台風の最中に涼を求めて長野へ(1)

夏休みと宣言して、8月6〜9日、妻と二人で長野市と志賀高原へ行ってきました。娘がちょうど長期で不在となっているこの時期、本当に久しぶりに、東京の自宅を離れて、二人で旅に出ました。

とにかく、涼しいところへ行きたい!という妻のリクエストもあり、東北海道なども検討したのですが、最終的には、志賀高原へ行くことにしたのでした。

個人的には、本当は、久々に香港か台湾へ行って、存分に食べまくりたかったのですが・・・。涼しいところが優先、でした。

6日は長野市で1泊。その目的は、ここでした。

長野駅前のちょっと路地を入ったところにある映画館「長野千石劇場」。東京で観そびれた香港映画「コール・オブ・ヒーローズ」を観るためでした。

映画を観る前から、この映画館に昭和の風情を感じて興奮する二人。入替制で、開始15分前にならないとチケットを売ってくれない、というので、ぴったり15分前に窓口で購入して、中へ。中へ入ると、そこは「昭和」の世界でした。

映写室の看板も。

外壁の映画の予告掲示も、時代を感じさせる趣がありました。

最初に入った第3ホールは、傾斜のない、小さなスクリーンの部屋。明らかに増設したような雑な作りの部屋でしたが、観客は我々2人ともう1人の3人。

もうすぐ開始、と思ったら、係員が来て「客がいないので、隣の第2ホールへ移ってくれ」とのこと。第2ホールで上映する予定だった作品は、観客がいなくて上映中止となったようでした。

というわけで、より大きな第2ホールで、我々を含む観客3人が「コール・オブ・ヒーローズ」を鑑賞しました。

隣の第1ホールで上映している映画の音声が聞こえる、ボロいつくりの会場でしたが、アクションものだったせいか、それなりに集中して観ることができました。

サモハン・キンポーがアクション監督を務めた「コール・オブ・ヒーローズ」は、黒澤明監督の「七人の侍」の影響を受けているということで、あまり期待はしていなかったのですが、予想以上の内容で、十分に楽しむことができました。

それにしても、長野市内には、長野千石劇場以外にも、昔ながらの映画館がいくつか残っている様子。そして、7日以降の志賀高原でも、別な意味で、「昭和」を感じさせる部分のある旅となったのでした。

もちろん、映画を観る前に、長野東急にある竹風堂のカフェ「さろん・ど・まろん」で、忘れずに、栗クリームあんみつ(抹茶アイスクリームのせ)をいただきました。

(その2へ続く)

インドネシアの大学の先生方を福島へ

8月1日、インドネシアのマラン・ムハマディヤ大学の先生方5人を福島市へお連れしました。朝、羽田に到着し、そのまま東京駅から新幹線で福島へ来ました。

今回の訪問は、今年4月に私が同大学でゲスト講義を行なった際に話が出ていたもので、福島をテーマとした新しいプログラムを立ち上げる可能性を探るための来訪です。

福島駅近くのホテルへ到着。でも午後3時までチェックできず、一息入れる間もなく、ホテルのカフェでそのままミーティングへ。でも、今回の福島訪問では、実は、このミーティングが一番重要だったのでした。

ミーティングの後、ようやくチェックインし、夜行便でできなかったマンディ(水浴)をした後、どうしても私のオフィスを見たい、ということで、飯坂電車に乗って、オフィスへ向かいました。

私のオフィスの敷地内にある古民家に感嘆し、オーナーの話にいちいち頷く面々でした。オーナーの実家の畑で採れた旬の桃を頬張って、「リンゴより美味しい!」と感嘆の声を上げています。

もちろん、私のオフィスにも来ていただきました。急に強い雨が降り出し、しばらくオフィスで雨が弱まるまで待機せざるを得ませんでした。

先生方の福島訪問は本当にわずかの時間ですが、福島をテーマとした新しいプログラムへのヒントはつかめたようです。うまくいけば、来年の今頃、そのプログラムが実現するかもしれません。私も、その準備に楽しく関わっていくことになりそうです。

イモニウォーク奥松島2017は楽しかった!

昨日(7/15)の朝、ジャカルタから東京へ戻り、自宅でちょっと休憩してから、新幹線と仙石線を乗り継いで東松島市へ向かって、同市矢本の宿に宿泊(ここがとても居心地良かった!)。そして今日(7/16)は、イモニウォーク奥松島2017というイベントに参加してきました。

イモニウォークは、東松島市の野蒜駅を出発点として、宮戸島にある松島自然の家までの約10キロのコースを歩く「イモニウォーカー・ルート」と、自転車で宮戸島の名所8カ所をまわる「新宮戸八景ルート」のいずれかを選びます。各コースにはチェックポイントが設けられ、それぞれのポイントでスタンプを押して周り、完走して全部スタンプが押されたら、景品がもらえます。

また、途中では、インドネシア・アチェのコーヒーを飲めるスタンドや、アチェのカレーを食べられるスタンドがあり、かつ農産物直売所を兼ねた複合施設「あおみな」で地元の特産品を味わえるマルシェに立ち寄ります。

東松島市はJICAによる震災復興を通じた経験共有協力の事業を通じてインドネシアのアチェ州の州都バンダアチェ市と協力関係があり、ちょうど今、バンダアチェ市から2名の漁師さんが1カ月間の研修に来ています。彼らと東北大学のインドネシア人留学生が上記のスタンドでコーヒーやカレーを振る舞うほか、アチェのサマンダンスのパフォーマンスも披露してくれます。

そうそう、イモニの説明を忘れていました。これは芋煮のことで、南東北で秋の恒例行事である芋煮会で振舞われる食事です。ゴールした後、この芋煮が振舞われます。そこで、このイベントをイモニウォークと名付けたようです。

野蒜駅は真新しく変わっていました。仙石線が野蒜駅付近で津波で寸断されて再建できないため、住民移転を行った内陸側へ線路を付け替え、駅も新築して、2015年5月30日に復旧し、運転が再開されました。

ちなみに、昔の野蒜駅は、今は震災復興伝承館とコンビニが一緒の建物となっています。震災復興伝承館では、震災時の津波による被害とその後の復興の様子が映像も含めた資料として展示されています。

受付で、予想通り、私は外国人の参加者と一緒に歩くことになりました。全員が東北大学の留学生で、マレーシア2名、インドネシア、モロッコ、モザンビーク各1名、私を含む日本人3名の8名で、イモニウォーカー・ルートに参加しました。

スタンプを押すポイントになった場所は、上記の震災復興伝承館のほかは、まず鳴瀬二中跡地。校歌の碑の裏には、廃校に至るまでの軌跡が年表として綴られていました。

防災盛土。防災盛土の上から、海を見渡しながら歩きます。

アチェのカレーのスタンドの裏には、津波の犠牲となった子供たちを含む身元不明の方々を祀るたくさんのお地蔵さまがありました。

多目的施設のあおみな。

ここで食べたかき汁と東松島ドッグは、美味しかったですよ。

ルートのポイントがあるかと間違って皆んなを登らせてしまった、大高森山の山頂から見た奥松島の景色は、まさに絶景でした。

奥松島縄文村。好奇心旺盛なメンバーは、中の展示もしっかり見ていきました。イベント参加者は、スタンプを押すカードを見せれば、無料で見学できます。

観音寺の手前にある津波の碑。

結局、途中でなんだかんだと休みながら、また、ハーハー息を切らせながら大高森山を登るなど余計な行動も入ってしまい、午前9時に出発して、ゴールにたどり着いたのは、イベント終了の午後4時少し前でした。それでも、イモニウォーカー・ルートの10チェックポイントはすべてまわることができました。

何事もポジティブに明るく捉えてくれる楽しいメンバーと一緒に歩けたせいか、けっこう体力的に疲れているはずの私も、最後まで元気に過ごすことができました。というか、ずっと私が彼らをリードして連れていく役目を果たしたので、疲れてヘロヘロになるわけにはいかなかった、というほうが正しいのかもしれません。

すでに何度も実施されているためか、このイモニウォーク奥松島は、予想以上によく作られているイベントだと思いました。東松島市の人々が外から来た方々に見て欲しいと思う場所がうまく組み合わされ、結局は、いろいろ見ながら歩く、という形になるように組まれていました。また、東松島市がバンダアチェ市と協力しているということが、コーヒーやカレーやサマンダンスの形で組み込まれ、参加者へ自然に認知されるようになっていたのもうまいやり方だと思いました。

一部にはチェックポイント間の距離がかなりあって間延びしたところがあったり、間違って大高森山の山頂まで登ってしまわないような指示など、いくつか改善点は指摘しましたが、ともかく、楽しく過ごすことができました。

とはいえ、メンバーと別れ、一人になると、けっこう疲れを改めて感じるものです。そんな時は、と思って、夜は、エスパルの青葉亭でしっかりと牛タン定食をいただきました。評判通り、ここの牛タンはとても美味しく、大満足。柚子胡椒味にワサビを添えて食べる牛タンが特に秀逸でした。

さあ、明日は朝、福島へ移動します。おやすみなさい。

高速バスでの移動に慣れたけれど

昨日今日と、1泊2日、東京から福島へ高速バスで往復しました。

昨日の東京→福島は、初めてウィラー・エクスプレスを使ってみました。例のピンクのバスです。

バスタ新宿を午前10時半に出発。福島と山形を経由し、天童温泉が終着でした。運転手さんは、キビキビした素敵な女性でした。
首都高速が渋滞で15分程度遅れましたが、「遅れは挽回しませんのでご容赦ください」とのアナウンス。安全運転を堅持するという姿勢に好感が持てました。

500円プラスで隣の席もキープできるので、そうしました。これで福島駅西口まで3200円。今回はしかも、楽天ポイントで全額支払ったので、タダで乗りました。

席はちょっと幅が狭いですが、座り心地はなかなかよく、快適でした。
途中休憩は、佐野サービスエリアと安達太良サービスエリアの2箇所で、佐野では30分、安達太良では15分の休憩でした。
佐野サービスエリアに着いたのは12時で、30分あるので、昼食をとりました。佐野と言えば、やはり佐野ラーメン、です。
うーん、まずくはありませんが、普通のラーメンでした。
安達太良サービスエリアでは、見つけました、酪王カフェオレ・ソフトクリーム。
食べているうちに気がつきました。酪王カフェオレ・ソフトクリームは、下り線でしか食べられない、のだそうです。
こうして、雨の降りしきる福島駅西口(駅からちょっと離れた東邦銀行の脇)に定刻より15分遅れで到着しました。
今日の福島から東京への帰りは、JRバス東北の「あぶくま号」。夕方5時過ぎに福島駅東口を出発し、夜10時過ぎに池袋駅東口に着きます。6月に入って、乗るのは3回目です。
こちらは、那須高原サービスエリアと羽生サービスエリアで15分ずつ休憩。食事をとるという感じではないし、時間が遅いので、店も閉まっていて、見るべきものはほとんどない、と学習しました。
6月はけっこう頻繁に東京と福島を往復したので、交通費を抑えるために高速バスを使ってみたのですが、意外に快適で、退屈もしませんでした。だいぶ慣れた気がします。時間的に余裕があるときには、高速バスを使う機会が増えそうです。
でも、今回は、昨晩、知人と深酒をしてしまい、今日は、けっこうつらい一日になってしまい、バスの中では、ひたすら寝ていました。くたびれました。

雨の中、花菖蒲を眺めにいく

6月18日、日曜日の東京は、一日中、雨が降ったり止んだりのあいにくの天気でした。でも、この日は私たち2人にとって特別の日。

そう、もう20何回も過ぎた結婚記念日。一緒に、紫陽花や花菖蒲を見に行こうということになって、雨の中、出かけました。

スマホ・アプリの気象レーダーで雨雲の動きを確かめながら動いたはずなのに、途中で何度も激しい雨に出くわしたのは、日頃の行いのせいかもしれません。

行先は明治神宮。北参道の入口に紫陽花があり、明治神宮の中には菖蒲園があるので、両方見られる、ということで行ったのですが。

北参道の入口の紫陽花はたしかにありました。でも、数株程度、ほんの少し。「明治神宮で紫陽花って聞いたことないなあ」という妻の言い分がまあ正しかったようです。

一人500円を払って、菖蒲園へ行きました。いやー、色とりどりの様々な花菖蒲が咲き誇っていて、なかなか見事でした。

雨滴に濡れた花菖蒲は、美しさがより際立つように感じました。

菖蒲田はゆるやかにカーブを描いていて、周りの鬱蒼とした緑あふれる木々とともに、ここが本当に東京のど真ん中とは到底思えないような風景を作っていました。

ちょうど、真ん中に橋が渡されていて、そこが写真撮影のスポットとなっています。
あいにくの雨のおかげで、菖蒲田を訪れる人の数も少なく、じっくりと味わうことができて、とてもよかったと、ここはやはり、物事をポジティブに捉えてしまいます。

南池へ行くと、夕方近いというのに、白い蓮の花が見事に咲いていました。

明治神宮の参道の木立は、雨で靄のように烟っており、訪問者の少なさも相まって、一段と厳かな雰囲気を感じました。

明治神宮での散策を終えて、二人ともとても空腹になったので、帰宅前に、原宿の南国酒家(英語表記だと South China Restaurant なのですね)で少し腹ごしらえ。

久々の五目焼きそばに大満足でした。

「復興」勉強会に出席して

6月16日、福島市で、NPO法人ふくしま30年プロジェクト主催の勉強会「復興」に出席しました。講師は、首都大学東京准教授の山下祐介氏と、NPO法人とみおか子ども未来ネットワークの市村高志氏でした。

勉強会では、復興という言葉とは裏腹に、現場では本質的な解決が一向になされていない現状があることを踏まえ、今後起こるであろう問題を指摘していました。

まず、なぜ避難者は故郷へ戻れないのか。その最大の要因は、トラウマです。もう一度あのような事態が起こるのではないか。もう二度とあんな避難をしたくない。最近、東電が福島第二原発の再稼働の可能性を匂わせていることも触れられ、不安が出されました。

帰還しようとしている人々は現状復旧を求めているのですが、その前提となる様々な検証が十分に行われていないことも指摘されました。

そして、すべてにおいて、責任の所在があいまいにされている現状が指摘されました。

たとえば、避難指示解除を決定したのは誰なのか、その根拠となった法規は何か、実は明確でないという指摘。また、賠償というのは、通常は、責任主体による償いであるはずなのに、責任主体は責任をとっているのか、という問題。責任をとらない主体が賠償をするということの論理矛盾。

次に、避難指示解除によって居住を促すということについて。実は、避難指示解除の前から、作業員はそこに住むことを促されて住んでいたのだから、避難指示解除がなければ住めないというのはおかしかったのではないか。解除前でも、戻りたいと言っていたお年寄りなどを戻してあげればよかったのではないか(彼らの中には戻れずに仮設で亡くなった方々も少なくない)。

故郷への帰還か避難先への移住かという問題。現実的には、そのどちらでも政府補助は出るのに、故郷自治体の住民票を避難先で持ち続けられないという状況(今は時限立法で認められている)が出てくると、帰還か移住かの選択を迫られるようになる。本来ならば、長期退避を続けながら状況に応じて順次帰還、という大前提で、様々な選択肢があってよいはず。

復興に続く地方創生で、福島イノベ構想などの新たな事業が出され、福島県には引き続き多額のプロジェクト資金が投下されていきます。その資金へ群がる福島県外の業者や政治家がすでに動いている様子があり、「福島へ行けばまだ事業がある」という話もあるとか。結局、それらの事業資金が福島県にもたらされることで、これまでと同様の国からの事業予算に依存する状況が続いていくことになるのでは、という懸念も出されました。

実際、統計上、避難指示解除対象自治体への転入者が増えても、それが全て元住民とは限らず、事業実施や原発再稼働などを見越した外部者であるかもしれないといううがった見方もありえて、そうなると、もともとの住民たちの自治とは違う形へ変容してしまうのではないか、という懸念さえ聞こえました。

そして、避難者自身が避難者であることを意識しないようになり、風化すると、そもそもの本質的な部分、すなわち彼らを避難者とせしめた責任の所在、がますます曖昧になり、原発事故の検証や賠償責任が忘れられてしまう。復興という掛け声が強くなればなるほど、そういう傾向が強まってくるのではないか、という話でした。

当事者である避難者が今後の生活をどうしていくかについての選択肢が十分にあり、それを自分たちで選んでいけること。長期にわたる複雑なプロセスを単純化せずに、丁寧に進めていくこと。そのために、彼ら自身が自由に話し合いのできる場を持てる必要があること。これらが重要だ、という結論でした。

これらの含意は、何も、原発事故による避難者だけに限るものではなく、現在のどの地域でも大事なこと、すなわち、分権と自治を地域の人々に取り戻すことが重要である、ということでした。しかし現実には、新規事業に伴う利権やそれに群がる有力者らの動きによって、従順と服従を暗に求められているかのような状況が現れているように思えます。

今回の勉強会を通じて、やはり、自分たちの暮らしから始めるほかはないと改めて思いました。そして、まっとうな官僚や専門家の存在を信じ、彼らと関係性を作りながら、現状に対抗できるような構造を作る方向を模索し、復興を遠くのものではなく、自分の暮らしに近いところへ取り戻すことを目指すことが、とくに福島県では重要だと感じました。

では何から始めるのか。このような時代だからこそ、地域の人々が互いに尊重しあいながら、自由かつ真摯に意見を述べ合える、議論やディベートではなく対話のできる場づくりを始めたいと思っています。

こんなひどい雑文でも、政府批判かどうかを監視されるような世の中になってしまうのでしょうか。スハルト時代のインドネシアを思い出します。

ゆるく書く、と言っておきながら、ちょっとかたく書いてしまいました・・・

もう少しゆるい感じでブログを書いていきます

昨日6月15日は、福島市を訪ねてきた友人との楽しい夜の語らいの末、酔いも相当に回り、実家へ帰宅してそのまま夢の国へ向かってしまいました。気が付いたのが夜中の3時、部屋の電気はまだ煌々と点いておりました。

1月に毎日更新を宣言して以来、執筆の失念は2度目となりました。書きたいことは色々あるのですが、毎日更新により、日によっては内容が手薄になってしまう傾向を認めざるを得ません。書くための良いネタのない日もあります。

加えて、6月からは、Glocal from Fukushima という表題で、英語とインドネシアを交互に書く、福島を発信するブログも始めました。さらに、有料会員制のインドネシア情報ウェブマガジン+会員フォーラムも準備しています。

というわけで、この「ぐろーかる日記」は、毎日更新を目標としつつも、時々は穴の開くような、もう少しゆるい感じで書いていきたいと思います。

ときには、更新のない日や短い記事のこともあるかと思いますが、若干なりとも、読者の皆様の温かい寛容を(勝手に)お願いしたい次第です。

仕事用パソコンはやはりウィンドウズなのか

以前のブログで、手元のMacBook Airでは法人銀行口座のインターネットバンキングにアクセスできない、ということを書きました。ブートキャンプを使って、MacBook Air1台でMacとWindowsを切り替えて使うことも考えましたが、今一つ非力なのです。

そこで、29,800円という破格に安いASUSのWindowsノートパソコンを買ったのですが、これが実用に耐えるほどには処理が早くなく、イライラしてしまいそうで、購入を失敗したと後悔してしまいました。たまたま、妻のパソコンが動かなくなってしまい、これ幸いとASUSを譲ったのでした。
というわけで、この際、仕事用のノートパソコンはWindowsに戻そう、と決めました。軽めでCPUの処理能力が高く、イライラするようなことがないもの、予算は10万円前後、ということで、今回購入したのが、Thinkpad X260です。

最新のもっと軽いThinkpad X1 Carbonにしようかとも思ったのですが、X260は後継のX270が発売されて型落ちとなり、価格が大きく下落していました。
CPUはCore i7、ハードディスクはSSDの192GB、有線LAN端子、SDスロット、3つのUSB端子があり、しかも、インターネット直販の米沢生産モデル、余計なソフトもほとんど付いていない、という形で、価格が消費税込みで10万円を少し超えるぐらいでした。
実際、使ってみると、なかなか快適です。反応速度も十分早く、キーボードも定評通り、やはりThinkpadは打ちやすいです。ただし、ちょっと厚めで重いです。
そして、ソフトとしては、Microsoft Office 365 Soloを入れてみました。オンライン上からインストールするのですが、PublisherやAccessを含む、Officeのほぼすべてのソフトウェアが使えるほか、クラウド上のOne Driveが1TB、無料でSkypeもついてきます。ただし、課金は毎月または毎年の支払いで、私は年払いにしました。1ヵ月あたり1,000円程度で、ソフトウェアは常に最新の状態に更新される、ということです。
電子メールソフトが今一つなのと、6,000件以上のアドレス帳をどのように活用するかが課題ですが、Googleを介することで、何とか使えそうです。
というわけで、2008年にWindowsからMacへせっかく変えたにもかかわらず、仕事用ということで、またWindowsを使い始めてしまいました。
今日は、夕方7時前に東京を発ち、高速バスの移動で、午後11時半過ぎに福島の実家に着きました。ある程度時間に余裕があるときには、高速バスでの移動も多用していくことになりそうです。

開発援助の経験から日本は何を学んだというのか

インドネシアで様々な開発援助の現場を見てきました。援助する側から見た現場だけでなく、援助される側がそれをどのように受けとめているかも見てきました。

日本からインドネシアへの援助だけでなく、インドネシアの中央政府から地方政府、地方政府から地域住民への補助金や援助プロジェクトも見てきました。私自身、JICA専門家のときには、中央政府側と地方政府側の両方の立場で用務を行ったので、その本音の部分も含めていろいろと観察することができました。

中央政府には表向き絶対に逆らわない地方政府。しかし、中央政府の役人達が帰ると、途端に地方政府の役人から批判や不満が噴出します。中央政府の役人を交えたセレモニーでの猫を被ったような従順さと、あまりに対照的で、思わず笑ってしまいそうになります。

村でも同様です。役人が来るので、村人には百姓仕事を脇に置いてもらい、とにかくまずは人を集めます。役人のお話を恭しく拝聴し、食事も供して、役人には気持ちよく過ごしてもらいます。そして、役人が帰った後は、村の現実から遊離した役人の話の内容を咀嚼できずに、困惑したりするのです。

よそ者が相手に対して何か働きかける際、何も反発がない場合には、相手が完全に同意しているのか、相手が適当によそ者に合わせてくれているのか、見極める必要があります。でも、成果を気にするよそ者は、それをもって、うまくいっている、自分のやり方に同意してくれている、と自分に都合の良い解釈をしがちです。

日本の開発援助は、受益者自身が自分たちで自分たちのために主体的に物事を進めるようにするために支援する、という建前をとってきました。たとえば、研修や教育訓練を施すにしても、それらを実施できるトレーナーの人材育成も合わせて行い、日本がいなくなっても、自分たちで人材育成ができるような仕組みを埋め込んでいく、というような援助を、少なくとも建前上は目指してきたと思います。

そのノウハウや実践例は数多くあり、蓄積され、対象となる人々の自立を助けることが日本の開発援助の特色として語られることも少なくありませんでした。

そんな素敵な海外での実践経験を培い、その援助手法を世界に誇ってきた日本ですが、東日本大震災の後に東北で行ってきた復興支援にそうした経験はどれほど生かされたのでしょうか。あるいは、日本国内では、対象となる人々の自立を助けることをする必要がない何らかの理由があるのでしょうか。

そんなことを自問する毎日を送っています。

日本だけが素晴らしい、なんて到底思えない現実と、これから格闘していくのだ、という覚悟が求められていると感じます。このことについては、これからもおいおい書いていきます。

英語とインドネシア語でも発信中

6月1日から、Glocal from Fukushima という題の個人ブログを書いています。使用言語は英語とインドネシア語で、1日ごとに2つの言葉で交互に書いています。

福島市に個人会社を設立した後、外国語での福島に関する発信がまだまだ少なく、もっと等身大の福島を外国の方々にも知ってもらいたいと強く感じました。そして、自分ができるのは、福島についての記事を英語とインドネシア語で発信することだと思い当たり、拙いながらも、始めてみたところです。

一つの記事を英語とインドネシア語で書いても良かったのですが、書いている私が新鮮な気持ちになりにくいので、あえて、違う話題を交互に書き連ねています。また、福島の何について書くか、ネタを探す契機にもなり、いい意味で福島のことをもっと知らなければ、という気持ちにもなります。

今はまだ、一般的な内容が多いのですが、今後は、自分が福島であった人々のことや、遭遇した事件や、いろいろなエピソードを織り交ぜていきます。

Glocal from Fukushimaも、この「ぐろーかる日記」と同様、目標は毎日更新です。こちらもまた、ご愛読のほど、よろしくお願いいたします。

 Glocal from Fukushima

「食と農」の博物館を楽しんだ日曜日

今日は、姪の用事に付き合って、東京農業大学を訪問しました。ちょうど、芽吹祭という学園祭が行われていました。姪と別れてから、すぐ近くにある「食と農」の博物館を訪れました。

建物の周りでは、世田谷区の野菜直売イベントが行われており、朝採り野菜が人気を集めていました。

「食と農」の博物館では、大きな雄鶏の像に迎えられました。雄鶏の後ろには、キリンとゴリラが見えます。隈研吾氏の設計だそうです。

ちょうど今は、「微細藻類の輝かしき未来」という企画展が行われていました。イスラエルの死海で発見されたドナリエラ・バーダウィル、コッコミクサなど、門外漢の私には初めて聞く名前の微細藻類についての研究の現況がパネルで説明されていました。

βカロチンなど医薬品や機能性食品などに点火される微細藻類や、表土流失を抑える効果を持つ微細藻類、農業分野で肥料などに活用される微細藻類などが紹介されていました。
微細藻類の企画展の脇には、東京農業大学の設立者である榎本武揚や、初代学長で足尾鉱毒事件で(田中正造が関わる以前から)農民側に立って汚染状況を科学的に立証してきた横井時敬に関する説明展示がありました。
2階では、酒に関する展示があり、酒造りのほか、酒を嗜むための酒器、酒を楽しむ人々を描いた絵画、などがありました。他には、古くから使われてきた農具のほか、酉年にちなんでなのか、様々な鶏の剥製が展示されていました。

建物のすぐ外には、温室があり、熱帯の動植物がそこにおりました。

メガネザル
ゾウガメ
イグアナ
温室内の動植物は、よく世話をされていると見え、どれも元気にしていました。また、東京農業大学のキャンパス内の植物もよく手入れされている様子がうかがえました。
もしも、娘が小さい頃に、こんな博物館が近くにあったら、きっと毎週のように、メガネザルさんやカメさんに会いに通ってしまうことでしょう。
姪の用事に便乗して、楽しんでしまいました。

とても残念だったこと

やはり、このことはきちんとブログに書かなければならないと思いました。

日本のある政府系機関と一緒に、7月、インドネシアへの短期出張を予定しています。その機関から依頼され、アポイントメントをとるために、私の長年の友人(インドネシア人)にアレンジのお願いをしました。

彼からは3人の名前が挙げられ、それぞれにレターを出すように指示がありました。すぐに、機関に連絡をとり、機関名のレターを用意して、送りました。

すると、彼から、「3人のうちの2人については、ポジションの高い人物なので、紹介料が必要になる。1人あたり10万円、2人で20万円払ってくれないか」という要求が来ました。

ええっ? 目が点になりました。

私もアポ取りの仕事をやったことがありますが、たしか、1件100ドルもしなかったと思います。

まさか、インドネシアでは、人と会うのにも多額の紹介料を払わないと会えない状況になってしまったのか、これが標準になってしまったのか、と驚き、そして、悲しくなりました。

長年の友人だった彼が、利益最重視のビジネス企業ではなく、政府系機関のアポだというのに、こんなに多額の紹介料を要求するなんて。どうしてしまったのだろう。昔の彼は、そんなにカネ、カネではなかったはずなのに。

念のため、別ルートで、先の2人のアポに関連して、多額の紹介料を払うのがインドネシアの標準になったのか、と尋ねてみました。答えは、「そんなはずない」「カネを払わなければ会わないなんて思われたくない」という返事でした。

その返事を聞いて、ホッとしました。インドネシアは、まだ大丈夫だ、と。

日本の大学に留学して学位をとった彼。どうして狂ってしまったのか。

とても残念ですが、彼とは、おさらばしました。もう、会うこともないでしょう。彼を他人に紹介することもありません。

友だちを選ぶのを間違ったことを深く後悔しています。

阿武隈川のほとりにて

福島市を流れる阿武隈川。今日も北西の風が強い涼しい日でしたが、ふと、阿武隈川を見たくなり、実家からママチャリで出かけました。

福島県庁の隣の阿武隈川沿いにあるのが板倉神社と紅葉山公園。ここで少しゆっくり本を読もうかな、と思ったわけです。そして、しっかり見ることができました。

阿武隈川をしばらく堪能した後、すぐそばの板倉神社へ行きました。

板倉神社は、18〜19世紀に167年にわたって福島を領地とした藩主・板倉氏を祀る神社です。板倉氏の福島藩は3万石、小さな大名でした(ちなみに二本松藩は10万石)。明治維新の頃、官軍が攻めてきたときに、二本松藩は会津藩とともに最後まで抵抗したのですが、福島藩が強硬に抵抗した様子はうかがえません。明治になって福島県の県庁所在地に福島が選ばれ、二本松が衰えていったのは、それを象徴しているかもしれません。

東日本大震災で板倉神社も被害を受けましたが、福島市の復興のシンボルにしたいという氏子の皆さんの尽力で、きれいに修復されました。神社の周りもきれいに整備され、神社にしては珍しく、くつろげるスペースとなっていました。

板倉神社からすぐ下に目を移すと、紅葉山公園があります。秋になると紅葉がたくさん色づくだろうと想像できる公園です。福島城があった頃は、素敵な日本庭園だったようです。新緑がきれいでした。

でも、残念ながら、紅葉山公園はしばらく整備の手が入れられていないようでした。雑草が生え、放置されているように感じました。秋までには手入れをして、きれいな紅葉を楽しめるように整備するのでしょうね。

紅葉山公園を後にして、阿武隈川にかかる大仏橋(おさらぎばし:下写真の右側)と松齢橋(しょうれいばし:左側)を見に行きました。同じ場所から違う方向へ架かる2つの橋です。

私が子供の頃は、松齢橋しかなく、この橋を渡って、渡利地区にある弁天山や花見山へ行ったものでした。国道4号線のバイパスができたときに、大仏橋がドーンと阿武隈川にかかり、その開通を祝うパレードがあったと記憶しています。

ここは、私の高校時代の淡く切ない思い出の場所。今や、あの頃の面影はほとんど残っていませんが、あの時の自分のことは、今でも鮮明に思い出されます。

ここに来ると、あの時へタイムスリップしてしまうのではないか、とドキドキしてしまうのです。ちょっとだけあの時に戻ってみたいような、でも今さら恥ずかしいような、そんな気持ちを抱きながら・・・。

ようやく「看板」をつけました

今日、ようやく、オフィスの入り口ドアに、「看板」をつけました。これだけでも、少しはオフィスらしくなったのではないかと思います。

写真を撮っている自分が写り込んでしまうので、少し斜めにして撮ったら、ややピンボケになってしまいました。

午前中は、亡き父の遺した洋服を取っ替え引っ替え試着しました。色褪せてしまったものも少なくありませんでしたが、まだ大丈夫なものもけっこうありました。

もう少し痩せると履けそうなスラックスも何本かありましたし、そのまま履けるのもありました。もう少し頑張って痩せたほうがいい、と改めて思いました。

試着しながら気づいたのですが、父の寸法と私のがほとんど同じなのです。私は腕が短いので、既製の長袖シャツを着ると袖が余ってしまうのですが、父のシャツの袖の長さはほぼピッタリでした。また、足も短いので、スラックスを買うときには詰めてもらうのですが、それもピッタリ。寸法を直す必要がほぼないのです。

母にそういったら、「これはどう?あれはどう?」と、別の場所から父の洋服を次々に出してきて、試着させてくれます。

そうして、スラックスとジャケットをいくつかクリーニング店へ持ち込みました。来週から、父の洋服を着るのがちょっと楽しみです。

今日の福島も、昨日と同様、北西の風は強く吹き、涼しいというか寒い1日でした。半袖で通したので、ちょっと体も冷えたみたいです。夕方、少々気分が悪くなりました。

6月1日から、英語とインドネシア語でブログ「Glocal from Fukushima」を始めました。インドネシア語で書いた昨日のブログをたくさんのインドネシア人の友人たちが読んでくれて、福島へ行きたいと言ってくれています。嬉しいことです。

名刺を作ろうと思ったのだけれども

今日の福島は、早朝に雷を伴った大雨が降ったらしく、その後も、晴れていたかと思うと急に曇って激しい雨が降る、というのが何回か繰り返されました。そして、だんだんに気温も下がり、肌寒いぐらいの涼しさになりました。

早朝に雷を伴った大雨が降ったらしく、というのは、私自身は全く気がつかずにグーグー寝ていたのでした。

いったん寝たら普通は起きない母でも起きたというのに、私が寝続けていたのは、よほど疲れていたのか、おニューの布団がとても寝心地がよかったからなのか、よくわかりませんが・・・。

そんな不安定な天候なので、出かけるタイミングを間違えると、ママチャリで動いているので、びしょ濡れになる可能性が高いのです。幸い、そうなることはありませんでした。

そろそろ名刺をきちんと印刷所に頼んで作ってもらおうと思い、ママチャリで何軒かまわってみました。

まず、オフィスからすぐの印刷所。閉まっていました。

次に、実家からすぐの印刷所。弟の会社の名刺を作っているということなのですが、閉まっていました。

これら2軒とも、印刷機が動いている音もしなければ、人の気配もありません。

雲行きが怪しそうなので、もう1軒、フランチャイズらしき店へ行きました。そこはやっていたのですが、値段を聞いて、そんなに安くなかったので、やめました。

これまで、自分の名刺は、自分で好きなようにデザインして、自分のプリンターで両面印刷したものを使っていました。正式にきちんと名刺を作る前の暫定のつもりだったのですが、店に持ち込むよりも、自分でプリントしたほうが効率的で、カラーならばコストもあまり変わらないかむしろ安い、と判断しました。

おそらく、今や、名刺もネットで手早く作ってしまうのが主流となっているのでしょう。

せっかく福島市で会社を立ち上げたのだから、できるだけ地元の昔からやっている企業とお付き合いしていきたいと思い、多少のコストアップは覚悟して、印刷所をまわってみたのですが、今日まわった2つの印刷所は閉まっていました。

福島市でも、業績好調な規模の大きな印刷所はいくつかあります。どうも、一握りの好調な印刷所のみが生き残っていき、小さな印刷所は淘汰されていく運命のようでした。

印刷所に限らず、福島市内の小さな店がどんどんなくなっている気がします。そして、残っていくのは、高級品や付加価値の高い製品を作る企業とフランチャイズ系の店。

この風潮に抗えるようなどんなまちづくりが可能なのか。たたかいはこれから、と少し力が湧いてきました。

昼下がりののどかな福島交通・飯坂電車の車内
(本文とは関係ありません)

機種変更の顛末、日野まで行って3万円引き

日本でもう2年半以上使っているauの携帯電話(アンドロイド)。1年ぐらい前から電池の持ちが著しく悪くなり、日中使うと画面が明るくならないなど、使いづらくなってきたので、機種変更をすることにしました。

6月はおそらく福島にいる時間が長くなるので、5月中に機種変更しようと思っていたのですが、ずるずると末日までずれ込んでしまいました。

まず、東京の自宅近くのauの店へ行ったら、待ち時間が60分。午後2時頃から、都内で用事があったので、時間がかかるので止めて、某量販店へ向かいました。

某量販店で機種変更の代金を出してもらったら、私がインターネットのauサイトのシミュレーションの価格よりも1カ月あたり145円高い! そこで、量販店の係員にその理由を質しました。しかし、しどろもどろで説明ができず、彼らの持っているタブレットに組み込まれたシステム上、そのような額になる、とのわけのわからない説明をされました。

結局、その理由は解明されませんでしたが、私のような客は稀で、ほとんどはタブレットで説明するとそのまま購入してくれるのだそうです。それでいいのでしょうか。

知らない客のおかげで携帯電話会社がきちんと説明せずに「ラッキー」となるような商売のしかたならば、それは日本の外では全く通用しないというしかありません。auや量販店には、きちんと消費者に対してなぜインターネット・サイトと店頭で価格が違うのか、きちんと公に説明しなければならないと思うのです。

埒があかないので、その量販店で機種変更するのは諦めて、その近くの別のau販売店へ行きました。その店でも待ち時間は60分ぐらい。半分諦めかけていたら、係員から「月末ということで、機種本体価格を2万円安くする特売りをやっているau販売店がありますが、ご紹介しますか」と聞かれました。

場所を聞くと、日野とのこと。ちょっとびっくりしましたが、都内での用務を終えてから、夕方に、au日野店へ出向くことにしました。

そこでは、たしかに機種本体価格が2万円引き。これまで使ってきた携帯を下取りに出してさらに1万円引き。ポイントも全部使ったので、3万円引きとなりました。機種変更もスムーズに終わりました。

それにしても、競争相手のはずの同じ販売店が客を紹介するなんて・・・。どうも、紹介してくれた販売店の方が日野の販売店へ異動したらしく、それで紹介してもらえるのだそうでした。

機種変更に振り回された1日の顛末でした。

インドネシア語や英語でも発信したい

今年は、このぐろーかる日記をここまでなんとかほぼ毎日更新してきています。今日のように、何もなかったわけではなくても、あえて書く材料がない日もあります。

毎日更新し始めて、もうすぐ半年になりますが、こうなると、これを書かずに1日を終えてしまうと、物足りなさというか、罪悪感というか、そんなことを感じてしまうほどです。毎日の生活の一部になっているかのような気分です。
これまでの傾向を見ると、インドネシアの政治に関する話を書くと、アクセスがぐーんと増える傾向にあります。その他の話でも、まあそこそこアクセスがあり、毎日読んでくださる殊勝な読者の皆さんがある程度はいらっしゃる様子がうかがえます。
本当は、もっとゆるーく書いていきたいのですが、やっぱり、日によっては力が入ってたくさん書いてしまうことも少なくありません。写真一枚でおしまい、という日もあっていいし、これからそんな日もあると思います。そんな日は、まあ、お許しください。
日本語でこのブログを書いているわけですが、やっぱり、インドネシア語や英語でもブログを書いたほうがいいのだろうな、と思っています。欲張りかもしれませんね。

でも、日本語で毎日書くだけでも続けるのはけっこう大変なのに、さらにインドネシア語や英語で書くのは、さらに大変になるかもしれません。
それでも、とくに、福島のことをインドネシア語や英語で伝えていくことはとても重要だと思うし、場合によっては、インドネシアに関する私なりの意見をインドネシア語で書くことがあってもいいのではないかとも思うのです。
というわけで、できれば1日おきぐらいで交互に、インドネシア語と英語で、自分の身近な様子を伝えるブログを書いてみようかと思っています。いや、週にインドネシア語と英語を2本ずつでもいいかな。
外国の友人のなかには、このブログをグーグル翻訳などを使って読んでくださっている方もいるようです。翻訳ソフトを使って、ガーッと訳してしまうのも一計ではありますが、ニュアンスが異なってしまうので、拙くとも、オリジナルで書くほうがいいのではないかと思っています。
ちなみに、私の会社のサイト( http://matsui-glocal.com )では、活動状況を日本語、英語、インドネシア語の3か国語で書くようにしていますし、フェイスブックの会社ページもそのようにしています。よろしければ、のぞいてみてください。
まずは続けること、そして、福島の様子を発信することを目的にして、インドネシア語や英語で、簡単なブログを6月から書いていこうと思います。よろしければ、そちらもよろしくお願いいたします。

福島=岐阜=東京の移動は疲れたが有意義だった

今日は、福島→岐阜→東京と移動の日でした。

福島から岐阜までは669キロあり、片道601キロ以上だと往復運賃割引(1割引)となるので、福島=岐阜間の往復乗車券を購入しました。有効期間は5日間の2倍なので、10日間、5月28日から6月6日まで有効です。6月1日からまた福島の予定なので、岐阜から戻る今日は、東京都区内で途中下車、という形にしてあります。

昨日は、福島で「風評被害」に関する勉強会に出ましたが、今日は、岐阜で、正会員になっている認定NPO法人ムラのミライの年次総会に出席してきました。

ムラのミライの年次総会に出席したのは初めてで、これまではいつも委任状で済ませていました。

今回、わざわざ岐阜まで来て総会に出席したのは、前から一度総会に出席したいと思ったこともありますが、ムラのミライの事務局メンバーでまだお会いしていない方に実際に会いたかったことと、今後の私の福島での活動との関連で、ムラのミライの活動や手法を地域づくりの現場に引きつけたい、と考えたためでした。

ムラのミライは、対話型のメタファシリテーションという手法を広める活動をしています(オンライン・コーチングオンライン・レッスン自主学習ブログもあります。興味のある方はぜひ、トライしてみてください)。

ただ、その手法を学ぶ前に、日本の地域づくりの現場の現実を理解し、手法を云々する前の状況把握をする必要があると思います。私自身は、それを実際に福島で試みてみたいと考えています。

その意味で、今回、ムラのミライの本拠地であった飛騨高山に根付いて、地域づくりの活動を地道に続けてきた、創設メンバーのYTさんとお会いでき、しかも、1対1で色々とゆっくりお話できたのはとてもラッキーでした。そして、YTさんも、コミュニティの直面する課題には、ユニバーサルな共通性があるという認識を持っていらっしゃることもわかり、個人的にはとても勇気づけられました。

行きの新幹線の中で、今、話題になっている、Facebook創始者ザッカーバーグ氏のハーバード大学卒業式でのスピーチをネットでじっくり聴いたのですが、そこでも、ローカル・レベルでのコミュニティ再生からの出発、誰もが目的を持てる世界の構築、世界レベルで繋がって課題を解決していく、といった内容が、これから自分がやりたいと思っている活動やYTさんの考えとも関わる面がかなりあると改めて思いました。

それにしても、今日の移動は、やはり体にこたえました。明日から3日間は東京です。

高校時代の友人と38年ぶりに再会

今夜は、高校時代の部活の仲間3人と一緒に飲みました。彼らと会うのは高校を卒業して以来、実に38年ぶり。3人のうちの1人は、小学校、中学校、高校と一緒の友人です。

我々は高校時代、福島県立福島高校の男声合唱団に属していました。高校時代の話はもちろん、当時の友人たちや恩師の消息についても色々と情報交換しました。けっこう、たくさんの友人たちが東京周辺にいるようでした。

彼ら自身は、時々、年に数回、高校時代の友人たちと会っているようでしたが、海外へ行っていることの多い私とはほとんど接点がありませんでした。あるとき、友人のアカウントをフェイスブックで見つけ、連絡を取るようになって、今回のような、38年ぶりの再会となったのでした。

不思議な気分です。いったん会うと、38年の年月があっという間に消え、昔の自分に戻っていました。お互いに名前を呼び捨てにできる、高校時代の仲間との出会いというのは、やはり何ものにも代えがたいように感じました。

1000万袋以上の福島県産米を全量全袋検査、基準値越えは無し

マカッサルからいきなり福島の話へ移ります。

夜のテレビで、福島米の風評被害の話を取り上げていました。安全安心なのに、なぜ売れないのか、という話でした。

福島県では、出荷販売用だけでなく、自家用も含めて、県産米の全量全袋検査を2012年8月から実施しています。ここで採られている方法は、「ベルトコンベア式放射性セシウム濃度検査器」によるスクリーニング検査で、30キログラムの玄米袋を毎年1000万袋以上、検査しています。

スクリーニング検査について、福島県は以下のページで説明しています。

 全量全袋検査のスクリーニング検査

そして、2014年以降、すべての袋が基準値(100 Bq/kg)以下となっています。1000万袋以上のすべてが基準値以下、ということになります。そして、基準値の半分を超えるものについては、さらに、ゲルマニウム半導体検出器による詳細検査を行っていますが、その対象となったのは、2014年で、1000万袋以上のうちのわずか2袋でした。

日本で、福島県以外でこれと同じレベル以上の検査を行っている都道府県は、ほかにあるでしょうか。いや、世界であるでしょうか。

福島県産の米は、日本一、いや、もしかすると世界一、安全安心の米であると言えるでしょう。

農家Aさんの何年何月何日に出した玄米袋の米は基準値以下だった、というデータが2012年から蓄積されています。膨大な量の「基準値以下」データを福島県は取り続けています。

自分のところから基準値以上の米が出てしまったら、世間から「やっぱり福島は」と言われてしまう。風評被害が本当だったと思われてしまう。他の頑張っている農家から目の敵にされてしまう。

そんなことを思っていたかどうかはわかりませんが、全量全袋検査での基準値以下が当たり前となる状態を作るため、福島県の農家の方々は懸命に努力を重ねてこられたに違いありません。その努力は、私たちが認め、敬うべきものだと思います。

にもかかわらず、こうした現実を一切認めたくない人々が存在します。土壌が汚染されていないはずがない。スクリーニング検査の機械の精度がおかしい。データを捏造しているに違いない。

このような人々は、もう何を言ってもお手上げです。そういう人の何人が実際に福島の現場を訪れているでしょうか。自分の言っていることの間違いを認めればいいだけなのに。間違いを認めたくないがために、風評を流し続けているようにさえ見えます。

風評は、反論してなくなるものではないとも思います。データをきちんと残し、地道にコツコツと事実を積み上げて示していくしかないものです。その意味で、福島県が今もずっと米の全量全袋検査を続けていることは、面倒ではあっても、やらざるをえないことだと考えます。

この日本一、いや世界一厳しいかもしれない、福島県の検査手法は、おそらく、食の安全安心を確保するうえで、時代の最先端をいくものかもしれません。もしそうならば、日本が世界に誇るべき食の安全安心を確保する手法として、世界に輸出できるようなものではないか、と思ったりもします。

風評被害に悩む福島県の食の安全安心対策が、実は世界最先端であるかもしれないと考えると、この手法が世界で受け入れられることが、世界の他国での食の安全安心に貢献し、かつ、国内の風評被害を一掃することにつながるのではないか、と思うのです。

オセロのように、風評被害対策の一発逆転があるような気がします。

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