カテゴリー: 日本
貧困の津波
新型コロナウィルス感染拡大は、私たちに様々な困難を強いている。自分も含め、多くの人々が日々の生き残り策に集中し、自分以外の人々になかなか関心を向けられない状況になっているのかもしれない。
新型コロナウイルスの大流行により、世界中で4億人以上が貧困状態に陥り、貧困問題は10年前に逆戻りする恐れがある――。国連大学の研究所が先月、そんな予測を出した。報告書を書いた研究者は事態の深刻さを「まるで貧困の津波だ」と語った。
法外な料金を払い、荷台にぎゅうぎゅう詰めのまま、運よくトラックに乗れても、故郷へ向かう途中で警官の検問に出くわし、首都デリーへ強制的に戻らされる。避難所に収容されればラッキーなのだが、故郷へは戻れぬまま。ロックダウンのなかでどうやって生きていくのか。
2020年、新年のご挨拶
あけましておめでとうございます
旧年中は大変お世話になりました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
日本と海外(インドネシアなど)の地域づくりをパラレルに見ていると、その同時代性を強く感じます。ローカルとローカルがつながり、新しい価値と深い学びが持続的に生み出される。そんな世界を目指して、微力ながら精進したいと思います。
久々の新宿中央公園
昨日と今日は、所用で妻と新宿へ。用事を済ませた後、新宿中央公園へ久しぶりに行ってみた。
大学生だった頃はよく来た新宿中央公園だが、それからずっと長い間、訪れることはなかった。昔のイメージとはずいぶんと変わった気がした。
それでも、まだ秋の名残が感じられる景色に彩られていた。
イチョウ以外の木々の葉は、ほとんどがもう落ちていた。ちょうどお昼時で、南側からの陽の光がいい具合にイチョウを照らしていた。
少しだけだが、まだ紅葉も。
新宿中央公園の入口って、昔もこんなだったのだろうか。記憶が定かではない。
学生の頃に比べると、イチョウの色づきが2週間程度遅くなっている印象だ。
久々の新宿中央公園は、イチョウの色づきを楽しめた、のどかで穏やかな昼下がりだった。
昨晩、ベルリンの壁崩壊後の東欧諸国で、為政者が情報統制に精を出し、独裁色を強めていることを伝えるドキュメンタリーを視た。そこで起こっていたことは、まさにこの国でも起こっていること、そのものだった。
今年も東京でお盆の季節
東京の我が家は、今年もお盆の季節を迎えました。
東京は、7月13〜16日頃までの新暦でお盆を迎えるのが一般的のようですが、日本の多くの地域では、8月半ばに旧暦でのお盆を迎えるところが大半ではないかと思います。
我が家では、今年も、提灯をつけ、行灯を灯し、野菜などのお供え物と、キュウリとナスで作った馬と牛を作りました。それらをマコモの筵の上に置きます。
キュウリの馬とナスの牛は精霊馬、精霊牛と呼ばれ、前者は、ご先祖さまの霊ができるだけ早く戻ってくるための乗り物であり、後者は、できるだけこの世に留まっていられるようにという意味を込めたあの世に戻る時の乗り物なのだそうです。
日が暮れた後、迎え火をしました。皮を剥いだ麻である「おがら」を折って、焙烙(ほうろく)と呼ばれる平たい素焼きの皿の上に置き、それに火をつけて煙を出し、ご先祖さまの霊が迷わずに戻ってこれるようにします。
このときには、家の入口のドアを開けて、ご先祖さまの霊を迎え入れます。
おがらを焼き終わって、煙が出なくなったら、禊萩(みそはぎ)という草木に水を含んでおがらの上に水をふりかけ、火を消します。そして、家のドアを閉めます。
これから数日、お盆が終わるまで、ご先祖さまの霊と一緒にいる、ということになります。ご先祖さま、今年もよろしくお願いいたします。
それにしても、精霊馬・精霊牛と一緒に、トラジャのトンコナン・ハウスのミニチュア、アルパカのぬいぐるみ、昔マカッサルにいた20年前に撮った家族写真、イノシシのイヤープレート、象さんのお皿などが写り込んでいるこの写真は、まさに、我が家の愛すべき混沌を表していますね。
我が家では、毎年、ちょうどこの時期、妻の父親と伯母の命日が重なります。この場所で生まれ、人生を歩んできた妻にとっては、今は亡き両親、祖母、伯母など、かつてともに過ごした大切な人々を想う、とても大事なひとときなのだと思います。
他所からやってきた、マスオさん状態の自分にとっても、最後は、ここが自分の帰るべき場所になっていくのだなという思いを強くする毎年のお盆です。
自分のできる範囲で動くしかない
このところ、ブログの更新がだいぶ途絶えていました。特に何があったわけでもないのですが、いろいろと考え事をしていました。
例えば、インドネシアでは今も地震が続き、12月22日にはアナクラカタウ火山の噴火に伴う津波の被害が発生しました。
10〜11月にかけて、スラウェシ中部地震被災地支援の呼びかけを行い、協力を呼びかけ、緊急支援向けの義援金を送ったりしたのですが、12月22日のバンテン州やランプン州への津波被災地に関わる支援をまだ呼びかけていないことについて、自問していました。時には、自分を責めていました。
同じインドネシアのことなのに、スラウェシ中部地震被災地のことだけ支援を呼びかけるのは不公平なのではないか。ロンボクに対しても、同じような深さで支援を呼びかけるべきだったのではないか。
日本でも各地で今年もさまざまな災害に見舞われたが、それに対しては、特別の行動を起こしていないではないか。それで良いのか。
そう考えていると、もしかすると、自分は神様にならなければならないのではないか、などと思ってしまいます。スラウェシ中部地震以外の災害に対しては、なぜ同じように動けないのか。そんな批判の声が聞こえてくるような気がしてならなくなります。
だったら、そんなにスラウェシ中部地震のことにのめり込まず、大口の支援団体へ募金するにとどめて、そこそこに対応していればよかったのではないか。
誠に申し訳ないのですが、自分は神様にはどうしたってなれません。インドネシアのすべての、いや世界中のすべての災害支援に平等に関われるような能力は自分自身にはないことをはっきりと認めます。
だから、そのことを批判したり、責めたりする人がいれば、素直にお詫びしたいと思います。そんな能力は自分にはありません。
自分が人生の中で特に関わった、コミットした場所、特別の思いを持っている場所に対する特別な感情。そうした場所と、それほど思い入れのない場所とをどうしても比較してまう自分がいます。
自分が特別な感情を持ってしまった場所に対して、その思い入れから支援を行いたい、と思うことは、間違ったことなのか。そこしか見ていない、と批判されることなのか。
自分がスラウェシに特別な感情を持つように、世の中には、ロンボクに特別な感情を持つ人も、バンテン州やランプン州に特別な感情を持つ人もいることだろうと思うし、日本の災害被災地に特別な感情を持つ人もいるのだと思います。
それらの場所に特別な感情も関わりも持たない人が、どうしてそれらの場所への被災地支援を呼びかけられるでしょうか。
自分のできる範囲は限られています。その範囲で、自分はこれからも支援の関わりを続け、皆さんに呼びかけていきたいと思っています。
スラウェシ中部地震被災地への今後の支援についてですが、現地の友人たちが、被災者の思いを聞き取り、聞き書きを行う活動を始めつつあります。
インドネシアでは、被災者の声や気持ちを書き残していく作業がほとんどなされていません。とにかく、ひたすら被災者の声に耳を傾けつづけることは、その被災者に対するヒーリングとしても有効かもしれません。ただし、そこでは、聞く側の技術が多少求められます。聞き手が相手を遮ったり、誘導したり、代弁したりしないことが重要です。
そして、震災孤児を中心とした教育支援の可能性を探っていきたいと思っています。これについては、現地で震災孤児に関する正しいデータを収集し、管理運営できる能力を持ったパートナー機関が必要です。候補団体はすでにあるのですが、その能力の見極めをする必要があります。また、長期の奨学金プログラムのようなものを目指すとすれば、その管理運営をどのように行っていくか、など検討すべき課題はまだまだあります。
自分ができる範囲には限りがありますが、様々な方々と繋がっていくことで、より多彩な活動やスラウェシ以外の他の場所での展開も視野に入れていくことができるかもしれません。
そして、被災地同士が助け合う動きをもっと促していくことができるのではないか、という気もしています。すでに、ロンボクの被災者からスラウェシ中部の被災者への支援を行ったり、スラウェシ中部の被災者がバンテン州・ランプン州の津波被害者への連帯を表明する、といった動きが出ています。
日本でも、自治体同士が災害時の協力協定を結び、助け合う関係を作っていますが、そうした関係が国境を越えて作られる時代になってきているような気もします。
日本とインドネシアは、世界で最も地震・津波が頻発し、甚大な被害を受けてきた国でもあります。政府レベルだけでなく、それを補完するような形で、世界の地震・津波対策をリードしていけるような関係を作れるのではないかと思っています。
今時点では、まだまだ雑駁ですが、以上のようなことを考えています。
「君はインドネシア寄りすぎるんだよ」と言われて・・・
ひとりごとの雑文です。もしかしたら、どうでもいいことなのかもしれません。
ちょっと前に、ある日本人の方から「君はインドネシア寄りすぎるんだよ」と、突き放すように言われました。振り返ってみると、それ以前にも、「あなたは日本の味方なのか、インドネシアの味方なのか」などと言われたことがありました。
日本とインドネシア。そのどちらかに身を置いていないといけないかのような・・・。
もちろん、自分は日本人の両親から生まれた生粋の日本人であり、日本国籍を持っています。それは、自分の意志で選んだものではなく、たまたまそうなったのです。
これまでには、日本国の税金を使わせていただいて、国際協力の仕事も行ってきました。日本国の税金を使う以上、日本のためになる成果を上げる必要があることは十分に自覚しています。
自分としては、それは、相手(私の場合は主にインドネシア)が日本の味方になってくれること、日本を深く信頼してくれること、いざとなったら、日本を助けてくれるような関係をつくること、だと思ってきました。相手のためになる仕事をすることが、日本のためにもなる、と信じて、自分なりに仕事をしてきました。
だから、日本だけが利益を得ればよい、あるいは、相手だけが利益を得ればよい、というふうには考えられませんでした。
これは、商売やビジネスでも同じことだと思うのです。相手をだましたり、出し抜いたりしてでも、自分だけが利益を得ればよいという考えでは、商売やビジネスは成り立たない。双方に信頼関係ができて、はじめてうまく行くものではないかと思います。
そう考えてきたので、「あなたは日本の味方なのか、インドネシアの味方なのか」とか、「君はインドネシア寄りすぎるんだよ」というふうになぜ言われなければならないのか、よくわからないのです。
そういう人からすると、私の行動は、相手の利益しか考えていないように見えるのでしょうか。敵・味方みたいな話になってしまうのでしょうか。
いつの頃からか、私自身、日本とかインドネシアとか、国単位で物事を考えることが減っていきました。より生活空間に近い地域やコミュニティ、あるいは実際に接している個人や団体を個々にみるように変わっていきました。
日本にも様々な人がいるし、インドネシアにも様々な人がいます。いい人も悪い人も。誠実な人も不誠実な人も。○○国人はどうだ、と簡単に言えなくなっていきました。
同じように、○○教徒はこういう人間だ、とか、○○種族はどうだ、とかも簡単に言えなくなってきました。
世の中には、国や宗教や種族に応じて、勝手にイメージを作り上げ、レッテルを貼る人々がまだまだたくさんいるのでしょう。もしかしたら、それが多数派なのかもしれません。たとえば、実際、インドネシアにおける外国人イメージにも、辟易することがよくあります。
なんだか、最近は、二つのうちから一つを選ぶ、踏み絵のような話ばかりが横行して、第三の道やそれらとは次元の違う考え方がもわもわっと現れてくる余地を狭めているような気がします。
信頼関係をつくるのに必要なのは、ディベートではなく、対話です。ディベートと違って、対話に勝ち負けはありません。敵・味方を区別して、勝ち負けを競うような言論空間がずいぶん広がってしまったような気がします。そして、勝ち続けなければならない、というような脅迫観念が蔓延しているかのようです。
果たして、「日本かインドネシアかどっちなのだ?」と私に問う人は、相手と対話を行うつもりがあるのでしょうか。対話をして相手の言うことを聞いてしまったら、それは負けなのですか。
対話に勝ち負けはありません。対話は相手を変えるためだけを目的に行うのではなく、対話のプロセスを通じて、互いに「何を話しても大丈夫!」という安心感・信頼感を醸成しながら、相手も自分もともに変わるものです。
きっと、自分が変わることを恐れる自分がいるのです。自分は変わらず、相手だけを変えることが勝ちだと意識しているのかもしれません。
日本とかインドネシアとか、そういった国を自分が意識しなくなってきたことで、国家を背負って仕事をされている方々は、そんな私に負のレッテルを貼っているかもしれません。
インドネシアのために何かをすることが日本のためになる。私が国際協力の仕事を始めた頃はそういう空気がまだあった気がします。でも、今や、そう考えてはいけないのでしょうか。
誰が何と言おうとも、私は相手と対話を続けていきます。相手に負のレッテルも貼りません。信頼関係の醸成なくして、相手とのよい関係を築くことは不可能です。
日本かインドネシアか、と聞かれたら、やっぱり、両方、と答えるしかないです。
「君はインドネシア寄りすぎるんだよ」とか、「あなたは日本の味方なのか、インドネシアの味方なのか」とか言われても、もう気にしないことにします。その結果として、そういう人たちと仕事ができなくなっても、それはしかたないことです。
自分に賛同してくれる仲間を、地道に増やしていくことにします。そういうスタンスで、対話の力を信じ、レッテルを貼らず、自分なりに、信頼できるつながりの輪を広げていきたいと思います。
無駄の有駄
昨今の耳を疑うような「生産性」云々の話にうんざりしながら、中学校のときに大好きだった教頭先生が卒業文集に寄せてくれた言葉を思い出しています。
それは、無駄の有駄。
一見、無駄に見えることのなかに、意味がある。無駄であることに意味がある、ということを、教頭先生ははなむけの言葉にしてくださったのでした。
無駄をなくすことが生産性を高め、効率の良い社会を作る。それが世の中の進歩である。当時は、まだ高度経済成長の影が残り、世の中はどんどん進歩していける、と信じていたかもしれない70年代の後半でした。
ジャスト・イン・タイムが良しとされ、進歩の速さに乗り遅れた人々は「落ちこぼれ」とされ、その速さに乗っていくことがよい生活を実現させるために必要だ・・・。
日本社会が右肩上がりでなくなってからも、いやだからこそ、以前よりももっと無駄をなくして、効率を上げて、生産性を高めるために、一段とギアを高くしなければならない・・・。
そんな風に信じている人々が、実は少なくないのかもしれません。
無駄をなくすために取り入れられた様々な技術。パソコン然り、ケータイ然り、ジャスト・イン・タイム然り。それによって、仕事が効率化し、生活にゆとりが生まれ、人間らしい生活を送ることができる、って、技術が導入された最初の頃は信じていたように記憶しています。
でも、その結果は・・・
原稿を書いて締切日必着にするには、5日前には書き上げ、郵送しなければならないから、逆算すると、1ヵ月前ぐらいから取り組まなければならないかな、という時代がかつてありました。
今や、締切日の夕方までにメール添付で送ればいいからと、ギリギリまで粘れます。
そして、すぐにインターネットで処理できるからと、仕事の量はどんどん増えていくのでした。しかも、人事評価やら業績評価やら、書類の種類がどんどん増え、会議の回数がどんどん増え・・・。その一つ一つは、無駄をなくし、効率的に事務処理されたもの。
でも、それを鳥瞰的に見ると、無駄を省いた効率的な事務処理の全体量がものすごく増えたのではないでしょうか。なぜなら、人間を忙しさから解放するはずの技術がそれだけの量の事務処理を可能にしてしまったからです。
そういう方々が、ストレスからか、それだけの仕事をこなせない(とみなされた)人々を見下し、生産性が低いなどと思うのかもしれません。でも、そのこなしている仕事は、世の中のためだと誰にでも胸を張って言える仕事なのですか。
無駄とは、広い意味での遊びのことかもしれません。
伸びきったゴムは、いずれパチンと切れてしまいます。ゴムがゴムたり得るのは、遊びがあるから・・・。
人間は生産性や効率のみで評価されるものではないでしょう。無駄があるから、深さが出る。遊びがあるから、本気で集中できる。
無駄はたしかに有駄である、と感じます。ゆるい社会が(鋼の強さではなく柳の強さという意味で)強い社会である、と思います。
そういえば、うだうだするは有駄有駄する、という当て字がありましたね。これも、無駄の有駄のお仲間でしょうか。うだうだするのはとても好きです。
無駄の有駄を教えてくれた教頭先生の英語の授業、とても大好きでした。
みなかみ町の「たくみの里」をちょっと訪問
今日(7/3)は、みなかみ町を訪問し、朝から夕方まで、関係者と会議でした。
5月から、みなかみ町のアドバイザーを拝命しており、今後、インドネシアの地方政府との関係づくりを進めていくにあたっての助言や情報提供をお願いされています。
会議終了後、町役場の方が「たくみの里」へ案内してくださいました。たくみの里のホームページでは、以下のような説明がなされています。
たくみの里は昔ながらの日本の風景を残す須川平にあります。
東京ドーム約70個分(330ha)にわたる集落には昔ながらの手法をそのままに木工、竹細工、和紙などの手作り体験ができるたくみの家が点在しています。手作りが体験できるたくみの家と、展示・見学・ショッピングがたのしめる家の二種類があり、それぞれのたくみが各家のオーナーとなりオリジナリティ溢れる作品や体験を提供させていただきます。
たくみの里事業は、1983年、旧新治村で、農村地域の持つ観光資源(農村景観、歴史文化、伝統手工芸)を活かし、しっかりした農業経営のもとで、美しい農村景観を保全する事業として開始されました。背景には、温泉などの旅館・ホテルの宿泊者数が減少したことがありました。
この地域に点在する野仏を周って歩くことと、農産加工技術の体験工房などを組み合わせて、都市と農村との交流を促す、住民参加型の新しい試みを続けて今日に至っています。
たくみの里の入口にある豊楽館という施設は、今は道の駅としての役割も果たしています。今日訪問した際は、平日のせいか、閑散としていました。
豊楽館から北へ延びる道路は「宿場通り」と呼ばれ、昔の三国街道の須川宿の面影を感じられるよう、通りに向かって垂直に屋根の方向を揃え、こげ茶色に統一した街並みが続きます。この通りに様々な店や工房が並び、休日には観光客でにぎわうそうです。
今回は、時間も限られていたので、町役場の方の車でざっと域内を周りました。次回は、実際に歩いてまわってみたいと思います。
町役場の方から紹介されたのですが、たくみの里の近くには、「みなかみフルーツランド・モギトーレ」という施設があり、観光果樹園のほか、果物を使った美味しいスイーツを食べさせるカフェがあります。
この施設は元々、果物取引で有名な株式会社ドールが「ドールランドみなかみ」という名前で運営していましたが、2018年7月2日からは、みなかみ町農村公園公社へ移管されました。ドールがみなかみ町にそんな施設を持っていたことを初めて知りました。
この移管を記念して、みなかみフルーツランド・モギトーレでは、7月7~8日にOPEN感謝祭として、大人1500円(みなかみ町民は1000円)、子ども750円(同500円)で、70分スイーツ&グルメ食べ放題+ドリンク飲み放題のバイキングを開催するそうです。ただし、時間は10:30~15:00。
提供されるスイーツに使う果物は、すべてみなかみ町で収穫されたもの。当日は先着順で予約不可、とのことです。
筆者自身は行けませんが、こちらも、次回のみなかみ町訪問の際に、しっかり食べに行きたいと思います。
著名なジャズサックス奏者MALTA氏をインドネシア大使に紹介(動画付)
ひょんなことで、4月12日、日本の著名なジャズ・サックス奏者であるMALTA氏を在日インドネシア大使に紹介する機会を得ました。
MALTA氏と言えば、1970年代から活躍してきたサックス奏者であり、間もなく70歳になる今も、もちろん第一線のプレイヤーとして、各地を飛び回って意欲的な演奏活動を行っています。同時に、東京芸術大学や大阪芸術大学で教鞭をとる一方、全国各地で若手演奏家や子供たち向けにジャズ・サックスを指導して回ってもいます。
その意欲的な活動を見ていると、頭が下がる思いです。生涯現役を地でいくかっこいい先輩の一人と位置づけました。
筆者はMALTA氏自身を以前から存じておりましたが、実際にお近づきになったのは、昨年11月11日、大分県佐伯市での彼のコンサートでした。そのときの模様は、過去に本ブログの以下の記事で書きました(よろしければご一読ください)。
音楽で街を魅力的に!音泉街を目指す佐伯の試みは始まったばかり
佐伯では昨年、さいきミュージックアートクラブという市民団体ができ、音楽を通じてまちおこしを進めているのですが、その第1回コンサートの演者として、MALTA氏が登場したのでした。
大分県の一番南端、宮崎県との県境にある佐伯で、MALTA氏の知名度もさほど高くない場所にもかかわらず、コンサートは大いに盛り上がり、成功裏に終えることができました。
MALTA氏のサックスを聴いて体が元気になった、という方がいるという噂も聞きましたが、本当に、体中がスイングしながらどんどん元気になっていくような、そんなMALTA氏の演奏でした。
ちなみに、MALTA氏も佐伯が気に入った様子で、今年9月22日、再び、さいきミュージックアートクラブ主催でMALTA氏のコンサートが実現するそうです。
そんなMALTA氏が今、インドネシアに興味を持ち始めています。とくに、新しい若手ジャズ・ミュージシャンが続々と頭角を現し、アジア有数のジャズの盛んな場所として、注目されています。
MALTA氏は佐伯でのコンサートをきっかけに、さいきミュージックアートクラブの中心メンバーの一人である山中浩氏と親交を重ね、インドネシアに日系工場を持つ山中氏からインドネシアの魅力を教えられ、さらに興味を深めたようです。
そこで、MALTA氏側から「インドネシア大使館へご挨拶にうかがいたい」という相談を筆者が受け、今回の訪問につながったのでした。
在日インドネシア大使館のアリフィン大使は我々を大歓迎してくださいました。
大使ご自身もジャズがお好きとのことで、ご自分のスマホを取り出し、昔の級友らが結成して活動しているセミプロのジャズバンドや、史上最年少でグラミー賞を獲得したインドネシア人ジャズ・ピアニストのジョイ・アレクサンダー氏(15歳)などの映像をMALTA氏にお見せしては、楽しそうに英語で会話が弾んでいました。
そうしているうちに、大使から「今、ここでサックスを吹かれないんですか」という呼びかけがあり、なんと、MALTA氏は、大使の前で生のサックス演奏までしてしまうのでした。これには、大使も本当に大喜びの様子で、書記官にサックス演奏の様子をスマホで動画に撮らせ、すぐに友人たちへ動画を送るのでした。
わずか30分の面会ではありましたが、初対面にもかかわらず、アリフィン大使に大変歓迎していただき、ここに改めて感謝の意を表する次第です。
MALTA氏は、これまでの経験に基づいた自分の演奏を通じて、日本とインドネシアのさらなる友好関係深化に寄与したいと考えており、インドネシアで演奏の機会があることを願っています。
そして、演奏の機会があれば、併せて、インドネシアの子どもたちや若者たちにサックス演奏のレッスンなどもしてみたいそうです。
MALTA氏は縁やつながりをとても大切にされる方で、一度、インドネシアで演奏できたら、次からは毎年、インドネシアで演奏を続けていきたいとのことです。実際、佐伯には、昨年に続き、今年もコンサートを開催し、「毎年佐伯へ来る」とおっしゃっています。
たとえば、9月8~9日に予定されているジャカルタ・ジャパンまつり(JJM)などに出演できたらいいのではないか、と、元JJM関係者の一人だった筆者としては、個人的に思うのですが、いかがなものでしょうか。
このような機会を通じて、日本とインドネシアをつなげようとする方々のお手伝いができることをとても嬉しく思っています。まだまだ、つなげていきますよ!
(本ブログの内容は近日中にインドネシア語ブログでも発信する予定です)
インドネシア人技能実習生の活用に関するコンサルティングを行います
以下のとおり、技能実習生の活用に関するコンサルティングを行います。
<想定される対象>
すでに技能実習生を活用している事業者、これから活用を考えてみたいと思っている事業者、あるいは、技能実習生を海外から受け入れて事業者へ彼らを派遣している監理団体、などを対象とします。製造業だけでなく、農林水産業なども対象とします。
なお、筆者の専門性を鑑み、対象はインドネシア人技能実習生とします。
<どのようなコンサルティングを行うか>
主に、次の4点を中心としたコンサルティングを行います。長年にわたって、地方を含むインドネシアと関わり、かつ日本や開発途上国の地域づくりや地域産業振興を見てきた筆者ならではの、他とは違うコンサルティングをご提案します。
●ミスコミュニケーション対策
第1に、技能実習生と事業者との間のミスコミュニケーション対策を行います。
技能実習生と事業者との間では、言語の壁などにより、意思疎通が不十分になりがちです。その結果、双方の誤解が解消されないまま、それぞれが相手のことを勝手に思い込むことになります。理解できないと思って黙ったまま時間が経ち、ある日突然、暴力や失踪などの事件が起こることがあります。
このような事態になる前に、筆者が間に立ち、技能実習生と事業者との誤解や思い込みを溶かす役割を果たします。そして、未然に、暴力や失踪を起こさせない状況を作ります。
もちろん、そのために、技能実習生に対しては、日本人や日本社会(必要であれば当該地域社会)について、事業者に対しては、インドネシアやインドネシア社会(必要であればインドネシアのなかの技能実習生の出身地域社会)について、理解していただくための十分な情報提供・講義等を行います。
●技能実習の見える化
第2に、技能実習の見える化のお手伝いを行います。
これは、実際に行われている技能実習の内容を言葉に表し、その一つ一つを適切に組み合わせながら、一種のカリキュラムのようなものにしていくお手伝いです。
この作業は、実際の技能実習に過度の負担を加えるものではありませんが、この作業を通じて、技能実習生がどのように技能を習得していったかを、誰の目にも明らかなようにしていくことが可能になります。また、事業者自身が、自らの技能実習の内容をさらに良いものにすることを再検討するきっかけにもなり得ます。
可能であれば、技能実習の終了時に、単なる修了証ではなく、技能実習でどのようなプロセスでどんな技術を身につけたかを示す技能証明書のようなものを発行できるように促したいです。これによって、技能実習生は帰国した後、この技能証明書が新たな就職の際に活用できるようにしたいのです。
筆者は、この技能証明書が発行できたならば、インドネシア政府やインドネシアの地方政府がそれをきちんと認知できるように、働きかけていきます。
●技能実習生の活用に関するアドバイス
第3に、事業者の今後の事業展開に技能実習生をどう活用していくかについて、助言します。
少子高齢化、市場の停滞、人手不足、後継者不足など、事業者は深刻な問題に直面しています。とくに、地方の事業者は、これまで地域産業の一躍を担ってきた歴史的経緯があり、地域経済の観点からも、事業者の今後は一事業者にとどまらない影響がありえます。
そこで、受け入れてきた技能実習生をどのように活用するかをご提案したいと考えています。すなわち、数年にわたって付き合う彼らを一時的なものとして使い捨てるのではなく、事業者の今後にどう生かすか、という提案です。
たとえば、事業者が海外進出する際に技能実習生を現地法人設立などで活用する、帰国した技能実習生が設立した企業と取引する、後継者がいない事業者が長年培ってきた技術やノウハウを帰国した技能実習生に託してインドネシアで事業展開してもらう、帰国した技能実習生が設立した企業が日本の事業者の企業に投資して日本の地域で事業を存続する、などがざっと思いつきます。
3年という年月を一緒に過ごす技能実習生だからこそ、事業者といい関係が作れれば、事業者は以後、彼らを活用することで、新たな展開へ進める可能性を見出せるかもしれません。
そのためには、技能実習の開始前に、事業者側の「どのような人材を技能実習生として求めるのか」と技能実習生側の「どのような技能・技術を習得したいのか、帰国後それはインドネシアの発展に貢献するのか」の適切なマッチングがある程度行われていることが望ましいと考えます。
そこで・・・。
●事前マッチングと技能実習生帰国後以降を含めたケア
第4に、事業者側の求める技術人材と、インドネシアから派遣される技能実習生との事前マッチングを試みます。
日本の事業者側で必要としている技能・技術で、インドネシア側にとっても有用で必要であるものは何か、をあらかじめ探り、つなげます。
筆者は、実は、インドネシアに帰国した元技能実習生のOB会組織「インドネシア研修生実業家協会」(IKAPEKSI)のアドバイザーを2016年から務めています。会員数は約5000人で、会員はインドネシア全国に所在しています。毎日のように、IKAPEKSI関係者とSNSでやり取りをしています。
このIKAPEKSIを通じて、日本への派遣前に日本の事業者が望むような技能実習生候補者を探したり、技能実習生の帰国後に就職先を探したり、起業したりするところまでケアをすることができます。
加えて、筆者は、過去30年のインドネシア研究者としての活動蓄積を通じて、今後のインドネシア全体、及びインドネシア国内の各地方にとって、どのような技能や技術が必要とされうるか、製造業だけでなく農林水産業についても、ある程度の知識と情報を持っています。
このように、筆者は、日本とインドネシアの双方の事情を踏まえたうえで、両者の今後の発展にとって、技能実習生を有益な形で活用できる事例を増やしていきたいと願っています。
以上のように、筆者は、弊社「松井グローカル合同会社」の事業の一つとして、単なる技能実習生の紹介・監理ではなく、日本の事業者とインドネシアの今後を踏まえた、グローカルな視野に立ったトータルなコンサルティングを行っていきたいと考えています。
インドネシア人技能実習生を活用されている事業者や監理団体の方で、ご興味を持たれた方は、お気軽に、下記までご連絡ください。
松井グローカル合同会社代表・松井和久
Email: matsui@matsui-glocal.com
電話:090-3217-5845
会津坂下の奇祭・大俵引きを見に行く
1月14日は、会津坂下町へ坂下初市と大俵引きを見にいきました。
会津坂下では、年の初めの4の付く日が初めて市の立つ日ということで、毎年、1月14日に「初市」が開催されます。この初市と合わせて行われるのが、大俵引きです。
会津坂下町が自ら「奇祭」と名付ける大俵引きですが、重さ5トンの大俵を真ん中に置き、東方と西方に分かれて、綱引きのように大俵を引き合うものです。
まずは、前座として、子どもが参加する俵引きが行われます。俵の大きさは1トン、男の子は上半身裸です。
子供の部が終わると、いよいよ大人の部です。
自分にしかできないことを高める
先日、友人から人生相談を受ける機会がありました。何かアドバイスできるような立派な人生など歩んでいるわけではないですが、ともかく、彼より少しシニアだということで、お会いすることにしました。
話を聞きながら、自分も、かつて、いや今も、自分の生きていく道筋について悩んできているということを改めて思いました。
ポジティブ全開の人も含めて、どんな人でも、自分に対して正直になったとき、今まで歩んできた道を少しも後悔しない人はいないのではないか、と思います。自分が計画した通りのベストな人生を歩んでいると実感している人はいないのではないか。
でも、自分が歩んできた道がベストだったのだ、と思って生きることは大事なことだと思います。思い描いたベストな人生ではないかもしれないけれど、今の自分は過去からの様々な出来事の因果関係の連鎖のうえに成り立っていて、後から振り返ると、これで良かったのだと肯定しないと、やっていられないように感じるのです。
相談した友人は、現状への不満と漠然と「こういうことをしたい」という思いは持っているのですが、その思いはまだホワッとした状態で、それをまだ明確に具体的にできていない様子でした。
そのときに、自分がやりたいこと、それを実現するために何をしなければならないか、ということを考えたとき、年齢や家族構成などを考慮すると、できるだけそれを無理なくできる方法を考えたほうが良さそうです。
自分の比較優位は何かも自覚しておくことが重要でしょう。比較優位がないものを実現するためには、ものすごい労力と努力を必要とします。たとえば、インドネシアに関するコンサルティングを行ないたいという場合に、既存のコンサルタントにはない何を比較優位とするのか、が問われてきます。
残念ながら、友人がそれを実現するためには、それこそ、ものすごい労力と努力を必要とすることが明らかでした。
しかし、今、自分で関わっている仕事から派生する形で、比較優位を作っていくことのほうが無理なくできる場合もありえます。友人の場合、今の仕事は、日本で専門家がほとんどいないある外国に関わるものでした。ですから、少し努力すれば、友人はその国の専門家になることができるのです。
生きてきた証は、自分にしかできないことを高めていくことで培われるものです。自分がこの世に生きた意味や証は、自分にしかできないことを世の中で実現することで生まれてくる。それは、自分という個を、アイデンティティを、明確にすることでもあります。
友人には、今の自分の状況を冷静に把握し、できるだけ無理なく、自分にしかできないことを高めていくのがいいのではないか、とアドバイスしました。
と、そこで気づきました。これは、地域が生き生きとしていく、生き残っていくことと同じではないか、と。その地域の持つ地域性をしっかり理解し、そこから他にはない、その地域にしかできないことを見つけ、それを高めていく。
そして、自分にしかできないことを高める人々が集まる地域が、自らの地域にしかできないことを高めていけるのではないか、と。
振り返って、私自身、自分にしかできないことは何なのか、改めて考えています。そして、自惚れではなく、それは、確かにある、ということを確信しています。
それは、小さい頃からずっとやりたいと思っていた、ホワッとした思いが徐々に具体的なイメージにフォーカスしてきているのでした。研究所で研究員を務めたことも、開発援助の実務に関わったことも、NGOで活動したことも、独立して自由に動け回れるようになったことも、後から振り返ると、すべてつながっているのでした。
家族を養うという意味での生活を考えれば、後悔する気持ちが全くないわけではありませんが、自分はこういう生き方をしたかったのだ、そこに意味があるのだ、という気持ちのほうが勝っている気がします。
さて、来年はどうなりますことやら。楽しみです。
東京にシェアオフィス/コワーキングスペースをつくる
今、東京の自宅付近にシェアオフィスまたはコワーキングスペースをつくる、ということを考えています。
まだ構想段階ですが、どんな人に使ってもらったらいいか、少しずつ考え始めています。
できれば、私が信頼できる方々に使っていただき、結果的に、何かを一緒に作り出せる場所にしていければと思っています。
その一方で、分野も専門も全く異なる人々、様々な国から来た人々が集まるような場にしてもいいなとも思います。
亡くなった伯母の店舗兼住居を改装する予定です。広さは、2階建てで、1階をコワーキングスペース+会議室、2階を3〜4部屋のシェアオフィス、という形にしようかなと思っています。
裏に庭があります。古い桜の木があり(下写真)、4月にはまだ花見ができます。
動き回っているので常駐は難しそうですが、私の仕事場も作る予定です。
会員制にして、会員は24時間使えるようにしてはどうかと考えています。
場所は、JR山手線の大塚駅から徒歩7分、近くに24時間営業のセブンイレブンがあります。
開業はおそらく、早くても2018年8月以降になりそうです。
どうでしょうか。
興味のある方、一緒に管理運営してみたい方、いずれ使ってみたい方、オフィスを構えたい方、何か面白いアイディアをお持ちの方は、お気軽に、メールにて私( matsui@matsui-glocal.com )までご連絡いただけると嬉しいです。
ただ今、東京でおこもり中です
スラバヤ出張中に体調を悪くし、帰国した12月1日はあまり具合がよくなかったので、ひたすら眠り、翌2日には、体調も回復し、正常に戻りました。
2日は、大学時代のゼミのOBの勉強会「竹内記念フォーラム」に出席しました。恩師である故竹内啓一先生(社会地理学)を偲び、教え子たちが自主的に開催しているもので、1年に2回開かれます。
毎回、OBの一人が発表、それを話題に自由討論するという形で、私もちょうど1年前、「宮本常一、地元学、メタファシリテーション:いまの私の活動を支える三本柱」と題して、発表しました。中身について興味のある方は、個別にご連絡ください。
その後、今週中に終わらせなければならない原稿作業が3本重なってしまったので、ここしばらくは、自宅からレンタルオフィスへ行って、こもって書いています。でも、量が多いためか、ちょっと遅れ気味です。
3本のうちの1本は、明後日発行予定の「よりどりインドネシア」第11号なのですが、もしかすると、1~2日、発行を遅らせるかもしれません。あらかじめ、ご容赦のほどをお願いいたします。
と、今回は、状況報告のみなのですが、最後に、ちょっとつぶやきを。
東京23区内で、オフィス、シェアオフィスあるいはコワーキングスペースが欲しいなと思っている方はいらっしゃいますか。一緒にそんな空間を作ってみたいな、と思っていらっしゃる方はいますか。
秋ももう終わりですねぇ。
技能実習制度を本物にする
以前から気になっているのは、外国人技能実習制度の問題です。
この制度は、本来、技能実習生へ技能等の移転を図り、その国の経済発展を担う人材を育成することを目的としており、日本の国際協力・国際貢献の重要な一躍を担うものと位置づけられています。
しかし、こんな立派な建前があるにもかかわらず、現実に起こっていることは、メディアなどで取り上げられているとおりです。すなわち、日本の受入企業側は労働力の不足を補ってくれる者として外国人技能実習生を受け入れ、外国人技能実習生は3年間日本にいて得られる収入を目当てにやってきます。
ときには、日本の受入企業は、コスト削減圧力のなかで、相当に厳しい条件を強制して外国人技能実習生を受け入れ、それに耐えられなくなった実習生はいつの間にか姿を消してしまう、という話さえ聞こえてきます。
ここで大きな問題となるのは、日本でどのような技能を身につけるのか、実習期間を終えてそれがどれだけ身についたのか、に関する明確な評価とモニタリングが見えないことです。あるいは、形式的にそれがあったとしても、誰がどう評価・モニタリングしたのか、送り出し国へ正確に伝える仕組みが整っているのか、という問題です。
そもそも、日本の受入企業にとっては人手不足が最大の問題です。日本人よりも賃金が安くできるから外国人技能実習生を使っているのでは必ずしもなく、日本人でも働き手がいない、あるいはいても長く働いてくれない、という実態があります。ある工場では、1ヵ月ぐらいでどんどん辞めていくそうです。また、少し注意しただけで、キレる日本人の若者もよくいるそうです。
そんな状況になれば、1~3年という長期にわたって、ずっと作業をしてくれる外国人技能実習制度は、とてもありがたい制度に違いありません。工場などの人員配置計画が立てられるので、安心して生産することができるからです。そうであれば、日本人のアルバイトよりも高いコストを払ってでも、外国人技能実習生を使おうという気になります。
他方、インドネシア人技能実習生にとって、日本は今でも憧れの国です。たくさん稼げる国というイメージが根強く、難民申請でも何でも、どんな手段を使ってでも、何度も行きたいという人が少なくありません。
しかし帰国後、日本で得た技能を生かして何かを始める者はいても、それは多数派ではありません。日本滞在中に得た収入をもとに、日本語を生かせる事業を行ったり、元手をあまり必要としない食堂を開いたり、様々です。
もちろん、自ら会社を起業し、日本で学んだ技能を生かして、かつての日本の受入企業と取引を行っている者もいます。彼らは成功者として、技能実習生OB組織であるインドネシア研修生実業家協会(IKAPEKSI)という団体を自ら立ち上げ、後輩たちの活動を積極的に支援しています。IKAPEKSIの立ち上げには、日本政府もインドネシア政府も何も関わっていませんが、今では両者は積極的に協力関係を構築しています。
ちなみに、私は、2015年から、このIKAPEKSIのアドバイザーを務めています。なぜか、彼らから請われて、承諾したものです。
日本の多くの中小企業では、後継者の不在により、これから廃業せざるを得ない企業がかなり出てくるものと思います。そうなると、それらの企業がこれまでに培ってきた技能、技術、ノウハウなどは当然消えていきます。それら中小企業の立地する地域にとっても、地域産業が衰えていくことになります。
しかし、インドネシアをはじめとするアジア諸国の企業は、日本の中小企業がどのような技能、技術、ノウハウを持っているのか、それらがどのぐらいの水準で、自分たちにとって必要なものかどうか、ということに関心を持っています。日本ではなくなってしまうものでも、日本の外ではまだ必要とされる技能、技術、ノウハウがあるかもしれません。
もし、自分の持っているものがまだ日本の外では役に立つと分かったら、日本の中小企業はどうするのでしょうか。日本からは門外不出なのでしょうか。それとも、世界中のどこかで、自分が手塩にかけて築いてきた技能、技術、ノウハウが伝承され、それが次の展開へつながる、と思えるでしょうか。
後者もありだとするなら、そこで重要なのは、その日本の中小企業が手塩にかけて技能、技術、ノウハウを何年もかけて築いてきたことへの敬意、リスペクトではないでしょうか。その苦労や困難に思いを馳せ、本気で伝承を受ける者による心からの尊敬ではないでしょうか。
それまで見たことも聞いたこともない企業が突然現れて、札束をちらつかせながら、買収を持ちかけてきたら、日本の中小企業はどう対応するでしょうか。どうにもこうにもならないと諦めていた企業にとっては、大歓迎でしょうが、自分のしてきたことへの何の尊敬も示さない相手に対して不信感をもつ場合もあるのではないでしょうか。
では、日本の中小企業は、どういう相手なら、心を許せますか。たとえば、かつて3年間、一生懸命尽くしてくれた元外国人技能実習生が相手だったら、どうでしょうか。
インドネシア人技能実習生は、他国よりも長い歴史を持っており、プラスもマイナスも、様々な経験の蓄積があります。今のところ、帰国した技能実習生を会員とする団体であるIKAPEKSIが存在するのもインドネシアだけです。
IKAPEKSIのメンバーは、自分の仲間が日本の受入企業でどんな仕打ちを受けたか、なぜ日本で姿を消したか、帰国後どのように事業を成功させたか、そういったことをみんな知っています。日本側には報告しません(私にも言いません)が、仲間内ではそうした情報を常に交換・共有しています。
技能実習制度を安易に考えている関係者には、そのことをしっかりと認識してほしいです。IKAPEKSIのメンバーが「日本は素晴らしい」と口々に語るその裏には、幾重もの技能実習制度をめぐる出来事の蓄積が重なっているのです。
こうしたことを踏まえて、私は、技能実習制度を本物にすることに注力したいと考えています。
すなわち、本当の意味での技能、技術、ノウハウ等の移転を図り、それが送り出し国の経済発展につながるためにです。同時に、外国人技能実習生が、技能、技術、ノウハウ等を移転してくれる日本の中小企業のこれまでの軌跡に対して心からの敬意を示せるようにしたいのです。
それが故に、日本のどの中小企業のどのような技能、技術、ノウハウ等がインドネシアのどの地域のどの中小企業にとって有益なのかをあらかじめ意識し、日本側とインドネシア側がそれらの移転に同意したうえで、インドネシアから技能実習生を日本の中小企業へ送り出す。
日本の中小企業は3年間の移転カリキュラムとプログラムを作成し、その進捗を図る。終了時までに移転レベルに達したかどうかの試験を何度か行い、終了時には技能認定証を発行する。後は、その技能認定証をインドネシア側に認知させることで、技能認定証が帰国後の就職の際に効力を発揮する。これにより、インドネシア側に対して、日本側からの具体的な技能、技術、ノウハウ等の移転と人材育成の成果を示すことができる。
インドネシアと30年以上関わり、IKAPEKSIのアドバイザーでもある私は、そうした技能認定証をインドネシア側(中央・地方)に認知させるための働きかけを行うと同時に、帰国後の元技能実習生の活動をIKAPEKSIとともにモニタリングし続けることができます。
また、日本の中小企業での技能実習生の受入に当たっては、前もって、技能実習生に移転されるべき技能、技術、ノウハウ等についての説明や、インドネシア人との接し方やインドネシアに関する基本情報を、事細かくアドバイスすることが可能です。また、受入中も、技能実習生のよろず相談をインドネシア語で対応できます。対象実習生の人数が多くなれば、よろず相談のできる体制を整えます。
このように、インドネシア人専門として丁寧に対応しながら、何としてでも、技能実習制度を本物にしたいと思います。そのために、技能実習生の送り出し・受け入れの双方へ具体的に関わる準備を進めていきたいと思います。
もし、日本にいるインドネシア人技能実習生がインドネシア語で相談できる窓口がなくて困っている方がいれば、とりあえず、私宛にご連絡ください。
おそらく、今後は、中小企業向けの技能実習制度だけでなく、農業や水産業、看護や介護での研修生でもまた、同様のアプローチや活動が必要になってくると思われます。日本にとっても、インドネシアにとっても、ウィンウィンになる形を目指す必要があります。
お仲間になっていただける方々も必要になってくると思います。その際には、よろしくお願いいたします。
SQでもやはり無理なことはある
10月30日ジャカルタ20:20発、シンガポール23:05着。シンガポール23:55発、成田10月31日7:30着。定刻通りならこのように乗り継ぐ、シンガポール航空で、今回のインドネシア出張から帰国しました。
実際には、ジャカルタ→シンガポール便の出発が20分ほど遅れ、それでも挽回して、シンガポール到着は10分弱の遅れで到着しました。
到着したのは第2ターミナルの一番端。成田便は第3ターミナルなので、スカイトレインに乗って移動です。
ジャカルタでチェックインしたときに、係員が気を利かせて、できるだけ出口に近い席を取ってくれたので、エコノミークラスとしては早く機外へ出ることができたのですが、ともかく小走りに速足でひたすら第3ターミナルへ向かいました。
成田便の搭乗口に着いたのは23:30過ぎ。すでに搭乗はほとんど終わっていました。高速歩行で大汗をかきましたが、何とか滑り込みで無事乗り込むことができました。
ふと、気になったのは預入荷物。でも、世界一という評判のシンガポールのチャンギ空港だから、きっと大丈夫、と思い込みました。
成田到着。ブリッジを進んだ先に掲示板があり、そこに私の名前が出ています。なぜ?
係員から、預入荷物がまだシンガポールにあることを告げられました。この短い乗継時間でも可能だから、この便の乗り継ぎをブッキングできるようにしているはずだ、と勝手に信じていたのは私です。
でもすぐに、やっぱり、無理だったんだね、SQ、無理してるんだね、と思いました。
地上係員の女性はANAの方で、ひたすら平謝りされてしまい、かえって恐縮してしまいました。別にこの係員がミスったわけでもないのに。でも、きっと、このような場合、激怒して怒鳴り散らす乗客が少なくないのでしょう。
預入荷物は、SQが費用負担して、東京の自宅まで送ってくれるということで、ゴロゴロ引いていく必要がなくなってラッキーでした。でも、この段階では、どの便に乗ってくるのかが分かりません。「31日の昼便に乗ってくる」という連絡があったのは、31日の午後でした。
また、税関で中を開けられるかもしれないということで、鍵の番号も教えなければなりませんでした(教えないと私が成田まで出向くことになるのでしょう)。念のため、税関で荷物を開けられた場合には、その場で私に連絡するようにお願いしました。万が一、中身が紛失した場合のことを考えたのです。
とりあえず、手ぶらで東京の自宅へ戻りました。午後、「31日の昼便に乗ってくる」という連絡とともに、11月1日の午前中に東京の自宅へ配送される、ということが告げられました。その後、何も連絡はなく、税関で荷物も開けられることはなかったのだなと思いました。
11月1日の午前中、荷物が来るのを自宅で待っていました。約束の正午を過ぎても、荷物は届きません。連絡も何もありません。少しゆっくり間をとり、午後1時半過ぎに、今回担当してくれている成田空港のANA手荷物サービスセンターに電話をし、事情を聴きました。荷物が確かに成田に届いたのかどうか、成田から配送されたのかどうか、を確認したかったのです。
しばらくして、ANA手荷物サービスセンターから電話があり、荷物は成田から配送されたこと、その荷物が1日の午前9時に東京の自宅の近くにある最寄りの営業所にあったことが分かりました。となると、今度は配送会社で何が起こっているのか、どうしてすぐそこなのに配達されないのか、が気になります。
すると、ANA手荷物サービスセンターから連絡があり、配送会社の仕訳ミスで荷物が違う場所へ送られたことが判明しました。それでも現在配達中とのことで、配送車のドライバーから連絡が来るという話でした。
その電話を終えて5分も経たないうちに、荷物は無事に届きました。中身もすべてそのままで、まずはめでたし、めでたし。
なのですが、SQでもやはり無理なことはある、というのは認めなければなりません。乗継時間が1時間未満の場合には、「乗継できる」と表示しないようにしてほしいものです(現段階でもまだ表示されています)。もっとも、私たち利用者のほうで、乗継時間を2時間程度とるようにすべきなのかもしれません。SQもちょっと無理をしているのではないか、と思います。
それと、配送会社のミスについてですが、ANA手荷物サービスセンターが状況を説明してくれたからいいものの、配送会社からは何の説明も謝罪もありません。事情の良く分かっていない配送ドライバーが、ともかく謝ればいいという感じで謝るのみです。
「午前指定」が午後2時過ぎに配送されたのですよ。直接、会社へ抗議してもいいのですが、「またクレーマーかよ」と真摯に受け取ってもらえないような気がするし、実害もとくにないので、まあこれで済ませることにします。これもまた、日本の様々な劣化を助長することになってしまうのかもしれませんが。
ともかく、真摯に対応してくださった、成田空港のANA手荷物サービスセンターの係員の方に、感謝申し上げます。
サンシャワー展は本当に良かった!
明日(10/11)から月末までのインドネシア出張の前に、前々からどうしても観ておきたいと思っていた「サンシャワー:東南アジアの現代美術展」へようやく観に行けました。
この展覧会は、国立新美術館と森美術館の2館同時開催で、しかも展示数が多いので、どうしても2日掛かりになってしまいます。夜遅くまで開いている森美術館を10月8日に、国立新美術館を翌9日に訪れました。
東南アジアのアーティストが色々と面白い試みを行っていることは知っていましたが、これだけの数を集めるとさすがに圧巻でした。しかも、その一つ一つに、アーティストのゆるさや柔らかさや軽さを感じつつ、その裏に何とも言えない深い闇やもやもやとして晴れない奥行きが浮かび上がる、そんな作品が多かったと感じました。
彼らの共通の特徴は、社会に対して自分の思想をぶつけていること。それは忘れられた歴史やアイデンティティを取り戻すことであったり、イデオロギーとは異なる人々の身近な生活の中からの政治・社会批判や風刺であったり、常識と思っていることへの疑問であったり・・・。
適当に考えているように見えて、実は深く考えぬいたものを軽やかに表現する。それは、表面的にみれば明るい東南アジアの社会を反映したものなのかもしれません。
様々な意味で自由な表現を虐げられてきた中で、それをあざ笑うかのように、しなやかに自らの表現力を練成させ、常に新しい表現方法で自分の社会への問いかけを表そうとしていく彼らの作品を、今の日本社会の文脈からみると、とても新鮮なものに見えることでしょう。
映像を使った秀逸なアート作品が多く、しかもそれぞれがとても興味深いものでした。自分がもっと時間を2倍ぐらい余裕だったならば、これらの映像作品を心ゆくまで楽しめたであろうに、と少し後悔しました。
サンシャワー展は、とにかく文句なしに面白く、刺激的でした。日本のアーティストともどんどんコラボしていってほしいなあ。まだ観に行っていない方は、ぜひ、時間をゆっくりとって、五感を使って味わってきてほしいです。東京では10月23日まで開催、その後は福岡で開催されます。
近年、地域づくりとアートとの親和性が注目されていますが、9月に行った石巻を中心とするリボーン・アートフェスティバルにも連なる、様々なヒントを個人的に得ることができたのは大きな収穫でした。シンガポールやチェンマイのアーカイブ活動は大いに参考になりました。
ふと、アジアを含む世界中の面白いアーティストたちが福島市に集まって、街の至るところでアート作品を動的に作成し、それを市民がただ観るだけではなくて体験しながら楽しんでいる。すると、市民が即興で自分のアート作品をつくり始める・・・。
目をつぶったら、そんな光景を思い浮かべていました。
そんなの、やってみたい!!
石巻から気仙沼まで乗ったBRT
今回、石巻から気仙沼へ移動する際、途中の前谷地から乗ったBRTというのは、Bus Rapid Transitの略で、鉄道で結ばれていた路線をバスで繋ぐものです。東日本大震災で普通となった気仙沼線は、鉄道による本格復旧を諦め、BRTで代替しました。JR東日本が運行しています。
上写真は前谷地駅前、下写真は気仙沼駅のBRTバスです。気仙沼駅では、ホームの脇で発着します。
BRTは途中、かつてあった気仙沼線の線路跡を舗装した道路を走ります。それは、バス専用道路となっています。
元鉄道トンネルへ入っていく様子は、なかなか珍しいものです。バス専用道路なので菅 祥行、一般道路と繋がる場所には遮断機があって、一般車両はバス専用道路を通行できないようになっています。
台風の最中に涼を求めて長野へ(2)
7〜9日は志賀高原で過ごしました。
志賀高原というと、私にはとてもまぶしい雰囲気の場所でした。バブル全盛だった大学生時代、学生たちの多くは、夏はテニス、冬はスキー、と判で押したように男女伴って出かけ、大いに遊んでいました。その行き先として脚光を浴びていたのが志賀高原でした。
大勢と同じことをしたくない自分は、テニスもスキーもせず、しかも浮いた話にも興味がなく、男同士で歌う男声合唱のサークルに所属していました。そのため、志賀高原というのは、自分にとってはまぶしく、世界の違う場所と感じていたのでした。
それ以前、小学生の頃、群馬の親戚のおじさんに誘われて、草津から何度か志賀高原へドライブに連れて行ってもらったことはありました。その時の印象も、人気のある観光地だな、という程度のものでした。
今回も、そんな賑やかできらびやかな志賀高原を想像して行ったのですが・・・。
それは、昭和の志賀高原でした。平成の志賀高原は、違う印象の場所になっていました。
志賀高原行きのバスに乗るため、まず長野駅東口へ行きました。でも、一通り見渡しても、駅には、志賀高原に関するポスターやパンフが見当たりません。
東口の土産物店「科の木」なら何かあるだろうと思って、行ってみました。志賀高原に関するものは何もありませんでした。「科の木」はアルピコグループが経営していて、同グループのバスの行先である信濃大町や黒部アルペンルートの情報パンフは置いてありましたが・・・。
新幹線ができてからは、中央線・大糸線経由で松本や大町からアクセスするのではなく、新幹線で長野まで来て、バスで大町や黒部へ向かうようになったことを理解しました。
長野駅東口から志賀高原への急行バスを運行しているのは長野電鉄です。スキーシーズンの冬季は本数が多いのでしょうが、夏季の本数は1日数本。
私たちが乗った10時15分発の白根火山行き(通行止のため渋峠までしか行きませんでしたが)のバスの乗客は、我々2人以外は外国人客8人。しかも、我々以外の全員が途中のスノーモンキーパーク前で降りて行きました。そうか、彼らの目当てはニホンザルだったのか。
ニホンザル目当ての外国人が降りた後の乗客は、我々2人だけ。そのまま目的地の蓮池まで行きました。バスを降りた目の前、旧蓮池ホテルが解体されているところでした。
それにしても、人がいません。台風が来ているし、旧盆の少し前ということもあるのかもしれません。実際、今回の行程は、どこへ行っても我々2人の貸切状態でした。
蓮池周辺には、志賀高原総合館98など、長野冬季オリンピックが開催された1998年に建てられた幾つかの施設があります。
「志賀高原総合館98」というバス停のある山の駅が観光案内所の役割を果たしています。蓮池から琵琶池までハイキングをして、蓮池へ戻った後、そこにある「山の食堂1959」で素敵な冷やし山菜そばをいただきました。
この山の家、以前は蓮池から発哺温泉へ上がるロープウェイの駅でした。まだ当時のロープウェイが残っていました。
1960年に開業し、単なる観光向けだけでなく、道路アクセスの良くない高天ヶ原やより標高の高い発哺などへの重要な交通手段でもあったということです。長野県北部地震の後に点検したところ、老朽化が進んでいたことから、2011年6月に廃止されました。実際、道路事情も良くなって、利用者の数も大幅に落ち込んでいたのでした。
正面に発哺や東館山を臨む素晴らしい眺望に見とれていると、一群の雨雲が湧いてきて、激しいにわか雨が降り、その後に、それは見事な虹が現れました。
8日に訪れた志賀高原歴史記念館は、以前、国策で造られた高級ホテルの志賀高原ホテルでした。
旧志賀高原ホテルには、皇族をはじめ、要人も泊まったそうです。ドイツの職人が作った椅子などの調度品が重厚さを醸し出していました。志賀高原歴史記念館となった今は、1956年のコルティナダンペッツォ・オリンピックで、日本選手として初めて冬季オリンピックでメダル(銀メダル)を獲得した猪谷千春氏の記念館の役割も果たしています。
長野オリンピック後、志賀高原の開発に当初から長年にわたって深く関わってきた長野電鉄が撤退し、志賀高原は往年の輝きを失ってしまったようでした。多くの旅館やホテルが廃業し、廃墟となっていました。
それにしても、志賀高原にとって、あの長野冬季オリンピックとは一体、何だったのか。涼しくて気持ちの良い高原の道を歩きながら、そんな問いを何度も頭の中で繰り返していました。
そんな志賀高原の夏に、東京の某大手進学塾がのべ1万人以上の生徒を連れてきて、サマースクールを行なっています。その進学塾の横断幕が貼られた旅館やホテルをいくつも見かけました。
志賀高原のメイン道路沿いの旅館やホテルで、進学塾の垂れ幕を見かけました。交通の弁が良いこうしたところほど、進学塾のサマースクールに頼らざるをえないのかもしれません。
今回我々が泊まった石の湯は、メイン道路から外れていますが、日本で標高が最も高い地域に生息するゲンジボタルの群生地のすぐそばにあります。ホタルに配慮して、夜は灯りを暗くし、部屋もカーテンを閉めることを求められます。ホタル見物の際には、懐中電灯やカメラなどを使うことを禁じています。
ホタル見物にも行きました。台風による川の増水などの影響で、最盛期の10分の1しか飛んでいなかったそうですが、それでも、ゆらゆら〜っと飛ぶホタルを何匹も見ることができ、幻想的な世界に浸りました。
志賀高原のなかでは、進学塾のサマースクールのような大口需要に頼るところと、交通の便は悪くとも独自の良さを作り出して固定客を増やしているところと、大きく二手に分かれているように感じました。
山を削ってスキー場をどんどん造成し、団体客で賑わっていた志賀高原。長野オリンピックでウハウハだったのも束の間、観光客が大きく落ち込んでいった志賀高原。冬季はまだスキーで賑わうためか、まだまだ過去の栄光にすがりつく傾向が多く見られます。
大量消費時代の自然破壊型の観光開発が何をもたらしてきたか。時代とともに変われなかった志賀高原の観光が目指す方向は、もう一度、自分たちの足元を振り返り、地に足をつけた自然環境と共存できる地道な取り組みでしかないような気がします。
でも、これは志賀高原だけの問題なのでしょうか。2020年はもうすぐです。