村を育てる学力、村を捨てる学力

ツイッターを眺めていたら、地域づくり関係で私が注目している方の紹介している言葉に目が止まった。そこでは、小学校の先生が黒板に書いた板書の写真が掲載されていた。
その言葉は、以下のようなものだった。

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 村を育てる学力

 

 私は、子どもたちを、全部村にひきとめておくべきだなどと考えているのではない。

 ただ私は、何とかして、学習の基盤に、この国土や社会に対する「愛」をこそ据えつけておきたいと思うのだ。みじめな村をさえも見捨てず、愛し、育て得るような、主体性をもった学力、それは「村を育てる学力」だ。そんな学力なら、進学や就職だって乗り越えられるだろうし、たとえ失敗したところで、一生をだいなしにするような生き方はしないだろうし、村におれば村で、町におれば町で、その生まれがいを発揮してくれるにちがいない、と思う。

 「村を捨てる学力」ではなく「村を育てる学力」を育てたい。

 「村を育てる学力」は、何よりも、まずその底に、このような「愛」の支えを持っていなければならない。それは、町を育て、国を育てる学力にもなっていくはずだ。
 村を育て、町を育て、国を育てる学力は、愛と創造の学力である。それは、村に残る子どもにとっても、町で働く子どもにとっても、しあわせを築く力となり、子どもたちの、この世に生まれてきた生まれがいを発揮してくれる力になっていくのだと、私は信じている。

「東井義雄 一日一言 いのちの言葉」より
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教育というものは、近代化の手段だった。教育を受けて得られる学力は、自分を古く遅れた世界から解放し、新しい進んだ世界へ導くものだった。だから、教育は子どもたちを伝統的で閉鎖的な世界から近代的で開放的な世界へ、すなわち子どもたちを村から町へ引き剥がしていくものだった。
多くの場合、それが進歩だと見なされた。東井氏の言葉で言えば、教育が授けたものは「村を捨てる学力」だった。
彼の人生を少し調べてみた。戦前は皇国教育を徹底した教育者だったが、戦争を経て、そこでの深い懺悔と反省のもとに、戦後は綴り方教育を通じて、主体性を持った子どもの教育を兵庫県の村で行い続けた。
彼の言葉には珠玉の響きがある。彼のたくさんの言葉に勇気づけられ、励まされた人々は、教育者をはじめとして、数多いことだろう。
なかでも、上に挙げた「村を育てる学力」で私が最も心を打たれた言葉は、「生まれがい」という言葉だ。
それぞれの子どもの「生まれがい」をとことん尊重する。そこに国土や社会に対する「愛」を育ませることで、主体的に自分の依って立つ「村」を大切に思う気持ちを促す。その子が村に残ろうが町へ出ていこうが、大事なのはその子たちの「生まれがい」が尊重されることなのだ。
村を育てる学力は、必ずしも村に残って頑張るための学力ではない。世界中どこにいても、村のことを思い続けて行動できるための学力である。その場所が、たとえ村でなくとも。
昨今の地域づくりの現場では、人口減少という深刻な状況に直面して、UターンでもIターンでもなんでもいいからとにかく人口を増やすにはどうするか、ということに関心が集中しすぎているきらいがある。そして、村の子どもたちにできるだけ村に居続けてもらうために、大人たちが子どもたちに対して、村の将来への過度な期待を半ば強制している様子もうかがえる。とくに、震災後、その傾向が強まった印象がある。
次の世代への期待は当然ある。でも、それが強すぎれば、そして表面的には子どもたちが健気にその期待に応えようとしているならばなおさら、どこかで無理が生じて破綻するのではないかと危惧する。なぜなら、そこには、大人の思惑はあっても、村に対する「愛」が大人にも子どもにも欠けているからだ。
村を育てる、という言葉は今や死語なのだろうか。市町村合併と高齢化が進み、村を育てるどころか、村を維持できるのかが切実な問題となってしまっているからだ。
そして、とくに行政上の効率の観点から、村を町へ糾合するような政策の流れも加速化している。村を育てる学力が必要な局面は、もうとうに過ぎてしまったということなのか。
東井氏の地元である兵庫県豊岡市では、兵庫県立の国際観光芸術専門職大学(仮称)の設立準備が進んでいる。国公立初、演劇を本格的に学べる兵庫県立の専門職大学で、兵庫県但馬地域を拠点に観光・芸術文化分野で事業創造できるスペシャリストを育成する、という目標を掲げ、学長に平田オリザ氏を招聘する計画のようだ。
平田氏は、東井氏の「村を育てる学力・村を捨てる学力」を意識しつつ、グローバル化に直面する今の教育が「国を捨てる教育」になるのではないか、との危惧を示している。この新大学をそれに対する新しい地域発の価値創造の場としたいのだろう。
それも良いのかもしれない。でも、今必要なのは、やはり、広い意味での「村を育てる学力」なのではないだろうか。村ではなく、広くコミュニティや地域社会や集団をも包含する「ムラ」と捉えたほうが良い。「ムラを育てる学力」を養うのは、学校だけでなく、コミュニティや地域社会や集団、もしかすると家族もなのではないか。
学力は授けられるものではなく、主体的に自分たちで学び取っていく力である。今必要なのは、自分から自分の依って立つ足元を学ぶこと。それは必ずしも、自分がそこに居続けなければならないということではないはずだ。たとえムラから離れていても、ムラのことを思い、それを踏まえて行動する。そして、そのムラは国境を越え、あるいは、世界中に複数のムラを抱いて生きる人々もいることだろう。
東井氏の「村を育てる学力」を「ムラを育てる学力」と言い換えて現代の文脈で考えたとき、その根本にあるのは、ローカルを基盤としつつもローカルに必ずしも留まらない、ローカルに「愛」を持った人々が様々なムラで活動する、そのための学力、ローカルへの「愛」に根ざした自分の頭で考える力、と言いかえることはできないだろうか。
「ムラを育てる学力」を育てたい、と改めて思った。
私が小学1・2年生の時に過ごした二本松市立原瀬小学校の旧校舎。当時、父はこの学校の校長で、2年間、この敷地内にあった校長住宅で過ごした。この松の木には数え切れないほど登って遊んだ。2012年3月9日撮影。東日本大震災で建物が危険な状態になり、旧小学校の建物は取り壊された。

ステイホーム、だからこそつながる

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ステイホーム。不要不急の外出を控える。行動自粛。友人や知人とも会わない。皆さんと同じように、私もそんな毎日を送っています。

動いてつなげるのが私の仕事のスタイル。でも、インドネシアへも福島へも行けず、東京の自宅で家族と過ごしています。

幸い、自宅の庭では、今、ツツジなどの花が咲いていて、なごみます。

そんななか、いつもお世話になっている「鳴子の米プロジェクト」から、追加でのお米の注文依頼が来ました。

同プロジェクトは、農家と消費者を直接結んで、消費者が農家を支えるCSA(Community Supported Agriculture)の実践で、「ゆきむすび」というお米を生産・販売しています。

「ゆきむすび」は在来の耐冷品種を復活させたものです。消費者へ直販することで、生産者が年々広がる遊休地・耕作放棄地でその在来品種を栽培し、消費者とともに地域の農業を守り、地域活性化を進める取り組みを続けています。
 鳴子の米プロジェクトのサイトはこちらから → http://www.komepro.org/
同プロジェクトは東京都内で、アンテナショップを兼ねた「むすびや」というおむすび屋さんを運営しているのですが、新型コロナの影響で閉店、そのために用意していた「ゆきむすび」が余ってしまいました。その余剰米を買ってほしいという注文依頼でした。
ちょうど、我が家でもお米を追加注文しようかと思っていたタイミングだったので、すぐに注文しました。来るのが楽しみです。
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続いて、福井県で農業を営む友人から連絡がありました。彼の農園からは、高級レストランなどのプロ用にベビーリーフを出荷してきましたが、新型コロナの影響でレストランが閉店し、行き場を失ってしまいました。
この行き場を失ったベビーリーフを、希望者向けに販売し始めました。1組(100g x 5袋)は通常価格1,890円(税込)ですが、それを972円(税込)の特別割引価格で提供します。
 ベビーリーフの詳しい情報はこちらから → https://nouen-taya.raku-uru.jp/item-detail/344199
彼のところのベビーリーフは、プロ用ということもあり、一般に売られているものとは明らかにモノが違います。こんなお買い得なベビーリーフはまずないです。
当面、200組を用意とのこと。注文はお早めに。
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物理的に友人や知人には会えないけれど、つながることは決して難しくはありません。きっと、個々人レベルでは、こんなささやかな思い合いが今、起こっていることでしょう。
何かあったときの思い合い。ステイホームがそれを妨げることはありません。
ステイホーム、だからこそつながるのかもしれません。そんな心の通う思い合いから、新型コロナ後に私たちが創りたい、新しい社会が垣間見えるのではないでしょうか。

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「ふるさと」をいくつも持つ人生

「ふるさと」を狭義で「生まれた場所」とするなら、どんな人にも、それは一つ鹿ありません。しかし、自分の関わった場所、好きな場所を「ふるさと」と広義に捉えるならば、「ふるさと」が一つだけとは限らなくなります。

人は、様々な場所を動きながら生きていきます。たとえ、その場所に長く居住していなくとも、好きになってしまう、ということがあります。それは景色が美しかったり、出会った人々が温かかったり、美味しい食べ物と出会えたり、自分の人生を大きく変えるような出来事の起こった場所であったり・・・。

どんな人でも、自分の生まれた場所以外のお気に入りの場所や地域を持っているはずです。転校や転勤の多かった方は、特にそんな思いがあるはずです。そんな場所や地域の中には、広義の「ふるさと」と思えるような場所や地域があるはずです。

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筆者自身、「ふるさと」と思える場所はいくつもあります。

筆者の生まれた場所であり、昨年法人登記した福島市。家族ともう30年近く暮らす東京都豊島区。地域振興の調査研究で長年お世話になっている大分県。音楽を通じた町おこしの仲間に入れてもらった佐伯市。留学中に馴染んだジャカルタ。かつて家族と5年以上住み、地元の仲間たちと新しい地域文化運動を試みたマカッサル。2年以上住んで馴染んだスラバヤ。

まだまだ色々あります。

今までに訪れた場所で、いやだった場所は記憶にありません。どこへ行っても、その場所や地域が思い出となって残り、好きという感情が湧いてきます。

単なる旅行者として気に入ったところも多々ありますが、そこの人々と実際に交わり、一緒に何かをした経験や記憶が、その場所や地域を特別のものとして認識させるのだと思います。

そんな「ふるさと」と思える場所が日本や世界にいくつもある、ということが、どんなに自分の励ましとなっていることか。

あー、マカッサルのワンタン麺が食べたい。家のことで困っている時に助けてくれたスラバヤのあの人はどうしているだろうか。佐伯へ行けば、いつまでも明るく笑っていられるような気がする。由布院の私の「師匠」たちは、まだ元気にまちづくりに関わっているだろうか。ウガンダのあの村のおじさんとおばさんは、今日作ったシアバターをいくら売ったのだろうか。

そんな気になる場所がいくつもある人生を、誰もが生きているような気がします。

昔見たマカッサルの夕陽(2003年8月10日、筆者撮影)
マカッサルといえば思い出す「ふるさと」の光景の一つ
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地域よ、そんな人々の「ふるさと」になることを始めませんか。自分たちの地域を愛し、好きになってくれるよそ者を増やし、彼らを地域の応援団にしていきませんか。

筆者がそれを学んだのは、高知県馬路村です。人口1000人足らずの過疎に悩む村は、ゆず加工品の顧客すべての「ふるさと」になることを目指し、商品だけでなく、村のイメージを売りました。何となく落ち着く、ホッとするみんなの村になることで、村が村民1000人だけで生きているわけではない、村外の馬路村ファンによって励まされて生きている、という意識に基づいて、合併を拒否し、自信を持った村づくりを進めています。

もしも、地域の人口は1000人、でも地域を想う人々は世界中に10万人だと考えたとき、そこにおける地域づくりは、どのようなものになるでしょうか。

その地域が存在し、生き生きとしていくことが、世界中の10万人の「ふるさと」を守り続け、輝くものとしていくことになるのではないでしょうか。

私たちは、そんな広義の「ふるさと」をいくつも持って、それらの「ふるさと」一つ一つの応援団になっていけたら、と思います。

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それは、モノを介した「ふるさと納税」を出発点にしても構わないのですが、カネやモノの切れ目が縁の切れ目にならないようにすることが求められるでしょう。

正式の住民票は一つしかありません。でも、「ふるさと」と思える場所はいくつあってもいいはずです。

いくつかの市町村は、正式の住民票のほかに、自らのファンに対してもう一つの「住民票」を発行し始めています。飯舘村の「ふるさと住民票」は、そのような例です。以下のリンクをご参照ください。

 飯舘村ふるさと住民票について

「ふるさと住民票」を10枚持っている、50枚持っている、100枚持っている・・・そんな人がたくさん増えたら、地域づくりはもっともっと面白いものへ変化していくことでしょう。地域はそうした「住民」から様々な新しいアイディアや具体的な関わりを得ることができ、さらに、その「住民」を通じて他の地域とつながっていくこともあり得ます。

こうした「住民」が、今、よく言われる関係人口の一端を担うことになります。それは緩いものでかまわないと思います。

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世界中から日本へ来る旅行者についても、インバウンドで何人来たかを追求するよりも、彼らの何人が訪れたその場所を「ふるさと」と思ってくれたか、を重視した方が良いのではないか、と思います。

それがどこの誰で、いつでもコンタクトを取れる、そんな固有名詞の目に見えるファンを増やし、それを地域づくりの励みとし、生かしていくことが、新しい時代の地域づくりになっていくのではないか。

奥会津を訪れる台湾人観光客を見ながら、その台湾人の中に、もしかすると、台湾で地域づくりに関わっている人がいるかもしれない、と思うのです。そんな人と出会えたならば、その台湾人と一緒に奥会津の地域づくりを語り合い、その方の関わる台湾の地域づくりと双方向的につながって何かを起こす、ということを考えられるのではないか、と思うのです。

飯舘村の「ふるさと住民票」を登録申請しました。そして、私が関わっていく、日本中の、世界中の、すべての地域やローカルの味方になりたいと思っています。

「ふるさと」をいくつも持つ人生を楽しむ人が増え、地域のことを思う人々が増えていけば、前回のブログで触れた「日本に地域は必要なのですか」という愚問はおのずと消えていくはずだと信じています。

ムラのミライの年次総会に出席

6月10〜12日は、関西へ出張で来ています。

本日(6/10)は、大阪駅近くで開催された、特定非営利活動法人 ムラのミライの年次総会に出席しました。筆者は、ムラのミライの正会員としての出席でした。

ムラのミライの活動については、以下のリンクをご参照ください。

 ムラのミライ ホームページ

インド、ネパール、セネガル、日本での活動報告の後、年次総会へ移り、2017年度の事業総括と2018年度の活動計画が協議されました。

活動の担い手が世代交代しつつあり、若手の理事たちがしっかり活動を支えている様子を頼もしく感じました。それを、ベテランが支える構図となっています。

個人的には、今後、メタ・ファシリテーション講座を福島などで開催し、その手法を土地に根付かせていきたいと思いました。そして、できれば、中学・高校の教師や大学の先生などで、この手法に興味を持ち、若者にそれを広められる人材を作っていきたいとも思いました。

これらについては、今後、しっかし検討していきたいと思います。まずは、福島でのメタ・ファシリテーション講座の開催へ向けて、準備を進めたいと思います。

十条でバクテとポテヒ

11月4日は、友人と一緒に、東京の十条で、バクテとポテヒを堪能しました。

まず、バクテ。肉骨茶と書いたほうがいいのでしょうが、マレーシアやシンガポールでおなじみの、あの骨つき豚肉(スペアリブ)を様々な漢方原材料の入ったあつあつのスープで食べる定番料理。これを食べさせる店が十条にあるので、行ってみたのです。

味はオリジナルと濃厚の2種類。濃厚味はニンニクが効いていて、オリジナルのほうがマレーシアのものに近い感じがしました。

次の写真は、濃厚に豚足などを入れたバクテ。日本では、スペアリブより豚足のほうが入手しやすいからなのでしょうが、バクテといえば、やはりスペアリブですよねえ。

この店は、マレーシアのエーワン(A1)というバクテの素を売るメーカーと提携している様子です。エーワンのバクテの素は、我が家ではおなじみのもので、その意味で、今回のバクテは、とくに際立って美味しいという感じのするものではなく、フツーに美味しかったです。

さて、バクテを食べた後は、ポテヒです。ポテヒというのは、指人形劇のことで、東南アジアの各地で見られます。今回のポテヒは、マレーシア・ペナンの若者グループであるオンバック・オンバック・アートスタジオによるものでした。

演目は、おなじみの西遊記から「観音、紅孩児を弟子とする」と題した伝統作品と、創作作品の「ペナン島の物語」の2本。いずれも、30分程度のわかりやすい演目でした。

下部に翻訳や映像が映し出され、観客の後ろでは、パーカッションや管弦楽器による音楽が奏でられます。

下の写真は、伝統作品のもの。

「ペナン島の物語」は、ペナン島の多民族文化・社会の多様性と融合を、いくつかの場面を組み合わせながら示したものです。

マレーシアの地元の若者にとって、ポテヒは古臭く、人気のないもののようです。それでも、今回の公演はなかなか楽しめるものでした。

何よりも、ペナンの若者たちが、多民族文化・社会が共存するペナンのアイデンティティを大事にし、それを先の世代から受け継いで発展させていくという行為を、このポテヒを通じて示していたことが印象的でした。

こうしたものに対して、日本をはじめとする外国からの関心が高まることが、ポテヒを演じる若者たちを支えていくことになるのかもしれません。

11月5・6日は、池袋の東京芸術劇場「アトリエ・イースト」で公演とトークが行われます。5日は15:30から、6日は19:00からです。無料ですが、公演賛助金(投げ銭制)とのことです。よろしければ、ぜひ、見に行かれてみてください。

よろしくね、仙台

今日は、私の勝手に師匠Nさんと友人Sさんにお会いするため、福島から仙台へ日帰りで行ってきました。そして、面会の前に、せっかくなので、少し仙台の街中を歩きました。

福島から仙台までは、おおよそ30分おきに高速バスが走っていて、片道1100円、JRの普通運賃と同額ですが、往復だと割引が入って1900円となります。所要時間は1時間余で、JRの普通電車よりもやや短いです。便数の多さと安さで、高速バスのほうがずっと便利に見えます。

往復のチケット(回数券)は上記のような2枚綴りで、福島駅東口の高速バス乗り場で販売しています。

仙台まで福島から往復1900円ならば、福島から仙台へ気軽に買い物に行けますよね。福島市内の商店街が廃れていく原因の一つのように思えます。

実は山形に行った時、宮城県出身の大学生は山形市内に下宿せず、毎日、高速バスで通うのだと聞きました。地理的に遠い福島県出身の大学生は山形市内に下宿するのですが。

今日の仙台は、街中のあちこちでイベントが行われていました。

一番町アーケードでは、みやぎ総文2017と南東北総体2017という、高校生の全国イベント開催100日前のイベントが行われていました。仙台二華高校(宮城二女高の後継、今は男女共学・中高一貫らしい)の合唱は、とっても楽しそうでした。

アーケードでは、高校生が道行く人に「創造の短冊」への記入を勧めていました。七夕のときに短冊を飾るのだそうです。

定禅寺通りの中央分離帯通路では、東北コーヒーフェスティバルと題して、様々なコーヒースタンドが自慢のコーヒーを通行客に振舞っていました。

勾当台公園では、東北ワインフェスというのをやっていました。

錦町公園では、アースデイの催し物が行われていました。

仙台市内の桜(ソメイヨシノ)はもう終わっていて、花の小さい八重桜が少し咲いていました。

街を歩いていても、あまり人とは会わなかったのですが、一番町などのアーケードと定禅寺通り中央分離帯通路は結構すごい人出で、そのコントラストを強く感じました。とくに、アーケードではたくさんの若者たちが歩いていたのには驚きました。

晴れてはいるものの、風の冷たい一日でしたが、楽しく歩き回ることができました。明らかに、ちょっと垢抜けた雰囲気があり、趣向を凝らしたカフェなどがいろいろ見られました。きっと、福島市から遊びに来ると、仙台の街を新鮮に感じるだろうなと思いました。

東北における仙台の役割、仙台と山形や福島の関係、仙台に集まる若者たちのエネルギーをどう活用するか、など、勝手に色々なことを考えていきそうな気配です。

でも、個人的には、もうちょっと仙台にも馴染みたいと思いました。近々、きっとまた来ることでしょう。よろしくね、仙台。

松井グローカル合同会社を設立

本日(2017年4月11日)、福島地方法務局に法人登記申請をいたしました。したがって、本日が松井グローカル合同会社の設立日となりました。

これまで、「松井グローカル」の名前で活動してきましたが、ステータスとしては個人事業主であり、「松井グローカル」は屋号でした。今後は「松井グローカル合同会社」という法人として活動してまいります。基本的には、これまで同様、私1人だけの会社(従業員なし)の形となります。

福島地方法務局によると、登記完了は4月20日午前ということで、実質的な活動はそれ以降となりますが、これから少しずつ、本格的な活動へ向けての準備を進めていきます。

定款の中で定めた事業の目的は以下のとおりです。

1.国内外での地域づくりに係る調査、アドバイス、コンサルティング
2.国内外でのビジネス支援に係る調査、アドバイス、コンサルティング
3.国内外での国際協力に係る調査、アドバイス、コンサルティング
4.国内外での地域づくり、ビジネス支援、国際協力に係る交流・連携支援
5.インドネシア等の政治・経済・社会等に関する調査・分析・情報提供
6.セミナー、ワークショップ、研修、会議等の実施運営、講演・ファシリテーション
7.前各号に付帯関連する一切の事業

「ローカルとローカルをつないで新しいモノやコトを創り出す触媒となる」という自分のミッションを掲げた以上、活動の軸足をローカルに置く必要があると考え、故郷の福島市で登記申請を行いました。これは、前々から考えてきたことでもあります。

今後は、福島市を主拠点とし、東京、マカッサル、ジャカルタなどを副拠点としつつ、これまで通り、日本や、インドネシアをはじめとする世界の必要とされている場所で必要とされる活動を行い続けていきたいと思います。

そして、福島を含めた個々のローカルが自らの力を高め、国境や宗教や種族を越えて互いに尊重し合い、学び合い、活動し合う関係を築けたら、もっと温かく、もっと楽しく、もっと面白い未来が開けてくるのではないかと思います。

まずは福島から始めます。松井グローカル合同会社を通して、そんな仲間を世界中に作り、一緒に未来を作っていく旅を始めます。

(上記は、松井グローカルのホームページに記載したものと同じ内容です。ご了承ください)

友人とスラバヤ街歩き(2)

プネレ墓地周辺を歩いた後、スラバヤ街歩きの友人I氏のバイクにまたがって、スナン・アンペルへ行きました。ここは、アラブ人街として知られているところで、観光地としても人気があります。

まず、スナン・アンペル地区の地区長をすでに30年以上も務めている、町の顔とでもいうべきC氏にご挨拶。普通ならば地区長に型どおりの挨拶をして、すぐに歩き始めるのですが、C氏はとても話好きで、スナン・アンペルに関する話が止まりません。友人I氏ともとても親しい様子です。

しばらく歓談して、友人I氏と歩くのかと思ったら、C氏も一緒について来てくれることになりました。私はスナン・アンペルは2回目の訪問だったのですが、実際、スナン・アンペル地区の主ともいうべきC氏と一緒に歩くと、また違ったものが色々見えてとても面白かったです。

C氏の家がある通りは下の写真のようなのですが。

一つ向こう側の通りに入ると、店が並んで人通りが多くなります。

スナン・アンペル大モスクの裏にも行ってみました。前回は行かなかったところです。人で溢れています。参拝者は24時間訪れ、とくに休息日の金曜の夜はたくさんの参拝者で大にぎわいとなるようです。

モスクの敷地内にあった古い墓は、墓標のみを残して、柵の向こうに新たに移されました。

人々が「聖水」の入った壺に群がっています。でもC氏によると、その聖水たる所以は明らかではなく、飲用に適するのかどうかを計ったこともないので、その辺のただの水ではないか、それを有難がって飲んでいるのはよくわからん、と言っていました。

敷地の隅にチャオ氏の奥さんの家族の墓があります。チャオ氏は華人系でアンペル地区の地主の一人です。

アンペル地区の最大の地主だったのは、アラブ系のバスウェダン一族で、現在、ジャカルタ州知事選挙に出ているアニス氏はその子孫にあたります。

スナン・アンペル大モスクにつながる商店街とその入り口。

この入り口の門の欄干、AMPEL SUCIと書かれた両側を磨いたところ、ジャワ文字が彫られているのが最近発見されたそうです。でも、古代ジャワ文字なので、まだ解読されていないのだとか。

商店街の中にある小さな礼拝所。電光掲示板の数字もアラビア語表記です。ふと見ると、右側にあの人の来訪を告げるビラが貼ってありました。

スナン・アンペル地区も、古い建物が壊され、新しい建物に建て替えられていますが、古い建物もまだ残っています。その一つは、香辛料の販売と調合を行う店でした。香辛料を調合したマサラコーヒー(Kopi Rumpah)も売っています。

実は、私もよく行った、ジャカルタの某有名インド料理店で使うスパイスは、この店から供給されているのだそうです。先代がインド人からスパイスの調合の仕方をじかに習って習得したとのこと。

スナン・アンペル地区を歩いて、最後は、50年以上前からあるという、サルカムという小食堂で緑豆カレー(Gulai Kacang Hijau)。でも豆だけでなく、肉(おそらくマトン)も一緒に入っており、マリヤム・パンと一緒に食べました。C氏は、パンをちぎってカレーの中に入れてから食べよというので、そうしてみました。うーん、美味しい。

C氏にお礼を言い、I氏のバイクにまたがってホテルまで送ってもらい、今回の街歩きは終了しました。スラバヤには、まだまだ自分の知らない面白い場所がありそうで、今後も機会があれば、街歩きを続けたいと思います。

そして本日(4/2)夜、スラバヤまで迎えに来てくれた別の友人の車に乗せてもらって、マランへ到着しました。

友人とスラバヤ街歩き(1)

アパートの部屋の契約が終了し、マランへ行くまでスラバヤで過ごすのは今日土曜日と明日日曜の半日。そこで今日は、スラバヤ街歩きの友人I氏と一緒に、プネレ墓地周辺とスナン・アンペルの二箇所を歩きました。

ホテルに迎えに来てくれたI氏のバイクの後ろに乗って出発。最初に訪れたのは、プネレ墓地です。

この墓地は、オランダ植民地時代の墓地で、埋葬されているのはオランダ人が多いのですが、他にもドイツ人などの西欧人、アルメニア人なども埋葬されています。

すでに1920年代に埋葬は停止され、現在までに、亡骸のほとんどは別の場所へ移動されているとのことです。所有者が全て判明した後は、公園にする計画があるようです。広さ15ヘクタールもあります。

下の写真は、火葬場の跡。

1841〜1844年に蘭領東インド総督を務めたPieter Merkusの墓もありました。
そのすぐ近くに、墓標の朽ちた小さな墓があります。この墓は、蘭領東インド専属写真家のOhannes Kurkdjianというアルメニア人の墓で、蘭領東インドの今の残る写真のほとんどは彼の手によるものだそうです。
このプネレ墓地周辺には昔からバリ人が多く住んでいます。実は、初代大統領のスカルノもこの近くに住んでいました(厳密にはプネレ地区ではないようです)。スカルノはスラバヤのこの辺りで生まれ、母親はバリ人ですので、バリ人コミュニティの存在が安心感を与えたのかもしれません。
たしかに、ここからバリ島のシンガラジャやデンパサールへの直行バスが出ていますし、スラバヤで最も有名なバリ風のナシ・チャンプルの店もこのプネレ墓地のすぐそばにあります。
このプネレ地区は、墓地があるためか、以前から葬儀関係の仕事を行う人々が多い場所のようです。しかし、近年、プネレ地区から他所へ移っていく人が増え、バリ人集落としての一体感がなくなってきている様子です。
このプネレ地区で、I氏の友人のK氏がコーヒーとジャムゥ(ジャワの伝統薬用飲料)を出すカフェを1年ほど前から開設し、ちょっとしたコミュニティスペースになっていました。今回も、ちょうど、女性を対象にしたSNSに関する研修会が行われていました。
このカフェの建物は、植民地時代は植民地官吏の家だったそうです。
K氏はもともと地元紙の新聞記者だったのですが、スラバヤの伝統や歴史に造詣が深く、新聞記者を辞めて、カフェを運営するとともに、伝統や歴史を生かしたTシャツや雑貨を製造販売しています。カフェの裏に作業場があり、今はちょうど、政治団体向けのTシャツを作っているところでした。
ふと見ると、日本語で書かれたこんなものも。
I氏やK氏とスラバヤの都市としての発展の歴史や今後の課題などについて、いろいろと意見交換をしているうちに、気がつくと2時間近くもダベっていたことに気づきました。
一息ついたところで、再びI氏のバイクの後ろにまたがり、スナン・アンペルへ向かいました。この続きはまた次回。

六本木で見つけた一味違う散歩道

今日は午後、六本木の某所で民間企業の方と面会した後、夜の飲み会まで時間があったので、赤坂アークヒルズ付近から国立新美術館まで歩いてみました。

渋谷へ向かう大通りである六本木通りをあえて通らず、一本、中へ入った細い道を歩いていきました。首都高が通って日陰の多い六本木通りとは違って、この細い一本道には日が当たり、しかも車が通らない、歩きやすい道でした。

永昌寺の前を過ぎて妙像寺の角を右へ曲がり、少し坂を上り、突き当たりを左へ曲がって、高級マンションを見ながらすぐに右へ曲がると、檜町公園に出ます。檜町公園では、親子連れが楽しそうに過ごしていました。

檜町公園には「富士山」もありました。

檜町公園からそれとつながったミッドタウンガーデンの前を通り、ふと振り返ると、つぼみが膨らみ始めた桜の木の向こうに、東京タワーが見えました。

ミッドタウンの西側へ出て、右へ曲がってしばらく外苑東通りを歩き、乃木坂郵便局の次の角を斜めに左へ入ります。この通りは高級マンションが多く、私道なので、車輌の通行は制限されているのですが、歩くのにはちょうどいい感じの気持ちのよい道です。

でも、前を見ると行き止まり。その行き止まりの先に、歩行者と自転車のみが通れる通路があり、その脇に丸い筒状・チューブ状の道路のようなものが。

そのまま進んでいくと、眼下に大通りが見え、階段を下りていくとすぐに乃木坂駅。

さらに100メートルほど進んで、国立新美術館に着きました。ここまでで、赤坂アークヒルズ付近から20分ほどでした。
入口から入ると、木々に赤い水玉模様の布が巻かれていました。すでに、草間彌生展の世界が始まっていました。

国立新美術館の斬新な建物。私も含めて、写真を撮る人がたくさんいました。

当日入場券を求めようとする人々がずらっと並んでいて(真ん中の木の後ろが入場券売場)、ちょっと萎えましたが、並んだら意外に早く入場券を買えました。

今回観たのは、草間彌生展ではなくミュシャ展のほうです。けっこうな数の人がいましたが、「スラブ叙事詩」は大作で絵が大きいので、じっくり見ることができました。ミュシャの奥深さを感じることができる展覧会でした。

会場を歩き回ってちょっとくたびれ、急激に空腹感を覚えたので、夜に宴会があるにもかかわらず、夕方に、有楽町の慶楽で牡蠣油牛肉炒麺を食べてしまいました(吉行淳之介の定番だったとか)。ここの炒麺はいつ食べても美味いです。

お腹もちょうど良くなり、夜の宴会に出席しましたが、午後の六本木の一味違う散歩道の面白さに比べれば、刺激は少なく感じられてしまいました。幹事さん、ごめんなさい。

天狼院書店を知ってしまった夜

今夜、東京の我が家からのお散歩エリア内に、ユニークな本屋があることを知ってしまいました。その名は、天狼院(てんろういん)書店。3年前に開店していたのに、今まで知りませんでした。しかも、東京のほか、福岡と京都にもあるのですね。

池袋駅から雑司ヶ谷霊園の方へ向かう東(あずま)通りをまっすぐ歩き、都電とぶつかる手前の右側の建物の2階にあります。
中に入ると、ちょうど、10人ぐらいの男性が集まっていて、「宇宙戦艦ヤマト」に関する話を熱く語り合う催しの最中でした。男性ばっかりでした。
真ん中に談話や議論のできるテーブルと椅子の置かれたスペースがあり、その周りに面白そうな本がたくさん並んでいました。

入り口を入ってすぐ左側の棚には、天狼院の秘本シリーズが6巻まで置いてあります。この秘本の中身を見ることはできないのですが、中身は素晴らしいことが書いてあるという話らしく、中身が分からないにもかかわらず、けっこうな部数が売れているようです。
装丁にも一切内容を類推できるような文字もなく、チラ見もなく、買ってみてからのお楽しみ、という売り方がなかなか面白いです。
店の右側には畳が2畳分ぐらい敷かれ、その上にコタツが置いてありました。コタツ、いいですよね。うだうだとくつろげる部分空間が作られているのでした。
男性ばかりの「宇宙戦艦ヤマト」談義にはとくに惹かれるものはありませんでしたが、このような居心地の良い空間の使い方をし、店主体でイベントや部活もする、カフェもあるという、この店のユニークな本屋ぶりにとても興味をそそられます。
今、全国で小さいけれどもユニークな、こだわりの本屋(+カフェ)が増えているようですが、私も、自分オリジナルのこんな空間を作ってみたいと思いました。
そもそも、今日は、一風堂池袋店の味噌赤丸ラーメンが2月いっぱいで終了するので、その前に食べておきたい、という娘のリクエストで池袋へ出かけたのでした。
味噌赤丸を満喫した後、妻も娘も前々から気になっていた天狼院書店へ様子を見に行ったのでした。自分の身近なところに、まだまだ面白いものがありそうです。

「勝手に師匠」を囲む会に出て

みぞれ混じりの冷たい雨の中、東京に来訪した私の「勝手に師匠」を囲む会に出席しました。友人から声をかけていただき、行ってみると、初めてお会いする方々もいて、なかなか楽しい会となりました。

私が「勝手に師匠」とお呼びする方は何人かいますが、今回のこの「勝手に師匠」は、地域の人々が主体となり、自分たちで自分たちの地域を元気にしていく手法を私が学んだ方でした。

「勝手に師匠」と勝手に名付けているのは、私が彼から直接教えを受けたわけではなく、彼のやり方を私が勝手に学んだためでした。私がこのやり方に出会ったのは今から16年前でした。

そして、どうしても本人に会いたくなり、2003年頃、勤務先の有休をとって、この「勝手に師匠」と、もう一人別の私の「勝手に師匠」も参加するある会合へ出るため、盛岡市まで追っかけをしてしまいました。そのときには、2人の「勝手に師匠」本人に会えた喜びで、とても嬉しく、感激したことを思い出します。

その後、インドネシアでその手法を使ったフィールド・ワークショップを3回、別々の農村において1泊2日で試行しました。JICA短期専門家として行ったのに、その手法でワークショップを行うと、その最後に、日本に援助を求めるような発言は村人から出てこないのでした。3回ともそうでした。

この手法は、外部者が関わることで、内部者が自分の足元に目を向け、自分たちの地域をもっとよく知ることによって、自分たち自身が地域を良くしていく主体であることを自覚して動く大事なきっかけを生み出します。

この手法は今こそ、日本の、そして世界中のコミュニティで必要とされているのではないかという確信があります。外部者がコミュニティ開発プロジェクトをスムーズに進めるための道具ではなく、そこのコミュニティの住民自身が自分たちで動いていくための手法なのです。このため、自分たちにとって楽しく、面白く、興味深いものでなければ、持続しないことになります。

大学の研究者にもこの手法を教える方がいらっしゃいますが、多くの場合、論文を書いたらおしまいで、外部資金がなければ、実践も含めた形で継続的に関わるケースは意外に少ないのではないか、という話が出ました。

私自身は、日本のローカルでも、他国のローカルでも、様々な形で、身近なところから実践していきたいと考えています。その際、自分が別に学んできたファシリテーション手法も合わせながら、より効果的なやり方を試みていきたいです。

この手法は、地元学といいます。きっと、ご存知の方もいらっしゃることでしょう。

2001年に地元学と出会ったことが、その後の私の人生に大きな影響をもたらしました。

その意味で、「勝手に師匠」には勝手に深く感謝しています。まだまだ不勉強ですが、折に触れて、厳しく見守っていただけるよう、精進していきます。

我が家の梅が咲き始めました。

1月12日、マラッカを歩く(3ー了)

いろんな博物館があるものだなあと思いながら、橋を渡って、マラッカの古い街を歩きました。

橋を渡ったところに、街の雰囲気を壊さないように配慮したと思われるハードロック・カフェがありました。

さらに進むと、鄭和マラッカ来訪611周年を祝う垂れ幕が掲げられ、その上部にマレーシアと中国の国旗が描かれていました。

ジョンカー・ウォークと名付けられた街歩きをしているわけですが、古い街並みが続きます。その多くは、飲食店や商店として活用されています。

通りに面した建物の間口は狭く、鰻の寝床のように奥が深い、華人系の建物の特徴を表しています。

福建会館がありました。この種の会館も多数見られます。

しばらく歩くと、マラッカで最も古いモスクがありました。Masjid Kampung Klingという名前で、1748年にスマトラ式建築で建てられました。ヒンドゥー寺院のような尖塔、床に敷かれた西洋風のタイル、西洋風シャンデリアのようなランプ、インド風あるいは中国風の壁の彫刻など、モスクとはいえ、他からの様々な影響を受けた様子がうかがえます。

その隣には、ヒンドゥー寺院がありました。Sri Poyatha Venayagar Moorthi寺院で、1781年に建てられました。門が閉まっており、残念ながら中には入れませんでした。

さらにその隣は、華人系の増瀧会館で、ここは、イスラム、ヒンドゥー、中国仏教の3つが隣同士で並んでいるところなのでした。

そこから西へ少し歩くと、マラッカ、いや、おそらくマレーシア最古の華人廟である青雲亭(Cheng Hoon Teng)があります。1673年、中国人が初めてマラッカへ入植した頃に建てられた廟で、観音像を中心に道教、儒教、中国仏教が平等な位置に置かれています。

そこからすぐの場所には、伝統的な高床式住居があり、人が住んだまま保存されていました。高床式といっても、南スラウェシのブギス族のものに比べると、地面からの距離は随分と少ないです。

高床式住居から少し奥に入ったところに、Syamsudin Al-Sumatraniの墓があります。彼は、Sultan Iskandar Muda治世下のアチェ王国の著名な学者・著述家でした。彼は、ポルトガルの占領されたマラッカを解放するためアチェから派兵された軍隊に加わり、マラッカで戦死し、ここに葬られているということでした。

今回は、わずか3〜4時間という時間の関係で、マラッカの古い街歩きもハイライトのみでした。次回来るときは、他の道や路地裏をゆっくりと探検したいところです。でも、昼間歩くのは暑くて、かなり堪えそうな予感がします。

街歩きの最後は、マラッカで有名な庶民的インド料理店Selvamでのランチでした。テーブルに敷かれたバナナの葉の上に、ご飯やおかずが載せられ、追加で他のカレーや揚げ魚などを注文します。ご飯とカレーは「お替りいかがですか」と何度も聞かれます。食事が終わったら、バナナの葉を半分に折ります。うーん、満腹、美味しかった!

1月12日、マラッカを歩く(2)

パウル教会跡の丘を下りて門を出ると、2004年にできたマラッカ独立花公園(Taman Bunga Merdeka Bandaraya Melaka)があります。子ども用の遊具も置かれた普通の公園ですが、その真ん中に、周囲を囲まれた黒いポールが立っています。

これは、ザビエルがマラッカに上陸した場所だそうです。つまり、以前はここまでが海だったということです。黒いポールについての説明は何もありませんでした。

パウル教会跡の丘の下には、幾つもの古い建物がまだ残っていますが、その多くは今は博物館として使われています。その数がけっこうありました。

マレー・イスラム世界博物館(上写真)の前には、キティちゃん風船がいっぱいのリキシャーが客待ちをしていました。

マラッカ・イスラム博物館(上写真)。

マレーシア建築博物館(上写真)。

マラッカUMNO博物館(上写真)。UMNOとはマレーシアの与党です。

パウル教会跡の丘の上には、こんな博物館もありました。

民主政府博物館。この建物は、マラッカ州知事公邸(ちょっとあやふやですが)として使われていたそうです。

いろいろな博物館がありましたが、それらのうちのどれがお勧めなのか、どなたか教えていただけると嬉しいです。次回、マラッカを訪問した際に、行ってみたいと思います。

1月12日、マラッカを歩く(1)

マカッサル滞在もあとわずかですが、少し時間があるので、1月12日のマラッカ訪問の話を半分ぐらい書いておきます。

クアラルンプールからマラッカまでは、意外に近かったという印象があります。高速バスでKLIA2からマラッカ・セントラルまで2時間、マラッカ・セントラルからクアラルンプールのTBSまでも2時間、でした。クアラルンプールからならマラッカは十分に日帰りできる距離で、今回も数時間の滞在でしたが、できれば1泊してゆっくり回りたいものだと思いました。

KLIA2からバスで到着後、マラッカ・セントラルで友人とおちあい、マラッカ・セントラル内にある荷物預り所にスーツケースを預けて出発。まずはバスで市内中心部へ(バスは30分に1本ぐらいしかないようです。料金1リンギット)。
バスを降りて少し歩くと、マラッカ川の橋のところに出ます。ここからマラッカ川沿いの歩道を歩いて行きます。ウォーターフロントをきれいにした様子で、昔に比べると川がずっときれいになったのだそうです。
川沿いの建物には、マレーシアの諸民族の絵が描いてありました。

「ここで写真を撮れ」という看板もありましたが、何が被写体としていい景色なのかは不明です。
「1万歩歩きましょう」という看板もありますが、そのような人は誰も見かけませんでした。
しばらく行くと、1845年に建てられた聖フランシス・ザビエル教会(カトリック)が現れました。
ここには、日本へも布教に来たザビエルの像(下写真の右側)の隣に、やじろうの像(下写真の左側)が立っています。
やじろうは今の鹿児島県の出身で、ザビエルを日本に連れてきたという通訳の人物です。海賊の出身とも言われますが、その生涯は多くの謎に包まれているようです。
聖フランシス・ザビエル教会の内部。

しばらく、赤い色の建物の通りを歩いたその先には、やはり赤い建物のマラッカ教会(オランダ時代の1753年に建立)が建っていました。
このマラッカ教会の脇から小高い丘の上へ登っていきます。
丘の上にもザビエルの像がありました。やじろうと一緒の像とはちょっと趣の異なる感じがします。
丘の上には、破壊されたセントポール教会(ポルトガル時代に建立)の跡がありました。ザビエルがマラッカに到着した1545年頃に建てられた教会で、ザビエルの死後、1553年に遺骸がこの場所に保管されたそうです。その後、イギリス統治下で破壊されましたが、それをラッフルズが批判して途中でやめさせたということです。
ザビエルの遺骸が安置された場所は、金網で覆われていました。
内部には墓碑がいくつもあり、その中には、日本人のものと思われる墓碑もありましたが、上部にはドクロ・マークが。
丘から下ると、オランダ人の墓があります。
坂を下りていくと、やはり破壊された門の跡がありました。
丘の上から見たマラッカ死骸ですが、ポールから向こうは、かつては海だったところを埋め立てて、新しい市街地を作ったということでした。
マラッカの支配者がポルトガル、オランダ、イギリスへと変わっていった様子が残された建物からうかがえます。そして、その眼下には、新しいマラッカの街並みが広がっていて、列強による植民地時代から一気に現実へ引き戻されるような、そんな感覚を持ってしまいます。

今必要なのは「縮充」という考え方

人口が減少し始めた日本。老齢人口がますます増加する反面、若年人口がどんどん減っていきます。働ける人口の絶対数が減り続けていく日本で、今も、経済成長の必要性を強調する議論が強いように感じます。

今の日本の経済成長は、農林水産業や製造業のような、モノを作ることで果たせる状況ではありません。生産性を高め続け、技術上の工夫に工夫を重ねた末に、農業者や林業者や漁業者の後継者が少なくなり、中小企業者が子供に継がせられない状況が増えています。
一部の高付加価値製造業やソフト分野を中心としたサービス業が日本の経済成長を支えていくといいますが、その一方で、今後成長するアジアからのインプットなしに経済成長は難しいという側面も指摘されています。
そこまでして、我々は経済成長を必死で追い求めなければならないのでしょうか。経済成長しなければ、我々は生きていけないのでしょうか。経済成長しなければならない、という強迫観念のようなものさえ感じてしまいます。
今、我々に必要なのは、身の丈を知ること、かもしれません。
人口が減少する中で、我々が生きていくうえで必須なものとそうではないものとを峻別し、必須でないものを追い求めない生活を心がける必要があるのではないでしょうか。
たとえば、新しい携帯電話や自動車が販売されるたびに買い換える、新しいキャラクターが現れるたびにゲームを購入する、といった行為は、生存に必須とは必ずしも言えないでしょう。家電製品の人間の声でお知らせする機能は本当に必要なのでしょうか。
モノを売る側は、何とかして消費者の購買欲を喚起し、新しいものを買ってもらおうとします。それによって需要を作り、そのモノを生産することで企業としての存続と成長を図ろうとします。
3回着たらボロボロになるシャツしかなければ、人はそれを買わざるをえなくなります。一度買ったら10年もつようなシャツばかり作っていたのでは、生産設備の稼働率が上がらず、生産し続けられません。
また、最近の家電製品は、自前で修理することができないことが多いようです。肝心の制御部分がブラックボックスとなっており、修理屋が立ち入れなくなっていて、多くの場合、修理する費用も高いので、新しく製品を買わざるをえなくなります。製品もどんどん生産・販売終了となり、古い部品はすぐにない状態になります。
今の日本では、インドネシアに見られるような家電製品や機械の修理屋さんをあまり見かけないような気がします。頑丈で長持ちする良質の製品というのが日本製の特徴だったはずですが、そのような製品では、消費需要を喚起し続けられなくなったということなのでしょう。
そのような、生産者側からの需要喚起に踊らされているのが我々消費者で、政府からも、もっと物を買え、と促されています。でも、ほとんどの必需品は揃い、もうそんなに新しく物を買わなくてもいいような気がします。
人口が減少し、人々が物を買わなくなるのは、ある意味、自然なことであって、それを問題視するのではなく、そのような状況に合わせた経済のあり方を考えていかなければならないのではないでしょうか。
実際、東日本大震災のとき、これで日本が終わる、と思いました。いつ何時、自分たちの享受する反映した社会が終わるかもしれない、と思ったがゆえに、1日1日の生活を大事にし、物質的な豊かさよりも他者とのつながりや自分を含めたみんなの幸せを大切にしよう、と心に誓って、生き方を変えようとした人々が多数いたはずです。
でも、世の中は何も変わっていなかったように見えます。相変わらず、政府は「経済を成長させる」の一点張り。要らない需要を無理やり創って消費者を煽るよりも、今あるものの本質的な中身を充実させることに注力すべきではないでしょうか。
山崎亮氏の最新刊「縮充する日本:「参加」が創り出す人口減少社会の希望」を読みました。今、日本に必要なのは、この「縮充」という考え方ではないか、と思います。
我々も、自分の身の丈にあった形で、自分たちの生活をどう充実させていくか、他人ではなく、自分の足元を見ながら考えていく時が来ているのだと思います。

シンガポールのニューウォーター(新生水)

11月26日、ジョグジャカルタから帰国する前に、久々にシンガポールに寄りました。お目当ては、もちろん食べ歩きなのですが、それ以外に、在シンガポールの友人が面白いところに連れて行ってくれました。

それは、シンガポール・ニューウォーター・ビジターセンター。シンガポールの水道公社が行っているニューウォーター(新生水)を一般向けに紹介する施設です。

このニューウォーターというのは、一言で言えば、リサイクル水のことです。シンガポールが水を確保する方法は、(1) マレーシアから買う、(2) 雨水などをため池に貯める、の他に、(3) ニューウォーター(リサイクル水)を生産する、があります。

ニューウォーターは、下水をろ過し、殺菌し、蛇口からそのまま飲める状態にして、浄水へ還元する水です。ビジターセンターでは、その工程を学ぶことができます。

そこでは、まず、下水をマイクロフィルターでろ過、次に逆浸透膜(RO膜)を通して水に含まれる不純物を取り除き、最後に紫外線消毒をすることで、ピュアな水を生産できる、ということのようです。

ニューウォーター自体の研究は1970年代から行われていたようですが、コストと信用性の問題から実用できずにいたのが、1998年に生産体制が確立し、2000年に最初のニューウォーター生産プラントが完成、2001年から供給が始まり、現在では、シンガポールの水供給の30%をニューウォーターが占めるまでになったということです。

実際、ビジターセンターでは、ペットボトルに入ったニューウォーターを飲むことができ、もちろんしっかり飲みました。クセのない美味しい普通の水でした。

ペットボトル入りのニューウォーターは、実際に市中で販売を試みたらしいのですが、あまり売れなかったということです。もともとが下水なので、人々が気持ち悪がって飲まなかったのだと想像します。

今のところ、ニューウォーターは産業用として主に使われていますが、渇水時には、通常のため池からの水と混ぜて飲用にも使われています。

シンガポールは、自然の水源を持たない国です。マレーシアからの水の購入は2061年まで契約がありますが、そのマレーシア自体が水供給が不足気味と聞きます。こうした事態を見越して、シンガポールはニューウォーターの開発を進め、今では、ニューウォーター生産プラントが4箇所稼働しており、マレーシアとの契約が切れる1年前の2060年に、ニューウォーターの比率を水供給の55%にまで引き上げる計画です。

アジア有数の高所得国となったシンガポールの重要な懸案の一つが水問題であり、それを克服するために、ニューウォーターの開発を進めてきたことに、先見の明を感じます。

もっとも、シンガポールの250万人という人口規模とその集中具合が、高コストのニューウォーター開発を可能にする要素の一つで、どんな国でもニューウォーター開発が有効という訳にはならないことも事実だと思います。

このビジターセンターは、チャンギ空港のすぐそばにあります。センターでは1日に4回の無料ツアー(所要約45分)を行なっていて、誰でも気軽にネットで申し込むことができます。ツアーでは、「シャワーの時間を1分減らすとこんなに水の量を減らせる」といった水の使用量を節約させる教育的機能も果たしています。

このような政府施設をオープンにし、ネットで申し込める見学ツアーなどを通じて、積極的に住民へ説明し、節水意識を広めていくといった活動は、日本の行政機関などももっと学べるのではないかという気がしました。

こんな、一味違ったシンガポールに出会うのもいいのではないでしょうか。

The NEWater Visitor Centre
20 Koh Sek Lim Road, Singapore 486593
E-mail: pub_newatervc@pub.gov.sg
Phone: 6546 7874

見学ツアーの予約はこちらから。
https://app.pub.gov.sg/newatertour/Pages/default.aspx

スマランの「古い町」

9月29日からスマランに来ています。今回のJICA案件においては役割分担があり、私はスマランの担当ではないにもかかわらず、なぜか同行させられています。

仕事の話は置いておいて、改めてスマラン市内のコタ・ラマ(古い町)を訪れたら、前回来た3年前よりもずいぶんときれいになっていて、ちょっとびっくりしました。

まずは、現代アート美術館。2階建ての家をリノベして、白を基調とした素敵なアート向けの空間が作られていました。

近くには、古い建物を利用したカフェもありました。カフェ・シュピーゲルという名前の素敵なカフェです。でもその横をたくさんの車が通り過ぎていきます。

カフェから少し歩いたところには、古いプロテスタント教会があります。丸みを帯びた屋根が特徴的です。この教会、パイプオルガンも設置されていました。

このパイプオルガンですが、実は使われていません。老朽化したからではなく、戦後すぐから鍵盤がなくなっているためです。

古い建物の間にある公園では、若者たちがセルフィーに夢中でした。

コタ・ラマといえば、この店。

若山羊の串焼き(Sate Kambing Muda)で有名な29番。今回は、ここで食べずに、ルンピア屋へ行ってしまいました。

13年ぶりに馬路村を訪ねて思ったこと

9月8日から、本邦研修の一環として、インドネシアから招聘した地方政府の役人の方々と一緒に、高知県に来ています。

9月8日は、高知龍馬空港に着いてすぐ、馬路村へ向かいました。私自身、馬路村を訪れるのは、2003年以来、13年ぶりのことでした。

当時、2004年にJICA短期専門家として、日本の地域おこしの事例をインドネシアで紹介するために、馬路村を訪れ、馬路村農協でヒアリングを行い、馬路温泉に1泊しました。ゆず関連商品を2万円ほど買い込み、それをかついで、インドネシアのポンティアナク、マカッサル、メダン、ジャカルタでのJICAセミナーで、馬路村の話をしたのでした。

農地に恵まれない馬路村は、1970年代に主要産業の林業が衰退し、米も野菜もほとんど生産できない状況の中で、地域資源として活用できそうなのは自生のゆずしかなく、ゆずの加工に村の将来を賭ける選択をしたのでした。自生のゆずは不格好で商品価値を見出せないものでしたが、見方を変えれば、無農薬で化学肥料も使っておらず、加工原料として安心安全のものでした。マイナスをプラスに変える発想の転換で、馬路村はゆずの加工を進め、多種多様な加工品を作り上げていきました。

人口わずか1200人の山村がどうやって地域おこしを進めていったのか。馬路村の話は、日本でも、インドネシアでも、多くの村々に希望と勇気を与えるものでした。

今回、13年ぶりに訪問した馬路村は、さらなる発展を遂げていました。前回、1箇所だったゆずの加工工場は5箇所に増え、そのうちの1つは見学コースも備えた立派な施設となっていました。営林署の跡地は「ゆずの森」と呼ばれる素敵な森として整備されていました。13年前、始まったばかりのパン屋はまだあり、より素敵な店になっていました。

しかし、13年経って、村の人口は930人に減っていました。人口は減っているのに、馬路村農協の生産規模・多角化はさらに進んだ様子で、機械化はもちろんのこと、村外からの労働力の受け入れも必要な状態になっているようでした。

馬路村のゆずグッズのファンは日本中に広がり、その評判は揺るぎないものとなっています。その一方で、馬路村がブランド化され、そのファンが増え、需要が拡大すると、馬路村農協の生産体制は、それへの対応を益々進めなければならなくなっているように見えました。村の人口減の中で、機械化を究極まで高め、従業員の生産性も上げていかなければならない、効率性をもっと追求しなければならない・・・。

そんなことを思いながら、ちょっと無理をしているのではないか、と思ってしまいました。通りすがりのよそ者の無責任な感想にすぎないですし、懸命に活動されている方々を決して批判するつもりはないのですが、そんなことを思ってしまったのです。そして、馬路村にそれを強いているのは、マーケットであり、我々消費者の行動なのではないか、と思うに至りました。

村の人口が減り、村の生き残りをかけて、市場需要に呼応して懸命に生産をしているうちに、自分たちのできる能力の限界にまで至ってしまってはいないか。市場の圧力は、それでもまだ馬路村に生産増を強いていくのではないかと危惧します。

「日本全国の心のふるさと」になろうとしてきた馬路村の人々が、市場からのプレッシャーでストレスを感じ、生活の幸福感を味わえないようになってしまったら、やはりまずいのではないか。ワーク・ライフ・バランスは、人間だけでなく、地域にも当てはまるのではないか。

地域おこしの成功事例として取り上げられてきたからこそ、その潮流からはずれてしまうことへの恐怖もあるかもしれません。でも、大好きな馬路村には、あまり頑張り過ぎて欲しくはありません。

村のキャパシティに見合った適正な規模で、市場に踊らされることなく、持続性を最大限に重視しながら、人々が幸せを感じられる悠々とした経済活動を主体的に行っていってほしいのです。

こんなことを言っても、それは、通りすがりのよそ者の、馬路村の現実をおそらく踏まえていない、勝手な感想に過ぎません。何か誤ったことを述べてしまったとすれば、深くお詫び申し上げます。

自分の知らない東京

東京に住みながら、これまで見たことのなかった東京に出会うと、なんだかとても嬉しい気持ちになります。

昨日の夕方、夕暮れに向かう赤坂で、ふと見上げたときの一枚。

工事現場の2台のクレーンの間の青空と雲。秋の気配を感じるような、雲の形と流れ。きっと、あと1年もすると、ここには大きなビルが建てられ、こんな光景は見られなくなることでしょう。

ちょうど、「土木展」を観たあとだったせいか、珍しく、ちょっと無機質な写真を撮りたくなったのでした。

続いて、夜。

ふと、勝どき橋へ向かって、隅田川沿いを歩いてみました。

スマホ写真なので、ボケてしまいましたが、東京タワーを臨み、その手前に築地市場。築地市場は隅田川沿いに立地しているのだ、と改めて納得し、でも、今や隅田川を通しての水産物のやり取りはないのだなあ、とふと思いました。

勝どき橋には緑色の装飾がありました。

海からの風に吹かれながら、勝どき橋から南のほうへ歩いて行くと、もう一つ橋がかかっています。でも、暗いままで、何も明かりが点いていません。この橋を渡って、新橋のほうへ行けるのだろうか。と思って、近づいてみると。

なるほど、今、築地市場移転問題で話題になっている、例の橋でした。工事は11月30日まで、と書かれています。もちろん、渡れないので、勝どき橋へ戻りました。

この橋の向かって左側にも築地市場の一部があります。そう、この橋が築地市場の中を突き抜いている形になっています。なるほどね。

築地市場移転問題は、まだしばらく紆余曲折ありそうですが、結局は、新たな打開策なく、世論の関心が落ち着いた頃を見計らって、収まってしまうシナリオでしょうか。

それはそうとしても、東京タワーを背に、隅田川の反対側から見る築地市場の風景は、なかなか絵になるような気がしました。

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