食品加工機械のワークショップ

昨日から、食品加工機械のワークショップが始まりました。東ジャワ州飲食・包装研修センターが東ジャワ州内の県・市から選抜した中小企業12社が参加しました。

今回で、すでにワークショップを3回実施しており、1回あたり10数社が参加しますので、これまでに30社前後がワークショップを受けたことになります。

このワークショップでは、大阪の幸和工業の制作したエクストゥルーダー、乾燥機、回転式味付け機のほか、煎餅用の機械などを実際に使って、製品を作ってみる、というものです。

今回の食品加工機械の特徴は、油を使わないでサクッ、パリッとした製品を作るというもので、油で揚げたものの多いインドネシアで、健康ブームも相まって、ノンオイルの加工食品を普及させる一歩とも位置付けられるかと思います。

「機械はぜひ使いたいのだが、価格が高いので我々には無理」という声も聞かれました。高価な機械をどのようにシェアし、活用できるか、知恵を絞る必要があります。

ワークショップ参加者、政府、日本側が一緒になって知恵を絞り、この東ジャワ州から機械のシェア活用モデルを作っていければと思います。

カバンを買い換えるの巻

昨日、日頃、使っている仕事カバン(というかリュック)を買い換えました。

今まで主に使っていたのは、Hedgrenのリュック。これは、たまたま、インドネシア・ジャカルタのサリナデパートのカバン売り場で見つけて、まあ、とりあえずしばらく使えればいいや、と思って買ったのですが、これが意外に使いやすく、重宝してきました。

物入れの場所が3箇所あり、MacBook Airと機内防寒用のウィンドブレーカーを入れるスペース、書類や本などを入れるスペース、携帯電話など小物を入れるスペースに分かれていて、けっこう、収納力があります。飛行機の中では、ちょうど席の下のスペースに収まり、足おき代わりに使っていました。

使い込むににつれて、鍵などを入れておく一番上の小さなスペースのファスナーが壊れて締められなくなり、リュックに物を入れると、全体が下にダラリと垂れるようになってしまいました。それに、雨に当たると、防水・撥水仕様でないので、中のものが濡れてしまって、困ったことがありました。

東京の街中で使うにはちょっと大きすぎるし、アポで人に会うときにもややカジュアルな感じだし・・・。ということで、来週からのスラバヤ出張を前に、買い換えました。

今回購入したのは、Manhattan Passageの縦型3ウェイタイプ、#2450というものです。このメーカーの特徴どおり、軽量で撥水性が高く、機能的です。

縦型ですが、表面に二つ大きなポケットが付いていて、モノを取り出しやすいです。普通のリュックだと、深く入ってしまったものが取りにくくて難儀でしたが、これだと、すぐに取り出せて良いです。とくに、上のポケットは、ほぼ日手帳オリジナルがちょうど縦に入る高さで、愛用のA5ノートも横にして余裕で入ります。

3ウェイではありますが、私は通常、ショルダーバッグにしないので、リュックにするか手提げにするかです。収納はA4用となっているので、ちょうどMacBook Airがピッタリに入り、大きすぎないのが良いです。

背負ってみると、カバンが背中をずり落ちてこず、背中の真ん中あたりで止まって、いい感じ。そして、何といっても軽くて、MacBook Airを入れて背負っても、重さをあまり感じません。

手提げにすれば、それほどカジュアルな感じもせず、大きくないので、日本で人と会うときに持ち歩いても違和感はなさそうです。

久々にいい買い物をした、と満足しました。

この人たちも、HedgrenのリュックからManhattan Passageの3ウェイバッグへ移しました。ももりん(左)とキビタン(右)です。また、どこへも一緒に連れて行きます。

昼下がりの山手線での幸せな空気

今日は午後、東京駅近くで面会のアポがあったので、普段通りに乗った昼下がりの山手線。席に座った私の前のベビーカーで、赤ちゃんが目の前のお母さんを見ながら、うれしそうに声をあげていました。

お母さんの左側に座っている、ネクタイを締めた年配の紳士が、赤ちゃんを見ながらニコニコしています。時々、面白い顔を作って、赤ちゃんを笑わせようとしています。この紳士は、赤ちゃんのおじいさまではありませんでした。

お母さんの右側に座っている勤め人らしい、まだ若い女性も、読んでいる本から目を上げて、赤ちゃんの方を見て微笑んでいます。

空いている車内だったからでしょうか。楽しそうな赤ちゃんの姿が、私を含む周りの人々にほのぼのとした幸せな空気を作り出していました。

通勤電車で押し合いへし合いのない、昼下がりの山手線には、殺伐とした日本はありませんでした。ベビーカーと一緒に電車に乗るお母さんへの罵声もありませんでした。

あの日本とこの日本。同じ日本で起こっている異なった風景。

自分の経験した日本だけで、日本を代表しているかのように振舞ってはならない、そうじゃない日本もあるんだと思えるような自分でありたいな、と思いました。

大丈夫。まだそんなに人間の未来を悲観しなくてもよいのかもしれません。

今日も、毎月コレステロール検査をしてくださるお医者さん、カードで支払ったら店用と客用のカード控えを間違えたといって私を追いかけてきてくれた薬局のお姉さん、電車を降りるときにさりげなく道を開けてくれたおじさん。

コーヒー店でカードにポイントがつかないことを申し訳ながってくれた店員さん。夕食を食べたピザ屋さんでその店のピザの良さを教えてくれた店員さん。

何もない毎日でも、そうやって出会う人たちとのささやかな、コミュニケーションとも言えないほどのささやかなコミュニケーションを、丁寧に気持ちよく接することで、毎日を自分や出会った人たちにとっても、少しでも気持ちの良く感じられるような瞬間を一つ一つ積み重ねていきたいなあ、と思いました。

話は変わりますが、仕事用に、中村印刷所の方眼ノートを5冊買いました。

このノートは、印刷所の方のお孫さんがツイッターでおじいさまの素晴らしいノートについてつぶやいたことで、一般に知られるようになり、製品化されたものです。

他のノートと違い、開いて軽く押さえるだけで1枚の方眼紙になる水平開きになるノートです。水平開き製本の独自技術を用いており、左のページと右のページが本当に平らになります。

ノートの素晴らしさもそうなのですが、よい技術を持つおじいさまの製品が世間には知られず、売れない状態をなんとかしたい、とツイッターにつぶやいたお孫さんの気持ちを何となく感じることができます。

そんなノートにも、ほのぼのとした幸せな気持ちを感じてしまいます。それが理由というわけではありませんが、今日は、インドネシア政治連載の執筆はお休みにしました。

何もないような一日。でも必ず何かはあるのでした。

このブログは、力の入ったものだけでなく、こんなものも書いていきます。よろしくお付き合いください。

インドネシアから日本への難民急増?

新聞報道によると、日本へ難民申請するインドネシア人の数が急増したとのことです。

2016年の難民申請者総数は1万901人で、国別のトップがインドネシア人(1829人)で、以下、ネパール人(1451人)、フィリピン人(1412人)、トルコ人(1143人)、ベトナム人(1072人)の順でした。

ちなみに、2015年のインドネシアからの難民申請者は969人、2014年はわずか17人でした。その急増ぶりには目を見張るものがあります。

インドネシアの状況をよく知らない方がその数字だけを見たら、ここ数年のインドネシアでは、政情不安やテロ頻発など、何かとんでもないことが起こっていて、危険を感じた人々がたくさん増えて、難民申請が急増したのだ、と思うことでしょう。

でも、まさか、本当にそうなのでしょうか。

プロのインドネシア・ウォッチャーの私は毎日現状を見続けていますが、そのような、難民を発生させるような事態は一切起こっていません!

インドネシア語のメディアでも、インドネシアから日本への難民申請急増は話題になっていて、なぜそんなことが起こるのか理解できない、という話が聞こえてきます。

実は、インドネシアは、難民の受け入れ国でもあるのです。

難民の権利保護のための市民社会ネットワーク(Indonesian Civil Society Network for Refugee Rights Protection)という団体によると、2014年6月30日時点で、UNCHRインドネシア事務所に登録された難民総数は1万116人で、うち6286人が亡命者です。難民の出身国はアフガニスタン、ミャンマー、スリランカ、パキスタン、イラン、イラクなどです(この数字の出所はこちら)。

インドネシアは国際難民の経由地としても知られていて、難民の多くは一時的にインドネシアへ滞在しつつも、最終目的地としてオーストラリアへの渡航を希望するケースが多いようです。なかには、不法なルートを使って、オーストラリアへ渡航しようとする難民を乗せた小さな船がインドネシア沖で座礁したり沈没したりし、インドネシア政府が彼らの救助へ向かう、といった事態も頻発しています。

すでに一人当たりGDPが3500ドルとなり、中進国化を意識し始めたインドネシアからの難民申請が増えているのは、理解しがたいことですが、その多くは、日本での就労を目的としているものとみられます。

東京オリンピックなども含め、単純労働者や建設労働者が日本で不足しているという情報は、インドネシアでもよく知られるようになりました。インドネシアは、日本が技能実習生や看護師・介護士として最も多くの人材を受け入れている国でもあります。帰国した彼らからの様々な就労に関する情報が流れています。

翻って、彼らの多くの出身元である農村では、農業で生計を立てるのが年々厳しくなっています。高収量品種米の導入に伴う化学肥料・農薬の多投などによって農地の肥沃度が低下し、生産性が上がらないだけでなく、農産物価格が低迷して、農業は儲からないと見なされています。子供たちは農業を継ぎたがらず、現世代で離農を覚悟している農家が増えています。他方、都市を中心に、国産よりも安くて質の良い野菜・果物・畜産物の輸入が増加を続けていて、農民の生産意欲を減退させている面があります。

しかし、それは、難民を発生させるほどの窮乏を農民に強いているという状況ではありません。日本も含め、どんな国でも、こうした産業構造の転換をどのように進め、国内産業を新しい段階へうまく適応させていくか、は重要な政策課題となります。その意味で、インドネシア政府による農業政策・産業政策・村落開発政策には、戦略的・計画的思考が欠けていると言わざるをえないと感じます。

日本の事業の現場では、難民であろうが技能実習生であろうが、とにかく働いてくれる人が欲しい、というところがあります。もちろん、外国人労働者だからといって、安くこき使えると今だに思っているとするならば、それはもう難しいはずです。日本もまた、新しい状況に合わせた、外国人労働力の受け入れ体制の構築と、日本社会自体のそうした状況への準備を進めていかざるをえないと思います。

でも、10年前、20年前に比べたら、まだまだ不備はあるものの、いつの間にか、日本社会はそうした外国出身の人々を社会の一部としてうまく受け入れ始めているのではないかという気もします。都市よりもむしろ地方で、そうした傾向が進んでいるのかもしれません。というか、人口減などにより、否が応でも、進めざるをえない状況になっていると行ったほうが正しいのかもしれません。

難民申請したインドネシア人を、現状で難民として認めるのは難しいですが、日本が他国から好かれ、彼らが働いてみたいと思うような国になっていくことも、世界の中で生きていくには、必要なことではないかと思います。

天狼院書店を知ってしまった夜

今夜、東京の我が家からのお散歩エリア内に、ユニークな本屋があることを知ってしまいました。その名は、天狼院(てんろういん)書店。3年前に開店していたのに、今まで知りませんでした。しかも、東京のほか、福岡と京都にもあるのですね。

池袋駅から雑司ヶ谷霊園の方へ向かう東(あずま)通りをまっすぐ歩き、都電とぶつかる手前の右側の建物の2階にあります。
中に入ると、ちょうど、10人ぐらいの男性が集まっていて、「宇宙戦艦ヤマト」に関する話を熱く語り合う催しの最中でした。男性ばっかりでした。
真ん中に談話や議論のできるテーブルと椅子の置かれたスペースがあり、その周りに面白そうな本がたくさん並んでいました。

入り口を入ってすぐ左側の棚には、天狼院の秘本シリーズが6巻まで置いてあります。この秘本の中身を見ることはできないのですが、中身は素晴らしいことが書いてあるという話らしく、中身が分からないにもかかわらず、けっこうな部数が売れているようです。
装丁にも一切内容を類推できるような文字もなく、チラ見もなく、買ってみてからのお楽しみ、という売り方がなかなか面白いです。
店の右側には畳が2畳分ぐらい敷かれ、その上にコタツが置いてありました。コタツ、いいですよね。うだうだとくつろげる部分空間が作られているのでした。
男性ばかりの「宇宙戦艦ヤマト」談義にはとくに惹かれるものはありませんでしたが、このような居心地の良い空間の使い方をし、店主体でイベントや部活もする、カフェもあるという、この店のユニークな本屋ぶりにとても興味をそそられます。
今、全国で小さいけれどもユニークな、こだわりの本屋(+カフェ)が増えているようですが、私も、自分オリジナルのこんな空間を作ってみたいと思いました。
そもそも、今日は、一風堂池袋店の味噌赤丸ラーメンが2月いっぱいで終了するので、その前に食べておきたい、という娘のリクエストで池袋へ出かけたのでした。
味噌赤丸を満喫した後、妻も娘も前々から気になっていた天狼院書店へ様子を見に行ったのでした。自分の身近なところに、まだまだ面白いものがありそうです。

イッツベジタブルは日本で一番新しい台湾料理の店 !?

妻と待ち合わせて、どこで夕食をとるか色々悩んだ末、錦糸町の台湾料理屋に行きました。総武線の高架下にある、その店の名前は、イッツベジタブル(苓々菜館<りんりんさいかん>)。

実は、台湾では精進料理も有名らしいのですが、台湾へ行っても、まだ食べたことはありませんでした。どんな精進料理なのか、楽しみに行ってみました。

肉、魚、卵だけでなく、ネギもニンニクも使わない、調理にアルコールも使わない(注:ただしビールなどアルコール飲料は置いてある)、全素、完全素食、ベジタリアンの台湾料理を出す店です。この店では、大豆のたんぱく質を使って、肉・魚風の料理を再現しているのです。

せっかくなので、野菜ではなく肉・魚風のものを注文してみました。まず、次の3品を注文しました。

「豚肉とセロリの炒めもの」のようなもの 

「ローストチキン」のようなもの

「揚げ魚の豆鼓ソース」のようなもの

これらをおかずに、玄米ご飯を食べました。

脂っ気があまりなく、あっさり味なのですが、ソースが絶妙に美味しく、とくに、「ローストチキン」のようなものは、鶏肉のような肉の細い筋があるような歯ごたえで、本物と変わらない味わいでした。

ちょっと物足りなかったので、さらに2品を追加しました。

「肉シューマイ」のようなもの

担仔麺(チャーシューのようなもの+肉味噌のようなもの)

テーブルの上には、素食がいかに素晴らしいかについて書かれた「苓々菜館の気持ち」と、「なぜネギもニンニクも使わないのか」の説明が書かれた紙がラミネートされて置いてありました。

たとえば、ネギやニンニクには薬効があっても、それは薬である以上、摂りすぎるのは毒になる、と書かれてありました。また、「感謝の気持ちをもって食事をいただく」といった、素食を食べるときの作法についても書かれていました。

この苓々菜館は、東京に住む台湾人留学生らがよく集まる場所にもなっているようで、レジには「台湾で中国語を学ぼう」という本も売られていました。高雄に留学した若者が2年間でマンダリンと福建語をマスターした、と店の主人が言っていました。

そして、最後の1個だったこの店の手作りの特製パイナップルケーキをゲットして、店を後にしました。台湾のお菓子も色々出しているようです。

台湾素食といえば、この店とは違う店ですが、私が大学生の頃、通っていたキャンパスの近くに、やはり台湾素食の小さな店があり、ヘルシーな弁当などで知られていました。中一素食店という名前の店ですが、今では、六本木にも支店を出す有名店になっていました。

店の外に出ると、いくつもの標語の書かれた看板がありました。

日本で一番新しい台湾料理。世界一安全な食事。野菜がいっぱい。大豆がいっぱい。

このバイクで、「ダイエット弁当」を配達してくれるようです。

店の雰囲気も家庭的で、居心地も良いので、オススメです。台湾高山烏龍茶もとても美味しくいただきました。

さて、次回の錦糸町は、こちらの予定。

「勝手に師匠」を囲む会に出て

みぞれ混じりの冷たい雨の中、東京に来訪した私の「勝手に師匠」を囲む会に出席しました。友人から声をかけていただき、行ってみると、初めてお会いする方々もいて、なかなか楽しい会となりました。

私が「勝手に師匠」とお呼びする方は何人かいますが、今回のこの「勝手に師匠」は、地域の人々が主体となり、自分たちで自分たちの地域を元気にしていく手法を私が学んだ方でした。

「勝手に師匠」と勝手に名付けているのは、私が彼から直接教えを受けたわけではなく、彼のやり方を私が勝手に学んだためでした。私がこのやり方に出会ったのは今から16年前でした。

そして、どうしても本人に会いたくなり、2003年頃、勤務先の有休をとって、この「勝手に師匠」と、もう一人別の私の「勝手に師匠」も参加するある会合へ出るため、盛岡市まで追っかけをしてしまいました。そのときには、2人の「勝手に師匠」本人に会えた喜びで、とても嬉しく、感激したことを思い出します。

その後、インドネシアでその手法を使ったフィールド・ワークショップを3回、別々の農村において1泊2日で試行しました。JICA短期専門家として行ったのに、その手法でワークショップを行うと、その最後に、日本に援助を求めるような発言は村人から出てこないのでした。3回ともそうでした。

この手法は、外部者が関わることで、内部者が自分の足元に目を向け、自分たちの地域をもっとよく知ることによって、自分たち自身が地域を良くしていく主体であることを自覚して動く大事なきっかけを生み出します。

この手法は今こそ、日本の、そして世界中のコミュニティで必要とされているのではないかという確信があります。外部者がコミュニティ開発プロジェクトをスムーズに進めるための道具ではなく、そこのコミュニティの住民自身が自分たちで動いていくための手法なのです。このため、自分たちにとって楽しく、面白く、興味深いものでなければ、持続しないことになります。

大学の研究者にもこの手法を教える方がいらっしゃいますが、多くの場合、論文を書いたらおしまいで、外部資金がなければ、実践も含めた形で継続的に関わるケースは意外に少ないのではないか、という話が出ました。

私自身は、日本のローカルでも、他国のローカルでも、様々な形で、身近なところから実践していきたいと考えています。その際、自分が別に学んできたファシリテーション手法も合わせながら、より効果的なやり方を試みていきたいです。

この手法は、地元学といいます。きっと、ご存知の方もいらっしゃることでしょう。

2001年に地元学と出会ったことが、その後の私の人生に大きな影響をもたらしました。

その意味で、「勝手に師匠」には勝手に深く感謝しています。まだまだ不勉強ですが、折に触れて、厳しく見守っていただけるよう、精進していきます。

我が家の梅が咲き始めました。

福島のあんぽ柿をいただく

月曜日の会でご一緒した、元飯舘村、今は避難先の福島市の椏久里コーヒー店のマスターから、お土産であんぽ柿をもらいましたので、早速いただきました。

あんぽ柿というのは、福島では干し柿のことを指します。渋柿を硫黄で燻蒸して、屋根の軒先に吊るして、吾妻山系から吹きつける北西の冷たい風にさらして乾燥させます。普通の干し柿だと、乾燥させると黒く固くなって糖分の粉を吹きますが、あんぽ柿はそうならず、半生のような感じで、甘くて柔らかいのです。なお、硫黄は揮発するので、毒性はありません。

主産地は、宮城県境に近い福島県伊達市梁川町五十沢(いさざわ)地区で、11〜2月が収穫・出荷の最盛期となります。

もともと、この地域は幕末の頃から養蚕が盛んでしたが、大正期になると生糸産業が衰退へ向かいました。その頃、五十沢の有力者たちが養蚕に代わる農産物を探し求め、その結果、あんぽ柿をはじめとする果樹産品への転換が進んでいったとのことです。

あんぽ柿の袋には、検査済みマークが貼られています。福島県あんぽ柿産地振興協会が放射性物質の検査を行い、食品衛生法に定める一般食品の基準値(キロ当たり100ベクレル以下)を満たすものだけを出荷しています。

あんぽ柿の放射性物質検査情報は毎週更新され、以下のサイトで見ることができます。

 あんぽ柿検査情報

東京電力福島第一原発事故から2年9カ月後の2013年12月になって、あんぽ柿の出荷は再開されました。しかし、あんぽ柿は、柿を乾燥させるため、乾燥に伴って柿の中の放射性物質濃度が高まる恐れがあるため、出荷にあたっては、これまで細心の注意が払われてきました。

実際、福島県は、2016年12月15日付で、「あんぽ柿・干し柿等の「カキ」を原料とする乾燥果実の加工自粛と一部出荷再開について」という通達を出しました。現状で基準値を超えるものはほとんど出ていないものの、さらなる万全を期すために、監視を続けていく姿勢を示しています。

 あんぽ柿・干し柿等の「カキ」を原料とする乾燥果実の加工自粛と一部出荷再開について

あんぽ柿の出荷が再開されたとはいえ、基準値を上回るものは市中に全く出回っていないとはいえ、まだまだ監視の目を緩めるわけにはいかないのです。

福島県は、「基準値を超える可能性があると判断した市町村は加工自粛するように」と呼びかけていますが、今のところ、そのような市町村はないようです。これも万が一に備えての呼びかけであって、もうすでに危ないから自粛を呼びかけているのではありません。

あんぽ柿の検査プロセスは、以下のサイトに図解されています。すべてのあんぽ柿が全量非破壊検査を受け、食品衛生法に定める一般食品の基準値(キロ当たり100ベクレル以下)よりもずっと厳しいスクリーニングレベル、すなわちキロ当たり50ベクレルを超えたものがトレーに混じっていれば、そのトレーの柿はすべて廃棄する、としています。

 平成28年度あんぽ柿の検査イメージ

福島県から出荷されるあんぽ柿は、全量、サンプルではなくて全量、放射性物質検査を受けています。その数は、2016年11月〜2017年1月で314万7768個です。そのうち、キロ当たり50ベクレルのスクリーニングレベルを超えたものはわずか1955個(すべて廃棄)で、キロ当たり25〜50ベクレルが4万6320個、測定下限値のキロ当たり25ベクレル未満が309万9493個でした。

特筆できるのは、上記について、その検査結果がすべてデータとして残されている、ということです。どこから出荷されたあんぽ柿のいつの放射性物質検査結果がどうだったのか、というデータがすべて残されているのです。

福島県では、米の全量全袋検査が今も継続されていますが、たとえば、平成26年産米では、2014年12月31日までに1077万点以上を検査し、基準値超えは0点でした。これも、すべてデータが残されています。

日本の他の都道府県・市町村で、福島県よりも厳しい放射性物質検査を行っているところはあるでしょうか。それらが福島県のものよりも安全だと客観的に示せるデータを持っているでしょうか。

外国へ日本から農産品を輸出する際、放射性物質に関する客観的なデータを求められることがありますが、それに日本で対応できるのは、実は福島県だけなのではないでしょうか。

言われのない中傷や風評がなくならず、避難した子どもがいじめに遭うなど、福島をディスる動きはまだなかなか消えませんが、そんな中で、農産物の放射性物質検査を根気強く行い、データを残すという、地道な努力を続けてきた福島は、市場の評価とは裏腹に、いつの間にか、客観的な安全安心のトップランナーになりつつあるのです。

こうした安全安心への地道な取り組みを見ているのは、日本国内だけではありません。世界のバイヤーが見ています。安全安心を求める世界の農業関係者が見ています。

福島の農産物を食べないのはけしからんとは思いません。食べてくださいと懇願するつもりもありません。食べるか食べないかは個々人の自由な判断によるからです。

でも、何の客観的根拠もなく、福島を心配するようなふりをして、福島のものを食べる人をディスるのはやめてほしいのです。心の中で福島をディスるのは個人の自由ですが、それを口に出す必要はないはずです。

今は検査結果が良くても、来年も再来年も大丈夫だとは言えない。その思いは、未来に対して謙虚だからこそ、なのです。それゆえに、万が一に備えた条件付きの「加工自粛」を呼びかけたり、膨大な検査データを残し続けているのです。

もしかすると、この福島の安全安心への地道な取り組みが、世界の安全安心へのモデルとみなされていくかもしれません。

あんぽ柿を作っている農家さんの姿を想像しながら、そんなことを思いました。そして、がぶっとかじった柿は、甘くてとても美味しいのでした。

ふくしま「ふるさと写真の日」展オープニング

2月6日の夜、都内で開かれた、ふくしま「ふるさと写真の日」展オープニングパーティーに参加してきました。

私の懇意にしている福島市のコーヒー店・椏久里のマスターがこのイベントの実行委員となっていて、お会いしたいと思ったのが直接の理由です。

東日本大震災後6年が経過しようとしている中、長い避難生活によって祖父母世代、親世代、子孫世代で大きく認識が変わりつつある「ふるさと」。そうした「ふるさと」という記憶の深い場所での大切なものたちとのつながりを「写真」を通して掘り起こし、その思いを根付かせ、育み、伝えていくプロジェクトの一環として、ふくしま「ふるさと写真の日」展が開催された、ということです。

このプロジェクトは、「親子の日」を提唱して親子の写真を34年間撮り続けてきた写真家のブルース・オズボーン氏に依頼し、相馬市、南相馬市、飯舘村、葛尾村、川内村において写真を撮影してもらい、その作品をそれぞれの人々の物語とともに展示しています。

このイベントは、東京(2/6〜2/12、Glocal Cafeにて)、郡山(2/14〜2/19、福島コトひらくにて)、福島(2/21〜2/26、コラッセふくしまにて)で順次開催されます。詳細は以下のサイトをご覧ください。

 ふくしま「ふるさと写真の日」展

実は、行ってみたら、椏久里のマスター以外に知っている方が一人もいない会でした。知り合いがいないので、マスターにくっついて、後ろの方でおとなしくしていましたが、だんだんに声を掛け合い始めると、高校の後輩や小学校の後輩などが次々に現れ、不思議な縁を感じました。

実は、今日、このイベントへ行ったのにはもう一つの目的がありました。会場の名前がGlocal Cafeという名前だったからです。どんなところだろう、という好奇心でした。Glocal Cafeのサイトは以下のとおりです。

 Glocal Cafe

なかなか素敵な空間でした。単なるカフェではなく、いわば公民館的な役割を果たせることを目的としていて、今回のようなイベントはまさにその目的に合致している、ということでした。

このGlocal Cafeを運営している会社の方々とも名刺交換をしましたが、私が「松井グローカル」の名前で活動していることを知ると、興味津々の様子。グローカルの定義は全く同じではありませんでしたが、目指している方向は同じでした。

語学書籍を出版している三修社も運営に関わっているとのことで、インドネシアやアジアのことにも精通している様子でした。同じグローカルを目指す者どうし、いろいろと協力してやっていけたらいいですね、という話になりました。

時々は、このGlocal Cafeに顔を出そうかと思いますし、ここで勉強会のようなイベントの開催も考えてみたいと思います。

大学生と対話するのは楽しい!

今日2月5日の昼下がり、都内某所で、アジア開発学生会議(ADYF)に参加している大学生4人と話し合う機会がありました。

参考までに、アジア開発学生会議のホームページは次のリンクです。

 アジア開発学生会議(ADYF)(日本語英語

彼らのうちの一人は、昨年12月16日に私が担当した立教大学での特別講義の受講者で、そのときに、「自分たちの仲間と会って話をして欲しい」と言われていました。今回、それがようやく実現した形です。

彼らは、インドネシア・バリ島の観光開発による社会変容に興味を持っていて、自分たちで色々と学び、調査をしてきたようでした。今日の面会の前に、彼らは私への質問を前もってたくさん用意してきていました。

4人のうち3人は理系の学生で、大学では開発途上国の問題や国際協力についてなかなか学んだり議論したりする機会がないため、アジア開発学生会議に参加したという話でした。そして、今、自分が学んでいる専門を開発途上国の問題や国際協力に生かしたいという希望を持っていました。

彼らからの質問に答えながら、私からも色々な話をインプットしました。彼らの立てた前提が果たして地元社会の人々から見たら適切なものなのか、どのようにして地元社会の人々の本当のニーズを把握することができるのか、そもそもの問題設定自体が適切なのかどうか、といった話題を投げかけると、彼らからも様々な反応が返ってきて、私もいい意味での刺激を受けることができました。

以前のブログでも書きましたが、彼らのような大学生が自分の考えや意見を遠慮することなく話し合う場というものが、なかなかないというのが現状のような気がしました。大学時代こそが、若者が悩み、試行錯誤し、読書し、大きなことを考え、いい意味でホラを吹き、自分なりの思想や哲学を形作る、貴重な時期だと思います。

それが今、目先の試験や就活に追われ、社会人になってから試される「自分づくり」に時間を費やせないのは、残念なことです。せめて、1日に30分でも、毎週1時間でも2時間でも、そんな時間を作れたら良いのではないか、と思います。

今回のように、大学生と対話するのはとても楽しいものです。私自身は彼らの先生でも教官でもない、彼らとは何の利害関係もない、フツーの大人です。だからこそ、彼らの考えや意見をまっさらな気持ちで聞き、まっさらな気持ちで私の考えや意見を言うことができるような気がします。

「君たちが望むのならば、いつでも今回のような対話の機会を作っていいよ」と言ったら、彼らは何だか少し嬉しそうに見えました。もちろん、私自身の単なる勝手な思い込みかもしれませんが・・・。

35年ぶりのどら焼き

今日は午後、独立ジャーナリストとして活躍中の友人に、ジャカルタで知り合ったインドネシア人のコンサルタントである友人を紹介しました。そして、これから一緒にやっていけそうな幾つかのアイディアを一緒に話し合う、という刺激に満ちた会合となりました。

また、別の友人夫妻と新宿で夕食をご一緒することになっていたのですが、それを前にした夕方、どうしても小腹が空いてしまい、でも食事を摂るほどではない、という状況になりました。

そのとき、ふと目の前に現れたのが時屋。新宿西口の昔からある甘味喫茶店で、有名なのはどら焼きです。そうだ、久々に時屋でどら焼きを食べよう、と店に入りました。

店内の客は1人のみ。店の外ではたくさんの人々が行き交っているのに、時屋の店内は、まるで別世界のように静かで、店内も昔と全く変わっていませんでした。

そう、昔、35年前、まだ大学生だった頃、この店に入りました。当時、大学のサークルで渉外を務めていて、女子大との合コン1次会の後、2次会への参加者約15人を引き連れて、店に入りました。

お目当ては、時屋のジャンボどら焼きです。この店のどら焼きは、普通サイズでも一般のものより大ぶりなのですが、ジャンボどら焼きは普通サイズのざっと見て10倍ぐらいの大きさで、これを参加者全員で分けて食べたのでした。

ジャンボどら焼きは、もちろん今もまだ健在でした。

今回注文したのは、苺クリームどら焼き。苺の甘酸っぱさ、クリームとつぶあんの絶妙なハーモニー、そしてふわっとしたどら焼きの生地(時屋という焼印があります)。これにお茶を付けて、美味しくいただきました。

35年ぶりのどら焼きを食べた時屋は、刻々と姿を変えていく新宿西口の喧騒をよそに、本当に昔の雰囲気を保ったままでした。自分にとってはホッとする場所、と思ってしまうのは、自分もまたその齢を重ねてきたことの証拠なのかもしれません。

ボリューム感いっぱいのどら焼きを食べた後の夕食は、どら焼きは別腹の如く、しっかり楽しくいただきました。その店からきっかり2時間で追い出されましたが。

何年もの時を経て旧友とつながり始めた気配

この一週間ぐらいの間に、もう何十年も会っていない、半ば忘れていたような、旧友たちと再びつながり始めた気配を感じます。

先週、ひょんなことから、中学、高校と一緒だった友人とフェイスブックでつながりました。すると、彼から、中学時代の彼の級友たちが東京に住んでいて、彼らが集まって飲んだときの写真が送られてきました。

この友人とはクラスが違っていたので、記憶は確かではないのですが、写真を見て、何人かの名前を思い出し、会っているかどうかを尋ねたら、ほとんど合っていました。

高校を卒業して福島市を離れ、それから埼玉県に少し住んだ後、ずっと東京で暮らしてきました。

一般に、友人づくりにはいろいろなタイプがあり、少数の親友と長く親しい関係を続ける場合もありますが、私の場合は、その時その時で新しく友人ができ、昔の友人との関係はどんどん消えていくという形だったような気がします。

つい最近まで、福島市にいた時の小中高時代の友だちとは、ほとんどコンタクトがなかったのです。新しい友人がどんどんできていくので、ほとんど気にも止めず、放置したまま長い月日が経ったのでした。

数年前、Linkedinでダメ元でつながりリクエストを出したら、高校時代の友人らとつながり、その勢いで再会して、福島市で餃子を一緒に食べ、今ではいつでもコンタクトを取れる仲に戻りました。彼らは、福島県庁の幹部職員や地方銀行の重役になっており、いつでも協力すると言ってくれました。

先週、写真を送ってくれた彼。写真を見ながら、自分のクラスではないのに、何人かのことを急に思い出し、とても懐かしくなりました。私の中学時代のクラスメイトは、今、どうしているだろうか、と懐かしい気持ちが止められなくなりました。

その後、前の勤務先で一緒だった方とも10数年ぶりにコンタクトが取れ、来週、ランチをご一緒することになりました。また、20年以上前にとてもお世話になったマスコミ関係の方とも今朝フェイスブックでつながり、元気でいらっしゃる様子を嬉しく思いました。

写真を送ってくれた彼は、写真に写っていた面々に声をかけて、東京で飲み会を計画したいと言ってくれました。でも、会うとなるとちょっと恥ずかしい気持ちになってしまいます。

常に新しい友を得て、それがインドネシアなど海外にもどんどん友ができて、この歳になって、昔の友とつながり始めた、というのも、不思議な気がします。

フェイスブックという、何年経っても繋がっていることができ、常に連絡を取らなくても何をしているかがわかり、いつでも、10年以上会っていなくても、あたかも昨日会ったかのように冗談を言い合える、そんな道具のおかげで、私の友人ネットワークは軽々と国境や時間を超えていくのでした。

こうして、この世を去るまで、友人を作り続けていくのでしょう。そして、真摯に想い続ける限り、フェイスブックなどの助けを借りて、バーチャルに過ぎないにしても、これらの友人とつながり続けていくことでしょう。

皆んな、今どこでどうしているのだろうか。自分勝手な思い込みかもしれませんが、きっと、そんな風に皆んなも思っているような気がします。

何かのきっかけで、このブログを見てくれた友人がいたら、ぜひ、私まで連絡をください。そして、連絡が取れたら、近いうちにお会いしましょう。

新宿でハラル・ラーメンを食べる

先週、インドネシア・マカッサルから来訪した友人一家と一緒に、富士山、山中湖、御殿場プレミアムアウトレットモールへのツアーに参加した後、新宿のハラル・ラーメン桜花に連れて行きました。

この店のことは前から気になっていて、いつか食べに行こうと思っていたのですが、なかなか機会がなく、今回、友人を連れて行くという名目で食べに行くことができました。

午後7時、東京メトロ丸ノ内線の新宿御苑駅近くにあるこの店に到着。すでに、店の外で5〜6人が待っていました。おー、人気店なのか。

冷たい風に吹かれながら、友人一家と待つしかありません。店の外には椅子が4つ置かれ、寒さよけの毛布も用意されていました。

お客さんはマレーシアから観光で来たカップル、インドネシア人の家族、そして我々。店の前に順番待ちの名前を書いていると、中から女性店員が出てきました。

すると、私の顔を見て、何の躊躇もなく、「今まだ時間がかかります」とインドネシア語(マレーシア語ではない!)で話しかけてきました。あれ?と気づくまで、しばし時間がかかりましたが。都内の某大学で勉強している留学生でした。

満員の店内をのぞくと、客はインドネシア人がほとんどで、他に中東系のグループ。ラーメン店なのに、なかなか席が空きません。

寒風のなか、待つこと40分。ようやく中に入れました。そして、なぜ席がなかなか開かなかったのかがわかりました。

この店の夜のメニューは3つのコース・セットしかなかったのです。スパイシーコース、普通コース、ベジタリアンコースの3つで、ラーメン以外に、鶏つくね(+80円で牛つくねも可)、ラーメンのトッピング用の鶏の焼肉・煮卵・ベビーコーン、麺を食べた後のスープをかけるご飯、がつくセットでした。

普通のような、ラーメンだけさくっと食べて店を出る、というものではありませんでした。

このセットの出てくるのに、意外と時間がかかるのでした。そして、客は、飲み物を飲みながら、このセットメニューをゆっくり食べるというスタイル。これなら、なかなか席が空かないのも無理はありません。

麺は茹で加減がちょうどよく、具がスープの中に入っていないので、スルスルと食べることができました。スープはあっさり系の海鮮味ですが、煮干やエビの味が前面に出るタイプとは一線を画していました。

私は普通セットを頼んだのですが、日本の一般的なラーメンを食べている身からすると、今ひとつ、味がおとなしすぎて、飽きてしまうような味でした。クセになるような味ではなかったです。

カウンターだけの店ではありますが、回転率の早い一般的なラーメン店とは違う店でした。お客さんは皆外国人で、日本人の客をターゲットにしている感じはありませんでした。おそらく、ハラルだからという理由で通う客はいても、常連客を狙っているようにも見えませんでした。

それでも、友人一家は大変満足し、とても感謝されました。自分一人で食べに行くことはないと思いますが、次回、また、ムスリムの友人が来訪し、希望があれば連れて行きたいと思います。

ラーメン桜花のホームページはこちら。http://www.m-ouka.jp/

我々の結婚生活の原点

今日は、妻の用事に付き合って、東京都内の某市へ出かけました。

この某市は、我々が結婚して初めて生活した街でもあります。駅周辺はすっかり変わり、新しいショッピングセンターができていました。古ぼけた公会堂は、新しいコミュニティセンターに変わっていました。

反面、我々が毎日のように利用していたスーパーマーケットはなくなり、家電量販店に変わっていました。路地裏にあったはずの八百屋も総菜屋もなくなっていました。

さて、我々が結婚して最初に暮らしたアパートはどうなっているのか、気になって行ってみました。当時は新築、今や築27年の中古アパートです。

まだきれいに建っていました。このアパートの2階に住んでいました。2DKの小さな作りでしたが、二人で生活を始めるには十分な広さでした。

ここが我々の結婚生活の原点、ともいえる場所です。

ここでの生活はわずか1年で終わり、その後、インドネシアへ赴任したのでした。

久々に歩いたこの街、「とても住みやすかった」という思い出がよみがえります。路地裏の雰囲気はあの頃のままでした。

この某市がどこか、もう分かってしまった方もいるかもしれませんが・・・。

企業メセナ協議会のイベントに出席してみた

先週は、公益社団法人企業メセナ協議会の主催する2つのイベントに出席しました。友人であるインドネシアの都市研究専門家のマルコ・クスマウィジャヤ氏が出ているので、彼に会いに行くというのも一つの目的でした。

1つ目は1月24日、「文化拠点と地域・コミュニティ:ケーススタディ&ワークショップ」というイベント。出席者が3つのグループに分かれて議論し、「過疎・高齢化の進んだ地方小都市で元庄屋の古民家を生かしてどのようなコミュニティ再生が可能か」というお題で、グループごとにアイディアを出し合う、というワークショップでした。

議論中に、マレーシアの都市コミュニティ開発機関シンクシティのディレクターであるダンカン・ケンプ氏と前述のマルコ氏がグループを回ってアドバイスを行い、議論終了後、各グループから出されたアイディアに対して2人からコメントをもらう、というものでした。

私の属したグループは5人と少人数で、ゆっくり話し合いをすることができました。メンバーは文化・芸術及びその振興活動に関わっている方々でしたが、驚いたのは、全員が地域・コミュニティの再生・活性化のための芸術・文化の役割について真剣に考えていらしたことでした。

よそ者が芸術や文化を外から持ち込んでも一過性のものにしかならない。それが何らかの持続的な変化を地域・コミュニティに起こしていくためには、何が必要になるのだろうか。現実の話として、地元の方々は自分達に負担がかからない限りにおいて、よそ者が文化イベントをやることは拒まないけれども、積極的によそ者の行事に関わるわけでもないのです。

今行われているビエンナーレやトリエンナーレは、それをやり続けている間に何か新しいものが生まれ、地元の方々にもその必要性が理解されて、持続性がいずれ確保されていくだろう、という根拠なき希望のもとに行われている、という指摘も出ました。

それじゃあどうするのか、と議論していてもなかなかいいアイディアは出てきません。そこで、原点に戻って、まず地元の人の話を丁寧に聞くことから始めるしかない。その話を聞いている中からその人が地域で生きてきた様々な知恵や生きざまや特技などが見えてくる。

その地元の人自身が気づかなかったり、忘れてしまっていたりしたものも、話を聞く中でいろいろと引き出されてくるかもしれない。そうやって、その人の生きてきた人生を敬い、肯定しながら、その人の持っている大事なものをもう一度認識する。そのようなプロセスを経ると、地元の人たち一人一人が、実は広い意味でのアーティストになるのではないか。

よそ者がアートを持ち込んで何かやるのもいいけれども、そこにいる地元の人たち一人一人が「アーティスト」であることを発見し、それを地域・コミュニティの中で生かしていくことが、アートが地域に根ざすという意味で有益なのではないか。

私のグループでは、そんな議論をゆるゆると続けていました。マルコ氏は「再発見」という言葉を使い、アートが地域の中で何かを始めるときに決定的に重要である、とコメントしてくれました。

私自身は、故郷の福島市で、古民家を生かした場づくりに関わることを考えており、このワークショップのお題に違和感は感じませんでした。今回のメンバーは、わずか1時間の議論では話し足りない、もっとずっと話をしていたいね、と言い合いました。素敵なメンバーに恵まれて、とても気持ちのよいワークショップでした。

2つ目は、1月26日の東京フォーラム「芸術・文化を振興する企業理念とは:インドネシア・マレーシア企業における展開に向けて」というシンポジウムへの出席でした。

このシンポジウムには、前述の2人に加えて、マレーシアからパフォーマンスアート協議会のアズミー氏、インドネシアから芸術振興財団代表のリンダさん、フィランソロフィー・インドネシアのレスマナ氏が出席し、各国における企業と芸術活動との関係について、話し合いを行いました。

それぞれの国の状況紹介がありましたが、やはり、観客動員数や認知回数といった短期的な成果を求める企業側と、芸術活動の社会への受容を長い目で見たい芸術家側との認識ギャップがなかなか埋まらず、日本の一部民間企業が行ってきたような長期的な企業メセナの視点がまだ十分に育っていない、という評価でした。

そういう日本にしても、かつての高度成長期とは逆の状況の中で、これまでのような形で民間企業が芸術振興にじっくり関わっていける余裕が少なくなってきているようにも見えます。これからメセナを高めていきたいマレーシアやインドネシアと、企業メセナをより成熟した社会の中で定着させたい日本との間で、どのような有意義な相互学習関係が生まれてくるのか、個人的にはなかなか興味深く聴かせてもらいました。

日本の芸術家のほとんどは民間企業の支援によって育てられた、とも聞きました。少なくともインドネシアでは、まだそのような状況にはありません。しかし、自分たちで何とか資金を工面し、小規模ながらコツコツと芸術活動を続けている小集団が全国各地に存在しており、その中には、目を見張るような技術を持った者たちも存在します。

地方政府は行事などの折に彼らを招いてパフォーマンスをさせたりしますが、あくまでも行事に彩りを添えるものであり、パフォーマンス自体を芸術的に評価して深めさせようという意識はまだ低いと言わざるをえません。

それでも、民間企業が少額ながら寄付をし、それらをかき集めて、地方政府からの支援なしで実施するようなイベントも現れました。その一つが、私の仲間がインドネシア・マカッサルで毎年開催しているマカッサル国際作家フェスティバル(MIWF)です。今年も5月17〜20日に開催されます。このMIWFでは、実は私も、5年前から、インドネシア東部の若手有望作家を発掘するセッションのスポンサーを個人的に続けています。

今回のイベントは、東京オリンピックを前に、マレーシアやインドネシアなどの文化活動の勢いを日本へも取り込み、日本の地域をアートで元気にしたい、それを企業が支援していけるようにする、という目的があると感じました。

私としては、その対象を日本だけでなく、外国と結びつけることで、日本の地域だけでなく外国の地域でも、新たなアートが生まれ、それがきっかけとなって日本のローカルも外国のローカルも一緒に活性化し、再生していくという動きが生まれる、という方向性もぜひ考えてほしいと思いました。

そう、もっともっと、国境を越えた、地域に根ざしたアートの結合と新たなアートの様々な創造が起こってほしいし、起こしてみたい、と思いました。

外国人向け富士山・御殿場観光ツアーに参加して

今日は、インドネシアから来た友人とその家族と一緒に、外国人向けの観光ツアーに参加しました。彼らは富士山に行きたいということだったので、英語ガイドが付く次のツアーを申し込みました。

 1-Day Mt. Fuji, Gotemba Premium Outlets & Yamanakako Onsen

このツアーは、まず富士山へ行き、忍びの里でランチを食べ、山中湖温泉で温泉に入り、御殿場プレミアムアウトレットモールでお買い物をして、東京へ戻る、という内容でした。今日のそれは、天候に恵まれて、とても良い一日になりました。

富士山では、スバルラインで4合目まで行きました。雪がたくさん残っていて、友人の子供たちは大喜びでした。

また、富士山4合目から見た南アルプス連峰の素晴らしく美しいことと言ったらありませんでした。

道中、何度も見えた富士山は、雲ひとつない空に美しくそびえ立っていました。富士山って美しいなあ、と改めて何度も思いました。

インドネシア人の友人とその息子2人は、温泉にも挑戦しました。最初、裸になるのを嫌がるかもしれない、と思いましたが、彼らは覚悟を決めて裸になり、温泉に浸かりました。するとどうでしょう、すっかり気持ちよくなり、気泡湯や露天風呂など、そこにある全種類の温泉に挑戦し、とても喜んでくれました。温泉好きのインドネシア人が3人増えました。

温泉の後は、御殿場プレミアムアウトレットモールでお買い物。このアウトレットですが、モールのどの通りからも富士山が見えるように作られているのに感心しました。

友人はバッグを買い、子供たちはバンダイやポケモンセンターなどで楽しんだ様子です。聞いてはいましたが、本当に外国人観光客の多いところでした。

今回のツアーですが、インドネシア人向けの冬のツアーとしてはよくできていて、オススメと感じました。富士山を眺め、本物の雪を楽しみ、初めての温泉体験をし、アウトレットで買い物もできる、と、一日でいろんな経験を楽しめるからです。

ガイドさんも英語が分かりやすく、かつ、移動中の車内で退屈しないように、簡単な折り紙で雪の積もった富士山を作るなど、いろいろな工夫をされていました。

総体的には良いツアーだったのですが、いくつか改善して欲しい点がありました。

まず、インドネシアやマレーシアなどからのイスラム教徒のお客さん向けの配慮をもう少しして欲しいと思いました。ツアーを申し込む時に食事について聞かれるのですが、ノーマルかベジタリアンしか選択肢がなく、今回も、別のインドネシア人の参加者がとても不安がっていました。

今回は、ガイドさんが「豚のものはありません」と繰り返していたので、安心していました。ところが、実際には、昼食会場では、地元特産の豚肉を使った料理(焼きそば)が1つ入っていて、ガイドさんお言葉を鵜呑みにしたイスラム教徒の参加者が知らずに食べてしまいました。「豚のものはない」とツアー会社から聞いていたガイドさんは、結果的に嘘の情報を流してしまったことになり、とてもお気の毒でした。また、食べてしまった方を私も懸命になって慰めました。

この昼食会場は、こうしたツアーで来る外国人専用に近い場所のようで、もしも、外国人だからこのぐらいで大丈夫だろう、という予断があるのならば、すぐに正していただきたいと思いました。日本人には知られてないから大丈夫、という態度ならば、いつかは必ずバレます。

次に、温泉です。今回の友人とその息子たちのような、覚悟を決めて違う体験をしようという客ならば良いのですが、すべての人がそうとは限りません。人前で裸になるのを拒む人も少なくないと思われます。今回の温泉は、そういう人の温泉体験を結果的に拒絶することになってしまいます。

少しでも温泉体験をしてもらえるように、せめて足湯の設備を整えてもらえたらと思いました。今回の温泉には足湯がなかったのです。私の経験では、足湯だけでも十分にインドネシアからのお客さんに温泉気分を楽しんでもらえました。また、足湯にすれば、温泉場での滞在時間をもっと短くすることができ、より柔軟な日程を組むことができるメリットもツアー会社にはあるかと思います。

外国人向けのツアーに参加してみて、対象が外国人だけで日本人はいないから、という甘えのような部分が見えました。おもてなしとは、日本人にも外国人にも同じようにするものではないでしょうか。外国人だけで日本人には知られないから、という気持ちで観光客を迎えるのでは、日本のおもてなしの劣化と捉えられても仕方ないでしょう。

自分も将来、様々な形で質の高い、交流型のスタディツアーを実施運営したいと考えているので、今回の経験は色々と勉強になりました。

お通夜の最後の参列者

今日の午後、突然、知人の訃報が知らされました。先週亡くなり、今日がお通夜、明日が告別式、ということでした。

この方は、某マスコミの管理部門の方で、これまで、インドネシア関連の講演などで大変お世話になった方でした。

彼についてとくに思い出されるのは、2015年1月28日、ジャカルタで開催された「インドネシア=日本の新たなパートナーシップ」と題するシンポジウムです。このシンポジウムは、彼の会社が幹事として運営され、彼はその責任者でした。

シンポジウムでは、日本とインドネシアの著名人によるセミナーに加えて、新企画として、日本とインドネシアの企業経営者に企業の現場から日本とインドネシアの関係強化をどう図るか、という内容のパネルディスカッションがありました。私はこのパネルディスカッションで、彼から進行役を任されました。

きれいごとではなく、技術移転や労務問題など、日本側とインドネシア側から双方に対する本音が出る、中身のある議論にしたい、というのが彼の願いでした。でも、パネルディスカッションが始まる直前になっても、議事進行のシナリオは用意されておらず、また、日本語とインドネシア語の混じる形で議事を進めることになっているので、進行役としては、いったいどうなることやら、皆目見当のつかない、不安な状態でした。

私は、拙いながらも、日本語とインドネシア語のバイリンガルで議事進行役を務め、議論を丁寧に拾いながら、そこから派生してさらに本音の部分が深まるような方向へ議論を導いていきました。1時間半という予定時間内で終わるのか、シナリオが何もない中で、必死で議事を進行していきました。

何とか議論をうまくまとめた形になり、パネルディスカッションは、自分で言うのも何ですが、けっこう中身のある内容になったと思います。ご興味のある方は、以下のリンクをご参照ください。

平成 26 年度新興国市場開拓事業(相手国の産業政策・制度構築の支援事業(インドネシア:知日派育成))報告書

このパネルディスカッションに引き続き、シンポジウム後のレセプションで、何か日本とインドネシアの今後のパートナーシップを象徴するような、前向きの内容を作れないか、とおっしゃったのも彼でした。

私は、日本とインドネシアの架け橋になりたいと本当に頑張っている、日本人の血とインドネシア人の血を持つダブルの友人2名にプレゼンしてもらってはどうかと提案しました。彼はそれを快諾し、2名のプレゼンが実現しました。彼らは今、日本とインドネシアの架け橋として、さらに活動を発展させています。

これまで、いろんな方々と一緒に仕事をする機会がありましたが、今回亡くなった彼と一緒にした仕事は本当に思い出深いものでした。

今日は、夕方から都内で用事があったのですが、その用事が長引いてしまい、お通夜に行くのは無理かと最初は躊躇しました。でも、着いたらもう終わっているかもしれないけれど、行けるところまで行ってみよう、と電車を乗り継いで、トイレに行くのを我慢し、時には必死で走りながら、お通夜会場まで行ってみました。

着くと、お通夜はもう終わっていました。でも、斎場に明かりが灯っています。見ると、ご家族がまだいらっしゃいました。彼の部下だったTさんが、私が遅れてくることをご家族に伝えてくださっていたのです。待っていてくださったのでした。

本当に恐縮し、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。それでも、彼に最後のお別れを言おうと思いました。焼香用の火はすでに消されており、線香をあげるように促されました。そして、お別れをすることができました。

ずっと待っていてくださったご家族に深く御礼を申し上げ、場を後にしました。

享年46歳。まだまだこれから、でした。もっともっと、一緒に仕事をしたかった・・・。帰りの電車の中で、色々な気持ちがこみ上げてきました。

Wさん、さようなら。本当にお世話になりました。どうぞ、安らかにお休みください。

米国のトランプ新大統領の就任演説を聴いて

1月20日深夜、眠い目をこすりながら、アメリカのトランプ新大統領の就任式をテレビで観ていました。就任式やその前後の行事には全てしきたりがあり、それに則ってすべて進んでいくのは興味深いものでした。

画面を通して観ると、やはりそこに現れる人々の様々な表情が観てとれて面白いです。オバマ前大統領夫妻の大役を終えた安堵感溢れる表情とは対照的に、トランプ新大統領夫妻や家族たちはやや緊張した面持ちのように見えました。

世界が注目した新大統領の就任演説。でも、トランプ新大統領の演説は、自国民だけへ向けたものでした。

当然といえば当然ですよね。新大統領を選んだのは自国民なのですから。自分を選んでくれた自国民に対しての演説なので、「アメリカ第一」を繰り返すのは当然のことでしょう。「偉大なアメリカを取り戻そう」と世界へ向けて訴えたわけではないのです。

もちろん、世界中の人々がこの就任演説を観ていることを意識してのパフォーマンスであり、アメリカがより自国優先主義を強める、と解釈されるのは誤りではなく、懸念が深まるのももちろんのことと思います。

でも、日本も含めたどの国でも、自国優先主義を採っていない国など、国家である以上ないはずです。我々は、どこかで、世界最強の国であるアメリカには、自国だけでなく、世界のことをもっと考えて行動してほしいと思っているように見えます。そして、そのアメリカに自分たちが付いていく、だからアメリカはしっかりしてよ、と思っている国さえあるのです。

自分たちは自国優先主義でもアメリカはそうであって欲しくない、というのは、少々身勝手ではないかという気もします。世界のことをもっと考えて行動するのは、たとえば、日本もどこの国も同じなのではないでしょうか。

アメリカが自国優先主義になると、世界中がバラバラに自国のことしか考えなくなる、という意見もあるでしょうが、アメリカにだけ「世界のことを考える」ことを求めてきたことのほうが誤りであったのではないでしょうか。

そうではなくて、自国優先主義はすべての国の大前提として、それと並行して、世界のことをすべての国が考える、そのような世の中を作っていく。戦争を回避しながら、国家間の利害関係を交渉し調整するにはものすごいエネルギーや時間やコストがかかりますが、それをすべての国が覚悟してやっていかなければならないのではないでしょうか。アメリカだけに任せるのではなく・・・。

そのためには、自国外の世界をもっと知っていかなければならないのではないでしょうか。よその世界を知ることなく自国内だけに留まる態度こそが、利害関係の交渉や調整を難しくしていくことでしょう。「自国優先主義」と「自国さえ良ければいい主義」は大きく異なるはずです。

個人レベルでも、自分以外の人や世界の存在を認め、それを知ろうとしないと、それらに対する勝手な妄想、偏見、イメージが作られ、場合によっては、それがヘイトや排斥や差別につながります。知らないから恐れ、怖がり、それに対する妄想や偏見を勝手に強め、だからこそ、相手を威嚇したり、やられる前に力でやっつけてしまおうとする。戦争やテロはそんなことの繰り返しであり、我々はまだそれらから十分に学べていないような気がします。

トランプ政権の発足で、アメリカがよりナショナリズムに走り、社会の分断はより大きくなりだろうというコメントを聞きます。おそらく、そうなるのでしょう。反論するには、現状はあまりにも厳しいです。

でも、国家におけるナショナリズムが強まることを懸念したり悲観したりしてそれを呆然と見ているよりも、我々一人一人が自分以外のよその人や世界を知る行動を起こしていくことのほうが大事なのではないでしょうか。

傍観している我々もまた、社会の分断に結果的に加担していることになるのですから。

自分以外の人や世界の存在を認めてそれらをもっと知る。他者への想像力を高める。そして社会の分断を少しずつ溶かしていくために自分でできる範囲の行動をする。微力ながら、自分の身の回りから、そんな方向へ少しでも促せるような活動を進めていかなければならない。トランプ新大統領の就任演説を聴きながら、改めてそう決意しました。

マレーシアから羽田へ向かうエアアジア機から見た夕暮れ
(本文とは関係ありません)

今回の私は怪しい人物?

1月11〜18日、マレーシア、インドネシアへ行ってきましたが、普段はこれまでなかったことが起こりました。

日本からの出国時と入国時、荷物検査と税関で荷物をすべて開けさせられたのです。これまで、何度も海外へ出かけていますが、行きも帰りも全部荷物を開けさせられたのは、今回が初めてでした。

羽田空港での行きの荷物検査では、「ハサミのようなものがある」と言われ、もう一度リュックを荷物スキャンに通した後、「おかしい」という表情をした、メガネのまだ若い女性検査官が、リュックの中のものを全部開けるように命じ、自分も一緒に私の荷物を中から外へ出し始めました。

もう一度、彼女は「おかしい」と首をかしげ、それでもないとわかると、諦めたように、自分の持ち場へ、何事もなかったかのように、さっさと戻って行きました。

残された私は、一人で荷物をもう一度リュックへ入れ直しました。けっこう工夫して収納しているので、入れ直すのにはけっこう時間がかかりました。

この間、女性検査官からは何も言葉をかけられませんでした。あなたのが終わったから持ち場に帰る、疑うのは当然、という風情に見えました。

ちょっと頭にきたので、彼女に「終わりましたよ」と呼びかけましたが、無視されました。

私が疑われて当然の風情だったのでしょうか。

次は、帰国後の羽田空港。スーツケースを受け取って、いつもの通り、税関のグリーンライン(申告なし)へ向かいました。人も並んでおらず、すっと行くかなと思ったら、係官から、おもむろに「マレーシアからですか?」「マレーシアから最近、麻薬とか密輸するのが多いんですよ。ちょっと中を開けてもらえますか?」と言われました。

そして、スーツケースの隅々まで、手を入れて見始めました。5分近くスーツケースの中を探った後、「ないですね」と言っておしまいでした。この係員からも、疑われた側を気遣う言葉はありませんでした。

荷物検査の検査官も、税関の係員も、いってみれば、人を疑うのが仕事の方々で、きっと、いつも濡れ衣をかけてしまった相手から罵声を浴びたりすることもよくあるかもしれません。でも、濡れ衣をかけられた側のことをもう少し気遣ってもいいのではないかと思いました。

今回は、買ったばかりの、ユニクロの黒いウルトラライトダウンジャケット(これは軽くて暖かくて本当にいいですよね!)を着ていました。ズボンも黒かったので、黒装束でした。まさか、この格好のせいで疑われたのでしょうか。

それにしても、疑われるほうも悪い、というのが世の中の常識になってしまうのでしょうか。痴漢されるほうも悪い、いじめられるほうも悪い・・・。

いや、やっぱり、女性検査員や税関係員に対して、声を荒げて抗議すべきだったのか・・・。

友人の結婚式に出席

1月14日は、マカッサルで友人の結婚式に出席しました。

友人のお父様は地元国立大学医学部の重鎮教授で、広島大学に留学したこともあり、マカッサルの日本人社会とは深いお付き合いをしてきた方です。友人はその時、日本の小学校で学び、日本語を勉強し、今はマカッサルで日本語学校の校長をされています。

とてもきれいな流暢な日本語を話す友人は、これまでに何人もの生徒に教え、また、マカッサルで日本人にインドネシア語も教えてきました。

控えめで落ち着きがあり、裏表がなく、真面目でしっかり者の彼女はみんなに愛され、親しまれてきました。今日の結婚披露パーティーも、そんな彼女の姿が見られました。

私以外にも、日本から駆けつけた友人たちが数名いました。日本人、インドネシア人問わず、久々にお会いできた私の友人・知人がたくさんいました。温かい雰囲気のとても気持ちのよいパーティーでした。他人のために色々尽くしてきた彼女に、今度は彼女自身がもっと幸せになってほしい、と願わずにいられませんでした。

さて、先ほど、その日本人の友人たちから「これから飲みに行こう」という誘いが入りましたので、夜も更けてまいりましたが、これから出かけてきます。

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