輩研究者たちが世話になった大事な方でした。先輩研究者たちがまだペーペーの筆者に「父」を紹介してくださったのです。

その後、折に触れて、「父」に支えられました。研究所の海外調査員として2年間ジャカルタに滞在し、インドネシア大学大学院で学んだときには、「父」が身元保証人になってくれました。もっとも、そのとき「父」は研究所の客員研究員として日本に滞在しており、ビザ更新のレターなどは、前もってフォーマットをお送りして署名していただき、ジャカルタへ送り返してもらっていました(インターネットなどというものがなかった時代の話です)。

詳細は省きますが、あるとき、筆者が心折れて、絶望したくなるようなことがありました。そんなときに、なぜか「父」がたまたま現れ、一緒に食事をし、筆者の話を微笑みながら聴いてくれました。「父」と会ったことで、筆者は救われたのでした。

インドネシアにいるたくさんの恩人のなかでも、「父」はとくに大事な恩人でした。

そんな「父」だから、何としてでも会いに行きたかったのです。そして、会うことができて、あまり言葉は発しませんでしたが、「父」は、疲れ気味ながら、うれしそうでした。

4日朝、姪から「父」の様子を伝えるメッセージが来ました。筆者があったときとは打って変って、「父」は元気になり、よくしゃべり、筆者のことを「どこへ行った、どうしてる?」と尋ね続けたそうです。筆者の来訪がきっと「父」を元気にしたんだね、と姪は綴っていました。

よかった。よかった。本当によかった。

まだまだ容態はアップダウンあることでしょうが、元気でいてほしい。もうすぐ、以前の通り、「父」はガドガドを楽しく食べられることでしょう。

今週、「父」は、米寿をむかえます。

「ふるさと」をいくつも持つ人生

「ふるさと」を狭義で「生まれた場所」とするなら、どんな人にも、それは一つ鹿ありません。しかし、自分の関わった場所、好きな場所を「ふるさと」と広義に捉えるならば、「ふるさと」が一つだけとは限らなくなります。

人は、様々な場所を動きながら生きていきます。たとえ、その場所に長く居住していなくとも、好きになってしまう、ということがあります。それは景色が美しかったり、出会った人々が温かかったり、美味しい食べ物と出会えたり、自分の人生を大きく変えるような出来事の起こった場所であったり・・・。

どんな人でも、自分の生まれた場所以外のお気に入りの場所や地域を持っているはずです。転校や転勤の多かった方は、特にそんな思いがあるはずです。そんな場所や地域の中には、広義の「ふるさと」と思えるような場所や地域があるはずです。

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筆者自身、「ふるさと」と思える場所はいくつもあります。

筆者の生まれた場所であり、昨年法人登記した福島市。家族ともう30年近く暮らす東京都豊島区。地域振興の調査研究で長年お世話になっている大分県。音楽を通じた町おこしの仲間に入れてもらった佐伯市。留学中に馴染んだジャカルタ。かつて家族と5年以上住み、地元の仲間たちと新しい地域文化運動を試みたマカッサル。2年以上住んで馴染んだスラバヤ。

まだまだ色々あります。

今までに訪れた場所で、いやだった場所は記憶にありません。どこへ行っても、その場所や地域が思い出となって残り、好きという感情が湧いてきます。

単なる旅行者として気に入ったところも多々ありますが、そこの人々と実際に交わり、一緒に何かをした経験や記憶が、その場所や地域を特別のものとして認識させるのだと思います。

そんな「ふるさと」と思える場所が日本や世界にいくつもある、ということが、どんなに自分の励ましとなっていることか。

あー、マカッサルのワンタン麺が食べたい。家のことで困っている時に助けてくれたスラバヤのあの人はどうしているだろうか。佐伯へ行けば、いつまでも明るく笑っていられるような気がする。由布院の私の「師匠」たちは、まだ元気にまちづくりに関わっているだろうか。ウガンダのあの村のおじさんとおばさんは、今日作ったシアバターをいくら売ったのだろうか。

そんな気になる場所がいくつもある人生を、誰もが生きているような気がします。

昔見たマカッサルの夕陽(2003年8月10日、筆者撮影)
マカッサルといえば思い出す「ふるさと」の光景の一つ
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地域よ、そんな人々の「ふるさと」になることを始めませんか。自分たちの地域を愛し、好きになってくれるよそ者を増やし、彼らを地域の応援団にしていきませんか。

筆者がそれを学んだのは、高知県馬路村です。人口1000人足らずの過疎に悩む村は、ゆず加工品の顧客すべての「ふるさと」になることを目指し、商品だけでなく、村のイメージを売りました。何となく落ち着く、ホッとするみんなの村になることで、村が村民1000人だけで生きているわけではない、村外の馬路村ファンによって励まされて生きている、という意識に基づいて、合併を拒否し、自信を持った村づくりを進めています。

もしも、地域の人口は1000人、でも地域を想う人々は世界中に10万人だと考えたとき、そこにおける地域づくりは、どのようなものになるでしょうか。

その地域が存在し、生き生きとしていくことが、世界中の10万人の「ふるさと」を守り続け、輝くものとしていくことになるのではないでしょうか。

私たちは、そんな広義の「ふるさと」をいくつも持って、それらの「ふるさと」一つ一つの応援団になっていけたら、と思います。

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それは、モノを介した「ふるさと納税」を出発点にしても構わないのですが、カネやモノの切れ目が縁の切れ目にならないようにすることが求められるでしょう。

正式の住民票は一つしかありません。でも、「ふるさと」と思える場所はいくつあってもいいはずです。

いくつかの市町村は、正式の住民票のほかに、自らのファンに対してもう一つの「住民票」を発行し始めています。飯舘村の「ふるさと住民票」は、そのような例です。以下のリンクをご参照ください。

 飯舘村ふるさと住民票について

「ふるさと住民票」を10枚持っている、50枚持っている、100枚持っている・・・そんな人がたくさん増えたら、地域づくりはもっともっと面白いものへ変化していくことでしょう。地域はそうした「住民」から様々な新しいアイディアや具体的な関わりを得ることができ、さらに、その「住民」を通じて他の地域とつながっていくこともあり得ます。

こうした「住民」が、今、よく言われる関係人口の一端を担うことになります。それは緩いものでかまわないと思います。

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世界中から日本へ来る旅行者についても、インバウンドで何人来たかを追求するよりも、彼らの何人が訪れたその場所を「ふるさと」と思ってくれたか、を重視した方が良いのではないか、と思います。

それがどこの誰で、いつでもコンタクトを取れる、そんな固有名詞の目に見えるファンを増やし、それを地域づくりの励みとし、生かしていくことが、新しい時代の地域づくりになっていくのではないか。

奥会津を訪れる台湾人観光客を見ながら、その台湾人の中に、もしかすると、台湾で地域づくりに関わっている人がいるかもしれない、と思うのです。そんな人と出会えたならば、その台湾人と一緒に奥会津の地域づくりを語り合い、その方の関わる台湾の地域づくりと双方向的につながって何かを起こす、ということを考えられるのではないか、と思うのです。

飯舘村の「ふるさと住民票」を登録申請しました。そして、私が関わっていく、日本中の、世界中の、すべての地域やローカルの味方になりたいと思っています。

「ふるさと」をいくつも持つ人生を楽しむ人が増え、地域のことを思う人々が増えていけば、前回のブログで触れた「日本に地域は必要なのですか」という愚問はおのずと消えていくはずだと信じています。

よりどりインドネシア第10号を発行

11月22日、情報ウェブマガジン「よりどりインドネシア」第10号を発行しました。今回は、以下の3本です。

 ・インドネシアで寛容性の高い都市はどこか?
 ・予測不能な「インターネット大国」インドネシア(大島空良)
 ・ジャワでもありバリでもあるバニュワンギ

寛容性の高い・低いは、多様性をどれぐらい許容できるかという指標ですが、ここでは主に、異なる宗教を受け入れる程度で計っているようです。インドネシアは「多様性の中の統一」を国是としていて、異なる様々な人々の存在を受け入れることを当然としていますが、近年、マジョリティであるイスラム教の政治利用や、スンニ派によるシーア派やアフマディアに対する迫害などが問題視されてきました。インドネシアで寛容性の高い都市、低い都市はどこなのでしょうか。2015年に続いて今回、そのランキングが公表されています。

人口2.5億人のインドネシアは、インターネット大国への道を歩んでいて、ネットビジネスの可能性は明るいものがあります。その実態を、とくに若者の対応を通じて見てみると、興味深い現象が見られます。そのなかには、インターネットを活用した新たな性風俗産業のやり方のような、新しい動きもあります。ジャカルタ在住の大島空良さんが、今回も興味深いレポートを書いてくれました。

ジャワ島の東端にあるバニュワンギは、ジャワの要素もバリの要素も併せ持つ、なかなかユニークな場所です。県知事が結構なやり手で、次の東ジャワ州知事選挙の副知事候補にもなっていますが、全国的にも注目される場所になっています。イベントを通じたバニュワンギの対外的な売り込みにも熱心で、年間イベントカレンダーを用意し、毎月のように何らかのフェスティバルを行っています。なかには、ケボケボアンと呼ばれる奇祭もあります。そんなバニュワンギを今回は紹介しています。

「よりどりインドネシア」は今回の発行で10回となりました。読者登録(会員登録)していただくと、バックナンバーもご覧いただけます。また、銀行振込による登録の場合は、毎回、PDF版をメール添付でお送りいたします。

「よりどりインドネシア」は、他の媒体では読めない、いくつものインドネシアを伝えていきます。一人でも多くの皆さんにご登録いただければ幸いです。

どうぞよろしくお願い致します。

バニュワンギの海岸からバリ島を臨む

ジャカルタのコワーキングスペースは快適

今回のインドネシア出張も終盤を迎え、農業省での中間報告準備や現地調査でのヒアリングメモなどをまとめていたため、なかなかブログを更新できずにいました。でも、この週末で何とか目途がつきそうなので、気分転換を兼ねて、久々に書いています。

今いるのは、ジャカルタのコワーキングスペースHUB2U。私のアジトは外国人のほとんどいない東ジャカルタにあるのですが、アジトにはインターネットWifiがないので、長時間、高速インターネットに接続できる一時的な仕事場として使えるスペースを求めていました。

ラッキーなことに、私のアジトのすぐ近くに1軒ありました。先週行ってみたのですが、雑居ビルの3階と4階、窓のない部屋に安い机と椅子があるだけの殺風景な場所ですが、インターネットはとても速く、快適でした。まさか、歩いて行けるところにこんな場所があるとは思わなかったので、驚きでした。

今日は、私のアジトからはちょっと離れてはいるけれども、比較的近くにあるこのコワーキングスペースで快適にインターネットにつなげています。

たまたま土曜日ということもあり、私以外に利用しているのは1名のみ。このジャカルタとは思えない静寂な環境で、先ほど、来週月曜日に農業省で発表するプレゼン資料を仕上げたところです。

ただし、WifiのIDとパスワードは1つのデバイスのみ有効。複数のデバイスをつなげていると、つながらなくなってしまうので注意が必要です。

1日利用は12万ルピア、約1000円です。コーヒーや飲み物があり、今だけ、ランチ無料サービスをしているようですが、ランチの時間はいつの間にか過ぎてしまいました。でも、この辺りは、ジャカルタでも有数のグルメ地区で、仕事が終わったら、しっかり楽しんで帰るつもりです。

昨日は、Wifiが速いと有名なトラフィック・カフェで、アイス・カフェラテ1杯で3時間ぐらい居ました。でもここは、1時間ごとにログインをし直さなければならないのが、ちょっと面倒でした。

他にも、モールに入っているカフェでどこのインターネットが速いかなどの情報も得たので、また今度試してみたいと思います。

25年ぶりにジャカルタの恩人の一人と再会

ジャカルタでの用務を終え、帰国便まで時間が取れたので、ジャカルタの恩人の一人のお宅を訪問し、25年ぶりに再会しました。

つい最近、日本の携帯のLINEにこの方からメッセージが入りました。ジャワ人によくある名前であり、何人か同じ名前の知り合いがいるので、それまでの一番最近連絡のあったバニュワンギ県会議員かと思って尋ねたら、恩人の方でした。

彼と出会ったのは、前の職場に入った年なので、1985年です。インドネシア中央統計局の最後は副長官を務めた方で、私がインドネシア研究に携わり始めた駆け出しの頃、ずいぶんと可愛がってもらいました。

日本にも何度か招聘し、地方視察へご一緒して、温泉に入ったり、いろんなエピソードがあります。職場の先輩のリクエストで、彼の奥様と温泉ホテルで「ブンガワン・ソロ」のデュエットをさせられたのも、今となっては懐かしい思い出です。

4年前に、心筋梗塞で倒れ、手足がうまく動かなくなってしまったと聞いていたので、お会いしてよいものか、ちょっと迷っていました。

お会いしてみると、とても元気そうで、昔と同じように、「お前は子供だったよな」「ずいぶん太ったじゃないか」「こどもはいるのか」などと、冗談を交えながら、とにかく大声でよくしゃべられました。

奥様によると、相変わらず、よくしゃべり、よく食べるそうで、お会いしてホッとしました。お子さんたちも皆独り立ちされ、孫にもたくさん恵まれ、幸せそうでした。

何年経っても、こうして相手にしてもらえるなんて、私もとても幸せな気分でした。

次回は、彼とコンビを組んでいたもう一人の恩人、元中央統計局の長官だった方とも一緒にお会いしたいと思いました。

ジャカルタの恩人は、数えたことはありませんが、けっこうたくさんいます。本当にたくさんの方にお世話になり、それが今の自分を支えているのだということを改めて感じました。

ジャカルタで用務を遂行中

今回のジャカルタ滞在、近畿経産局とチーム・E関西によるエネルギー・環境ビジネスに関するビジネスマッチングの可能性を探ると題して、用務を遂行中です。

7月12日夜は、ネットワーキングカフェinジャカルタにおいて、「インドネシアにおけるビジネス展開」と題して、1時間弱の講演を行いました。久々のジャカルタでの講演だったので、少々緊張しましたが、何とか無事に終えることができました。

13日は、午前中、タンゲラン県営ティルタ・クルタ・ラハルジャ水道会社を見学しました。この水道会社は、オランダ植民地時代の1923年に設立された水道会社が母体となっており、その時に建てられた建物が今も残されています。

水道会社の構内に小さな浄水場があり、近くのチサダネ川から取水された水が砂などによるろ過で予想以上にきれいに浄化されていました。

この水道会社は11の浄水場を持ち、タンゲラン県、タンゲラン市、南タンゲラン市へ給水するだけでなく、全体の5分の3の浄水をジャカルタ首都特別州へ売っているそうです。
早いもので、今回のジャカルタ滞在はあと1日を残すのみとなりました。

やたら知人に出会う、今回のジャカルタの宿

昨日(7/10)からジャカルタに来ています。いつもは、東ジャカルタの私のアジトに泊まるのですが、今回は、調査団の一員としてなので、他の団員と同じホテルに宿泊しています。

このホテルに初めて泊まったのは1980年代後半で、それ以来、何度か泊まっているのですが、昔よりもいろんな面で進歩が見られます。とくに食事は、以前はとにかく美味しくなかったという記憶したなかったものです。今も決してものすごく美味しいとは思いませんが、そこそこ食べられるレベルになりました。

部屋が広いのがこのホテルの特徴ですが、かつてはバスタブ付きの部屋が少なかったのです。今はほとんどの部屋にバスタブが付いています。ベッドもよくなりました。

近年、日本の関係オフィスがジャカルタの中心部よりも南へ移ってきたせいか、日本からの出張者の滞在ホテルも南へ移ってきている様子があります。

今回のこのホテル、見た目だけでも、日本人客の比率が高いです。昔のプレジデント・ホテルほどではありませんが。

そして、そのせいか、知人に必ずと言っていいほど出くわします。昨晩のチェックイン時、今朝、朝食をとるためにエレベーターを降りた時、外での仕事を終えてホテルに戻ったロビーで、別々の知人に複数会いました。

今までの経験からしても、相当な確率です。というか、いつもはアジトに宿泊なので、日本人に会わないジャカルタライフが普通だったので、ビックリしているだけなのですが。

今日の夕食で食べた、ランデブーのゴーヒョン(肉詰め巻き揚げ)は相変わらずのおいしさでした。このたびスラバヤに着任されたT氏とこの店でご一緒したことを思い出しつつ。

<予告>7月10〜14日、ジャカルタ出張

6月は断食月ということもあり、インドネシアへの出張はなく、日本で過ごしています。自宅のある東京と事務所のある福島とを頻繁に往復していて、今週も、明日明後日は福島です。これで、6月は3往復目です。

そして、ちょっと早いのですが、断食明け後の7月10〜14日、久々にインドネシアへ出張します。今回は、近畿経済産業局および公益財団法人地球環境センターの仕事で、全日程をジャカルタで過ごします。14日夜便で東京へ戻ります(東京着は15日朝)

この仕事を含め、今年度、上記2機関による「平成29年度地域中核企業創出・支援事業(環境・エネルギー分野における地域中核企業の海外販路開拓のための支援ネットワーク高度化及び中国・ASEAN市場獲得を目指した環境・エネルギー関連機器・サービスの現地実証の推進及び販路拡大支援事業)」での、インドネシアに関するコーディネーター役を務めることになります。

今回の出張中、7月12日(水)18時からの「ネットワーキングカフェinジャカルタ」で、私も講演させていただく予定です。このネットワーキングカフェでは、環境・省エネ技術関連企業との交流のため、現地日系企業・関係機関、現地進出予定企業等へ出席を呼びかけています。場所は、Atlet Century Park Hotel、私の講演は無料ですが、19時からの企業交流会は会費制(50万ルピア程度)となります。

最近は、ジャカルタ以外の地方への出張のほうが多い傾向がありますので、私にとっても久々のジャカルタでの仕事です。ジャカルタ在住の皆さんとお会いできるのを楽しみにしております。

なお、今後、8月、9月、10月、12月にもインドネシアへ出張が入る予定です。福島、東京、インドネシアと動き回ることになりそうです。

ジャカルタの宿舎に無事到着(「雑談会」の予告付き)

先ほど、現地時間の夜7時過ぎにジャカルタに着きました。

JAL Global Club (JGC) のメンバーになったので、成田空港で、搭乗10分前なのに、サクララウンジで「朝カレー」を食べました。これはJGCになったら是非やりたいと思っていたこと。

今回はマレーシア航空でしたが、いつからなのか不明ですが、ワンワールド加盟会社なので、JGCサファイヤのステータスが適用されます。そのせいか知りませんが、ジャカルタに着いたら、荷物が2番目に出てきてびっくりしました。

タクシーでジャカルタの宿舎(昔のインドネシア大学留学時代の私の下宿)に到着。このところ、ずっとジャカルタに泊まる用事がなかったので、この宿舎に来るのも久しぶりです。

下宿のおばさんは、また少し足が弱ったようでした。私が来なくなったせいもあるかな、と少し心配になりました。

今日はゆっくり休んで、明日、明後日とジャカルタで動きます。

<予告>
5月15日(月)夜、ジャカルタの某所で、何か美味しいものを食べながら「雑談会」をしたいと思います。先着8名としたいと思います。ご希望の方は、早めに松井(matsui@matsui-glocal.com)までご連絡ください。

アホック有罪判決で思ったこと

昨日、ジャカルタ首都特別州のアホック州知事がイスラム教を冒涜したとされることに関する裁判(一審)が結審し、禁固2年の判決が下されました。アホック州知事はすぐにそのままチピナン拘置所に収監されました。アホック側は控訴する意向を示しました。

実は、この裁判で、検察は禁固1年、執行猶予2年を求刑していました。判決はこの求刑よりも重いものです。日本では、一般に求刑よりも厳しい判決が出ることはまずあり得ませんが、インドネシアでは、なぜかわかりませんが、求刑よりも厳しい判決が下されることが割とよくあります。
現職のアホック=ジャロット組は、先のジャカルタ首都特別州知事選の決選投票でアニス=サンディ組に敗れたばかり。それに今回の禁固刑の判決が追い打ちをかけ、アホックの政治生命もこれで終わりか、という気配もうかがえます。
アホックを毛嫌いしてきた勢力にとって、今回の有罪判決はまさに希望したものでした。彼らにとって、アホックは邪魔者なのです。彼らの権益を侵すような行動をとり、汚職にも厳しい、万が一、アホックが大統領になったら、なんて考えるだけでもおぞましい。とにかく、何でもいいから、アホックをディスる材料を血眼になって探したのでした。

イデオロギーや政策上の意見対立ではなく、アホックが嫌い、という一点集中。嫌いな理由は、態度が直情的で粗野、華人でキリスト教徒のくせに偉そうにしている、といったものでした。アホックの欠点を血眼になって探してはみたものの、汚職疑惑も女性問題も見つけることができず、困っていたわけです。

そこに例のビデオが出てきました。

そのビデオでは、プロウ・スリブの住民と会った際に、アホックが「皆さんがコーラン食卓章51節に嘘をつかれて私を選ばないとしても、それは皆さんの権利である」と述べたように見えたのですが、それは意図的に編集したものでした。注意深く読んで欲しいのですが、アホックは、本当は、「皆さんがコーラン食卓章51節を使って嘘もつかれて私を選ばないとしても、それは皆さんの権利である」と述べていたのでした。

このビデオが火元となって、アホックがイスラム教を冒涜したという話が広まり、この機に乗じて、「アホックはイスラムの敵」と積極的に煽る人々も現れました。アホックの独走かと思われたジャカルタ州知事選挙は、これで急に風向きが変わりました。

結局、嫌アホック派が血眼になって探したアホックの弱点は、これ一つでした。華人=金持ち、キリスト教徒=欧米寄り、というイメージが膨らみ、アホックは金持ちの味方で庶民の気持ちがわからない、と喧伝されました。

インドネシアのメディアはビジュアル重視に変わってきていますが、一番インパクトのあるのが大衆動員です。大衆動員をかけるための材料はイスラム、しかも「アホックはイスラム教を冒涜した」というメッセージは、有効な宣伝材料でした。大衆動員をかけるには、ジャカルタ以外から動員する必要があり、それに便乗して、イスラム強硬派グループが影響力を拡大させようと主導していきました。

その他の詳細は、決選投票の前の段階で、私が書いた有料記事が4本ありますので、よろしければ、ご購読ください。

 ジャカルタ州知事選挙からインドネシア政治を読む(1〜4)

ここまで書いてきて、私が何を言いたいかというと、今回のアホックの州知事選敗北、有罪判決といった事態が引き起こしている本質は、必ずしもイスラムの問題ではないということです。誰でもあれだけのイスラム教徒が動員されれば、イスラムの影響を過大に見てしまうことでしょう。でも、問題の本質は、まずアホックを政治の舞台から引き摺り下ろすことであり、そのためには、示威行動と恐怖心の植え付けによって、有権者の投票行動を変えることでした。

アホックが当選したら、毎日毎日デモが起こるのではないか、イスラム強硬派が暴れるのではないか、1998年5月のような反華人暴動が起こるのではないか。そんなことになったら、日々の生活に支障が出るし、安心して暮らせなくなる。

「コーラン食卓章51節に従って非イスラムの指導者を選ぶな」という呼びかけも盛んに行われ、「アホックを支持する者はモスクに入るべからず、冠婚葬祭も受け付けない」といったところも現れるとなると、日常生活の場にあるモスクと共生する住民は、それでもアホックに投票するという行動はとりにくくなることでしょう。

忘れてならないのは、デモに参加したり、恐怖心を広めたり、差別意識を前面に出したりした人々は、自分達の信ずるイスラム教のために行動したのではなく、一人のけしからん気にくわないアホックを糾弾するために動いてしまったのです。

そして、それは有権者だけでなく、アホックを有罪とした裁判所にも少なからず影響した可能性があります。アホック無罪の判決を出そうものなら、裁判所が焼かれてしまうかもしれない、ジャカルタのあちこちで騒乱が起きるかもしれない、そのとき、無罪判決を出した裁判所の治安悪化の責任が問題になるのではないか。それぐらい、裁判所は、州知事選挙のときの有権者と同じく、嫌アホック派からの圧力や同派への恐怖を感じていたかもしれません。

おそらく、アホック支持者のほうが自制心があり、暴力的行為を行う可能性が少ないのではないか。もしかしたら、そんな計算もあったかもしれません。

「アホックの裁判に対する態度は誠実で協力的だった」と評した裁判所が、なぜ検察の求刑よりもかなり厳しい判決を下したのかは、裁判所が示した理由を見ても、納得できるものではありません。アホックがイスラム教を冒涜したと断罪する根拠についても、重刑を課すに値する新事実があったわけでもなく、それまでの裁判での議論を踏まえているように見ることは難しいものがあります。

それでも、裁判所の判決を尊重し、それに反対するならば、きちんと法的なプロセスを経て進める、ということは、国民一般の了解事項になっている様子です。イスラムを政治的に利用し、示威行動と恐怖心である一定の考え方を強要する一方で、司法での汚職が問題視される状況はあるにせよ、制度としてのそれを尊重できる社会の成熟さも生まれています。

判決が禁固2年となったことも注目されます。求刑の禁固1年執行猶予2年だと、アホックは2018年地方首長選挙にも2019年大統領選挙にも出ることができます。しかし、禁固2年が確定した場合、そのどちらに出ることも無理です。アホックの政治生命を断つ結果となります。そして、それは嫌アホック派の目指すところでもありました。

日本を含む海外メディアの報道を見ると、インドネシアの多数派イスラムが増長して「多様性の中の統一」に黄信号が灯ったという内容を散見します。でも、イスラムの影響力云々が問題の本質、とは思いません。これまで多数派の行動を自制させてきた箍が外れた、それは政治家が自分の野心のためにイスラムを政治利用する傾向が強まったためだと思います。何かを決めるのに、ムシャワラ(協議・熟議)の社会から多数決の社会へ移り始めているのかもしれません。

空気を読みながら、言いたいことも言えなくなる。日本にとっても、インドネシアの話は決して他人事ではありません。でも、ジャカルタでは、まだアホック支持者が声を上げています。声を上げない日本の我々よりもまだ健全だと思えてしまいます。

ジャカルタ州知事選挙結果について

本日4月19日、インドネシアの首都ジャカルタの州知事選挙の投票が行われ、民間調査機関によるクイックカウントの結果、新人のアニス=サンディ組が現職のアホック=ジャロット組を破って当選することが確実となりました。

これについて、今日も連続ツイートをしてしましたので、ここでまとめて掲示します。今後のインドネシア政治を注意深く、冷静に見ていく必要を強く感じました。

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ジャカルタ州知事選挙はアニス=サンディ組の勝利となりそう。これまでの状況からすれば順当な結果。でも僅差ではなかった。改革よりも社会の平穏を重視する投票行動があった可能性がある。宗教の政治利用や恐怖心を煽るトランプ的・ルペン的手法が強まり、多様性の中の統一がこれまで以上に試される。

アニス=サンディ自身は教条的なイスラム主義者では全くない。多様性を重視し、融和を前面に掲げて政治・ビジネスを行ってきた。しかし今回、彼らは自分たちとは相容れない勢力を取り込んで勝利した。これら勢力を利用して次の大統領選挙を目指す動きから一線を画すことは相当に難しいだろう。

アニス=サンディの守護者であるグリンドラ党のプラボウォ党首の元へ、元ゴルカル党首で実業家のアブリザル・バクリが来ていた。少しずつ、反ジョコウィ勢力が固まり始めた様子もうかがえる。

ジョコウィに教育文化大臣を解任されたアニス。その理由は明確でないが、教育界の著名人で、辺境地への青年教師派遣事業など、開明的だった彼が納得したとは思えない。ジョコウィ命だったアニスの変質。政治には無関心だったのに突然グリンドラ党へ入党したサンディ。彼らには挽回したい何かがあった。

ジャカルタの中流以上の市民の成熟に対して、中流以下の市民は格差や差別の意識を抱いていたかもしれない。今回のジャカルタ州知事選挙を通じて、それらがイスラムという言葉に絡めとられた様子がある。イスラムが政治利用され、格差意識が高まり、社会が暗黒へ向かった90年代を学び直すことも大事。

アニス=サンディを俺たちが勝たせたと信じる一部のイスラム勢力は、今後さらに増長する。同じ手法で選挙に勝とうとする動きが他地域でも現れる。騒ぎを怖れる人々や実業家はそうした動きにあえて抗わない。民族主義は反欧米の意味で必ずしもイスラムと敵対しない。宗教の政治利用を抑える楔は外れた。

過去のインドネシア政治における政治家の人間関係における裏切り、妬み、恨みといったものを組み合わせると、今の動きもなるほどなと思えるものが少なくない。全然アカデミックではないけれども。

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私自身は、今回のジャカルタ州知事選挙を、2019年大統領選挙でのジョコウィの対抗馬をうかがう展開の第一歩になるのではないか、という目で見ていました。そして実際、反ジョコウィへの展開をうかがわせるような動きが見られ始めました。

このブログは、日々の出来事や思ったことをゆるーく書いていくために作ったので、下のような、素敵な八重桜の写真を載せて、ほんわかといきたかったのです。でも、昨日の連続ツイッター掲載がけっこうな数の方から読まれたので、続きを載せた次第です。

今、このブログとは別に、インドネシアの政治や経済について、深く突っ込んで議論や情報交換のできる会員制のグループまたはフォーラムを構想中です。内容がセンシティブになる可能性が高いので、有料会員制にしたいと考えています。これについて、ご意見・ご提案などあれば、是非お寄せください。

それは、先日お話しした、インドネシア情報メディア(日本語)と日本情報メディア(インドネシア語)とは別にしたいと思います。こちらは、もっと広くいろいろな方に知ってもらえるような形を想定しています。

<緊急>明日のジャカルタ州知事選挙投票日について

明日4月19日は、ジャカルタ首都特別州知事選挙の決選投票日です。ジャカルタは休日となりますが、注意すべき動きがあります。

以下、先ほど、ツイッター( @daengkm )で発信した内容をまとめて提示します。

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Tamasya Al Maidahというイスラム系グループが、ジャカルタ州知事選挙決選投票日の明日、ジャカルタ外からも含め約10万人を動員し、各投票所を監視するという。目的は非イスラム候補を落選させることと公言。その白装束の存在で、投票する有権者にプレッシャーをかける狙い。

また、ある著名なイスラム高僧は、「断食月を迎えるにあたって」という題でモスクでの説教を依頼され、快諾したが、その後、その説教で「非イスラムのジャカルタ州知事候補を選ばないように」と信者へ話して欲しいと懇願され、説教を断る、という事件もあった。

今回のジャカルタ州知事選挙では、こうしたなりふり構わない宗教の政治利用への批判と警戒も根強い。しかし、無記名投票とはいえ、周りの様子を気にしながら投票する多くの有権者に、Tamasya Al Maidahによるプレッシャーを跳ね返せといっても、実際には難しいのではないか。

警察はTamasya Al Maidahの投票所監視を認めていないとしているが、Tamasya Al Maidah側は口頭で許可をもらったと強弁しており、実際には、警察が黙認するのに近い状態になりそうな気配がある。非イスラム候補側も何らかの対抗手段をとるのは間違いない。

インドネシアの選挙では、投票所ごとに開票する。それを住民も監視できる。その開票結果次第で、Tamasya Al Maidahや対抗勢力がいちいち「不正がある」と騒ぎ出しはしないか、という危惧がある。最低でもそういう怖れが有権者の投票行動に影響を及ぼす可能性がある。

今回のジャカルタ州知事選挙の勝敗は僅差になるとみられるので、敗者側の意義申立が強く、長期にわたる可能性がある。国レベルの政治にも影響を与えよう。

明日のジャカルタ州知事選挙決選投票後、クイックアカウントの後、たとえ結果が微妙でも、Tamasya Al Maidahは「3番が勝った」といって、断食月明けのタクビランのように、おそらく夜中までジャカルタの町中を歩き回るだろう。

明日19日、ジャカルタの在留邦人の方々は、とくに用事がなければ、投票所には絶対に近づかないことが重要と思われる。また、町を走り回る集団に出会ってしまったら、静かに通り過ぎるのを待つしかないだろう。この選挙は国レベルの政治に直結していくので、明日以降も十分に気をつけられたい。

イースター前に報じられた2つの事件(追記あり)

今日はイースター前のグッドフライデー。インドネシアは祝日です。今日から三連休となっているようです。

イスラム教人口が9割近くを占めるインドネシアですが、イスラム教は国教ではありません。イスラム教のほか、カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー教、仏教、儒教が宗教として認められています。日本で一つに括られるキリスト教は二つに分かれています。

そして、建国五原則(パンチャシラ)の第一原則として、唯一神を信じることが求められています。ヒンドゥー教、仏教はそうなのか?、儒教は宗教なのか?といった疑問は、とりあえず、ここでは脇に置きましょう。

ちなみに、アニミズムのようなものは宗教ではなく「信仰」というカテゴリーに入るので、アニミズムを信じている人も前述の宗教のどれかに分類されているのが現状です。

というわけで、イスラム教人口が世界一多いインドネシアでも、他宗教のお祝いも行われ、それらは国の祝日となっています。イースターもその一つです。他宗教への寛容がインドネシアの基本中の基本となっているのです。

ところが、今日、他宗教への寛容という観点からすると、残念な出来事が少なくとも2件報じられていました。

一つ目は、シンガポール・チャンギ空港での4月9日の出来事です。

インドネシアの西ヌサトゥンガラ州知事が航空会社のカウンターでチェックインをするために並んでいました。州知事は、ちょっと飛行機の時間を確認しようと思って列から外れ、確認した後、再び列に戻りました。

すると、州知事の後ろにいた若者が「順番を守れ」といって抗議しただけでなく、州知事に対して汚い言葉で罵ったのです。「プリブミだからな、土人だからな、このドブネズミ野郎!」と(原語では、Dasar pribumi, dasar Indo, Tiko (tikus kotor) ! と言ったとされます。インドネシア語日刊紙 Republika の記事を参照)。

恥ずかしい話ですが、今回の件で、Tiko ! という罵り言葉を初めて知りました。

この西ヌサトゥンガラ州知事は36歳で、インドネシア国内の州知事としては最年少なのですが、ロンボク島を本拠地とするイスラム社会団体のナフドゥラトゥール・ワタンの若き指導者です。

州知事に対して罵った若者は、インドネシア国籍の華人青年でした。このため、華人がムスリムを侮辱したという話になって、ナフドゥラトゥール・ワタンの関係者の怒りが治りません。もっとも、州知事はこの若者に列を譲っただけでなく、若者の無礼を許したということで、一気に評判が上がりました。

二つ目は、今日の昼、ジャカルタのモスクでの金曜礼拝での出来事でした。

イスラム教徒は、どのモスクで礼拝を行なってもかまいません。休職中のジャカルタ首都特別州副知事で、今回の選挙で、再選を目指して州知事候補のアホック現知事(休職中)と組んで立候補しているジャロット氏が、いつものように、金曜礼拝をするため、選挙活動場所の近くのモスクに入りました。

そのモスクでの金曜礼拝の説教で、説教師は、「次の州知事選挙ではムスリムの候補が選ばれるべき」と述べて、アホック=ジャロット組の対抗馬であるアニス・サンディ組への投票を促す発言を繰り返しました。金曜礼拝は政治の世界とは別だと思っていたジャロット氏は大変驚いたということです。

しかし、彼はそこで感情をあらわにすることなく、普段通りに礼拝を終えました。礼拝が始まる前から、ジャロット氏が来ていることは他のイスラム教徒たちも知っており、礼拝前には一緒に写真を撮ったりしていたのですが、礼拝終了後、一部のイスラム教徒がジャロット氏がいることに不快感を示し、モスクからすぐ出て行くように強制したということです。

(追記)モスク側からは、「モスク側には何の連絡もなく、ジャロット氏が支持者やメディアと一緒にやってきて、礼拝の後に選挙運動を行おうとしたから、お引き取り願った」という説明が出されているようです。実際にそのような意図がジャロット氏側にあったかどうかは不明ですが、モスク側から見るとそのように見えたようです。

ジャカルタでは、キリスト教徒のアホック氏を支持するイスラム教徒の礼拝や葬儀をモスクが拒む事例が散見されます。金曜礼拝の説教が露骨に特定候補への投票を促す内容になるなど、イスラム教を政治的に利用する動きがますます強く見られるようになりました。

ジャカルタ首都特別州選挙監視委員会は、この件について、選挙運動違反になるかどうか調査を行うことにしています。アホック氏が「コーランの一節を使って非ムスリムの候補への投票ができないというならそれは仕方がない」と発言したことを、一部のイスラム指導者たちが「コーランへの侮辱」として強く批判しています。同時に、彼らは、コーランの一節を使って、「非ムスリムの候補への投票をするな」と唱え続けています。

異なる他者への寛容という精神は、インドネシア全体でかなり根付いていると思いますが、ちょっとしたことで、政治と絡めて、特定勢力の利益のために利用され、分断を人為的に作ろうとする動きを促している兆候があります。

嘘や偽情報を意図的に流して、人々を煽る手法がインドネシアでもよく見られるようになりましたが、これは今や、世界中どこでも見られるものです。それが広まる前に、嘘であり偽情報であることがまだわかる段階で早めにそれを摘んでおく必要があります。

イースターに起きたインドネシアの2つの事件は、大きな話ではありませんが、大きな騒ぎとなる前に、真実のかけらがまだはっきりと残っている間に、処置をしておく必要があることを改めて認識させてくれました。

新たに訪れたジャカルタの麺店2店

ジャカルタの夕陽と汚水を「堪能」(?)すると同時に、せっかくプルイットやPIKを通るのだから、この際とばかりに、麺の店を2軒、回りました。

でも、プルイットの麺店は、その多くは夕方4時か5時頃には閉まってしまいます。そこで、夕陽の前に1軒、夕陽の後に1軒、行くことにしました。

最初の店は、Asli Mie Keriting P. Siantarという店。この周辺には、北スマトラのトバ湖に近い小都市プマタン・シアンタルの名前の付いた縮れ麺を出す店が何軒もありますが、ここは1954年創業で、それらの元祖を名乗っています。

飾り気のない素朴な店構えですが、「こういう店が美味しい」という自分の直感が当たりました。

麺は自家製で、コシがあり、いい具合にスープと絡み合いますが、普通の麺よりも、ここの麺のほうが、主役は麺である、と強く主張しているように感じます。麺の上にのせられた具も、麺の主張を壊さないような控えめな味付けですが、よく味が付いています。

この店は、実は2006年にじゃかるた新聞でF記者によって紹介されており、その新聞の切り抜きが貼られていました。きっと、麺好きの日本人の間でも知られた店なのでしょう。

次に訪れたのは、PIK(Pantai Indah Kapuk)の飲食店街にあるBakmi Aloiという店。

以前、友人に連れられて、PIKのBakmi Siantarという店へ行き、そこで食べたカレー麺(カレー麺の上に豚の血の塊がのっているもの)をまた食べたいと思って探したのですが、見つけられず、その店があったと思しきところにあるBakmi Aloiに入ってしまいました。

入ってメニューを見て、「まずった」と思いました。先に食べたAsli Mie Keriting P. Siantarと同じような内容だったからです。カレー麺が食べたかったのにー。

ともかく、なんでものせ、を注文。出てきた麺を見てちょっとびっくりしました。

小丼ではなく、皿に入って出てきたのです。これは、マレーシアやシンガポールや香港でおなじみのドライ麺、汁なし麺の系統だな、と思いました。

早速、麺を食べてはスープをすすり、というふうに食べ始めました。麺はストレートですが、茹で加減が絶妙で、麺に絡ませたと思われる油もあっさり。具がとても美味しく、麺と一緒に食べて、スープをすすると、なんとも言えない美味しさなのです。

この店の本店は南スマトラのパレンバンにあり、実は、ジャカルタには多くの支店があると後でわかりました。

麺店を2軒まわって満足し、スカルノハッタ空港でチェックインを済ませて、無事に、帰国JAL便に乗りました。ラッキーなことに、プレミアムエコノミーにアップグレードされていたし、気分良く乗りました。

さあ、朝食でオムレツ、と思ってウキウキしていると、「お食事です」の客室乗務員の声。えっ? 朝食は? と聞くと、朝6時過ぎに成田に着くこの便では、朝食は出さずに、離陸後すぐに夕食を出すように変更されたとのこと。

夕食を出したすぐ後に、パンも配られ、そのパンが、適当な時間にスナックとして食べていただければ、という話でした。朝到着前に朝食で起こされたくない乗客と、サービスを一回で済ませられる客室乗務員側の利害が一致した、サービス変更でした。

今回の夕食はミーゴレン。麺店を2軒まわって大満足の自分には、とても食べられる余裕はなく、夕食は辞退しました。

ちなみに、一緒に麺店、夕陽、汚水を堪能した若い友人は、機内でも夕食をしっかり食べたとのこと。さすが若者、という感じですね。

ジャカルタの夕陽と汚水(追記済)

出張最後の今日は、ジャカルタでいくつかの用務を行い、夕方から、たまたま一緒に便で帰国する友人とジャカルタの北海岸をまわってから、空港へ向かいました。

ジャカルタ市内にいると渋滞に巻き込まれるので、帰国便への搭乗時間まで、ジャカルタの北海岸にできた新しいスポットへ行ってみました。北海岸沿いのプルイット・シティというモール+高層アパートです。

ちょうど、日の入りの時間に近かったので、あまりいいポイントではありませんでしたが、夕陽を眺めました。

マカッサルの海に沈む大きな夕陽は何者にも代えがたく好きなのですが、ジャカルタの夕陽もまた別の趣がありました。

振り返ってみると、ジャカルタで生活していた時には、夕陽なんて見たことも気に留めたこともなかったように思います。でも、マカッサルでは、1990年代の滞在のときには、毎日のように、仕事を終えて帰宅後、幼い娘を抱っこしながら、家族3人で一緒に夕陽を眺めたものでした。

ジャカルタの友人たちが、フェイスブックやツイッターにジャカルタの夕陽の写真をアップしていますが、今日だけはその仲間に少し慣れたような気がします。

夕陽を満喫していると、突然、ドボドボドボ・・・という音が聞こえて、下の海を見ると・・・。

黄色く濁った水が海へ放出されていました。色や匂いからして、汚水ではないかと思います。その下の菅からは、色の付いていない水が放出されていました。

おそらく、このモールやアパートからの汚水でしょうか。汚水処理がきちんと施された後の水であることを祈るしかありません。

ジャカルタの意外に素敵な夕陽と、ドボドボと排水される黄色い汚水。その両方ともが、ジャカルタという街を象徴しているように感じられました。

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